【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
暗かった。
目を開けているのか、閉じているのか、分からなかった。
空洞の中に立っていたはずなのに、足の下に、床の感触がなかった。手のひらに、結晶の冷たさだけが残っていた。
寒かった。
とても、寒かった。
そして、周りに、光があった。
小さな、小さな光の粒が、数えきれないほど。闇の中に、ぎっしりと浮かんでいる。でも、どの光も、ひどく弱かった。身を寄せ合って、縮こまって、震えていた。
――結晶の、中だ。
なぜか、分かった。
俺は今、結晶の中にいる。体ごとじゃなくて、たぶん、心だけ。何十万という精霊たちが閉じ込められている、この暗くて寒い場所に。
『……だれ』
声がした。
ひとつの声じゃなかった。何十万という声が、ぴったりと重なっていた。
「リア」
答えた。
闇の中で、光たちが、ざわりと揺れた。
『りあ』
『たいじゅのこ』『たいじゅのこだ』
『きた』『ほんとうに、きた』
声が、少しずつ、ばらばらになっていく。ひとつの巨大な声が、ほどけて、たくさんの小さな声に戻っていく。
『りあ、まってた』
どこかで、聞いたことのある声がした。
あの日、結晶の壁に張りついていた、かまどの精霊の声だった。
「……うん。遅くなって、ごめん」
『だして』
『だして』『だして』『かえりたい』
「うん。出よう。みんなで、帰ろう」
――でも、光たちは、動かなかった。
『……こわい』
ひとつの、小さな声が言った。
『そと、こわい』
『でても、また、ひっぱられる』『また、ここに、もどされる』
『どこにも、いけない』
光たちが、また、ぎゅっと身を寄せ合った。
『……おうち、わすれた』
別の声が、言った。
消え入りそうな声だった。
『ずっと、ここにいたから』『おうち、どこだったか、わすれちゃった』
『かえりたいのに』
『かえるところ、わからない』
――胸が、潰れそうになった。
三年。この子たちは、三年間、ここにいたんだ。暗くて、寒くて、狭い場所に。帰りたいと泣きながら。そうしているうちに、どこへ帰りたかったのかさえ、分からなくなってしまった。
「……大丈夫」
声が、震えた。
それでも、言った。
「覚えてなくても、帰れるよ」
闇の中で、光たちが、こっちを見た気がした。
「風の子たちが、案内してくれる。水の子は、南の井戸に。かまどの子は、かまどに。花の子は、花に。木の子は、木に」
俺は、肩の上を見た。
いつの間にか、俺の精霊たちが、そこにいた。結晶の中にまで、ついてきてくれていた。
『あんない、する!』
風の精霊が、元気よく明滅した。
『みんなの、おうち、さがす!』『いっしょに、さがす!』
「それから、もう、引っ張らせない」
俺は、闇の向こうを見た。
結晶の外。空洞の中。そこに、みんながいるはずだった。
「外で、今、止めてくれてる人たちがいるから」
*
声が、聞こえた。
結晶の外から。ずっと遠くから、かすかに。
「――第一環、外れました!」
ニナさんの声だった。
「第二環、外れません! 共鳴の負荷が、全部ここに集まってる……!」
「どこだ」
かすれた声。ヴァルドの声だった。
「どこが、外れない」
「核の、真下の……一番大きな、鉄の輪です。閣下が、最初に刻んだ……」
沈黙。
それから、咳き込む音。
「……三十年前だ」
ヴァルドの声が、言った。
「この炉の、最初の輪を、私が刻んだ。魔力のない子どもでも、夜に灯りがともせる国を作る。そう思って、刻んだ」
また、咳。
「赤毛の剣士」
「……なんだ、じじい」
マルタさんの声だった。
「その剣を、ここに振り下ろしてくれ。……私の指す、この場所に」
「あんたの、三十年の輪なんだろ」
「そうだ」
ヴァルドの声は、静かだった。
「だから、私が、指す」
短い沈黙があった。
それから、マルタさんの声が、少しだけ笑った。
「……分かった。じゃあ、手、添えとけ。一緒に振る」
「私には、その剣は持ち上がらんぞ」
「添えとくだけでいい。あんたが壊したことに、しといてやる」
――がぁん、と。
鉄が砕ける音が、結晶の中まで響いてきた。
*
引っ張る力が、消えた。
闇の中で、光たちを縛りつけていた何かが、ふっと、ほどけた。
遠くで、何かが崩れる音がした。空の上で、ずっと張りつめていた何かが、ぷつりと切れる音。たぶん、王都の空にかかっていた、緑色の光の橋だ。
『……ひっぱられない』
光たちが、ざわめいた。
『ひっぱられない』『もう、ひっぱられない!』
「うん」
俺は、頷いた。
「あとは、ここを開けるだけ」
でも。
結晶は、開かなかった。
闇の壁に、手のひらを当てた。冷たくて、硬くて、どこにも継ぎ目がなかった。
『……あかない』
『わたしたちが、かべになってる』
光たちの声が、言った。
『ぎゅうぎゅうに、つめこまれて、かたまって、かべになっちゃった』
『じぶんたちじゃ、あけられない』
――この結晶は、精霊たちそのものなんだ。
閉じ込められて、押し固められて、自分たち自身が、自分たちを閉じ込める壁になってしまった。
外から叩いても、割れない。中から押しても、開かない。
誰かが、扉にならないと。
「……そっか」
俺は、闇の壁に、両方の手のひらを当てた。
分かった気がした。
東の森で、土の精霊たちに頼んで、四十七本の杭を押し出した時。体の奥から、何かがどっと流れ出ていった感覚があった。あの時は、三日、眠った。
