【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
用意された宿は、宿じゃなかった。
「こちらが、ハイエルフ殿の御滞在先、白百合館でございます」
エドガーさんが案内してくれたのは、王城のすぐ脇に建つ、白い石造りの館だった。外国の王族や大使が泊まるための、迎賓館というやつらしい。
玄関には、使用人が二十人くらい、左右に並んで頭を下げていた。
天井が高い。廊下が長い。絨毯がふかふかだ。俺にあてがわれた寝室は、跳ね鹿亭の食堂より広かった。寝台には天蓋がついていて、絹の布団は雲みたいに柔らかかった。
窓の外では、緑色の結晶灯が、庭園の噴水を照らしていた。
「……神殿だ」
思わず、呟いた。
「リア様?」
「なんでもないです」
拝まれないだけ、まだましだ。たぶん。
*
国王陛下への謁見は、三日後と決まった。
それまでに、王宮の礼儀作法を身につけなければならないらしい。
翌朝、白百合館の広間に、ひとりの老婦人がやってきた。
背筋がまっすぐで、白髪を一筋の乱れもなく結い上げていて、手に細い扇子を持っている。王家の姫君たちに礼儀作法を教えてきた、マダム・ロザリーという人だった。
「では、ハイエルフ殿。まずは、陛下の御前での礼から参りましょう」
扇子が、ぱちんと鳴った。
「右足を半歩引き、左の膝を、このように」
やってみた。
よろけた。
「……もう一度」
やってみた。
二十秒で、膝が笑い始めた。
「……ハイエルフ殿。礼の姿勢は、陛下のお許しがあるまで保たねばなりません。長い時は、百数える間ほど」
「百」
「百でございます」
無理だ。この体で百数える間、片膝を曲げていたら、たぶん途中で床に倒れる。
昼食の時間は、もっとひどかった。
テーブルの上に、ナイフとフォークとスプーンが、合わせて十一本並んでいた。
「外側から順にお使いください。前菜には、こちらの小さなフォーク。汁物には、こちらの丸いスプーン。魚料理には、こちらの平たいナイフと――」
「肉は?」
「……肉料理には、こちらの大きなナイフと、こちらのフォークを」
俺は、肉料理用のナイフとフォークを握りしめて、前菜と汁物と魚料理が終わるのを、じっと待った。
マダム・ロザリーの扇子が、ぴくぴくと震えていた。
*
午後の講義が始まる前に、俺は、白百合館を抜け出した。
「……いいのかよ、姉ちゃん」
裏口の植え込みの陰で、トビが小声で言った。
「いいんだよ。三日あるんだから、半日くらい」
「マダムの扇子、すげえ震えてたぞ」
「見なかったことにする」
肩の上の精霊たちに頼んで、庭師の人の注意を少しだけ逸らしてもらった。風がふわりと吹いて、庭師の人の帽子が噴水の方に飛んでいく。その隙に、俺とトビは、裏門から通りへ滑り出た。
「……おい」
通りの角を曲がったところで、聞き慣れた声がした。
マルタさんが、壁にもたれて、腕を組んでいた。
「どこ行く気だ、あんたら」
「……南大通りの、屋台街に」
「護衛を置いてか」
「……すみません」
マルタさんは、ため息をついて、壁から背を離した。
「ほら、行くぞ。あたしも腹減った」
その後ろから、セレスさんが、息を切らしながら走ってきた。
「リ、リア様! お待ちくださいませ! わたくしも、お供いたします!」
……全員、来るのか。
*
南大通りの屋台街は、本当に、国一番だった。
石畳の大通りの両側に、屋台がずらりと並んでいる。端が見えない。屋台と屋台の間に、また屋台がある。その全部から、煙と、湯気と、匂いが立ちのぼっていた。
香辛料をまぶして炭火で焼いた、羊の串。
甘辛いタレを何度も塗り重ねて、照りが出るまで焼いた、豚の串。
川で獲れた魚を丸ごと串に刺して、塩を振って焼いたもの。
細長いパンに、焼いた腸詰めと、酢漬けの野菜を挟んだもの。
小麦の生地に挽き肉を包んで、油で揚げた団子。
「…………」
俺は、大通りの入口で、立ち尽くしていた。
天国だった。
「姉ちゃん、よだれ」
「……出てない」
出ていた。
*
それから、食べた。
羊の串。香辛料がぴりっと舌を刺して、脂の甘さと混ざって、鼻に抜けていく。
豚の串。タレが焦げて、ほんのり苦くて、甘くて、しょっぱい。前世の焼き鳥屋のタレに、ちょっとだけ似ていた。
川魚の塩焼き。皮がぱりっとしていて、身がほろほろと崩れる。
腸詰めのパン挟み。どう見ても、ホットドッグだった。異世界にも、ホットドッグはあった。
「うめえ! これうめえ!」
トビが、両手に串を持って、交互にかぶりついていた。ハンナさんがくれた給金で、自分で買っていた。誇らしげだった。
マルタさんは、屋台の脇の立ち飲み台で、王都名物だという黒エールをあおっていた。
「……ハルトンのエールより、うまいな」
「ゲイルさんに言いつけますよ」
「やめろ」
そして、セレスさんは。
俺の隣で、豚の串を一本、両手で握りしめて、じっと見つめていた。
