【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
その夜、マルタさんが白百合館を抜け出した。
気づいたのは、精霊たちだった。
『マルタ、おでかけ』『ひとりで』『こそこそ』
天蓋つきの寝台の上で、俺は体を起こした。
窓の外を見る。月明かりの庭園を、赤毛の背の高い影が、裏門の方へ歩いていくのが見えた。礼装の胸当てじゃなくて、いつもの擦り切れた革鎧を着ていた。大剣は、背負っていなかった。
「……どこ行くんだろ」
『しらない』『でも、かお、こわかった』
昼間の、塔の地下への階段の前。ニナさんと目が合った時の、マルタさんの顔を思い出した。
俺は、外套を羽織った。
人の事情には、首を突っ込まない。前世の俺なら、そうしていた。
でも、たぶん、もう、俺は前世の俺じゃないんだと思う。
*
風の精霊に頼んで、足を少しだけ軽くしてもらった。それでも、マルタさんの大股には追いつけなかった。精霊たちに道案内をしてもらいながら、夜の王都の路地を、ふらふらと進む。
マルタさんが入っていったのは、星見の塔のすぐ裏手の、小さな酒場だった。
看板に、灰色の梟の絵が描いてある。
扉の隙間から、そっと中を覗いた。
客は、ほとんどいなかった。カウンターの奥で、年老いた主人がグラスを磨いている。隅の席で、魔術院の灰色の長衣を着た男がふたり、うつらうつらしている。
マルタさんは、奥の、壁際の席に座っていた。
向かいの席は、空いていた。
俺は、こっそり中に入って、入口近くの柱の陰の席に滑り込んだ。
『りあ、かくれんぼ?』
「しーっ」
『かくれんぼ!』『かくれる!』
精霊たちが、張り切って俺の周りに集まってきた。
……光ってる。めちゃくちゃ光ってる。
奥の席から、マルタさんの低い声がした。
「出てこい、リア」
「…………」
「精霊ってのは、こそこそするには光りすぎだ」
*
結局、マルタさんの隣の席に座らされた。
「……すみません」
「別にいい。どうせ、ついてくると思ってた」
マルタさんは、黒エールのジョッキを傾けた。
「ニナを、呼び出したんだ。昼間、塔の廊下で、すれ違いざまに紙を渡した。来るかどうかは、分からないけどな」
来ないかもしれない、と言いながら、マルタさんの目は、ずっと入口の扉を見ていた。
俺は、ハルトンの串焼きを食べた時みたいに、黙ってマルタさんの隣にいた。
四半刻ほど、経っただろうか。
扉が、きい、と開いた。
三つ編みの、そばかすの女の人が、入口に立っていた。
灰色の長衣の上から、地味な茶色の外套を羽織っていた。たぶん、魔術院の誰かに見られないように。
ニナさんは、奥の席のマルタさんを見て、それから、その隣の俺を見て、少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと歩いてきて、向かいの席に座った。
*
しばらく、誰も何も言わなかった。
酒場の主人が、黙ってニナさんの前に、薄い葡萄酒の杯を置いていった。
「……三年ぶりだね、マルタ」
先に口を開いたのは、ニナさんだった。
「ああ」
「辺境に行ったって、オスカーから聞いた。……元気だった?」
「見ての通りだ」
「頬の傷、残っちゃったね」
マルタさんの指が、左の頬に触れた。
「別に、気にしてない」
また、沈黙が落ちた。
ニナさんは、杯を両手で包むように持って、その中をじっと見つめていた。
「……あのね、マルタ」
声が、震えていた。
「ずっと、言わなきゃって、思ってたことがあるの」
「……」
「あの時。遺跡の奥で、天井が崩れたの」
ニナさんの指が、杯をぎゅっと握りしめた。
「私のせいなの」
*
「あの時、奥の部屋に、大きな魔物がいたでしょう。私、焦って、一番大きな炎の魔法を撃った。……あそこの天井、古くて、もろくなってた。私の炎の熱で、石が割れて」
ニナさんの声が、どんどん小さくなっていった。
