【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
階段を降りると、食堂にはもう灯りがついていた。
マルタさんが、革鎧の留め具を締めているところだった。背中には、もう大剣を背負っている。ハンナさんが、その横で青い顔をして立っていた。
「マルタ、あんた行くのかい」
「警鐘だ。行かなきゃ冒険者じゃない」
マルタさんは、俺とトビに気づいて、顔をしかめた。
「あんたらは宿にいろ。ハンナさんと一緒に、地下の貯蔵庫に隠れてな」
「行きます」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
マルタさんの手が止まった。
「……何言ってんだ。足手まといだ」
「分かってます」
「走れもしねえ奴が、何しに行く」
「呼ばれてるんです」
俺は、東の方角を見た。壁の向こう。夜の向こう。胸の奥で、まだあの痛みが響いている。
「森の精霊たちが。……呼んでるんです」
マルタさんは、しばらく俺の顔を見ていた。
昨日、黒樫の森で見せたのと同じ目だった。俺が何者なのか、測ろうとする目。
やがて、マルタさんは短く息を吐いた。
「……あたしから離れるな」
「はい」
「おれも行く」
トビが、俺の横に並んだ。
「ガキは残れ」
「やだ」
「残れって言ってんだ」
「リア姉ちゃん、走れねえんだぞ!」
トビが叫んだ。
「誰が支えんだよ! マルタは戦うんだろ! じゃあ、おれが姉ちゃん支えるしかねえじゃんか!」
……正論だった。
マルタさんも、反論できなかったらしい。舌打ちをひとつして、大剣の柄を握り直した。
「……勝手にしろ。ただし、門の内側から一歩も出るな」
*
夜の通りは、ひどい有様だった。
東から西へ、人の波が押し寄せてくる。寝間着のまま子どもを抱えた母親。荷車に家財道具を積んだ老夫婦。泣き叫ぶ赤ん坊。その流れに逆らうように、槍を持った衛兵たちが東へ走っていく。
俺は、ポンタの背中に揺られていた。トビが手綱を引いて、人混みの中を必死にかき分ける。マルタさんが先頭で道を開く。
ポンタは、今夜ばかりは一度も道草を食わなかった。
東の空の緑色の光が、どんどん近づいてくる。
あの、地の底から響くような唸り声も。
*
東門の上の見張り台には、松明がいくつも焚かれていた。
衛兵と冒険者が、二十人ほど。弓を構えている者、槍を握りしめている者。誰もが、門の外の闇を睨んでいた。
トビに支えられて、見張り台へ続く階段を上った。息が切れた。足が震えた。それでも、上った。
そして、門の外を見た。
門の外には、なだらかな畑が広がっている。その向こう、半里ほど先に、黒樫の森の縁がある。
その森が、光っていた。
木々の隙間から、濁った緑色の光がぼうぼうと漏れ出している。あの杭の水晶と、同じ色だった。ただ、規模が違う。森全体が、ひとつの巨大な水晶になったみたいに脈打っていた。
森の縁から、黒い影が次々と飛び出してくる。
獣だった。
鹿。狼。猪。狐。鳥まで、群れになってばたばたと飛び出してくる。森から逃げてくるように、まっすぐこっちへ走ってくる。
その目が、みんな、うっすらと緑色に光っていた。
「来るぞ!」
衛兵長らしい髭面の男が叫んだ。
「弓、構え! 門に近づけるな!」
矢が放たれる。何頭かの獣が倒れる。それでも、獣たちは止まらない。痛みも恐怖も感じていないみたいに、柵に体当たりしてくる。木の柵が、みしみしと軋んだ。
マルタさんが、見張り台から飛び降りた。
門の内側に降り立つと、大剣を抜き放つ。数人の冒険者が、その後ろに続いた。
「柵を越えてきた奴は、あたしらが片付ける! 弓は撃ち続けろ!」
『いたい』
耳元で、声がした。
俺の髪の中の精霊じゃなかった。もっと遠くから。もっと、たくさんの声が、重なって聞こえる。
『いたい』『いたい』『くるしい』『どうして』
森の精霊たちの声だ。
獣たちの目の緑色は、たぶん、あの杭から漏れ出した何かだ。森の精霊たちの痛みが、獣たちにまで染みついている。獣たちは、町を襲いに来たんじゃない。痛くて、苦しくて、どこかに逃げたくて、走っているだけなんだ。
「リア姉ちゃん……」
トビが、俺の腕をつかんでいた。震えていた。
俺は、フードの端を、ぎゅっと引き下ろした。
まだ、顔は出せない。ここで銀色の髪を見せたら、たぶん、今の暮らしは終わる。
だから、小声で頼んだ。
「……ねえ。森の子たちに、届く? 痛いの、少しだけでいいから、和らげてあげられない?」
『やってみる』
髪の中から、小さな光がいくつか、そっと抜け出していった。目立たないように、低く、門の外の闇へ。
