【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
クラウスが鞄から取り出したのは、奇妙な器具だった。
真鍮の枠に、薄く削った透明な板がはめ込んである。大きさは、両手を広げたくらい。板の縁には、細かい文字がびっしりと刻まれていた。
「共鳴板、と名づけました」
クラウスは、器具を寝室の机の上に慎重に置いた。それから、小さな瓶を取り出して、板の上に、白い砂をさらさらと撒いた。
「この板は、結晶を極限まで薄く削ったものです。魔力の振動に、きわめて敏感に反応する。……板の上に撒いた砂が、振動に合わせて動き、模様を描きます」
「振動?」
「魔術院の定説では、精霊とは、魔力の凝集です。ならば、もし精霊が何かを伝えようとしているなら、その時、魔力が振動しているはずだ。……人の声が、空気を震わせるように」
クラウスは、眼鏡の位置を直した。
「ひと月かけて、作りました。ハルトンから戻ってから、ずっと」
ひと月。目の下の隈の理由が、分かった気がした。
「私には、精霊の声は聞こえません。何度、結晶灯の前で耳を澄ませても、何も聞こえなかった」
クラウスは、共鳴板の上の白い砂を見下ろした。
「ですが、もし、この砂が動くなら。……私にも、見ることくらいは、できるかもしれない」
*
「では、まず」
クラウスは、羊皮紙とペンを手元に置いた。
「精霊に、ひとつ、言葉を言ってもらえますか。何でも構いません」
俺は、肩の上の精霊に、小声で話しかけた。
「なあ。この板の上で、何か喋ってくれる?」
『しゃべる?』『なにを?』
「うーん……じゃあ、はい、って」
『はい!』
精霊が、ぴょんと共鳴板の上に飛び降りた。
そして、元気よく、明滅した。
――砂が、動いた。
さらさらと、ひとりでに。白い砂粒が、板の上を滑って、集まって、ひとつの形を描いていく。
同心円が、三つ。その真ん中を、一本の線が貫いている。
クラウスが、息を止めた。
「……もう一度」
掠れた声だった。
「砂を均します。別の精霊に、同じ言葉を」
クラウスは、震える手で、板の上の砂を平らに均した。
今度は、髪の中から、別の精霊が飛び降りた。
『はい!』
砂が、動いた。
同心円が、三つ。真ん中を貫く、一本の線。
さっきと、同じ形だった。
「……いいえ、と」
『いいえ!』
砂が、動いた。今度は、四つに分かれた花びらのような形。
「もう一度、別の精霊で」
『いいえ!』
四つの花びら。
クラウスは、羊皮紙に、その形を写し取っていた。ペン先が、がたがたと震えていた。
*
それから、夜が更けるまで、実験は続いた。
クラウスは、本当に、几帳面な人だった。
同じ言葉を、違う精霊に、何十回も言わせた。違う言葉を、同じ精霊に言わせた。砂の模様を、ひとつ残らず羊皮紙に写し取って、番号を振っていった。
「はい」は、三つの同心円。
「いいえ」は、四つの花びら。
「りあ」は、渦巻き。
「こわい」は、ぎざぎざの、ひび割れたような形。
「あったかい」は、ゆるやかな波。
同じ言葉は、必ず同じ形になった。違う言葉は、必ず違う形になった。
「……次は、ハイエルフ殿が知り得ない問いを」
夜半を過ぎた頃、クラウスが言った。
「私が、紙に問いを書きます。あなたには見せません。精霊にだけ、見てもらう。そして、答えてもらう」
クラウスは、俺に背を向けて、紙に何かを書いた。それから、紙を伏せたまま、机の上に置いた。
「精霊に、この紙を読んでもらえますか」
「……この子たち、字、読めるかな」
『よめない』
即答だった。
「読めないそうです」
クラウスは、一瞬固まって、それから、少し顔を赤くして、紙を回収した。
「……では、方法を変えます」
クラウスは、上着の内側から、小さな石を三つ取り出した。赤と、青と、白。それを、俺に見えないように背中の後ろに回して、どれかひとつを左手に握った。
「私が、どの色の石を左手に握っているか。精霊に、見てきてもらってください」
精霊が、ふわりとクラウスの背中に回り込んだ。
戻ってきた。
『あお』
「青、だそうです」
