【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
星見の塔の中は、ひんやりとしていた。
白い石の廊下。壁に沿って並ぶ、緑色の結晶灯。灰色の長衣を着た魔術師たちが、書物や器具を抱えて、忙しそうに行き交っている。
俺たちが通り過ぎると、みんな足を止めて、こっちを見た。
「あれが……」 「謁見の間で、地下で精霊が泣いてるって言ったっていう……」 「院長閣下の結晶炉を、侮辱したんだろう」
居心地が悪かった。
「こちらです」
先導するクラウスの背中が、いつもよりこわばって見えた。
マルタさんが、廊下を歩きながら、魔術師たちの顔をひとりひとり見ていた。誰かを、探しているみたいだった。
「……おい、眼鏡」
「クラウスです」
「クラウス。ここに、ニナって魔術師はいるか」
クラウスが、足を止めた。
「ニナ……ニナ・ベルク女史のことでしょうか」
「たぶん、そいつだ」
「おられます。院長閣下の、筆頭助手を務めておられます」
マルタさんの顔が、一瞬だけ、固まった。
「……そうか」
それ以上は、何も聞かなかった。
*
廊下の突き当たりに、地下へ続く階段があった。
その前に、ふたりの人が立っていた。
ひとりは、ヴァルドだった。昨日と同じ灰色の長衣。昨日よりも、顔色が悪く見えた。
もうひとりは、ヴァルドの半歩後ろに控えた、若い女の人だった。
二十代の後半くらい。茶色い髪を一本の三つ編みにして、肩から前に垂らしている。頬に、薄いそばかす。灰色の長衣の胸元に、魔術院の紋章と、小さな銀の徽章がついていた。
その人の目が、俺を通り越して、俺の後ろを見た。
そして、大きく見開かれた。
「……マルタ?」
後ろで、マルタさんが、息を止めたのが分かった。
「……よう、ニナ」
マルタさんの声は、低くて、平坦だった。
ふたりは、それきり、何も言わなかった。
三年。崩れた遺跡。突き飛ばされたマルタさんと、突き飛ばしたレオンさんと、たぶん、それを見ていたニナさん。
間に、言葉にできないものが、ぎっしりと詰まっているのが分かった。
「知り合いかね、ニナ」
ヴァルドが、静かに尋ねた。
「……昔の、仲間です。冒険者だった頃の」
「そうか」
ヴァルドは、それ以上は何も聞かずに、俺の方に向き直った。
「ようこそ、ハイエルフ殿。では、参ろうか。我が院の、心臓部へ」
*
階段は、長かった。
螺旋状に、どこまでも下へ続いている。一段降りるごとに、空気が冷たくなっていった。壁の結晶灯の緑色が、だんだん濃くなっていく。
そして、音が、大きくなっていく。
昨夜、白百合館の寝台で聞いた、低い唸り声。それが、一段ごとに、はっきりと聞こえるようになってくる。
いや。
唸り声じゃない。
声だ。
何千、何万という声が、重なって、混ざり合って、ひとつの唸りになっているだけだ。
『りあ』
髪の中で、精霊たちが、ぎゅっとしがみついていた。
『いきたくない』『こわい』『りあ、かえろう』
「……ごめん。もうちょっとだけ」
小声で答えた。
息が切れていた。階段のせいだけじゃなかった。胸の奥が、ぎりぎりと締めつけられるように痛かった。
誰かが、俺の手を握った。
トビだった。
何も言わずに、俺の手を握って、一段ずつ、一緒に降りてくれた。
*
階段の終わりに、巨大な鉄の扉があった。
ヴァルドが手をかざすと、扉の表面に刻まれた文字が緑色に光って、ゆっくりと左右に開いた。
そして、俺は、それを見た。
巨大な、空洞だった。
地面の下に、こんなに大きな空間があるなんて、信じられなかった。円形の天井は、謁見の間よりも高い。壁一面に、鉄の柱と梁が、蜘蛛の巣みたいに張り巡らされている。その全部に、びっしりと文字が刻まれていて、緑色に脈打っていた。
空洞の真ん中に、それがあった。
結晶だった。
家一軒分くらいの大きさの、巨大な緑色の結晶。
地面から、斜めに突き出すように生えている。表面は、無数の面で切り取られたように角張っていて、内側から、ぼうっと光っていた。
