【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
その人は、日が沈む少し前に、跳ね鹿亭の前の路地に現れた。
最初に気づいたのは、行列の後ろの方にいた子どもたちだった。
「なんか、変な人が来た」
「ぼろぼろ」
「耳、長い」
ざわめきが、行列の後ろから前へ、波みたいに伝わってくる。
俺は、屋根裏の窓から路地を見下ろした。
人垣が、左右に割れていた。
その真ん中を、ひとりの女の人が、よろよろと歩いてくる。
白と金の刺繍が入っていたはずの儀式服は、泥と草の汁で茶色くまだらになっていた。裾はずたずたに裂けて、片方の袖がなくなっていた。蜂蜜色の長い髪には、小枝と枯れ葉と、なぜか鳥の羽根が絡まっていた。蔦を編んだ冠は、斜めにずり落ちて、半分くらい枯れていた。
手には、杖。腰には、空っぽの袋。
それでも、背筋だけは、まっすぐに伸びていた。
「……セレスさん」
声が、漏れた。
その声が聞こえたはずはない。屋根裏の窓から、路地まで、かなり距離がある。
それなのに、セレスさんは、ぴたりと足を止めた。
ゆっくりと、顔を上げた。
翡翠色の目が、屋根裏の窓の、俺を捉えた。
その目から、ぼろぼろと、涙がこぼれ落ちた。
「――リア様ああああああっ!!」
セレスさんは、路地の真ん中で、勢いよく地面にひれ伏した。
額を石畳に打ちつける、ごん、という音が、屋根裏まで聞こえた。
*
階段を、転げ落ちるように降りた。
トビが後ろから支えてくれた。マルタさんが「なんだなんだ」とついてきた。
跳ね鹿亭の扉を開けると、路地中の視線が、俺に集まった。
その真ん中で、セレスさんが、まだ石畳に額をつけていた。
「……セレスさん」
「リア様……!」
セレスさんは、顔を上げなかった。額を地面につけたまま、震える声で言った。
「探しては、おりません!」
「……え」
「決して、探してはおりません! リア様の御言葉に背くようなことは、決して! わたくしは、巫女として、人の世を見聞するために里を出ただけでございます!」
セレスさんの声は、どんどん大きくなっていった。
「見聞の途中で、偶然、この町に立ち寄りましたところ! 偶然、ハイエルフ様がおられるという噂を耳にいたしまして! 偶然、この宿の前を通りかかりましたところ! 偶然、リア様のお姿を拝見いたしまして!」
「……」
「ですから、これは、偶然でございます!!」
路地が、静まり返った。
俺は、セレスさんの前にしゃがみ込んだ。
ずたずたの服。泥だらけの手。髪に絡まった鳥の羽根。
「……セレスさん」
「はい」
「里を出たのって、いつですか」
「……リア様が旅立たれた、翌日でございます」
「それから、ずっと?」
「……」
セレスさんの肩が、小さく震えた。
「……南が、どちらか、分からなくなりまして」
消え入りそうな声だった。
「東の山の村に出てしまい……そこから南へ向かったつもりが、沼地に迷い込み……沼地を抜けたら、なぜか西の街道に出ておりまして……そこで、東の町にハイエルフが現れたという噂を聞いて……」
「一か月、迷子だったんですか」
「…………はい」
セレスさんは、額を地面につけたまま、しくしくと泣き出した。
――この人、二百四十二年、森から一歩も出たことがなかったんだよな。
森の中なら、大樹を見れば方角が分かる。でも、森の外には大樹がない。地図の読み方も知らない。人間の町の歩き方も知らない。
それでも、一か月、歩き続けたのか。
探してないと、言い張りながら。
俺は、セレスさんの肩に手を置いた。
「……顔、上げてください」
「で、ですが、わたくしは、リア様の御言葉に――」
「いいから」
セレスさんが、おそるおそる顔を上げた。
額が、真っ赤になっていた。石畳に打ちつけたせいだ。涙と泥で、顔がぐちゃぐちゃだった。
俺は、ちょっとだけ笑った。
「おかえりなさい、じゃないか。……いらっしゃい、セレスさん」