クラウスが、左手を開いた。
青い石だった。
二十回、繰り返した。
二十回、全部、当たった。
共鳴板の上の砂も、精霊が答えるたびに、それぞれの色の言葉の形を描いた。
*
クラウスは、椅子に座り込んでいた。
羊皮紙の束を、両手で握りしめたまま、動かなかった。
「……偶然では、ありえない」
ぽつりと、言った。
「二十回、全部。三分の一の確率が、二十回続く可能性は……」
計算しようとして、やめたみたいだった。
「精霊は、見ている。聞いている。理解して、選んで、答えている」
クラウスは、眼鏡を外して、目元を押さえた。
「意思が、ある」
しばらく、そのまま動かなかった。
肩が、小さく震えていた。
「……私は」
眼鏡を外したまま、クラウスは、言った。
「十年間、魔術院で、精霊を研究してきました。精霊は現象だと、教えられて。そう信じて。……そう信じたまま、黒樫の森に、四十七本の杭を打ちました」
声が、かすれていた。
「この手で」
俺は、何と言えばいいのか、分からなかった。
知っている、と言えばいいのか。もういいです、と言えばいいのか。
どちらも、違う気がした。
「……でも」
考えながら、言った。
「クラウスさんは、今、この子たちの声を、聞こうとしてます」
クラウスが、顔を上げた。
「ひと月かけて、この板を作って。眠らないで。……聞こえないのに、聞こうとしてる」
それは、たぶん、簡単なことじゃない。
自分が信じてきたものを、自分で疑うのは。
その時、共鳴板の上に、一匹の精霊が、ふわりと降りた。
俺の精霊じゃなかった。白百合館の庭園に逃げてきていた、王都の精霊のひとつだった。光が、他の子たちより、少しだけ薄い。
その精霊が、ふわふわとクラウスの顔の前まで漂っていった。
『めがねのひと』
小さな声だった。
『まいばん、とうのけっしょうのまえで、ごめんって、いってる』
――俺は、クラウスを見た。
共鳴板の上の砂が、ゆっくりと動いていた。
「……今、何と」
クラウスが、かすれた声で聞いた。
「毎晩、塔の結晶の前で、ごめんって言ってるって」
クラウスの顔が、みるみる赤くなった。
「そ、それは……聞かれて、いたのですか……」
『きこえてた』
精霊は、ふわりと、クラウスの頬に触れた。
ハルトンの東門で、砕けた結晶から飛び立った光が、そうしたみたいに。
クラウスは、動かなかった。
頬に触れた小さな光を、目を閉じて、じっと感じていた。
「……温かい」
呟いた声は、少しだけ、震えていた。
*
「ハイエルフ殿」
クラウスが、鞄の底から、もうひとつ何かを取り出したのは、もうすぐ夜明けという頃だった。
拳くらいの大きさの、結晶だった。
でも、塔の結晶灯とは、形が違った。結晶の中が、空洞になっている。そして、表面に、小さな穴がいくつも開いていた。まるで、鳥の巣みたいに。
「これは……」
「試作品です。名前は、まだありません」
クラウスは、結晶を机の上に置いた。
「今の結晶は、精霊を閉じ込めて、その力を絞り出します。……だから、精霊は、出してと泣く」
「はい」
「では、閉じ込めなければ、どうなるか。出入りが自由で、居心地のいい場所を作ったら。……精霊は、自分から、そこに住んでくれるのではないか」
クラウスは、結晶の穴を指さした。
「かまどの精霊が、かまどを温めるように。井戸の精霊が、水を澄ませるように。精霊は、自分の住む場所に、自然と力を与えます。……この結晶が、精霊にとって、住み心地のいい家になるなら。精霊が住んでいる間だけ、この結晶は、光る」
門の開いた、結晶。
閉じ込めるんじゃなくて、迎え入れる。
「ただ」
クラウスの声が、少し沈んだ。
「出力は、今の結晶の、十分の一ほどです。精霊が、自分から分けてくれる力だけですから。……絞り出すのとは、違う」
十分の一。
王都の三万の灯りと、南部の揚水機二百基。その十分の一。
「それでも」
クラウスは、顔を上げた。
「ゼロでは、ありません」
俺は、机の上の、穴だらけの結晶を見つめた。
それから、窓の外の庭園に向かって、呼びかけた。
「ねえ。ちょっと、来てくれる?」