しばらくして、柵に体当たりしていた鹿が一頭、ふっと足を止めた。緑色に光っていた目が、少しだけ暗くなった。鹿は、ぶるっと首を振って、畑の方へよろよろと戻っていった。
「……効いた」
その後ろから、狼が三頭、柵に飛びかかった。その後ろから、猪の群れが。
『たりない』
戻ってきた精霊が、しょんぼりと言った。
『ちょっとじゃ、たりない』『もりのこ、いっぱい、いたい』
――分かってる。
分かってるけど、これ以上は、フードの下からじゃ頼めない。
その時だった。
森が、動いた。
*
最初は、森の縁の木々が、ゆっくりと傾いたように見えた。
違った。
木々が、立ち上がっていた。
何本もの黒樫の幹が、根ごと地面から引き抜かれて、互いに絡み合いながら、ひとつの形を作っていく。太い蔦が、その隙間をぎちぎちと縫い合わせる。苔と、枯れ葉と、土くれが、その表面を覆っていく。
四本の脚。
長い首。
頭には、枝分かれした巨大な角。
鹿だ、と思った。ツノさんに似ている。でも、大きさが違う。森の木々よりも、ずっと高い。東門の見張り台が、膝の高さくらいにしか届かない。
その胸のあたりに、ぽっかりと穴が開いていた。
穴の奥で、あの濁った緑色の光が、心臓みたいに脈打っていた。
巨大な鹿が、空を仰いで、吼えた。
地面が揺れた。見張り台がきしんだ。松明の火が、一斉に横倒しになった。町中の窓ガラスが、びりびりと震えた。
吼え声の中に、言葉が混じっていた。
『かえせ』
『かえせ』『かえせ』『かえせ』
『わたしのこどもたちを、かえせ』
俺の膝から、力が抜けた。
――森のぬし。
精霊たちが言っていたのは、これだ。黒樫の森の、一番古くて、一番大きな精霊。森そのもの。
その子どもたちを、あの杭は、吸い取っていた。
*
「なんだ、あれは……」
衛兵長が、呆然と呟いた。
見張り台の上の誰もが、凍りついていた。弓を構えたまま、矢を放つことも忘れて。
「――魔力の暴走です!」
鋭い声が、静寂を破った。
振り返ると、見張り台の階段を、灰色の長衣の男たちが上がってくるところだった。
クラウスだった。
昼間の、皺ひとつない長衣は、泥と枯れ葉にまみれていた。きちんと撫でつけていた金髪が乱れて、眼鏡が少し傾いている。その腕には、革張りの箱を大事そうに抱えていた。
箱の隙間から、緑色の光が漏れていた。
「森に凝集していた魔力が、制御を失って暴走しています! このままでは、町まで呑み込まれる!」
クラウスは、衛兵長に詰め寄った。
「森を焼いてください! 油と火矢で、森ごと焼き払えば、魔力の凝集は霧散する! それしか手はない!」
「森を、焼く……?」
「急いでください! あれが門に到達する前に!」
――俺は、クラウスの袖をつかんでいた。
自分でも、いつ動いたのか分からなかった。
「……あなたたちが、やったんでしょう」
クラウスが、ぎょっとしたように俺を見下ろした。
「十日後って言ってた。最後の収穫。……今夜、やったんですね」
クラウスの顔が、ほんの一瞬、こわばった。
「……予定を、早めました。妙な噂を立てられる前に、成果を確保しておく必要があった」
目を逸らした。
「最終収穫で、森中の杭を同時に起動した。その瞬間、想定外の反応が……杭の網全体に、逆流が……いや、今はそんなことを言っている場合では――」
「その箱」
俺は、クラウスの腕の中の箱を見た。
緑色の光が、箱の隙間から漏れている。弱々しく。助けを求めるみたいに、明滅している。
「その中に、森の精霊が入ってるんですね」
「……精霊結晶です。凝集した魔力を――」
「森の精霊が、入ってるんですね」
クラウスは、答えなかった。
代わりに、衛兵長に向き直った。
「早く! 火矢の準備を!」
「森を焼いたら」
俺は、言った。声が震えていた。怒りなのか、怖さなのか、自分でも分からなかった。
「森の精霊が、全部死にます。あの森のぬしの子どもたちが、一匹残らず」
「精霊は現象です。また湧く」
「湧きません!」
叫んでいた。
見張り台の上の全員が、こっちを見た。
その時。
門の外で、地響きがした。
森のぬしが、こっちに向かって歩き出していた。
一歩ごとに、足元の畑の作物が枯れていく。緑色の光が、波のように地面を這ってくる。
『かえせ』
声が、近づいてくる。
『かえせ、かえせ、かえせ』
衛兵長が、唇を噛んで、叫んだ。
「――油樽を持ってこい! 火矢の準備だ!」
「待って――」
俺の声は、地響きにかき消された。
門の内側で、マルタさんが大剣を構え直すのが見えた。
森のぬしの巨大な角が、東門の真上に、影を落としていた。