【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
院長室は、塔の一番上にあった。
螺旋階段を、三百段。途中で七回休んだ。クラウスは、そのたびに黙って立ち止まって待ってくれた。
扉を開けると、紙の匂いがした。
書物と、巻物と、計算式を書きつけた紙の束が、床から天井まで、部屋中を埋め尽くしている。窓辺の大きな机に、ヴァルドが座っていた。
隣に、ニナさんが控えていた。俺を見て、小さく会釈した。
「来たか」
ヴァルドは、ペンを置いて、顔を上げた。
昨日よりも、また少し、頬がこけた気がした。
「クラウスから、見せたいものがあると聞いた。……かけたまえ、ハイエルフ殿」
*
クラウスは、机の上に、共鳴板を置いた。
真鍮の枠。極薄の結晶の板。その上に、白い砂を撒く。
「閣下。まず、ご覧いただきたいものがあります」
声が、少し震えていた。
でも、目は、まっすぐにヴァルドを見ていた。
俺は、肩の上の精霊に頼んで、共鳴板の上に降りてもらった。
『はい』
砂が、動いた。三つの同心円と、貫く一本の線。
『いいえ』
四つの花びら。
ヴァルドは、黙って、砂の模様を見ていた。
表情は、変わらなかった。
クラウスが、羊皮紙の束を差し出した。昨夜、一睡もせずにまとめた論文だ。ヴァルドは、それを受け取って、一枚目から、ゆっくりと目を通し始めた。
部屋の中に、紙をめくる音だけが響いた。
長い時間が、経った。
「……色石の試験」
ヴァルドが、顔を上げずに言った。
「二十回、全問正解とある」
「はい」
「私の手で、もう一度やらせてもらえるか」
クラウスが、上着の内側から、赤と青と白の石を取り出して、ヴァルドに渡した。
ヴァルドは、机の下に手を隠して、石をひとつ、左手に握った。
精霊が、ふわりと机の下に潜り込んだ。
戻ってきた。
『しろ』
「白、だそうです」
ヴァルドが、左手を開いた。
白い石だった。
もう一度。
『あか』
赤だった。
もう一度。もう一度。もう一度。
十回、続けた。
十回、全部、当たった。
ヴァルドは、手のひらの上の青い石を、じっと見つめていた。
それから、ゆっくりと、その石を机の上に置いた。
「……認めよう」
静かな声だった。
「これは、意思だ」
ニナさんが、息を呑む音がした。
クラウスが、拳を握りしめていた。
「三十年」
ヴァルドは、窓の外を見た。
「三十年、私は、精霊を現象だと信じてきた。その前提の上に、すべてを積み上げてきた。……クラウス。よく、この結果を、私の前に持ってきたな」
「……閣下」
「学者が、師の説を覆す証拠を突きつけるのは、勇気のいることだ。……誇っていい」
クラウスの肩が、小さく震えていた。
*
「開放型結晶、か」
ヴァルドは、論文の後半をめくっていた。
「出力は、従来の十分の一」
「はい。ですが――」
「南部の全域を賄うには、揚水機が四百基いる。今の炉で、その四分の一。開放型に切り替えれば、四十分の一」
ヴァルドの声は、淡々としていた。
「十基分だ。南部の村は、三百を超える」
クラウスは、何も言い返せなかった。
「そして、この、日照りとの関係についての仮説」
ヴァルドの指が、論文の最後の数枚を叩いた。
「揚水機が、地下の水の精霊を吸い上げ、炉が、それを閉じ込める。水の精霊を失った土地には、雨が降っても水が溜まらない。……ゆえに、我々が日照りを深くしている」
灰色の目が、クラウスを見た。
「根拠は」
「南部の井戸の水位記録です。揚水機の近くの井戸ほど、水位の低下が早い。それから、リア殿が聞いた、精霊たちの証言」
「井戸の水位の低下は、揚水機が水を汲んでいるからだとも説明できる。精霊の証言は、裏付けが取れていない」
「……はい」
「仮説だ」
