【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
「……魔術院か」
ギルド長のボルクさんは、マルタさんの報告を聞き終えると、白い髭をしごきながら唸った。
ギルドの二階、ギルド長室。六十過ぎの、がっしりした体格のおじいさんだ。左腕の袖が、肘から先でぺたんと垂れている。元はB級の冒険者で、片腕を失って引退したんだと、マルタさんが道すがら教えてくれた。
「実はな。先月、王都から通達が来とる」
ボルクさんは、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。赤い封蝋に、六芒星と目の紋。
「『東の森における王国魔術院の調査活動を、何人も妨げぬこと』。……それだけだ。何を調べとるのかも、いつまでやるのかも書いとらん」
「調査?」
マルタさんが、机を叩いた。
「森を枯らしてんだぞ。獣が森から追い出されて、町の近くまで出てきてる。この前の大猪だって、あたしがいなけりゃ畑がめちゃくちゃになってた」
「分かっとる」
「分かってるなら――」
「分かっとるが、どうにもできん」
ボルクさんの声は、静かだった。
「魔術院は、国王陛下の直属だ。今の院長のヴァルド閣下は、陛下の覚えもめでたい。辺境のギルドが文句を言える相手じゃない」
マルタさんは、唇を噛んで黙り込んだ。
俺は、部屋の隅で小さくなっていた。トビは、俺の外套の裾をつかんでいた。
髪の中で、精霊たちがまだ震えていた。
*
一階に降りると、ギルドの中の空気が変わっていた。
いつもは騒がしい冒険者たちが、なぜか声をひそめている。みんなの視線が、入口の方に集まっていた。
入口に、三人の男が立っていた。
灰色の長衣。胸に、六芒星と目の刺繍。
真ん中の一人は、二十五歳くらいの若い男だった。きちんと撫でつけた金髪に、細い銀縁の眼鏡。長衣には皺ひとつなく、靴には泥ひとつついていない。辺境の町の、泥と汗と酒の匂いがするギルドの中で、そこだけ切り取って貼りつけたみたいに浮いていた。
「失礼。ギルド長殿はいらっしゃいますか」
丁寧な声だった。丁寧すぎて、温度がなかった。
「わしだ」
階段の上から、ボルクさんが答えた。
若い男は、優雅に一礼した。
「王国魔術院、第三研究室調査官のクラウスと申します。東の森の件で、ご挨拶とお願いに参りました」
*
クラウスと名乗った男の「お願い」は、要するにこうだった。
調査は最終段階に入った。森の奥は危険なので、冒険者を近づけないでほしい。
「我々の設置した計測杭に、不用意に触れた方がいるようでして」
クラウスの目が、ちらりとマルタさんの方を向いた。
「あれは精密な魔導具です。触れられると、計測に狂いが出る。それに、触れた方の身にも危険が及ぶ可能性がある。ご理解いただけますね」
「計測杭?」
マルタさんが、一歩前に出た。
「あれのどこが計測だ。杭の周りが、全部枯れてたぞ」
「多少の影響は出ます。想定の範囲内です」
「森の獣が、町の近くまで出てきてる」
「調査が終われば、元に戻りますよ」
クラウスは、穏やかに微笑んでいた。何を言っても、その微笑みは崩れなかった。
俺は、黙って聞いていた。
黙っているつもりだった。
目立たないように。余計なことに首を突っ込まないように。事なかれ主義で、のんびり暮らす。それが、俺の決めたことだったはずだ。
髪の中で、精霊が小さく言った。
『りあ』
震える声だった。
『このもりのこたち、たすけて』
――気づいたら、口が動いていた。
「あの杭は、精霊を吸っています」
ギルドの中が、しんとなった。
クラウスが、ゆっくりと俺の方を向いた。眼鏡の奥の目が、初めて少しだけ動いた。
「……失礼。あなたは?」
「F級の、リアです」
「リア……ああ」
クラウスは、何かを思い出したように、小さく頷いた。
「町で噂を聞きました。魔力を持たないエルフがいる、と。あなたが」
「あの杭は、森の精霊を吸い取っています。森の精霊たちは、痛いって言ってます。苦しんでるんです」
「痛い、と」
クラウスは、眼鏡の位置を指で直した。
「精霊が、そう言っている。あなたには、それが聞こえる、と」
「……はい」
「魔力をお持ちでないのに?」
言葉に詰まった。
クラウスは、子どもに言い聞かせるような、優しい声で続けた。
「いいですか。精霊というのは、魔力が自然の中で凝集した現象に過ぎません。雨や風と同じです。意思はない。言葉も持たない。それが、魔術院の百年来の定説です」
