世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
ハイエルフに転生して、三日が経った。
結論から言う。
もう無理だ。
一日はこう始まる。
夜明け前、まだ空が藍色のうちに、扉の向こうから声がする。
「リア様。お目覚めの刻限にございます」
セレスさんだ。この人はたぶん寝ていない。少なくとも俺は、彼女が寝ているところを見たことがない。初日の夜、試しに扉を開けてみたら、扉の前で正座していた。「御身をお守りするのが、わたくしの務めですので」と言われた。怖い。
起きると、窓の外から歌が聞こえてくる。
神殿前の広場に集まった数百人のエルフが、大樹とハイエルフを讃える歌を歌っているのだ。毎朝。一時間。
正直に言うと、歌自体はめちゃくちゃ綺麗だ。前世で聴いたどんな合唱より綺麗かもしれない。
でも、讃えられているのは俺だ。
一時間、自分を讃える歌を聞かされ続ける気持ちを想像してほしい。三日目には、布団をかぶって耳を塞ぐようになった。布団と言っても、花びらを詰めた絹の袋だけど。
歌が終わると、朝の御食事だ。
「本日の御食事にございます」
銀の盆の上に、小さな杯がひとつ。中身は朝露。その横に、白い花びらが三枚。
以上。
「……あの、セレスさん」
「はい、リア様」
「これ、昨日と同じですよね」
「はい! 大樹の根元で、夜明けの最初の光を受けた露のみを、巫女たちが一滴ずつ集めております。花びらは、大樹の枝に咲く月光花の――」
「いや、ありがたいんですけど」
ありがたいのは本当だ。手間がかかっているのも分かる。
問題は、この体がそれで満足してしまうことだった。
朝露を飲むと、体の芯にすうっと何かが満ちていく感じがする。花びらを一枚かじれば、もうお腹いっぱいだ。ハイエルフの体は、大樹と精霊の力で動いているらしい。食事というより、充電に近い。
腹は減らない。
減らないのに。
食いたい。
唐揚げが食いたい。揚げたてで、噛んだら肉汁があふれるやつ。ラーメンが食いたい。深夜に食べる、背脂多めの、体に悪いやつ。冷えたビールが飲みたい。仕事終わりにコンビニで買って、帰り道で開けるやつ。
体が求めていないぶん、心の方が叫んでいる。
「……ちなみに、お肉とかって」
ぼそっと聞いた瞬間、セレスさんの顔から血の気が引いた。
「お、お肉……? リア様の御身に、獣の、肉を……?」
「あ、いや、冗談です。冗談」
「そ、そうでございますよね! 大変失礼をいたしました!」
セレスさんの後ろで、書記係の若いエルフが、さらさらと羊皮紙に何かを書きつけた。
ちらっと覗くと、こう書いてあった。
『リア様、獣の肉を冗談の種とされる。御心の深さ、我らには計り知れず』
計り知れなくていいから消してほしい。
この書記係は、初日からずっと俺の発言を記録している。セレスさんによれば、いずれ『リア様御言行録』として編纂され、エルフの里の聖典になるらしい。
聖典に「お肉とかって」が載る。
御食事の後は、謁見だ。
里の長老たちが順番にやってきて、ひざまずいて、いろんなことを尋ねてくる。今年の実りはどうか。北の泉の水位が下がっているのはなぜか。孫が生まれたので名前を授けてほしい。
知らないよ。
俺は生まれて三日だ。この里のことも、この世界のことも、何ひとつ分からない。
でも、何か言わないと誰も帰ってくれない。
「今年の実りは、いかがでございましょうか」
「えーと……まあ、なんとかなるんじゃないですかね」
長老は、深々と頭を下げた。
「なんとか、なる……!」
震えていた。
翌日、神殿前の石碑に『なんとかなる』と刻まれていた。
もう一度言う。
もう無理だ。
*
その日の午後。謁見の合間に、俺は窓辺でぼんやりしていた。
