【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
目を開けると、斜めの天井が見えた。
跳ね鹿亭の、屋根裏部屋の天井だった。小さな窓から、朝の光が差し込んでいる。背中に、藁のちくちくした感触。
ああ、帰ってきたんだな、と思った。
体を起こそうとして、右腕が動かないことに気づいた。
見ると、トビがいた。
寝台の脇の床に座り込んで、上半身を寝台に預けて、眠っていた。両手で、俺の外套の袖をぎゅっと握りしめたまま。頬に、涙の乾いた跡があった。
部屋の隅の椅子には、マルタさんがいた。
腕を組んで、背もたれに体を預けて、目を閉じている。脇腹のあたりに、包帯が巻かれているのが見えた。
『おきた!』
枕元で、精霊たちがぱっと光った。
『りあ、おきた!』『おはよう!』『ながかった!』
「……おはよう」
小声で返す。トビを起こさないように。
「俺、どれくらい寝てた?」
『みっか』
「……え」
『みっか』『みっかと、すこし』
三日。
嘘だろ、と思った。
感覚としては、ほんの少し、うとうとしただけだった。葉ずれの音を聞きながら、大きな木の根元で、ちょっと昼寝をしたくらいの。十分か、二十分か。そんなものだと思っていた。
『りあ、きのじかんに、はいってた』
「木の時間?」
『たいじゅのこは、ときどき、はいる』『つかれたとき』『いっぱい、ちからつかったとき』
精霊たちは、なんでもないことみたいに言った。
『まえのこも、よく、はいってた』
『ながいときは、じゅうねん』
――十年。
背中が、ひやりとした。
十分の昼寝だと思っていたら、三日経っていた。もし、それが十年だったら。目を覚ましたら、トビが二十一歳になっていたら。
「……気をつけないとな」
呟いた声に、床の上のトビが、もぞりと動いた。
*
トビは、ゆっくりと顔を上げた。
寝ぼけた目で、俺の顔を見た。
ぱちぱちと、二回瞬きをした。
それから、その顔が、みるみるうちにくしゃくしゃになった。
「……おはよう、トビ」
「――おはようじゃ、ねえよっ!!」
怒鳴られた。
「三日だぞ! 三日も起きなかったんだぞ! 息はしてるのに、いくら呼んでも、揺すっても、全然起きなくて! ハンナさんが医者呼んでも、医者も分かんねえって言って!」
トビの目から、ぼろぼろと涙がこぼれていた。
「死んだかと思った! 婆ちゃんみたいに、そのまま、起きなくなるのかと思った!」
――婆ちゃんみたいに。
胸に、ずしりと何かが落ちた。
この子は、もう一度、それを経験するところだったのか。大事な人が、目を閉じたまま起きなくなるのを。
「……ごめん」
俺は、トビの頭に手を置いた。ぼさぼさの茶色い髪。
「ごめんな、トビ」
トビは、俺の手を振り払わなかった。代わりに、寝台に顔を埋めて、声を上げて泣いた。
*
「……起きたか」
低い声がした。
マルタさんが、椅子から立ち上がっていた。
大股で寝台の脇まで来ると、無言で、その大きな手を俺の頭の上に置いた。
そして、髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
「わっ、ちょっ」
「心配させんな、馬鹿」
乱暴な手つきだった。でも、痛くはなかった。
マルタさんの手が、止まった。
「――で」
俺の頭に手を置いたまま、マルタさんは、俺の顔を覗き込んだ。
「話してもらおうか。全部」
*
話した。
全部ではない。前世のことは、言わなかった。言っても、たぶん信じてもらえないし、うまく説明できる気もしなかった。
それ以外は、全部話した。
