【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
出発は、五日後と決まった。
伝令官の人は、一刻も早く王都へ、と言いたげな顔をしていたけど、俺が「準備がありますので」と言うと、それ以上は何も言わなかった。たぶん、ハイエルフの機嫌を損ねたら首が飛ぶ、くらいに思っているんだろう。気の毒だ。
準備といっても、荷物はほとんどない。
やらなきゃいけないのは、挨拶だった。
*
最初に呼ばれたのは、ギルドだった。
「座りなさい、リア殿」
ギルド長室で、ボルクさんは妙にかしこまっていた。
「……リア殿、はやめてください。今まで通り、リアで」
「む。そうか。では、リア」
ボルクさんは、こほんと咳払いをした。
「単刀直入に言う。お前さんの等級を、上げたい」
「等級?」
「森のぬしを鎮め、東門を救い、町を救った。ハイエルフを、F級のままにしておくわけにはいかん。B級――いや、本来ならA級でも足りんくらいだ」
ボルクさんの横で、ペトラさんが、眠そうな顔で書類の束を抱えていた。もう、昇級の手続き書類が用意してあるらしい。
俺は、少し考えた。
B級。A級。
そうしたら、たぶん、マルタさんより上になる。
「……F級のままで、いいです」
「なに?」
「F級のままで、いいです」
ボルクさんが、目を丸くした。
「しかし、お前さん――」
「マルタさんに、借金があるんです」
俺は、言った。
「C級になったら返す、って約束しました。……ここで等級を上げてもらったら、たぶん、返したことにならない気がして」
自分で上がらないと、意味がない。
失せ物を探して、猫を捕まえて、癒し草を摘んで。そうやって、ちょっとずつ。
ボルクさんは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、腹の底から笑い出した。
「はっはっは! そうか、そうか! 借金か!」
片腕で、机をばんばんと叩く。
「いいだろう。F級のままだ。ペトラ、書類は捨てていいぞ」
「……はい」
ペトラさんは、書類の束を、ためらいなく屑籠に放り込んだ。それから、俺の方を向いて、眠そうに言った。
「ちなみに、森の件はギルドの依頼ではないので、評価点はゼロです」
「……ですよね」
「F級からE級に上がるには、依頼完了が、あと十二件必要です」
「あと十二件」
「がんばってください」
ペトラさんは、それだけ言って、部屋を出ていこうとした。
扉のところで、ふと立ち止まった。
振り返らずに、ぼそっと言った。
「……王都のギルド本部でも、失せ物探しの依頼は、多いそうです」
扉が閉まった。
俺は、閉まった扉を、しばらく見ていた。
あの人、本当に何にも興味がないのかと思っていたけど。
たぶん、違ったんだな。
*
跳ね鹿亭では、ハンナさんが、トビを厨房の裏に呼び出していた。
俺が通りかかると、ちょうど、ハンナさんが小さな革袋をトビの手に握らせているところだった。
「なに、これ」
「あんたの給金だよ」
「給金……? でも、毎日、晩飯で……」
「飯は飯。給金は給金。皿洗いの分、半分ずつ取っといたんだ。あんたが大人になった時のために、と思ってね」
トビは、革袋を握りしめたまま、動かなかった。
「……皿、三枚割ったのに」
「その分は、ちゃんと引いといたよ」
ハンナさんは、ふんと鼻を鳴らした。
トビの肩が、震え始めた。
「……ありがと、ハンナさん」
「泣くんじゃないよ、男の子が。……ほら、行っといで。王都で、いっぱい食べて、大きくなりな」
ハンナさんは、トビの頭をくしゃくしゃに撫でて、それから、俺に気づいた。
目が合った。
「リア」
「はい」
「あの子を、頼んだよ」
「……はい」
「それから、あんたもだ」
ハンナさんは、太い腕を組んで、俺を睨んだ。
「ちゃんと食べるんだよ。痩せっぽちのまんまで帰ってきたら、承知しないからね」
「食べます」
俺は、頷いた。
「いっぱい、食べます」
*
出発の二日前。
俺は、ポンタの背中に揺られて、町の北へ向かっていた。
トビと、マルタさんと、セレスさんも一緒だった。
北門を出て、草原の中の道を半日。アルヴの森の、南の端。
あの日、ツノさんと別れた場所だ。
「……本当に、ここで待ってるのか」
マルタさんが、目の前に広がる深い森を見上げて言った。
「たぶん」
俺は、ポンタから降りて、森の縁に立った。
「ツノさん」
呼んだ。
返事はなかった。木々が、さわさわと揺れているだけだ。
肩の上の精霊たちが、森の奥に向かって、ぴかぴかと光った。
『おおつのさーん』『りあ、きたよー』『かえってきたよー』
しばらく、何も起きなかった。
それから。
森の奥の暗がりで、何かが動いた。
苔むした枝が、二本、闇の中に広がる。
枝じゃない。角だ。
音もなく、木々の間から、巨大な鹿が姿を現した。
灰色がかった緑の体毛。小さな白い花を咲かせた、苔むした角。深い琥珀色の目。
「――で」
トビが、口をぽかんと開けた。
「でっけえ……!」
ツノさんは、ゆっくりと俺の前まで歩いてきて、首を下げた。大きな鼻先が、俺の胸のあたりに、そっと押し当てられる。温かかった。
「……ただいま、ツノさん」
ふすっ、と鼻息がかかった。
『おかえりって』
「森の、大鹿……」