「セレスさん?」
「……リア様が、お召し上がりになるものを、わたくしも、知っておかねばと思いまして」
エルフは、肉を食べない。少なくとも、エルフの里では、誰も食べていなかった。
セレスさんの手が、小刻みに震えていた。
「無理しなくても――」
「いえ」
セレスさんは、ぎゅっと目を閉じて、串の先の肉を、ほんの一口、かじった。
咀嚼した。
目が、ゆっくりと見開かれた。
「…………っ」
「……どうですか」
セレスさんは、答えなかった。
代わりに、もう一口、かじった。
それから、もう一口。
串の肉が、全部なくなった。
セレスさんは、空になった串を見下ろして、しばらく固まっていた。
それから、震える手で懐から手帳を取り出して、何かを書きつけた。
覗き込んだ。
『わたくし、獣の肉を口にいたしました。大変、美味しゅうございました。長老方には、決して申し上げられません』
……共犯者が、またひとり増えた。
*
屋台街を歩きながら、俺は、ずっと気になっていたことを確かめていた。
屋台の軒先に、緑色の結晶灯が吊るされている。昼間だから、光は弱い。でも、確かに、ほんのりと光っている。
そして。
「……精霊が、少ない」
ハルトンの町では、かまどの煙突にも、井戸の底にも、路地の石畳の隙間にも、小さな精霊たちがいた。目立たないけど、ちゃんと、そこにいた。
王都には、ほとんどいなかった。
たまに見かけても、屋台の軒下の暗がりや、石垣の隙間に、じっと身を縮めている。光が、ひどく弱い。今にも消えそうなくらいに。
屋台のかまどの前で、俺はしゃがみ込んだ。
炭火の奥に、小さな、小さな光がひとつ、震えていた。かまどの精霊だ。
「……大丈夫?」
小声で、話しかけた。
光が、びくっと震えた。それから、おそるおそる、俺の方に寄ってきた。
『……だれ?』
「リア。森から来た」
『……おおきなきの、こ?』
「うん」
かまどの精霊は、しばらく俺の周りをふらふらと漂っていた。
それから、消え入りそうな声で言った。
『した、こわい』
「下?」
『よるになると、ひっぱられる』『じめんの、ずっとしたに』『みんな、ひっぱられて、かえってこない』
胸の奥が、ずしりと重くなった。
『きのうも、となりのかまどのこが、いなくなった』
『つぎは、わたし?』
*
「――ハイエルフ殿」
背後から、声がした。
振り返ると、灰色の長衣の男が立っていた。
金髪。銀縁の眼鏡。
クラウスだった。
ハルトンで最後に見た時より、少し痩せていた。目の下に、薄い隈があった。
「……クラウスさん」
「探しました」
クラウスは、少し息を切らしていた。
「白百合館が、大騒ぎになっています。ハイエルフ殿が消えたと。マダム・ロザリーが、近衛に捜索を命じようとしていました」
「……すみません」
「院長閣下の命で、王都滞在中のハイエルフ殿の案内役を務めることになりました。……ですので、その」
クラウスは、言葉を探すように、眼鏡の位置を直した。
「お戻りいただけると、助かります」
俺は、クラウスの顔を見た。
ハルトンのギルドで、精霊とやらに証言していただけますか、と微笑んだ顔とは、少し違っていた。
何かを言いたそうで、言えない顔。ハンナさんが、宿の前に長いこと突っ立っていたと言っていた時の顔は、たぶん、こんなだったんだろう。
「……東の森の、件は」
クラウスが、口を開いた。
それから、閉じた。
また開いて、また閉じた。
俺は、手に持っていた豚の串を、一本、クラウスの前に差し出した。
「……え」
「食べます?」
クラウスは、目の前の串と、俺の顔を、何度も見比べた。
「……いただきます」
おそるおそる、串を受け取った。
灰色の長衣の、王国魔術院の調査官が、南大通りの屋台街の真ん中で、豚の串にかじりついた。
タレが、長衣の袖に垂れた。
「……おいしい、ですね」
「でしょう」
クラウスは、袖のタレのしみを見下ろして、困ったような顔をした。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
*
白百合館に戻ると、マダム・ロザリーの扇子が、折れていた。
説教は、一刻続いた。
*
その夜。
天蓋つきの寝台の上で、俺は、なかなか眠れなかった。
雲みたいに柔らかい布団。絹の枕。花の香り。何もかもが、エルフの神殿に似ていた。
藁のちくちくが、恋しかった。
それだけじゃない。
聞こえるのだ。
夜が更けるにつれて、だんだん大きくなっていく。
地の底から響いてくる、低い、低い唸り声。何千、何万という声が、重なり合って、うねって、泣いている。
『した、いっぱい、ないてる』
枕元で、精霊たちが震えていた。
『りあ、こわい』『あそこ、いきたくない』
「……うん」
俺は、窓の外を見た。
王城の東に、星見の塔が、白くそびえていた。
窓という窓に、緑色の灯りがともっている。
唸り声は、その塔の、ずっと下の方から聞こえていた。