アルヴの森の、大樹アルヴ・オルドから実ったこと。ハイエルフという種族のこと。八百年ぶりに生まれたこと。エルフたちに崇められて、神殿に閉じ込められそうになったこと。毎朝一時間の讃美歌と、朝露と花びら三枚の食事と、聖なる木苺のこと。耐えきれなくなって、夜逃げしてきたこと。
魔力ゼロは、精霊たちが隠しすぎた結果だということ。
失せ物探しも、癒し草も、全部精霊たちに頼んでいたこと。
マルタさんは、腕を組んだまま、黙って聞いていた。トビは、涙を拭きながら、目を丸くして聞いていた。
「……ちょっと待て」
話が終わると、マルタさんが眉間を押さえた。
「大樹から、実った?」
「はい」
「いつ」
「えっと……一か月と、ちょっと前、です」
沈黙。
「……一か月?」
「はい」
「あんた、生まれて一か月なのか」
「実った時から、この見た目でしたけど」
マルタさんは、天井を仰いだ。
「……道理で、何にも知らないわけだ。銀貨も、身分証も、エールの飲み方も」
「すみません」
「――待って」
トビが、指を折って何かを数えていた。
「一か月って……おれ、十一歳だから……」
顔を上げた。
「おれの方が、年上じゃん」
「……は?」
「おれの方が、兄ちゃんじゃん!」
「それは違う」
「違わねえよ! 十一歳と一か月だぞ! おれの方が百倍以上年上だぞ!」
「計算はあってるけど、違う」
俺とトビが言い合っている横で、マルタさんが、肩を震わせていた。
笑いをこらえていた。こらえきれていなかった。
*
笑いが収まってから、マルタさんは、ふっと真面目な顔になった。
「なんで、黙ってた」
責める声じゃなかった。ただ、聞いている声だった。
俺は、少し考えてから、答えた。
「知られたら、また、崇められると思ったんです。神殿みたいに。どこかに閉じ込められて、毎日拝まれて。……そうなったら、もう、ここにいられなくなるって」
言いながら、窓の外を見た。
「ここでの暮らしが、好きだったので」
藁の寝台。屋台の串焼き。ハンナさんの煮込み。トビと歩き回った路地。マルタさんと飲んだ、ぬるいエール。
「だから、隠してました。……すみません」
マルタさんは、しばらく何も言わなかった。
それから、またひとつ、俺の頭に手を置いた。今度は、かき回さなかった。ただ、置いただけだった。
「あんたは、あんただろ」
「……」
「ハイエルフだろうが、生まれて一か月だろうが、知るか。あたしが知ってるのは、エール半分で酔っぱらって、泣きながら串焼き食って、借りた銅貨を律儀に返そうとする、変なエルフだ」
マルタさんは、ぶっきらぼうに言った。
「それで、十分だ」
「……姉ちゃんは、姉ちゃんだ」
トビが、ぼそっと付け加えた。
「年下でも、姉ちゃんは姉ちゃん」
目の奥が、熱くなった。
この体になってから、泣いてばかりな気がする。
*
ハンナさんが、湯気の立つ椀を持って上がってきた。
「おや、起きたのかい! まったく、心配かけて!」
椀の中身は、腸詰めと豆の煮込みだった。三日ぶりの、いつもの味だった。
「表、見てごらん」
ハンナさんが、窓の外を顎でしゃくった。
小さな窓から、跳ね鹿亭の前の路地を見下ろした。
人が、並んでいた。
路地の端から端まで、ぎっしりと。みんな、跳ね鹿亭の入口の方を見上げている。手に、何かを持っている。
「この三日、ずっとこうさ。ハイエルフ様にお礼を、ってね」
入口の脇には、何かが山積みになっていた。
花。籠に入ったパン。果物。
嫌な予感がした。
神殿と、同じだ。拝まれて、供え物をされて――
「あと、腸詰めとか、燻製肉とか、串焼きとか」
ハンナさんが続けた。
「……え?」
「町中の噂になってるよ。ハイエルフ様は、肉がお好きだって。屋台の親父が言いふらしたらしくてね。泣きながら串焼き三本食べてたって」