「レオンが死んだのは、私のせい。……ずっと、言えなかった。マルタにも、オスカーにも。言ったら、みんなに嫌われると思って。怖くて。だから、逃げるみたいに、魔術院に入ったの」
杯の中に、ぽたりと、何かが落ちた。
「ごめん。ごめんね、マルタ。ずっと、黙ってて――」
「知ってた」
マルタさんが、言った。
ニナさんの肩が、びくりと震えた。
顔を上げた。
「……え」
「知ってたよ。あたしも、レオンも、オスカーも」
マルタさんは、エールのジョッキを置いた。
「あの時、あんたが炎を撃つのを、みんな見てた。天井にひびが入ったのも、見てた。……レオンは、それを見て、あたしを突き飛ばしたんだ」
「……じゃあ、なんで」
ニナさんの声が、裏返った。
「なんで、誰も、言わなかったの。私のせいだって。なんで、誰も、責めてくれなかったの!」
酒場の隅で、居眠りしていた魔術師が、びくっと顔を上げた。主人が、グラスを磨く手を止めた。
ニナさんは、もう、隠しもせずに泣いていた。
「誰も責めてくれないから、私、ずっと、どうしていいか分からなかった! 謝ることもできなくて、罰を受けることもできなくて、ずっと、ずっと――」
「責める理由がなかったからだ」
マルタさんの声は、静かだった。
「あんたが炎を撃たなかったら、あの魔物に、たぶん四人とも食われてた。あんたは、自分の仕事をしただけだ。天井が古かったのは、あんたのせいじゃない」
「でも、レオンは――」
「レオンは、自分で選んだんだ」
マルタさんは、ニナさんの目を、まっすぐに見た。
「あたしを突き飛ばすって、あいつが自分で選んだ。あんたのせいじゃない。あたしのせいでもない。……ずっと、あたしも、自分のせいだと思ってた。一番前にいたのに、気づくのが遅れたって」
マルタさんは、少しだけ笑った。
「でもな。この前、東の辺境で、ガキを庇って怪我した」
「……え」
「その時に、分かった。考えるより先に、体が勝手に動くんだよ、ああいうのは。誰のせいとか、何のためとか、そんなこと考えてる暇なんかない。ただ、こいつを死なせたくないって、それだけだ」
マルタさんの声が、少しだけ、かすれた。
「レオンは、誰かを恨んで死んだんじゃない。あたしを死なせたくなかっただけだ。……それだけなんだよ、ニナ」
ニナさんは、両手で顔を覆った。
声を殺して、肩を震わせて、泣いていた。
マルタさんは、何も言わずに、テーブル越しに手を伸ばした。
そして、ニナさんの頭に、その大きな手を、ぽんと置いた。
俺の頭に、いつもそうするみたいに。
*
ニナさんが落ち着くまで、ずいぶん時間がかかった。
主人が、新しい葡萄酒と、温かい山羊の乳を持ってきてくれた。山羊の乳は、俺の前に置かれた。エールは半分で酔うと、マルタさんが主人に言ったらしい。余計なお世話だ。
「……みっともないとこ、見せちゃった」
ニナさんは、赤くなった目をこすりながら、俺の方を向いた。
「ハイエルフ様、ですよね。昼間は、きちんとご挨拶もできなくて」
「リアでいいです。マルタさんに、拾われた者です」
「拾った……マルタが?」
「門の前で、葉っぱで入町税払おうとしてたんだ」
マルタさんが、ぼそっと補足した。
ニナさんが、ぽかんとした顔をして、それから、小さく吹き出した。
泣き腫らした顔で笑うと、ずいぶん幼く見えた。
*
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
笑いが収まってから、ニナさんが、ためらうように言った。
「昼間、炉の前で。本当に、聞こえたんですか。結晶の中の、声が」
「……はい」
「お母さん、って」
「はい」
ニナさんの顔から、血の気が引いていった。
「私、毎日、あの炉のそばで働いてるんです。三年間、毎日。結晶の切り出しの記録をつけて、魔力の流れを計測して。……何も、聞こえなかった」
杯を持つ手が、震えていた。
「何万も、いたんですよね。あの中に」
