世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
出ていくと決めた。
決めたはいいが、問題は山積みだった。
前世の癖で、頭の中に箇条書きを作る。
一、体力がない。神殿の庭を一周しただけで息が切れる体で、何日もかかる森を抜けられるとは思えない。 二、道が分からない。精霊に聞けば方角は分かるが、精霊の「とおくない」は信用ならない。 三、金がない。そもそも、この世界の通貨を知らない。 四、目立つ。銀髪に長い耳。人間の町に行ったら、絶対に浮く。
障害対応と同じだ。まずは現状把握。ログを集めないと、原因も対策も分からない。
「セレスさん。この里に、書庫ってありますか」
朝の御食事(木苺山盛り)の後にそう聞くと、セレスさんの目がきらきらと輝いた。
「リア様が、学びを……!」
後ろで書記係の羽根ペンが走る。『リア様、知を求められる』。もう慣れた。
*
書庫は、大樹の根の中にあった。
太い根の一本をくり抜いて作られた円形の部屋で、壁一面に巻物と革綴じの本が並んでいる。天井の隙間から光が細く差し込み、空気はひんやりと乾いていた。
手近な一冊を開いてみる。
見たことのない文字だ。曲線が多くて、蔦が絡まったような形をしている。
なのに、読める。
不思議な感覚だった。文字を目で追うと、意味が頭の中にすっと浮かんでくる。そういえば、言葉も最初から普通に通じていた。たぶん大樹が、初期設定でその辺をインストールしておいてくれたんだろう。親切設計だ。
「地図って、ありますか」
「はい、こちらに」
セレスさんが広げてくれたのは、古い羊皮紙の地図だった。
真ん中に、ばかでかい森が描かれている。アルヴの森。その中心に大樹アルヴ・オルドがあり、エルフの里がある。
森の南の端の、さらに外。そこに、人間の国があった。
「レーヴェン王国、と申します。人間の国でございます」
「交流ってあるんですか」
「ほとんどございません。年に数度、森の南端で、薬草と塩を交換する程度でございます」
地図の上で、森に一番近い場所に、小さな点が打ってあった。
ハルトン、と書いてある。
『そこ!』
肩の上の精霊が、ぴかっと光った。
『そこ、にくのけむり!』
声が大きいって。セレスさんには聞こえないからいいけど。
俺は何食わぬ顔で地図を眺めるふりをしながら、ハルトンの位置と、そこまでの道筋を頭に叩き込んだ。森の中心から、まっすぐ南。川を一本越える。距離は……縮尺がよく分からないが、精霊の「あるいて、みっか」と矛盾はしない。
よし。道はなんとかなりそうだ。
ついでに、もうひとつ気になっていたことを調べることにした。
「先代のハイエルフについての記録って、ありますか」
セレスさんの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……ございます。こちらの年代記に」
差し出された分厚い本を、ぱらぱらとめくる。
先代の名前は、ユーディアというらしい。
二千百年を生き、八百年前に大樹へ還った。精霊の声を聞き、森を育て、エルフに知恵を授けた――と、ここまでは、俺が初日に聞いた話とほとんど同じだ。
面白いのは、その先だった。
若い頃のユーディアは、しょっちゅう森を出ていたらしい。
『ユーディア様、人の世をこよなく愛され、たびたび南の地へ赴かれる』 『ユーディア様、人の子らと交わり、歌を教え、また教わる』
人間が好きだったのか、このハイエルフ。
ところが、ページをめくっていくと、その記述がだんだん減っていく。
そして、最後の三百年分は、ほとんど白紙だった。
たった一行だけ。
『ユーディア様、御座所に籠もられ、誰ともお会いにならず』
「……先代の部屋って、まだ残ってます?」
*
先代の部屋は、神殿の最上階にあった。
「八百年、どなたもお入りになっておりません」
扉の前で、セレスさんが緊張した声で言う。
「わたくしどもには、ここを開ける資格がございませんので」