庭園の噴水のあたりから、王都の精霊たちが、ふわふわと窓辺に集まってきた。
「これ、見て。この結晶、中に入っても、出たい時にいつでも出られるんだって。……ここに、住みたいと思う?」
精霊たちは、穴だらけの結晶の周りを、くるくると回った。
一匹が、おそるおそる、穴から中を覗き込んだ。
すっと、中に入った。
結晶が、ぽうっと、淡く光った。
塔の結晶灯みたいな、濁った緑色じゃなかった。春の日だまりみたいな、柔らかい、金色がかった光だった。
中に入った精霊が、すぐに、別の穴から飛び出してきた。
それから、また入った。
また出た。
『でられる!』
嬉しそうな声だった。
『でたり、はいったり、できる!』
他の精霊たちも、次々と結晶の中に入っては出て、入っては出て、を繰り返した。結晶が、ぽう、ぽう、と、灯ったり消えたりしている。遊んでいるみたいだった。
『ここ、あったかい』
『せまくない』『くらくない』
『あったかいとこなら、すんでもいい』
『でたりはいったり、できるなら』
『みんなで、すむの、たのしそう』
俺は、クラウスの方を向いた。
「……住んでもいい、って言ってます」
クラウスは、何も言わなかった。
ただ、共鳴板の上で、砂がゆるやかな波の形を描いているのを、じっと見つめていた。
「あったかい」の、形だった。
*
その夜の最後に、クラウスは、もうひとつ、気になることを言った。
「……実は、ずっと引っかかっていることがあるのです」
羊皮紙の束をまとめながら、クラウスは眉を寄せていた。
「南の日照りです。十年前の大日照りは、記録にある限り、天候の不順によるものでした。……ですが、ここ三年の日照りは、少し様子が違う」
「違う?」
「雨が少ないのは、確かです。ですが、十年前の大日照りの年よりは、まだ降っている。それなのに、井戸の涸れ方は、あの年よりずっと早い。川の水位も、下がり続けている。まるで、地下の水が、どこかへ吸い取られているように」
クラウスは、窓の外の、星見の塔を見た。
「三年前。南部で、結晶式の揚水機が使われ始めた年です。そして、塔の地下の炉が、本格的に動き始めた年でもある」
背中が、ひやりとした。
俺は、肩の上の精霊に、小声で聞いた。
「ねえ。水の子たちって、今、どうしてる?」
精霊たちは、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で答えた。
『みずのこたち、みんな、したにひっぱられた』
『いどのそこのこも』『かわのこも』
『みずのこがいないと、みず、あつまらない』
俺は、ゆっくりと、クラウスにそれを伝えた。
クラウスの顔から、血の気が引いていった。
「……揚水機が、地下の水の精霊を吸い上げ、炉が、それを結晶に閉じ込める。水の精霊がいなくなった土地には、水が集まらない。そして、また、揚水機が必要になる……」
声が、震えていた。
「日照りを、我々が、深くしている……?」
まだ、仮説だった。証明は、できていない。
でも、もし、それが本当なら。
ヴァルドが、南の子どもたちを救うために作った炉が、南の日照りを、ひどくしている。
*
夜が、明けた。
窓の外で、庭園の精霊たちが、朝の光の中に溶けるように、薄くなっていった。
クラウスは、一睡もしないまま、羊皮紙の束を鞄にしまっていた。
「論文に、まとめます」
赤い目で、でも、昨日よりずっとはっきりした声で、言った。
「精霊の意思について。開放型結晶の提案について。……それから、日照りとの関係についての、仮説も」
「ヴァルド閣下に、見せるんですか」
「はい」
クラウスは、鞄の留め金を、ぱちんと閉じた。
「閣下は、頑固な方です。ですが、学者です。……証拠を前にして、目を逸らす方ではない。私は、そう信じています」
それから、俺の方を向いて、深く頭を下げた。
「一緒に、来ていただけますか。ハイエルフ殿」
俺は、頷いた。
「リアでいいです」
クラウスは、少し驚いたように顔を上げた。
それから、ほんの少しだけ、笑った。
屋台街で、豚の串をかじった時と、同じ顔だった。
「……では、リア殿」