セレスさんの顔が、くしゃりと歪んだ。
それから、子どもみたいに声を上げて泣いた。
*
問題は、その後だった。
「……エルフの巫女様が、ひれ伏して……」
「やっぱり、本物のハイエルフ様なんだ……」
「エルフの偉い人があんなに頭を下げるなんて……」
路地の人たちが、ざわめき始めた。
そして、ひとり、またひとりと、膝をつき始めた。
「いや、ちょっと、待って」
俺は慌てて立ち上がった。
「やめて、拝まないで。お願いだから」
「ハイエルフ様……」
「ありがたや……」
「本当にやめて!」
叫んでも、膝をつく人は減らなかった。路地の端から端まで、ずらりと人が跪いていく。
神殿だ。ここも神殿になりかけている。
「……おい」
後ろから、マルタさんの低い声がした。
「この人、知り合いか」
「……里の、巫女さんです」
「姉ちゃんの、なに?」
トビが、警戒した野良猫みたいな目で、セレスさんを見ていた。
「えっと……」
何と説明すればいいんだろう。
毎晩、髪を梳いてくれた人。百四十二年、俺が生まれるのを待っていた人。俺が置き手紙ひとつで捨ててきた人。それでも、一か月迷子になりながら、追いかけてきてくれた人。
「……大事な人、かな」
セレスさんが、泣きながら、また地面にひれ伏した。
*
セレスさんを跳ね鹿亭に連れて入ると、ハンナさんが目を丸くして、それからすぐに湯を沸かしてくれた。
風呂を使わせてもらって、ハンナさんの古い服を借りて、髪の小枝と羽根を全部取って。食堂の隅の席に座ったセレスさんは、ようやく、俺の知っている巫女のセレスさんに戻っていた。服が、宿屋の女将さんのお下がりの、くたびれた麻の上着だったけど。
そのセレスさんの目が、テーブルの上で、凍りついた。
「……リア様」
「はい」
「そ、それは……」
俺の前には、木の皿が置いてあった。
表に積まれていた差し入れの、腸詰めの束から、ハンナさんが何本か焼いてくれたものだ。表面がぱりっと焦げて、脂がじゅうじゅう言っている。
「獣の、肉……」
セレスさんの顔から、血の気が引いていった。
「リア様の、御身に……獣の肉を……誰が、このような……」
「私です」
俺は、腸詰めを一本、フォークで刺した。
「私が、好きなんです。肉」
「…………」
セレスさんは、たっぷり十秒、固まっていた。
書記係がいたら、きっと羽根ペンが折れるくらいの勢いで何か書いていただろう。
俺は、腸詰めをかじった。
ぱりっ、と皮が弾けて、熱い肉汁が口の中にあふれた。塩気と、香草と、脂の甘さ。
うまかった。
思わず、顔がゆるんだ。
セレスさんは、俺の顔をじっと見ていた。
森で、木苺を食べていた時と同じ顔をしていたんだと思う。
やがて、セレスさんは、ふっと肩の力を抜いた。
「……リア様が、お好きなら」
小さな声だった。
「それで、よいのだと思います」
それから、懐から、小さな手帳と炭筆を取り出した。
さらさらと、何かを書きつける。
覗き込むと、こう書いてあった。
『リア様、獣の肉を好まれる。腸詰めを召し上がり、御顔をほころばせる』
「……それ、何ですか」
「御言行録の、続きでございます。書記の者が里に残りましたので、わたくしが代わりに」
まだ続けるのか、それ。
*
その夜。
屋根裏の窓辺に、セレスさんと並んで座った。
トビは、床の藁の上で寝ている。今夜からは、セレスさんの分の藁も敷いた。狭い屋根裏が、もっと狭くなった。
星がよく見えた。
「リア様」
セレスさんが、静かに言った。
「わたくしは、気づいておりませんでした」
「……何にですか」
「神殿が、リア様にとって、何であったか」
セレスさんは、膝の上で手を握りしめていた。
「八百年かけて整えた神殿でございました。リア様が何不自由なくお過ごしになれるよう、何もかもを揃えたつもりでございました。……けれど、それは、わたくしどもがリア様にお仕えしたいという、わたくしどもの望みでしかなかったのですね」