今度は、その何倍も、流れ出ていく。
たぶん、もっと長く、眠る。
――トビと、マルタさんには、言わないでください。
セレスさんの、かすれた声を思い出した。
かしこまりました。
「……ちょっとだけ、だから」
誰にともなく、呟いた。
それから、闇の壁に向かって、言った。
「開いて」
*
体の奥から、何かが、溢れた。
温かかった。
アルヴの森の、朝の光みたいだった。大樹の根元の、木漏れ日みたいだった。ツノさんの鼻先の温もりみたいだった。
それが、手のひらから、闇の壁へ、どっと流れ込んでいった。
冷たい壁が、温まっていく。
硬い壁が、やわらかくなっていく。
押し固められていた光たちが、ひとつ、またひとつと、ほどけていく。
髪が、光っているのが分かった。銀色の髪の一本一本が、内側から、淡く輝いていた。
――さわさわ、と。
耳の奥で、葉ずれの音がした。
まだだ。
まだ、だめだ。
歯を食いしばった。
「――開いて!」
*
闇が、割れた。
真っ二つに。
割れ目から、光が溢れた。
緑色じゃなかった。若葉の色。木漏れ日の色。朝露が光を受けた時の色。春の日だまりの色。
何十万という光が、一斉に、割れ目から外へと飛び出していった。
『でられた!』
『でられた、でられた、でられた!』
『おかあさん!』
笑い声だった。
泣き声だった。
両方だった。
*
――目を開けた。
空洞の中に、立っていた。
手のひらの下で、巨大な結晶が、内側から砕けていた。ひびが、蜘蛛の巣みたいに全体に広がって、そこから、光が噴き出していた。
ぱりん、と。
澄んだ音がして。
空洞を半分埋め尽くしていた結晶が、ひとつ残らず、光の粒になって崩れ落ちた。
壁を覆っていた結晶の枝も。天井から垂れ下がっていた結晶も。階段の壁から生えていた結晶も。全部が、同時に、砕けた。
光が、渦を巻いた。
空洞の中で、ぐるぐると。それから、上へ。
螺旋階段を、光の竜巻が駆け上がっていく。
*
後になって、たくさんの人から、その時の話を聞いた。
星見の塔のてっぺんから、光が噴き上がったこと。
緑色じゃなかった。金色がかった、若草色の光だった。王都の空にかかっていた緑色の光の橋が、ぷつりと切れて、消えた。その代わりに、塔のてっぺんから、何十万という光の粒が、花火みたいに、空いっぱいに広がっていった。
それから、光は、雨みたいに、王都中に降り注いだ。
かまどに。井戸に。屋根瓦の隙間に。路地の石畳の割れ目に。庭の花壇に。川の水面に。
光が降りたかまどで、消えかけていた火が、ぽっと温かく燃え上がった。
光が降りた井戸で、濁っていた水が、すうっと澄んでいった。
葉を全部落として裸になっていた川沿いの並木から、ぽつり、ぽつりと芽が出て、あっという間に若葉が広がって、それから、白い花が咲いた。
石畳の隙間から、小さな草が顔を出して、黄色い花をつけた。
通りに倒れていた人たちが、ひとり、またひとりと、目を開けた。真っ青だった顔に、血の色が戻っていった。胸を押さえていた手が、ゆっくりとほどけていった。
泣いていた子どもが、空を見上げて、泣き止んだ。
光の粒が、子どもの鼻先に、ちょんと触れて、飛んでいった。
――白百合館の庭園では、セレスさんが、杖を地面について、空を見上げていたらしい。
セレスさんの周りに集まっていた、何百という王都の精霊たちが、一斉に舞い上がって、降ってくる光の雨の中に、混ざっていったという。
セレスさんは、その場に膝をついて、泣いていたそうだ。
*
そして、もうひとつ。
王都の南の空に、光の川が流れていった。
水の精霊たちだった。
三年間、南の井戸の底から、川の底から、揚水機に吸い上げられて、炉に閉じ込められていた水の精霊たち。
それが、一本の長い光の帯になって、南へ、南へと、空を流れていった。
風の精霊たちが、その先頭を、楽しそうにくるくると回りながら、道案内していた。
光の川が通り過ぎた後の空に、白い雲が、ぽつり、ぽつりと生まれていった。
その雲は、だんだん大きくなって、だんだん厚くなって、南の空を、ゆっくりと覆っていった。
――三日後。
南部の村々に、雨が降った。
三年ぶりの、まとまった雨だったそうだ。
*
空洞の中は、静かになっていた。
結晶は、なくなっていた。空洞の真ん中に、黒く焦げた、大きな窪みが残っているだけだった。鉄の柱と梁は、ところどころ折れて、刻まれた文字は、もう光っていなかった。
壊れた鉄の輪の前で、マルタさんが、大剣を床に突き立てて、肩で息をしていた。
その隣で、ヴァルドが、膝をついていた。大剣の柄に、まだ、片手を添えたまま。
クラウスと、ニナさんが、計器の残骸の前で、呆然と立ち尽くしていた。
トビが、短剣を握ったまま、俺の方を見ていた。
空洞の天井近くに、まだ、光の粒がいくつか、ふわふわと漂っていた。
そのうちのひとつが、すいっと降りてきた。
俺の目の前で、止まった。
かまどの精霊だった。
『りあ』
小さな声だった。
『でられた』
「……うん」
『まってて、よかった』
光が、俺の頬に、そっと触れた。
温かかった。
『ありがとう』
笑おうとした。
うまく、笑えたかどうか、分からなかった。
膝から、力が抜けていった。
――さわさわ、と。
耳の奥で、葉ずれの音が、また聞こえ始めていた。
さっきよりも、ずっと、大きく。