ヴァルドは、論文を閉じた。
「興味深い仮説だが、証明には、最低でも三年の観測がいる。……そして、仮にそれが正しいとしても」
ヴァルドは、机の上で両手を組んだ。
「今、揚水機に頼って生きている南部の村々は、今年の夏、揚水機を止めれば、越せない。開放型に切り替えるにしても、少しずつ、村ごとに、土地の精霊が戻るのを確かめながら進めるしかない。……十年は、かかるだろう」
十年。
「私には、一年もない」
ヴァルドは、静かに言った。
部屋の中が、しんとなった。
「七日後」
ヴァルドが、続けた。
「陛下の御前会議がある。そこで、私は、大炉の稼働を奏上する。大炉は、すでに、王都の南区の地下に完成している。……あとは、陛下のお許しと、起動の鍵を回すだけだ」
「やめてください」
俺は、言った。
「大炉が動いたら、もっとたくさんの精霊が閉じ込められます。水の精霊も。……もし、クラウスさんの仮説が正しかったら、南の日照りは、もっとひどくなる」
「仮説だ」
「でも――」
「では」
ヴァルドの目が、まっすぐに俺を見た。
刃物みたいな目だった。
「代わりの答えを出してみせよ。七日で」
――答えられなかった。
十年かかる答えを、七日で出せるわけがない。
*
袖の中に、手を入れた。
指先に、九枚の葉が触れた。
ほんのりと、温かかった。
灰色の梟亭で、ニナさんに話を聞いた夜から、ずっと考えていた。
たぶん、断られる。そう思っていた。
それでも。
俺は、一枚を取り出して、ヴァルドの机の上に置いた。
黄金色と若草色が混じった、つやつやの葉。
ニナさんが、口元を押さえた。
クラウスが、目を見開いた。
「……世界樹の葉です」
俺は、言った。
「これで、閣下の病は治ります」
ヴァルドは、机の上の葉を見下ろしていた。
何も言わなかった。
「十年あれば」
声が、少し震えた。
「一緒に、考えられます。クラウスさんの結晶も。日照りの観測も。村ごとに、少しずつ、確かめながら。……閣下が言った、十年かかるやり方で」
――七日で答えを出せないなら、答えを出すための時間を、作ればいい。
そう思った。
ヴァルドは、ゆっくりと、手を伸ばした。
枯れ枝みたいに細い指が、葉に触れた。
持ち上げた。
窓からの光に、透かした。
鼻先に近づけて、匂いを嗅いだ。
「……温かいな」
ぽつりと、言った。
「まるで、生きているようだ」
それから、長いこと、葉を見つめていた。
部屋の中の誰も、口を開かなかった。
やがて、ヴァルドは、葉を、机の上に戻した。
そして、指先で、そっと、俺の方へ押し戻した。
「受け取れぬ」
*
「……どうして」
声が、掠れた。
ヴァルドは、椅子の背にもたれた。
「その葉一枚で、金貨三百枚の値がつくと、鑑定院は言った」
「……はい」
「金貨三百枚あれば、揚水機が何基買えると思う。――六十基だ。南の村、六十ヶ所に、水が行き渡る」
ヴァルドは、淡々と言った。
「私ひとりの肺と、南の六十の村。私は、学者だ。損得の計算くらいはできる」
「葉っぱは、九枚あります」
「ならば、九枚とも、南のために売りなさい」
即答だった。
「……計算が、合いません」
言葉が、勝手に出た。
「閣下が治ったら、十年かかるやり方が、できるんでしょう。それは、六十の村より、ずっとたくさんの村を救うんじゃないですか」
ヴァルドは、それには答えなかった。
代わりに、声が、少しだけ、低くなった。
「それに。病が治ったところで、私は五十八だ。老いは、葉では止まらぬ。十年か、十五年か。その先で、私は、また同じ場所に立つだけだ。……人は、皆、いずれ死ぬ」
灰色の目が、俺を見た。
「あなた以外は、皆、そうなのだよ。ハイエルフ殿」
トマ、すぐおおきくなった。すぐ、おじいちゃんになった。それで、いなくなった。
