【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
三日三晩、馬を走らせた。
途中の宿場で二度、馬を替えた。眠ったのは、合わせて四刻ほどだったと思う。部下の二人は、ハルトンに置いてきた。彼らに、あの夜のことを説明させる自信がなかった。私自身にも、説明できる自信はなかったが。
王都アルセリアの城門をくぐったのは、四日目の夜明け前だった。
まだ眠っている大通りを抜け、王城の東にそびえる白い塔へ向かう。
王国魔術院。通称、星見の塔。
十五の時に初めてこの塔を見上げた日のことを、私は今でもよく覚えている。この国で最も賢い者たちが集う場所。理と術とで、世界の仕組みを解き明かす場所。ここで学べることを、私は誇りに思ってきた。
その塔の窓に、緑色の灯りがともっていた。
精霊結晶の灯りだ。
院長閣下の発案で、二年前から塔の照明はすべて結晶灯に切り替えられた。油もいらず、煤も出ない。ひとつの結晶で、ひと月は明るく灯り続ける。王都の大通りの街灯も、今年から順に結晶灯へ替えられている。
私は、その灯りを、美しいと思っていた。
――あの夜までは。
*
院長室は、塔の最上階にある。
扉を叩くと、すぐに「入りたまえ」と声が返ってきた。この方は、いつ眠っているのだろう。
部屋の中は、書物と巻物と、計算式を書きつけた紙の束で埋め尽くされていた。窓辺の大きな机に、ひとりの男が向かっている。
魔術院長、ヴァルド・ハーゼン閣下。
五十八歳。痩せた体に、灰色の髪。頬はこけ、目の下には深い影がある。だが、その灰色の目だけは、私が初めてお会いした十年前と少しも変わらず、刃物のように鋭かった。
「戻ったか、クラウス。ひとりか?」
「はい。部下は、ハルトンに残してまいりました」
「収穫は」
私は、答えに詰まった。
閣下は、ペンを置いて、こちらを見た。
「……箱は、どうした」
「ございません」
「失ったのか」
「砕けました。すべて」
閣下の目が、わずかに細くなった。
私は、背筋を伸ばし、報告を始めた。
*
最終収穫の前倒し。四十七本の杭の同時起動。杭の網全体に走った、想定外の逆流。森の魔力の暴走。巨大な木の獣。東門の崩壊。
そこまでは、まだ、報告書の言葉で語ることができた。
その先は、できなかった。
「……銀の髪の、エルフが、現れました」
声が、かすかに震えた。
「ハルトンで、魔力を持たないと噂されていたエルフです。彼女が呼びかけると、町中から、精霊が浮かび上がりました。数千、いや、おそらく数万。肉眼で見えるほどの密度で」
閣下は、黙って聞いておられた。
「彼女は、木の獣と、言葉を交わしていました。少なくとも、そう見えました。それから、地面に手をついて、何かを頼んだ。……次の瞬間、森中の杭が、地面から押し出されて、空中で砕けました。四十七本、すべて」
「結晶も、か」
「はい。私が抱えていた箱の結晶も、同時に」
私は、自分の右手を見下ろした。
「砕けた結晶から、光が溢れました。若葉のような色の光です。それが、夜空に舞い上がって……」
言葉を、探した。
報告書には、決して書けない言葉しか、見つからなかった。
「……声が、聞こえた気がしたのです」
「声」
「でられた、と。喜んでいるような、泣いているような、小さな声が、何千も」
閣下は、何も言われなかった。
「そして、ひとつの光が、私の頬に触れていきました」
私は、左の頬に指を当てた。
四日経った今でも、そこだけ、かすかに温かいような気がしていた。
「温かかったのです、閣下。まるで……礼を言われたような」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
窓の外の結晶灯が、緑色に瞬いていた。
「閣下」
私は、言った。
言ってはならないと、分かっていた。私の十年の研究を、そして閣下の三十年の研究を、根本から否定しかねない言葉だった。
「精霊には、意思があるのかもしれません」
*
閣下は、長いこと、私の顔を見ておられた。
それから、ふっと、口元をゆるめられた。
「クラウス。君は疲れている」
「……閣下」
「三日三晩、馬を飛ばしてきたのだろう。目の下が真っ黒だ。まず眠りたまえ。報告書は、明日でいい」
穏やかな声だった。
否定ではなかった。だが、肯定でもなかった。
閣下は、椅子の背にもたれ、窓の外を見やった。
「……だが、面白い」
灰色の目が、緑の灯りを映していた。
「精霊と対話し、従わせる存在、か。それが真実であるならば」
小さく、呟かれた。
「それこそが、私の研究に欠けていた、最後の鍵かもしれん」
その時、閣下が咳き込まれた。
乾いた、嫌な咳だった。体を折り曲げ、口元に白い手巾を当てて、しばらく咳き込み続けられた。
「閣下――」
「構わん」
咳が収まると、閣下は手巾をたたんで、机の引き出しにしまわれた。
その一瞬、手巾に、赤い染みが見えた気がした。
私は、見なかったことにした。この一年、ずっとそうしてきたように。
「ちょうど、鑑定院からも妙な報告が上がってきていた」
閣下は、机の上の書類の山から、一枚を抜き出された。
「辺境の買い取り商が持ち込んだ、見慣れぬ葉。鑑定の結果、千年前の文献にある世界樹の葉と一致した。煎じて飲めば万病を癒すという、あの伝説の霊薬の素材だ。……持ち込まれたのは、ハルトンだそうだ」
閣下は、書類を指で叩かれた。
「万病を、癒す」
その声に、何が込められていたのか。
私には、分からなかった。
「陛下に、奏上しよう。辺境に現れたハイエルフを、王都へお招きするように、と」
閣下は、ペンを取り上げられた。
「下がっていい、クラウス。よく休みたまえ」
*
院長室を出て、螺旋階段を下りた。
塔の窓という窓に、緑色の結晶灯が灯っていた。
私は、そのひとつの前で、足を止めた。
硝子の覆いの中で、拳ほどの大きさの結晶が、静かに光っている。ゆっくりと明るくなって、暗くなって、また明るくなる。
心臓の鼓動のように。
今まで、何千回とこの灯りの前を通り過ぎてきた。一度も、立ち止まったことはなかった。
耳を澄ませた。
何も、聞こえなかった。
当然だ。私には、精霊の声など聞こえない。魔術院の定説では、精霊は声など持たない。あの夜に聞いたのは、疲労と恐怖が生んだ幻聴だ。
そう、自分に言い聞かせた。
それでも。
私は、結晶灯の硝子に、そっと指を触れた。
冷たかった。
あの夜、頬に触れていった光は、温かかった。
その違いを、私は、まだ説明できずにいる。