もう一度、窓の下の山を見た。
花とパンの間に、確かに、紐で縛った腸詰めの束や、燻製肉の塊や、包み紙に包まれた串焼きが積まれていた。
……神殿とは、ちょっと違うかもしれない。
少なくとも、肉だ。
*
「あの眼鏡の魔術師は?」
煮込みをすすりながら聞くと、マルタさんが肩をすくめた。
「昨日の朝、王都に帰った。部下の二人を置いて、ひとりで馬を飛ばしてったらしい」
「……そうですか」
「出ていく前に、一度ここに来たよ」
ハンナさんが言った。
「宿の前に、長いこと突っ立ってた。入ってくるでもなく、帰るでもなく。何か言いたそうな顔してたけどね。結局、何も言わずに行っちまった」
クラウスの、最後の顔を思い出した。
空っぽになった箱を抱えて、飛んでいく光を、呆然と追いかけていた目。
頬に触れていった、小さな光。
あの人は、王都で何を報告するんだろう。
*
昼過ぎに、もうひとり客が来た。
ギルドの素材買い取りカウンターの、片眼鏡の老人だった。
ギルベルトさんというらしい。屋根裏の狭い階段を、息を切らしながら上がってきた。手に、一通の手紙を握りしめていた。
「リ、リア殿……いや、リア様……」
声が震えていた。
「王都の鑑定院の知人から、返事が来ましてな。例の、あの葉の件で」
嫌な予感がした。
「……あれは、世界樹の葉だそうです」
ギルベルトさんは、手紙を広げた。手が、がたがたと震えていた。
「千年前の文献に、一度だけ記録がある、伝説の霊薬の素材。煎じて飲めば、いかなる病も、どんな深手も癒すと。……老いにだけは、効かぬそうですが。鑑定院の見立てでは、一枚で、金貨三百枚の値がつくと」
金貨、三百枚。
銅貨に直すと、三百万枚。串焼きなら、百万本。
「わ、わしは、それを、銅貨十枚で……」
ギルベルトさんは、その場に膝をついた。
「差額を、お支払いせねばなりません。いや、とても払える額ではない。一生かかっても払えん。しかし、商人として、このままでは……」
「いや、いいですよ」
俺は、慌てて手を振った。
「銅貨十枚で売るって決めたのは、私ですし。ギルベルトさん、ちゃんと鑑定してくれようとしたじゃないですか。鑑定具、煙吹いてましたけど」
「し、しかし……」
「いや、待て」
マルタさんが、口を挟んだ。
真顔だった。
「リア。その葉っぱ、まだ持ってるのか」
「九枚」
部屋の中が、しんとなった。
金貨、二千七百枚。
袖の中に、ずっと入っていた。
「…………」
俺は、ゆっくりとマルタさんの方を向いた。
「……マルタさん」
「なんだ」
「借金、返せますね」
「C級になったら、って言っただろ」
即答だった。
「……じゃあ、C級になるまで、待っててください」
マルタさんは、一瞬きょとんとして、それから、また吹き出した。
*
ギルベルトさんは、帰り際に、小声で付け加えた。
「それと……鑑定院の知人が、この葉をどこで手に入れたのかと、しつこく尋ねてきておりましてな。わしは、知らぬと答えておきましたが……」
片眼鏡の奥の目が、心配そうに揺れていた。
「東の森の騒ぎも、もう王都に伝わっておるでしょう。ハイエルフが現れた、と。……リア様。王都は、おそらく、放ってはおきませんぞ」
*
その日の夕方。
窓辺で、路地の行列をぼんやり見下ろしていると、肩の上の精霊が、ぴくりと動いた。
『りあ』
「ん?」
『だれか、くる』
精霊は、北の方角を指すように光った。
町の北門の方。アルヴの森がある方角だ。
『もりのほうから』『ずっと、まいごだったこ』
「迷子?」
『りあのこと、さがしてたこ』
――探してた?
嫌な予感がした。
今日で、三回目だった。