ゆっくりと、明るくなって、暗くなって、また明るくなる。
心臓の鼓動みたいに。
結晶の表面のあちこちから、小さな結晶が、果実みたいに芽吹いていた。魔術師たちが、梯子に登って、それを丁寧に切り取っては、籠に入れていく。
天井からは、何十本もの太い管が垂れ下がっていた。透明な管の中を、緑色の光が、ゆっくりと流れて、上へ、上へと昇っていく。
巨大な結晶の、一番奥。そこだけ、緑色が、ほとんど黒に近いくらい濃かった。
「あの、真ん中の濃いところは」
小声で聞くと、後ろにいたクラウスが、同じくらいの小声で答えた。
「核です。外側の結晶は、ああして刃で切り出せます。ですが、核だけは、刃も魔術も通らない。……この三十年、誰ひとり、傷ひとつ付けられた例がありません」
髪の中で、精霊たちが、小さく身を縮めた。
『まんなか、いちばん、ぎゅうぎゅう』
『そとからは、あかない』
「精霊集積炉だ」
ヴァルドが、言った。
声に、隠しきれない誇らしさが滲んでいた。
「王都と、その周囲二十里。そこに漂う魔力の凝集――精霊を、夜ごと地脈を通じてこの地下へ引き寄せ、ここで結晶へと変える。この炉ひとつで、王都の三万の結晶灯と、南部の揚水機二百基の、半分を賄っている」
俺は、何も聞いていなかった。
結晶の中が、見えていた。
巨大な緑色の結晶の、内側。
そこに、光が、ぎっしりと詰まっていた。
小さな、小さな光の粒。何千、何万、もしかしたら、何十万。それが、結晶の内側で、ぐるぐると渦を巻いていた。結晶の壁に、内側から、ぺたりと張りついていた。外に出ようとして、壁を叩いていた。
声が、聞こえた。
『だして』
『くらい』『さむい』『せまい』
『だして、だして、だして』
『ここ、どこ』『かえりたい』『おうち、かえりたい』
『おかあさん』
――膝から、力が抜けた。
「姉ちゃん!」
トビが、崩れ落ちそうになった俺を支えた。マルタさんが、反対側から腕をつかんでくれた。
「リア様!」
セレスさんの声が、遠くに聞こえた。
*
「……大丈夫です」
嘘だった。
でも、俺は、トビとマルタさんの手を借りて、なんとか立った。
ヴァルドが、じっと俺を見ていた。
その目は、心配しているようには見えなかった。観察していた。実験の結果を、記録するように。
「何が、聞こえる」
静かな声だった。
「その結晶の中で、精霊は、何と言っている。具体的に」
「……出して、って」
声が、震えた。
「暗い。寒い。狭い。帰りたい。……お母さん、って」
空洞の中が、しんとなった。
梯子の上で結晶を切り取っていた魔術師が、手を止めていた。
ニナさんの顔が、青ざめていた。クラウスが、目を閉じていた。
ヴァルドだけが、表情を変えなかった。
「ならば、問いたい」
ヴァルドは、ゆっくりと、結晶の方へ歩いていった。
「それは、苦痛の表現か。それとも、単なる反応か。火に触れた手が、勝手に引っ込むのと、何が違う。……あなたが聞いている声が、本当に意思あるものの声だと、どうやって証明する」
「違います」
「何が違う」
「火に触れた手は、お母さんって、言わない」
ヴァルドが、足を止めた。
振り返った。
灰色の目が、ほんの一瞬だけ、揺れた気がした。
*
「……十年前」
ヴァルドは、結晶を見上げながら、言った。
「南の地方で、ひどい日照りがあった。井戸が涸れ、川が干上がり、畑が全滅した。……その年、南の村々で、何人の子どもが死んだか、知っているかね」
「……」
「千二百人だ」
空洞の中に、その数字が、重く響いた。
「去年も、日照りだった。だが、去年、南で、渇きで死んだ子どもは、ひとりもいない。この炉の結晶が、揚水機を動かしたからだ」
ヴァルドは、俺の方に向き直った。
「あなたは、この結晶の中で、精霊が泣いていると言う。……ならば、千二百人の子どもの泣き声と、どちらを選ぶ」
答えられなかった。
喉が、詰まった。
精霊の声と、子どもの声。どちらかを選べと言われて、答えられる人なんて、いるんだろうか。