じゃあ、あたしもトビも、あんたにとっちゃ、瞬きみたいなもんか。
見送るばかりの生は、さぞ、寂しかろうな。
「……あなたは、これから先」
ヴァルドは、窓の外を見ながら、静かに言った。
「何度も、こうして、葉を差し出すのだろうな。死にゆく者に。好きになった者に」
「……」
「救える者は、救うがいい」
思いがけない言葉だった。
「だが、いつか、葉の効かぬ者の前に立つ。何度も、立つ。……その時に差し出せるものを、今のうちから、探しておくことだ」
ヴァルドは、それきり、何も言わなかった。計算の答えは、最後まで、返ってこなかった。
机の上の葉を見ないようにして、またペンを取り上げた。
「下がりたまえ。……七日後、御前会議で会おう」
*
塔の螺旋階段を、ゆっくりと降りた。
葉は、袖の中に戻した。九枚のまま。
「リア様!」
後ろから、足音が追いかけてきた。
ニナさんだった。三つ編みを揺らして、息を切らしていた。
「……すみません。閣下が、あんな」
「いえ」
「閣下は、本当は」
ニナさんは、階段の手すりを握りしめて、言葉を探していた。
「本当は、怖いんだと思います」
「怖い?」
「治って、時間ができて。それでも、何も成し遂げられなかったら、って。……閣下は、ずっと、時間がないことを理由に、走ってきた人だから。時間ができたら、どうしていいか、分からないんじゃないかって」
ニナさんの目が、潤んでいた。
「私の、勝手な想像ですけど」
俺は、何も言えなかった。
ニナさんは、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「七日後、私、どうしたらいいのか……」
炉のそばで、三年間働いてきた人。何も聞こえなかったと言った人。お母さん、という言葉に、顔を真っ青にした人。
「……一緒に、止めましょう」
俺は、言った。
ニナさんは、目を見開いた。
答えは、なかった。
でも、手すりを握る手が、少しだけ、強くなった気がした。
*
白百合館に戻ると、マルタさんが、玄関の脇の壁にもたれていた。
俺の顔を見て、だいたい察したらしい。
「……断られたか」
「はい」
「頑固なじじいだな」
「……計算が、合わないんです」
俺は、袖の中の葉に、そっと触れた。
「あの人なら、絶対に分かってるはずなのに」
「分かってて、断ったんだろ」
マルタさんは、つまらなそうに言った。
「じじいってのは、そういうもんだ」
玄関の扉の向こうから、トビの声が聞こえた。セレスさんに、剣の柄の組紐の結び方を教わっているらしい。下手くそ、とか、もう一回、とか、楽しそうな声だった。
俺は、マルタさんを見た。
日焼けした頬。左の頬の、古い傷。短く刈った赤毛。
二十八歳。
トビは、十二歳。
――いつか。
マルタさんが年を取って、白髪になって、ベッドから起き上がれなくなった時。トビが、おじいちゃんになった時。
この葉は、何もできない。
老いには、効かないから。
「……おい」
マルタさんが、俺の顔を覗き込んでいた。
「あんた、今、変なこと考えてただろ」
「……え」
「顔に書いてある」
マルタさんは、俺の額を、指でぴんと弾いた。
痛い。
「言っとくけどな。あたしが斬られたら、遠慮なくその葉っぱ使えよ」
「……え」
「治るもんは、治す。当たり前だろ。……でも、年取るのは、傷じゃねえ。あたしは、あたしの分だけ生きる。それで十分だ」
マルタさんは、ぶっきらぼうに言って、玄関の扉を開けた。
「ほら、入るぞ。ハンナさんに、痩せっぽちで帰ってくるなって言われてんだろ。晩飯、食え」
扉の向こうから、温かい灯りと、トビの笑い声が漏れてきた。
俺は、その背中を見ていた。
何も、答えられなかった。
袖の中の九枚の葉が、ずっと、ほんのりと温かかった。