【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
炉舎の外は、ひどい有様だった。
家々から這い出してきた人たちが、通りのあちこちで倒れていた。石畳に膝をついて、苦しそうに胸を押さえている人。壁にもたれて、ぐったりと目を閉じている人。泣いている子ども。その子どもを抱きしめたまま、動けなくなっている母親。
川沿いの並木が、葉を全部落として、冬みたいに裸になっていた。
そして、地面を、光が流れていた。
小さな、緑色の光の粒が、何千、何万と。石畳の上を、路地の隙間を、水が低い方へ流れるみたいに、北へ、北へと流れていく。
星見の塔の方へ。
『いや』『いや』『たすけて』
流れていく光たちが、泣いていた。
「セレスさん」
俺は、振り返った。
セレスさんが、杖を握りしめて、真っ青な顔で通りを見ていた。
「お願いがあります」
「何なりと」
「白百合館に戻って、庭に、精霊たちを集めてください。私の近くじゃなくても、セレスさんのそばなら、少しは、引っ張られにくいはずです」
「わたくしに、そのようなことが……」
「できます」
俺は、言った。
「セレスさんは、百四十二年、毎朝、大樹の根元で露を集めてきた人です。精霊たちは、セレスさんのこと、ちゃんと知ってます」
セレスさんの目が、見開かれた。
「それから、倒れてる人たちも。できるだけ」
セレスさんは、しばらく俺の顔を見つめていた。
それから、深く、頭を下げた。
「――かしこまりました」
顔を上げた時、その目には、もう迷いはなかった。
「リア様。必ず、お戻りくださいませ」
「はい」
セレスさんは、杖を握りしめて、北の白百合館の方へ駆けていった。
*
炉舎から塔までは、王都を半分横切る距離だった。
マルタさんが、炉舎の脇に繋がれていた荷馬車の馬を、手綱ごと奪い取った。
「乗れ!」
荷台に、俺と、トビと、クラウスと、ニナさんが転がり込んだ。
ヴァルドは、自分で乗ろうとして、荷台の縁に手をかけたまま、また咳き込んだ。
マルタさんが、無言でヴァルドの体を担ぎ上げて、荷台に放り込んだ。
「なっ――何をする」
「黙ってろ、じじい」
マルタさんは、御者台に飛び乗って、手綱を振るった。
馬が、いなないて走り出した。
*
荷馬車は、倒れた人の間を縫うように、石畳の上を疾走した。
揺れた。ものすごく揺れた。でも、今は、馬車酔いなんかしている場合じゃなかった。
「ねえ、風の子たち」
荷台の縁にしがみつきながら、呼びかけた。
「この馬車、軽くしてくれる? 馬が、速く走れるように」
『……まだ、だいじょうぶ』
風の精霊たちの声が、震えていた。
『りあのそば、ひっぱられない』『だから、てつだえる』
ふわりと、荷馬車が軽くなった。車輪が、石畳から浮く。馬が、驚いたように一声いなないて、さらに速度を上げた。
後ろを振り返った。
通り過ぎた道の上に、小さな光の粒たちが、ふわふわと浮かんでいた。北へ流れていく光の川から、こぼれ落ちるように。
俺の近くを通った光だけが、ほんの少しの間だけ、引っ張られずに、そこに留まっていた。
――全部は、助けられない。
分かっていた。
だから、急がなきゃいけなかった。
*
星見の塔の前に、荷馬車が止まった。
塔のてっぺんから、緑色の光の柱が、空に向かって噴き上がっていた。白い石の壁に、細かい亀裂が走っている。窓という窓から、緑色の光が溢れ出していた。
塔の中は、空っぽだった。魔術師たちは、みんな逃げ出したらしい。廊下に、書物や器具が散らばっていた。
地下への階段の入口の前で、ヴァルドが、マルタさんの肩から降りた。
よろめいた。ニナさんが、慌てて支える。
「……自分で、歩ける」
「歩けてません、閣下」
ニナさんの声は、怒っていた。
