【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
王城の奥の、小さな部屋だった。
暖炉と、本棚と、古い木の机。謁見の日に、陛下が冠を外して話してくれた部屋だ。
陛下は、寝間着の上にガウンを羽織っていた。夜更けに起こされたはずなのに、驚いた顔はしていなかった。
暖炉の前に、もうひとり、座っていた。
ヴァルドだった。
「会議の後、ずっと話し込んでいたのだ」
陛下が、言った。
「三十年来の、友とな。明日を前にして、ふたりとも眠れなかった。……ちょうどいい。ここで聞こう」
ヴァルドの灰色の目が、ニナさんを見た。
ニナさんの肩が、びくりと震えた。それでも、ニナさんは、図面を机の上に広げた。
*
ニナさんの説明は、短かった。
会議の時のヴァルドみたいに、数字と図で隙間なく組み上げられてはいなかった。何度も言葉に詰まって、何度も図面を指でなぞり直した。
それでも、最後まで言い切った。
「――予熱の段階でも、その条件に近づいていきます。夜明けまでに、届くかもしれません」
部屋の中が、しんとなった。
「確率は」
陛下が、ヴァルドに尋ねた。
「千に一つも、ございません」
ヴァルドは、即座に答えた。
「ニナの計算は、最悪の仮定を三つ重ねたものです。現実に、三つが同時に揃うことは、まず――」
「千に一つでも」
俺は、言った。
ヴァルドが、こっちを見た。
「止まらなくなるなら。……閣下は、私が止めろと言ったら止めるって、約束してくれました。でも、止まらない炉だったら、その約束は守れません。閣下に、守る気があっても」
灰色の目が、細くなった。
何かを言い返そうとして、口を開いて。
それから、咳き込んだ。
陛下は、その背中を、黙って見ていた。
咳が収まるのを待って、静かに言った。
「試運転は、延期する。検証が済むまで」
「陛下――」
「予熱も、止めよ。今すぐだ」
ヴァルドは、すぐには答えなかった。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
「……陛下。予熱を断てば、核が冷えます。冷えた核を温め直すには、ひと月かかる。ひと月あれば、南に夏が来ます」
かすれた声だった。
「せめて、夜明けまで。夜明けまでなら、計算の上では――」
「ヴァルド」
陛下の声は、大きくなかった。
それでも、ヴァルドの言葉は、そこで止まった。
長い沈黙があった。
ヴァルドは、目を閉じた。
「……御意」
*
炉舎へは、ヴァルド自身が向かうことになった。予熱の止め方には手順があって、夜番の魔術師たちだけには任せられないらしい。
王城の馬車が、夜の大通りを、南へ走った。
ヴァルドと、ニナさん。俺と、セレスさん。御者台の隣に、マルタさんとトビ。
揺れた。いつもなら、とっくに酔っている揺れだった。今夜は、酔う暇もなかった。
向かいの席で、ヴァルドが、懐から、折りたたんだ紙を取り出した。
「会議の後、あなたの風車の案を、計算してみた」
意外な言葉だった。
「風の精霊が本当に回し続けるなら、という仮定の上での話だが。……開放型結晶と組み合わせ、水の精霊の帰還が仮説通りに進むなら」
ヴァルドは、紙を、俺の手に押しつけた。
「悪くない」
「……」
「十年あれば、な」
灰色の目が、ほんの一瞬だけ、柔らかくなった気がした。
それから、窓の外の暗い街並みに、目を移した。
「陛下を起こしに行こうと言ったのは、あなたか」
「……はい」
「そうか」
それきり、ヴァルドは、何も言わなかった。
手の中の紙を、見下ろした。細かい数字と式が、びっしりと書き込まれていた。
一番下に、小さな字で、何かが書き足してあった。
『風車の羽根の角度、十五度を推奨。精霊が回しやすいかどうかは、要確認』
……要確認、って。
こんな時なのに、少しだけ、笑ってしまった。
*
大炉は、王都の南区の、川沿いの広い空き地の地下にあった。
その上に、真新しい円形の石造りの建物が建っている。南区炉舎、と呼ばれていた。白い石の壁に、魔術院の六芒星と目の紋章が、大きく刻まれていた。
馬車を降りた瞬間、肩の上の精霊たちが、震え始めた。
『……ひっぱる』
『ちょっとずつ、ひっぱる』
炉舎の中は、巨大な円形の吹き抜けになっていた。壁に沿って、ぐるりと回廊が巡っている。手すりから見下ろすと、ずっと下に、深い縦穴が口を開けていた。
縦穴の底に、結晶があった。
塔の地下の炉の、倍くらいの大きさ。水みたいに透き通った、まだ空っぽの結晶だった。その周りを、鉄の柱と梁が蜘蛛の巣みたいに取り囲んで、刻まれた文字が、ぼんやりと緑色に灯っていた。
予熱、というのは、これのことらしい。
回廊の向かい側の、張り出した小部屋から、灰色の長衣の男が飛び出してきた。
クラウスだった。今夜の夜番だったらしい。眼鏡が、ずり落ちていた。
「閣下! ちょうど、お呼びしようと――予熱の出力が、勝手に上がっています。誰も、何も触っていないのに」
ニナさんの顔から、血の気が引いた。
ヴァルドは、何も言わずに、制御室へ向かった。足取りが、速かった。ニナさんとクラウスが、その後を追った。
俺は、回廊の手すりにつかまって、縦穴の底を見下ろしていた。マルタさんとセレスさんとトビが、すぐ後ろにいた。
透き通った結晶の、奥の方に。