「……たぶん、もっと」
ニナさんは、目を閉じた。
しばらく、そのまま動かなかった。
「……ヴァルド閣下のこと、聞いてもいいですか」
俺が言うと、ニナさんは、ゆっくりと目を開けた。
「閣下、昼間、血を」
「……魔石肺です」
ニナさんは、声を落とした。
「結晶の研究を始めた頃は、まだ、安全な扱い方が分かっていなかったんです。結晶を削ると、細かい粉が出る。それを吸い込むと、肺の中で、少しずつ固まっていく。……閣下は、十年以上、誰よりも長く、結晶のそばにいた方ですから」
肺が、結晶になっていく病。
自分が作ったもので、自分が死んでいく。
「医師は、もって一年だと」
マルタさんが、ジョッキを置く音がした。
「……陛下は、知ってるのか」
「ご存じです。陛下と、私と、侍医しか知りません」
――私には、ないのだよ。
地下の空洞で、血のついた袖を見下ろしながら、ヴァルドが言った言葉を思い出した。
「閣下は、鑑定院からの報告も、受け取っています」
ニナさんが、俺を見た。
「世界樹の葉。どんな病でも治すっていう」
心臓が、どきりとした。
袖の中に、まだ、九枚ある。
「……でも、閣下は、頼まないって言ってました」
「頼まない?」
「『借りを作った相手とは、対等に議論ができない』って」
ニナさんは、困ったように笑った。
「そういう人なんです。頑固で、意地っ張りで、誰にも頼らない。……私が、遺跡のことを誰にも言えずにぼろぼろだった時も、何も聞かずに、ただ、仕事をくれた人です。責めもしないで、慰めもしないで。ただ、明日までにこの計算をやっておけ、って」
ニナさんの声が、少しだけ、温かくなった。
「それが、どれだけ救いだったか」
*
「閣下は、急いでるんです」
ニナさんは、杯の中を見つめながら、言った。
「今の炉だけじゃ、南の地方の半分しか水を汲めない。だから、もうひとつ、もっと大きな炉を作ろうとしてる。王都の南の、地脈が一番太いところに。……大炉、って呼んでます」
「大炉」
「それが動けば、南の全部の村に、揚水機を置ける。もう二度と、日照りで子どもが死なずに済む。閣下が死んだ後も、炉は動き続ける」
ニナさんは、顔を上げた。
「閣下は、自分がいなくなっても、南の民が渇かずに済む仕組みを、残そうとしてるんです。……それが、閣下の、一生の仕事なんです」
俺は、何も言えなかった。
結晶の中の、何万という光。
だして。くらい。さむい。おかあさん。
それが、もっと大きな炉になる。
何十万、何百万という光が、もっと暗い場所に閉じ込められる。
「……いつ、動くんですか。その、大炉」
ニナさんは、少しためらってから、答えた。
「まだ、決まってません。でも、たぶん、もうすぐ」
*
灰色の梟亭を出たのは、真夜中を過ぎた頃だった。
ニナさんは、塔の裏口の方へ、ひとりで帰っていった。別れ際に、マルタさんに、小さく手を振っていた。マルタさんも、片手を上げて応えていた。
白百合館への帰り道を、マルタさんと並んで歩いた。
マルタさんは、何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
月が、石畳を白く照らしていた。通りの結晶灯が、緑色に、ぼんやりと光っていた。
白百合館の裏門が見えてきた頃、マルタさんが、ぼそっと言った。
「……ありがとな」
「え」
「ついてきてくれて」
マルタさんは、前を向いたまま、言った。
「ひとりだったら、たぶん、逃げてた。ニナが来る前に、席を立ってたと思う」
俺は、少し考えてから、答えた。
「……精霊が光りすぎて、隠れられなかっただけです」
マルタさんが、吹き出した。
真夜中の路地に、豪快な笑い声が響いた。どこかの家の窓が開いて、うるさい、と怒鳴られた。
マルタさんは、肩をすくめて、まだ笑っていた。
俺は、袖の中に手を入れた。
九枚の葉っぱが、指先に触れた。
ほんのりと、温かかった。