「三年間、閣下の言うことを、全部聞いてきました。今日だけは、私の言うことを聞いてください」
ヴァルドが、ニナさんを見た。
何かを言い返そうとして、口を開いて、それから、閉じた。
ニナさんの肩に、腕を回した。
*
螺旋階段を、降りた。
初めて降りた、あの日とは、違っていた。
壁から、結晶が生えていた。
緑色の、尖った結晶が、石の壁を突き破って、階段の上に、天井に、びっしりと伸びていた。降りれば降りるほど、その数が増えていく。結晶の中で、小さな光が、ぐるぐると渦を巻いていた。
『だして』
『だして、だして』
声が、壁の中から聞こえた。
「……リア殿」
クラウスが、壁の結晶を見ながら、かすれた声で言った。
「炉が、精霊を引き寄せすぎて、溢れているんです。核に入りきらない精霊が、地脈の中で結晶になっている」
階段を、半分ほど降りたところだった。
壁の結晶のひとつが、ぴしり、と音を立てた。
――動いた。
結晶の塊が、壁から剥がれ落ちて、階段の上に転がった。それが、ぎしぎしと軋みながら、形を変えていく。
四本の脚。尖った背中。頭のような塊。
獣の形だった。
緑色の、結晶の獣。
体の中で、何百という小さな光が、苦しそうに渦を巻いていた。
『だして』
獣が、吼えた。結晶が擦れ合う、耳障りな音だった。
「下がってろ!」
マルタさんが、大剣を抜いて、前に出た。
獣が、飛びかかってきた。
大剣が、横薙ぎに閃いた。
がしゃん、と、硝子が砕けるような音がした。
獣の体が、真っ二つに割れた。
割れた結晶の中から、小さな光の粒が、ぱっと飛び出した。何百という光が、一瞬、階段の上を舞って――
『でられた』
小さな声がした。
光たちは、ほんの一瞬だけ、俺の周りに集まって、それから、地面に吸い込まれそうになった。
「待って」
俺は、手を伸ばした。
「ここにいて。私のそばにいれば、引っ張られないから」
光たちが、ふわりと、俺の髪の中に、肩の上に、外套の襟元に潜り込んできた。
『あったかい』
『ここ、ひっぱられない』
マルタさんが、大剣を構えたまま、こっちを振り返った。
「……壊していいのか、あれ」
「壊したら、中の子たちが出られます」
マルタさんの口元が、にやりと上がった。
「じゃあ、遠慮なくいく」
*
それから、何体もの結晶の獣が、階段に現れた。
マルタさんが、先頭で、片っ端から叩き割っていった。割れるたびに、光が溢れ出して、俺のところへ飛んでくる。俺の周りが、どんどん明るくなっていく。
「後ろ!」
トビの声がした。
振り返ると、天井から剥がれ落ちた結晶の獣が、クラウスの背中に飛びかかろうとしていた。
クラウスは、気づいていなかった。
トビが、走った。
短剣を抜いて、肘を体につけて、まっすぐに突き出した。
セレスさんの組紐が、柄の上で揺れた。
かしゃん、と軽い音がした。
獣の、頭のような塊に、ひびが入った。ひびが、全身に広がって――ぱりん、と砕けた。
光が、溢れ出した。
クラウスが、振り返って、目を丸くしていた。
トビは、短剣を握ったまま、肩で息をしていた。手が、がたがた震えていた。
「……やった」
「肘、締まってたぞ」
前の方から、マルタさんの声がした。
振り返りもせずに、次の獣を叩き割りながら。
トビの顔が、くしゃっとなった。
泣きそうな顔だった。でも、泣かなかった。短剣を握り直して、また前を向いた。
*
階段の終わりに、鉄の扉があった。
あの日、ヴァルドが手をかざして開けた扉だ。今は、表面の文字が、全部、白く光っていた。熱を持っているのか、扉の周りの空気が揺らいでいる。
「……封印が、過負荷で暴走しています」
ニナさんが、ヴァルドを壁にもたれさせて、扉の前に立った。
「普通の手順じゃ、開かない」
「開けられるか」
ヴァルドが、壁にもたれたまま、かすれた声で聞いた。