「俺……私が開けるのは、いいんですか」
「リア様は、ハイエルフであらせられますゆえ」
そういうものらしい。
扉を押すと、思ったよりあっさり開いた。
小さな部屋だった。
寝台がひとつ。机がひとつ。椅子がひとつ。俺の部屋みたいな玉座も、花の香も、何もない。南向きの窓がひとつあって、そこから午後の光が差し込んでいる。
八百年誰も入っていないはずなのに、埃ひとつ落ちていなかった。
『きれいでしょ』
精霊たちが、得意げに部屋の中を飛び回る。
『ずっと、そうじしてた』『まえのこのへや』『かえってくるかもって』
八百年。
八百年、この小さな光の粒たちが、帰ってこない主の部屋を掃除し続けていた。
何と言えばいいのか分からなくて、俺は黙って机の前に立った。
机の上には、ひとつだけ物が置いてあった。
木彫りの鳥だ。
手のひらに乗るくらいの大きさで、はっきり言って下手くそだった。翼の左右の大きさが違うし、くちばしが妙に太い。どう見ても素人の、それも子どもの作ったものだ。
手に取って、ひっくり返してみる。
台座の裏に、文字が彫ってあった。エルフの文字じゃない。もっと角張った、拙い字だ。
それでも、なぜか読めた。
『ユーディアへ トマより』
「……人間の子どもの字か、これ」
『トマ!』
精霊たちが、ぱっと集まってきた。
『トマ、しってる』『にんげんのこ』『まえのこの、ともだち』
「友達」
『まえのこ、にんげんのともだち、いっぱいいた』『トマもそう』『トマ、まえのこに、とりつくってくれた』
精霊たちは楽しそうに話していた。昔話をする子どもみたいに。
『トマ、すぐおおきくなった』 『すぐ、おじいちゃんになった』 『それで、いなくなった』
光が、少しだけ弱くなった気がした。
『みんな、そう』『みんな、いなくなった』 『そしたら、まえのこ、ここからでなくなった』
俺は、手の中の木彫りの鳥を見下ろした。
そりゃ、そうだ。
二千年生きるなら、人間の友達はみんな先に死ぬ。七十年かそこらで。一人残らず。何十人も、何百人も。
人間が好きだったハイエルフは、好きだった人間を全員見送って、最後の三百年、この部屋から出なくなった。
胸の奥が、ほんの少しだけ冷えた。
……いや。
俺には関係ない話だ。俺は唐揚げが食いたいだけで、友達を作りに行くわけじゃない。
たぶん。
「リア様」
扉の外から、セレスさんが控えめに声をかけてきた。部屋の中には入ってこない。資格がない、と本気で思っているらしい。
「先代様は、大樹へお還りになる前に、お言葉をひとつだけ遺されたと伝わっております」
「なんて?」
「『次の子を、頼む』と」
セレスさんの声は、静かで、誇らしげだった。
「ですから、わたくしどもエルフは八百年、この神殿をお守りし、次の御方をお迎えする準備を整えてまいりました。リア様が何不自由なくお過ごしになれるように。永遠に、お健やかであられるように」
その時だった。
『ちがうよ』
耳元で、精霊がぽつりと言った。
『そういういみじゃないよ』
俺は、セレスさんに聞こえないように、小さな声で聞き返した。
「……じゃあ、どういう意味なんだ」
精霊たちは、しばらく黙っていた。
ちかちかと明滅して、顔を見合わせるみたいに寄り集まって。
それから。
『……わすれた』
『むかしすぎる』
『はっぴゃくねんまえだもん』
肩の力が、がっくりと抜けた。
そこは覚えとけよ。部屋の掃除は八百年続けてたくせに。
「リア様?」
「……なんでもないです」
俺は、木彫りの鳥を元の場所にそっと戻した。
窓の外を見る。南の方角。森がどこまでも続いていて、人間の町なんて影も形も見えない。
この部屋で、二千年。
誰とも会わずに、最後の三百年。
俺は、それは嫌だなと思った。
理由は、まだうまく言えなかったけど。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
下手くそな木彫りの鳥は、八百年経った今も、南の窓の方を向いていた。