ぽつり、と。
小さな、緑色の光がともった。
そして。
聞こえた。
『――いや』
小さな声だった。
『いや、いや』『ひっぱられる』『たすけて』
炉舎の外から。南区の家々のかまどから。川の水面から。庭の花壇から。路地の石畳の隙間から。
眠っていた王都中の精霊たちが、引きずられ始めていた。
『りあ』
『りあ、たすけて』
声が、増えていく。十、百、千。
「――止めてください!」
叫んでいた。
制御室の硝子の向こうで、ヴァルドが、こっちを見た。
今度は、迷わなかった。
ヴァルドは、壁の横の大きな取っ手を、力いっぱい引き下ろした。
停止の取っ手だった。
がこん、と重い音がした。
――何も、変わらなかった。
*
縦穴の底の結晶は、光り続けていた。
いや、光が、強くなっていた。
緑色の光が、ぐんぐんと濃くなっていく。結晶の中で、何かが渦を巻き始めていた。鉄の柱と梁の文字が、緑色を通り越して、白く輝き始めていた。
制御室の中で、ヴァルドが、もう一度取っ手を引いた。
もう一度。
もう一度。
何も、変わらなかった。
ニナさんが、計器の前で何かを叫んでいた。クラウスが、歯車の一つに手を伸ばして、何かを必死に操作していた。
地面が、揺れ始めた。
「――共鳴だ」
誰かの声がした。
制御室の扉が開いて、クラウスが飛び出してきた。眼鏡が、ずり落ちていた。
「塔の地下の炉と、共鳴しています! 二つの炉が、互いに引き寄せる力を強め合って……停止の命令が、届かない!」
ニナさんが言っていた、計算の合わない場所。
際限なく、精霊を引き寄せ続ける。
*
炉舎の窓の外が、緑色に光った。
回廊の窓から外を見て、息を呑んだ。
北の方角。王城の東。星見の塔のてっぺんから、緑色の光の柱が、空に向かって立ちのぼっていた。
そして、この炉舎からも。
二本の光の柱が、王都の空の上で、弧を描いて繋がっていた。
巨大な、緑色の橋みたいに。
街の通りに並んでいた結晶灯が、一斉に、目も眩むような緑色に光った。
それから、ぱりん、ぱりん、と、次々に割れていった。
割れた結晶から溢れ出した光が、自由になれずに、そのまま地面に吸い込まれていく。地脈を通って、炉へ。
『いたい』
『たすけて』
『おかあさん』
――それだけじゃなかった。
炉舎の中に置かれていた鉢植えの花が、みるみるうちに萎れていった。
窓の外の、川沿いの並木の葉が、色を失って、はらはらと落ち始めた。
炉舎の門の番兵が、膝をついた。
ひとり、またひとり。膝をついて、顔を真っ青にして、苦しそうに胸を押さえている。
俺には、分かった。
精霊は、そこらじゅうにいる。かまどにも、井戸にも、花にも、木にも。それから、たぶん、人の中にも。目に見えないくらい小さく、生きているもの全部に、ほんの少しずつ。
炉は、精霊を引き寄せている。
際限なく。
生きているもの全部から、少しずつ。
*
「――閣下!」
ニナさんの悲鳴が聞こえた。
制御室の中で、ヴァルドが、床に崩れ落ちていた。
激しく咳き込んでいた。体を折り曲げて、止まらない咳。口元を押さえた手の指の間から、赤いものが溢れていた。
肺が、結晶になっていく病。
炉の力が、ヴァルドの体の中の結晶にまで、響いているんだ。
俺は、回廊を走った。
走れた。精霊たちが、必死に足を押し上げてくれていた。それでも、息が切れた。制御室にたどり着いた時には、膝ががくがく震えていた。
「どうすれば、止まるんですか」
クラウスの腕をつかんで、聞いた。
クラウスは、計器の目盛りを睨みながら、早口で答えた。
「共鳴を断つには、二つの炉の、どちらかの核を、直接止めるしかありません。この大炉の核は、まだ空っぽに近い。共鳴の起点は、精霊を何十万と溜め込んだ、塔の地下の、旧炉です」
「旧炉の核に、触れれば」
「理論上は。……ですが、今の旧炉に近づけば、人間は――」
「行きます」
クラウスが、俺を見た。
「リア殿」
「私は、人間じゃないので」
言いながら、少しだけ、自分で笑ってしまった。
「あたしも行く」
後ろから、マルタさんの声がした。
振り返ると、マルタさんが大剣を背負い直していた。その隣で、トビが、短剣の柄を握りしめていた。セレスさんが、杖を握っていた。
「トビは、残って――」
「やだ」
「トビ」
「やだって言ってんだろ!」
トビの目が、まっすぐに俺を見ていた。
「姉ちゃん、倒れたら、誰が支えんだよ!」
東門の夜と、同じ目だった。
マルタさんが、短く舌打ちをした。「……あたしの後ろから、半歩も出るな」
「私も、行きます」
ニナさんが、震える声で言った。
「塔の地下の炉の制御なら、私が一番分かってる。核に触れるまでの道を、開けられるかもしれない」
「私も」
クラウスが、眼鏡を押し上げた。
「――私も、行く」
かすれた声がした。
床の上から、だった。
ヴァルドが、制御盤の縁に手をかけて、ゆっくりと体を起こしていた。口元が、赤く染まっていた。顔は、紙みたいに白かった。
それでも、灰色の目だけは、まだ刃物みたいだった。
「閣下、無理です! お体が――」
「ニナ」
ヴァルドは、ニナさんの手を借りて、立ち上がった。
よろめいた。それでも、立った。
「これは、私が作ったものだ」
炉舎の窓の外で、緑色の光の橋が、空を覆っていた。
ヴァルドは、それを、まっすぐに見上げていた。
「私が、止める」