ニナさんは、扉の文字を、ひとつひとつ、指でなぞっていった。白く光る文字に触れるたびに、指先から、じゅっと小さな音がした。
「ニナさん、手が――」
「大丈夫です」
ニナさんは、唇を噛んだまま、指を止めなかった。
「この封印、私が組んだんです。閣下の設計で、私が、ひとつひとつ。……だから、ほどき方も、知ってる」
指が、扉の中央の、一番大きな文字に触れた。
そこで、ニナさんは、一度だけ、深く息を吸った。
「遺跡の時、私は、何もできなかった」
小さな声だった。
「今度は、開けます」
指先に、力を込めた。
白い文字が、ひとつ、ふっと消えた。
それから、連鎖するように、扉の文字が次々と消えていった。白い光が、扉の端から中央へ、波のように引いていく。
ぎい、と、重い音がして。
鉄の扉が、ゆっくりと開いた。
ニナさんの両手の指先が、赤く腫れていた。
それでも、ニナさんは、振り返って、笑った。
「……開きました、閣下」
ヴァルドは、何も言わなかった。
ただ、壁から背を離して、ニナさんの肩に手を置いた。
*
扉の向こうは、別の世界だった。
巨大な空洞が、結晶で埋め尽くされていた。
あの日、空洞の真ん中に斜めに突き出していた、家一軒分の結晶。それが、何倍にも膨れ上がっていた。空洞の半分を占めるくらいに。そこから、何百本という結晶の枝が、四方八方に伸びて、壁を、天井を、床を、びっしりと覆っていた。
結晶は、白に近い緑色に、激しく脈打っていた。
心臓みたいに。
いや、もう、心臓なんてものじゃなかった。暴れ狂う何かが、内側から、壁を叩き続けているみたいだった。
そして、声が。
声が、聞こえた。
今までとは、違った。
『――だして』
何十万という声が、ぴったりと重なって、ひとつになっていた。
『だして。かえして。ここは、くらい。さむい。せまい』
『わたしたちを、かえして』
ひとつの、巨大な声だった。
空洞の壁が、その声に共鳴して、びりびりと震えていた。
「……聞こえる」
かすれた声がした。
振り返ると、ヴァルドが、扉の前で立ち尽くしていた。
ニナさんも。クラウスも。マルタさんも。トビも。
みんな、結晶を見上げて、凍りついていた。
ハルトンの東門で、精霊たちが目に見えたように。
これだけ集まれば。これだけ叫べば。
――人間にも、聞こえるんだ。
『おかあさん』
空洞が、震えた。
『おかあさん。おうちに、かえりたい』
ヴァルドの膝が、崩れた。
ニナさんの手を振りほどいて、結晶の前に、両膝をついた。
灰色の目が、見開かれていた。
刃物みたいだった目が、今は、ただ、揺れていた。
「……聞こえる」
もう一度、ヴァルドは呟いた。
「三十年……私は、これを……」
声が、途切れた。
ヴァルドは、震える手を、自分の顔に当てた。
肩が、震えていた。
――その時、結晶が、うねった。
空洞の天井から、太い結晶の枝が、槍みたいに伸びてきた。まっすぐに、膝をついたヴァルドに向かって。
『かえして』
「閣下!!」
ニナさんの悲鳴。
マルタさんが、大剣を振りかぶって走り出す。
間に合わない。
俺は、前に出ていた。
ヴァルドの前に。
結晶の枝の、尖った先端が、俺の目の前で――
ぴたりと、止まった。
東の森で、森のぬしの蔦が止まったみたいに。
震えていた。迷っているみたいに。
俺は、手を伸ばした。
その、冷たい結晶の枝に、そっと触れた。
「……ごめんね」
言った。
「遅くなって」
それから、枝を伝うように、一歩ずつ、巨大な結晶の方へ歩いていった。
結晶の枝たちが、俺の通る道を、左右に開けていく。
後ろで、誰かが俺の名前を呼んでいた。
振り返らなかった。
空洞の真ん中の、白く脈打つ、巨大な結晶の前に立った。
手のひらを、その表面に、置いた。
冷たかった。
とても、とても、冷たかった。
そして、内側から、何十万という小さな光が、一斉に、俺の手のひらに向かって、押し寄せてきた。