「……ひとつ、提案がある」
ヴァルドが、声を和らげた。
「仮に、精霊に意思があるとしよう。あなたの言う通りに。……ならば、話し合えるはずだ。違うかね」
「……え」
「あなたは、精霊と話せる。精霊は、あなたの言うことを聞く。東の森で、四十七本の杭を押し出したように。ハルトンの町中から、精霊を呼び集めたように」
ヴァルドが、一歩、近づいてきた。
「ならば、あなたが頼めばいい。精霊たちに、自ら結晶に入ってくれるように、と。強制ではなく、協力として。……そうすれば、もう、苦痛はない。泣き声もない。民は救われ、精霊は苦しまない。誰も、損をしない」
穏やかな声だった。
理にかなっている、と思ってしまった。
一瞬だけ。
俺は、結晶の方を見た。
巨大な緑色の壁の内側で、無数の光が、渦を巻いていた。
「……ねえ」
小さな声で、結晶に向かって話しかけた。
「この人が、言ってること。……どう思う」
渦が、ぴたりと止まった。
何万という光が、一斉に、こっちを向いた気がした。
それから。
『いや』
『いや』『いや』『ここ、いや』
『そとにでたい』『かぜにあたりたい』『かまどにかえりたい』『いどのそこにかえりたい』
『かえりたい』
髪の中で、俺の精霊たちが、震える声で言った。
『りあ』
『りあ、そんなこと、たのまないで』
俺は、ヴァルドに向き直った。
「……嫌だ、って言ってます」
「説得は、できないのか」
「しません」
ヴァルドの目が、冷たく光った。
「では、民の灯りを消せと言うのか。南の水を、止めろと言うのか」
――答えられなかった。
答えなんて、持っていなかった。
精霊を解放すれば、王都の灯りが消える。南の揚水機が止まる。日照りの村で、また子どもが死ぬかもしれない。
このままにすれば、精霊たちは、この暗くて寒くて狭い場所で、ずっと泣き続ける。
どっちも、選べなかった。
「……分かりません」
正直に、言った。
「どうすればいいのか、俺には――私には、まだ、分かりません。でも」
顔を上げた。
「他の方法を、一緒に考えたいです。精霊も、子どもも、どっちも泣かなくていい方法を」
ヴァルドは、黙って俺を見ていた。
それから、何かを言おうとして、口を開いた。
その瞬間、ヴァルドの体が、くの字に折れた。
激しい咳だった。
乾いた、嫌な咳が、空洞の壁に反響した。止まらない。体を折り曲げて、長衣の袖で口元を押さえて、咳き込み続ける。
「閣下!」
ニナさんが、駆け寄った。ヴァルドの背中をさすりながら、懐から小瓶を取り出す。
咳が、ようやく収まった。
ヴァルドが、口元から袖を離した。
灰色の長衣の袖に、赤いものが、べったりとついていた。
俺は、息を呑んだ。
ヴァルドは、袖の赤い染みを見下ろして、それから、ゆっくりと顔を上げた。
口元に、薄い笑みが浮かんでいた。
「……見苦しいところを見せた」
かすれた声だった。
「一緒に考えたい、と言ったな、ハイエルフ殿」
「……はい」
「千年を生きるあなたには、考える時間がいくらでもあるだろう」
ヴァルドの灰色の目が、まっすぐに俺を見ていた。
刃物みたいな目だった。でも、その奥に、何か、ひどく疲れたものが見えた。
「――私には、ないのだよ」
*
「今日は、ここまでにしよう」
ヴァルドは、ニナさんの肩を借りて、ゆっくりと背を伸ばした。
「クラウス。ハイエルフ殿を、お送りしろ」
「……はい」
鉄の扉へ向かう途中で、俺は、一度だけ振り返った。
巨大な緑色の結晶。その内側で、無数の光が、また渦を巻き始めていた。
その時、ひとつの小さな光が、結晶の壁の、ちょうど俺の目の高さのところに、ぺたりと張りついた。
かまどの精霊だった。
たぶん、昨日、屋台街で話した子の、隣のかまどの子だ。
『……りあ?』
小さな、小さな声だった。
『まってる』
俺は、拳を握りしめた。
声には出さずに、答えた。
――待ってて。
必ず、出すから。
鉄の扉が、背後で、重い音を立てて閉まった。