「ちがいます」
「精霊結晶は、その凝集した魔力を、効率よく取り出して蓄える技術です。王国の未来を担う、新しい魔導の燃料になる。ヴァルド院長閣下が、国家の事業として推し進めておられる」
クラウスは、両手を軽く広げた。
「精霊は、森から無限に湧き出ます。井戸の水を汲んでも、井戸が枯れないのと同じですよ。多少汲み上げたところで、何の問題もない」
「枯れてました」
俺は、言った。
「杭の周り。全部、枯れてました」
「許容範囲内の影響です」
「森の精霊たちは――」
「では」
クラウスが、静かに俺の言葉を遮った。
微笑んだまま。
「その精霊とやらに、ここで証言していただけますか?」
――周りで、誰かがくすっと笑った。
ひとりが笑うと、何人かがつられた。困ったような、気まずいような笑い。魔力ゼロのエルフが、王都の偉い魔法使いに食ってかかっている。そういう構図を、みんなが見ていた。
俺は、拳を握った。
証言なら、できる。
精霊たちに頼めばいい。この場で、ギルド中に花を咲かせることだってできる。風を吹かせることだって、たぶんできる。そうすれば、俺に精霊の声が聞こえていることは、誰の目にも明らかになる。
でも、そうしたら。
俺が何者なのか、全部ばれる。
魔力ゼロのエルフじゃない。八百年ぶりに生まれた、ハイエルフだと。
そうなったら、もう「失せ物のリア」ではいられない。トビと猫を探して、マルタさんと串焼きを食べて、藁の寝台でちくちくしながら眠る毎日は、たぶん終わる。
神殿と、同じになる。
「…………」
俺は、何も言えなかった。
クラウスは、満足げに一礼した。
「ご心配なく。調査は、あと十日ほどで終わります。最後の収穫が済めば、杭はすべて撤去いたしますので」
収穫。
その言葉が、妙に耳に残った。
灰色の長衣の三人は、来た時と同じように静かに、ギルドを出ていった。
*
その夜の跳ね鹿亭は、いつもより静かだった。
俺は、煮込みの椀を前にして、ほとんど手をつけずにいた。
「……リア姉ちゃん」
隣で、トビが言った。
「さっき、怒ってた」
「……怒ってた?」
「顔、怖かった。初めて見た」
そうだったのか。自分では、よく分からなかった。
前世で、最後に本気で怒ったのはいつだっただろう。たぶん、思い出せないくらい昔だ。怒っても仕方ないことばかりだったから、怒らないようにしていた。
向かいの席で、マルタさんがエールをあおった。
「……あの男。最後の収穫って言ったな」
「はい」
「何だと思う」
分からなかった。
でも、いい言葉じゃないことだけは分かった。
「嫌な予感がする」
マルタさんは、空になったジョッキを、ことりとテーブルに置いた。
「こういう時のあたしの勘は、だいたい当たる」
*
その夜。
俺は、眠れなかった。
床の上で、トビが寝息を立てている。窓の外は静かで、星がよく見えた。
胸の奥の、鈍い痛みが、ずっと消えなかった。
森の奥から響いてくる、誰かが泣いているような痛み。
――あの時、言えばよかったんだろうか。
精霊の声が聞こえると、証明してみせればよかったんだろうか。
でも、証明したところで、クラウスが杭を抜いてくれたとは思えない。魔術院の、国家の事業だ。辺境の、正体不明のエルフが何を言ったところで――
言い訳だ、と思った。
怖かっただけだ。今の暮らしを、なくすのが。
寝返りを打った。
その時だった。
『りあ!』
枕元の精霊が、弾けるように飛び上がった。
『りあ、りあ、りあ!』『おきて!』
「……どうした」
『もり!』
精霊たちの光が、ぐちゃぐちゃに乱れていた。いつもの丸い光じゃない。ひび割れたみたいに、ちらちらと点滅している。
『もり、こわれた!』
跳ね起きて、窓に飛びついた。
東の空が、光っていた。
夜明けの光じゃない。もっと濁った、気持ちの悪い緑色の光が、地平線のあたりから空に向かって、ぼんやりと立ちのぼっていた。
それから、音が聞こえた。
地面の底から響いてくるような、低い、低い音。
唸り声に似ていた。何か、とてつもなく大きなものが、痛みに耐えかねて呻いているような。
町中の犬が、一斉に吠え始めた。
遠くで、鐘が鳴り始めた。カン、カン、カン、と、狂ったように速い間隔で。
東門の、警鐘だ。
「……なんだよ、これ」
床の上で、トビが目を覚まして、震える声で言った。
俺は、窓枠を握りしめたまま、東の空を見ていた。
胸の奥の痛みが、今までで一番強くなっていた。
『くる』
髪の中で、精霊が言った。
『あふれる』『とまらない』
『もりのぬしが、おこってる』