トビが、震える声で言った。俺とツノさんを、交互に見ている。
「姉ちゃん、マジで乗ってたのかよ!」
「だから、乗ってたって」
――言ったのは、今が初めてだけど。
「森守様……」
後ろで、セレスさんが、地面に膝をついていた。
「エルフの里では、森守様とお呼びしております。千年以上、この森を守ってこられた御方……わたくしも、お姿を拝見するのは初めてで……」
ツノさんが、ちらりとセレスさんを見た。
ふすっ。
『そのこ、しってるって』『まえに、もりでまいごになってたこ』
……。
「セレスさん」
「はい」
「ツノさんが、セレスさんのこと知ってるって。前に、森で迷子になってた子だって」
セレスさんの耳が、先まで真っ赤になった。
「そ、そ、それは……おそらく、百年ほど前の……」
迷子、常習だったのか。
*
「ツノさん」
俺は、大きな鼻先に手を当てたまま、言った。
「今度、王都ってところに行くんだ。人間の国の、一番大きな町」
琥珀色の目が、静かに俺を見ていた。
「だから、しばらく帰ってこられない。……でも、ちゃんと帰ってくる。用事が済んだら、絶対に、ここに戻ってくるから」
ふすっ。
『まってるって』
「いや、ずっと待ってなくていいって。森に帰ってて――」
『おおつのさん、まつの、なれてるって』
精霊が、何でもないことみたいに言った。
『まえのこのときも、ずっと、ここでまってた』
「……前の子の時って」
『まえのこ、さいごに、もりのそとにでなくなった』
精霊の光が、少しだけ弱くなった。
『でも、おおつのさん、ここでまってた』
『さんびゃくねん』
――三百年。
先代が、あの部屋に籠もっていた三百年。
その間ずっと、ツノさんは、森の南の端で、帰ってこない主を待っていた。
手のひらの下で、大きな鼻先が、ゆっくりと呼吸していた。
温かくて、静かで、ものすごく古い呼吸だった。
「……俺は」
声が、少しかすれた。
「俺は、帰ってくる。絶対に」
ツノさんは、何も言わなかった。
ただ、鼻先を、もう一度、俺の胸にそっと押し当てた。
*
「なあ、おれ、これあげていい?」
湿っぽい空気を破ったのは、トビだった。
手に、赤い林檎をひとつ持っていた。ハンナさんが、道中のおやつに持たせてくれたやつだ。
「鹿って、林檎食うだろ?」
「……たぶん」
トビは、おそるおそるツノさんに近づいた。背伸びをして、林檎を差し出す。
ツノさんは、少しだけ首をかしげて、林檎の匂いを嗅いだ。
それから、ぱくりと、トビの手のひらから林檎をくわえた。
しゃりっ、と音がした。
「――食った!」
トビが、跳び上がった。
「食った! 大鹿が、おれの林檎、食った!」
『おいしいって』
「トビ、ツノさんが、おいしいって」
「マジで!? やった!」
トビは、その場でぐるぐる回り始めた。
マルタさんが、肩を震わせて笑っていた。セレスさんが、懐から手帳を取り出して、何かを書きつけていた。
たぶん、『トビ殿、森守様に林檎を献上』とか、そんなことだろう。
ツノさんの琥珀色の目が、少しだけ、細くなった気がした。
笑っているみたいだった。
*
出発の朝。
ハルトンの東門――まだ修理中で、半分しか扉がない――の前に、馬車が二台並んでいた。王家の紋章のついた、立派な四頭立ての馬車だ。
その周りに、町の人たちが集まっていた。
「道中で食え、泣き虫の嬢ちゃん」
串焼き屋の親父さんが、油紙の包みを押しつけてきた。中身は、もちろん串焼きだ。二十本くらい入っている。
「……ありがとうございます」
「王都の串焼きなんぞに負けんじゃねえぞ。帰ってきたら、どっちがうまかったか教えろ」
「はい」
ギルベルトさんが、片眼鏡を外して、深々と頭を下げていた。ボルクさんが、片腕を上げていた。ペトラさんは、ボルクさんの後ろで、眠そうに小さく手を振っていた。
ハンナさんは、来なかった。宿の仕込みがあるからね、と言っていた。
でも、たぶん、泣くのを見られたくなかったんだと思う。
「おい」
馬車に乗り込もうとしたところで、声をかけられた。
振り返ると、門番のゲイルさんが立っていた。最初の日に、葉っぱで入町税を払おうとした俺を、怒鳴りつけた人だ。
ゲイルさんは、少し気まずそうに、髭面をかいた。
「……あの時の、兜の件な」
「……」
「あれ、あんただろ」
俺は、目を逸らした。
「……すみません」
ゲイルさんは、一瞬きょとんとして、それから、ぶはっと吹き出した。
「やっぱりか! あの風、おかしいと思ったんだ!」
笑いながら、俺の背中をばしんと叩いた。
痛い。この体には、やっぱり痛い。
「気をつけて行ってこいよ、ハイエルフの嬢ちゃん!」
*
馬車が、動き出した。
窓から、後ろを振り返った。
半分壊れた東門。その前で手を振る人たち。屋根の並ぶ町並み。煙突から立ちのぼる、朝飯の煙。
そのずっと向こうに、森の縁の、ひときわ大きな黒樫の木が見えた。
森のぬしの、角だった木だ。
来た時は、葉っぱ十枚しか持っていなかった。
今は、膝の上に、串焼きが二十本ある。向かいの席では、トビが窓に張りついて外を見ている。隣では、マルタさんが腕を組んで、もう目を閉じている。斜め向かいでは、セレスさんが、手帳に何かを書いている。
「……ちゃんと帰ってくるよ」
誰にともなく、呟いた。
肩の上で、精霊たちが、ぽわっと光った。