俺は、何も言わなかった。
「リア様が、木苺を召し上がった時のお顔。今日、腸詰めを召し上がった時のお顔。……神殿では、一度しか見られませんでした」
セレスさんは、窓の外の夜空を見上げた。
「リア様が、ここでお暮らしになりたいのでしたら。わたくしは、お止めいたしません。里へお連れ戻しすることも、いたしません」
「……いいんですか。巫女なのに」
「ただ」
セレスさんが、俺の方を向いた。
「――おそばに、置いていただけませんか」
翡翠色の目が、まっすぐに俺を見ていた。
「御髪を、お梳きするくらいしか、できませんが」
俺は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「巫女の仕事は、いいんですか」
「見聞中でございます」
即答だった。
思わず、吹き出してしまった。
「……拝まないなら、いいですよ」
「努力いたします」
それは、たぶん無理だろうなと思った。
でも、まあ、いいか。
*
それから、十日ほど経った朝。
跳ね鹿亭の前の路地に、蹄の音が響いた。
窓から見下ろすと、白馬に乗った騎士が四人、路地の入口に並んでいた。銀色の鎧。青いマント。マントの背には、金糸で獅子の紋章が縫い取られている。
その真ん中に、緋色の服を着た、細身の男が馬から降りるところだった。手に、丸めた羊皮紙を持っている。羊皮紙には、赤い蝋で封がしてあった。
路地の人たちが、慌てて道を空けた。
男は、跳ね鹿亭の扉の前に立つと、羊皮紙を広げて、朗々と読み上げた。
「――ハルトンに在りし、ハイエルフ殿へ!」
路地中に響き渡る声だった。
「レーヴェン王国国王、ルドルフ四世陛下の御名において、王都アルセリアへのご来訪を、謹んでお願い申し上げる!」
*
「……招聘状、ってやつですか」
食堂のテーブルで、俺は、受け取った羊皮紙を眺めていた。
立派な紙だった。金の縁取りがしてあって、最後に、王様の名前と、獅子の印章が押してある。
使者の人――王宮の伝令官だという細身の男は、テーブルの向こうで、緊張した顔で直立していた。
「陛下は、ハイエルフ殿の王都へのご来訪を、心より望んでおられます。また……」
伝令官は、少しだけ言い淀んだ。
「魔術院長、ヴァルド閣下も、ぜひお目にかかりたいと、強く希望しておられます」
ヴァルド。
クラウスが言っていた名前だ。精霊結晶を、国家の事業として推し進めている人。
「……これ、断れます?」
伝令官の顔が、さっと青ざめた。
「そ、それは……陛下の御意を、お断りになると……?」
「断ったら、たぶん、もっと面倒なのが来るぞ」
隣で、マルタさんがエールをすすりながら言った。朝からだ。
「次は、使者じゃなくて、軍隊かもな」
「……ですよね」
俺は、ため息をついた。
のんびり暮らしたかっただけなんだけどな。
肉を食って、エールを飲んで、失せ物を探して。それだけのつもりだったんだけどな。
羊皮紙を、もう一度眺めた。
王都アルセリア。
「……あの」
「は、はいっ」
「王都って、串焼きの屋台、あります?」
伝令官は、目をぱちくりさせた。
「は、はあ……王都の南大通りの屋台街は、国一番と名高く……串焼きだけでも、百を超える屋台が……」
百。
串焼きの屋台が、百。
「行きます」
「えっ」
「行きます。王都」
テーブルの向こうで、マルタさんがエールを噴き出した。トビが「おれも行く!」と叫んだ。セレスさんが、懐から手帳を取り出して、何かを猛烈な勢いで書きつけ始めた。
たぶん、『リア様、串焼きのために王都行きを決められる』とか、そんなことだろう。
否定はしない。
窓の外で、精霊たちが、楽しそうに明滅していた。
『おでかけ?』『また、おでかけ!』『りあ、どこいくの?』
「王都だってさ」
小声で答えて、俺は、残りの腸詰めを口に放り込んだ。
――行くか。王都。
(第一部 出奔編 了)