精霊たちが、相変わらずふわふわと飛び回っている。
この三日で分かったことがある。精霊の声は、俺にしか聞こえない。セレスさんたちエルフは精霊の「気配」は感じられるけれど、言葉までは分からないらしい。だから俺が精霊とだべっていると、それだけで神々しい儀式に見えるわけだ。
『りあ、ひま?』『ひまそう』
「ひまだよ。暇すぎて死にそう」
『しぬの?』『しなないよ』『りあはしなない』
不吉なことをさらっと言うな。
ふと、思いついた。
「なあ。なんかこう……味のするもの、持ってきてくれたりしない?」
精霊たちは、きょとんとしたように明滅した。
『あじ?』『あじってなに』『あまいの?』
「そう、甘いのとか。酸っぱいのとか。なんでもいい」
『わかった!』
ぴゅん、と光の粒が三つ、窓から飛び出していった。
本当に分かったのか。不安になりながら待っていると、ほんの数分で戻ってきた。
小さな赤い実を、三粒抱えて。
木苺だった。
光の粒が、えっちらおっちらと運んできた木苺を、俺の手のひらにぽとりと落とす。
『あまいの』『もりのおくの』『いちばんおいしいとこ』
「……ありがとう」
一粒、口に入れた。
甘い。
それから、酸っぱい。
噛んだ瞬間に果汁が弾けて、舌の上にじんわり広がる。小さな種が、ぷちぷちと歯に当たる。
ただの木苺だ。前世なら、スーパーでパック詰めされていても見向きもしなかったと思う。
なのに。
「……うっま」
気づいたら、目の奥が熱くなっていた。
味がする。ちゃんと味がする。三日ぶりの、本物の食べ物の味だ。
二粒目を口に入れようとしたところで、扉が開いた。
「リア様、次の謁見の――」
セレスさんが固まった。
俺の手の中の木苺と、口元についた赤い果汁と、うっすら涙ぐんでいる俺の顔を、順番に見た。
「リ、リア様が……地の、実りを……?」
「あっ、いや、これは」
「しかも、涙を……!」
セレスさんの後ろから、書記係がずいっと顔を出した。羽根ペンが猛烈な勢いで走る。
『リア様、森の木苺を口にされ、涙を流される』
――翌朝。
御食事の銀盆に、木苺が山盛りになっていた。
謁見に来た長老たちも、全員が木苺を籠いっぱいに抱えてきた。里中の子どもたちが森に入って、木苺を摘みまくっているらしい。神殿の前には『聖果』と書かれた札が立っていた。
木苺が、一晩で聖なる果実になった。
俺は山盛りの木苺を一粒つまんで、口に入れた。
美味い。美味いけど。
違うんだ。俺が欲しいのは聖なる木苺じゃなくて、普通の、雑な、体に悪い飯なんだ。
*
その夜。
セレスさんが扉の前で正座しているのを確認してから、俺は窓辺に座って、精霊たちに小声で話しかけた。
「なあ。この森の外って、どうなってるんだ」
『そと?』『もりのそと』
精霊たちは、楽しそうにくるくる回った。
『にんげんのまち、ある』『ちいさいの』『けむり、いっぱいでてる』
「煙?」
『ごはんのけむり』『いいにおい』『にく、やくにおい!』
肉を、焼く、匂い。
俺は、ゆっくりと窓の外を見た。
月明かりに照らされた森が、どこまでも続いている。その向こうのどこかに、人間の町がある。肉を焼く煙が上がっている町が。
「……どれくらい遠い?」
『とおくない』『あるいて、みっか』『りあなら、とおか』
一言多い。
でも、十日なら行ける。たぶん。
千年、ここで木苺を拝まれながら暮らすか。
十日かけて、肉を焼く匂いのする町に行くか。
考えるまでもなかった。
「……行くか。人間の町」
精霊たちが、一斉にぱっと明るくなった。
『いく!』『いこう!』『りあ、おでかけ!』
声が大きい。
俺は慌てて扉の方を振り返った。
扉の向こうは、しんと静まり返っていた。
――そうだ。セレスさんには、精霊の言葉が分からないんだった。
この時ばかりは、心からよかったと思った。