【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです   作:月白イツキ

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第32話 葉ずれの音

倒れる前に、誰かが受け止めてくれた。

 

トビだった。

 

短剣を放り出して、走ってきて、崩れ落ちる俺の体を、両腕で抱きとめた。勢いで、二人して床に座り込んだ。

 

「姉ちゃん!」

 

トビの声が、すぐ近くで聞こえた。

 

「姉ちゃん、しっかりしろよ!」

 

「……うん」

 

声が、うまく出なかった。

 

体が、重かった。いや、重いんじゃない。軽すぎて、どこにも力が入らないんだ。手も、足も、自分のものじゃないみたいに、ふわふわしていた。

 

大剣が床に倒れる音がした。マルタさんが、走ってきた。俺の横に膝をついて、俺の顔を覗き込んだ。

 

「リア」

 

日焼けした顔。左の頬の、古い傷。短く刈った赤毛。

 

眉間に、深いしわが寄っていた。

 

「……あんた、髪が」

 

言われて、自分の髪を見た。

 

床に広がった銀色の髪が、内側から、淡く光っていた。結晶の中で、壁を開けた時と同じように。その光が、ゆっくり、ゆっくりと、明滅していた。

 

寝息みたいに。

 

*

 

空洞の向こうで、誰かが、すすり泣いていた。

 

首だけ動かして、そっちを見た。

 

ヴァルドだった。

 

壊れた鉄の輪の前に、膝をついていた。その目の前に、小さな光の粒が、ひとつだけ、ふわふわと浮かんでいた。

 

解き放たれた精霊たちの、最後のひとつだった。

 

もう、人間に声が聞こえるほど、精霊は集まっていない。ヴァルドには、たぶん、何も聞こえていない。

 

それでも、ヴァルドは、その小さな光を、じっと見上げていた。

 

光が、すいっと降りてきた。

 

ヴァルドの、こけた頬に、そっと触れた。

 

――ヴァルドの肩が、震えた。

 

「……すまなかった」

 

かすれた声だった。

 

「すまなかった。……すまなかった」

 

何度も、何度も、繰り返していた。

 

刃物みたいだった灰色の目から、涙がこぼれ落ちていた。

 

ニナさんが、その背中に、そっと手を置いた。クラウスが、眼鏡を外して、目元を押さえていた。

 

小さな光は、もう一度だけ、ヴァルドの頬に触れた。

 

それから、ふわりと浮かび上がって、天井の、崩れた階段の方へ、ゆっくりと昇っていった。

 

外へ。

 

*

 

――さわさわ。

 

葉ずれの音が、大きくなっていた。

 

空洞の中なのに。木なんて、一本も生えていないのに。どこか遠くで、大きな木の枝が、風に揺れているような音がした。

 

トビの声が、少しだけ、遠くなった。

 

マルタさんの顔が、少しだけ、霞んだ。

 

ああ、と思った。

 

ハルトンの時と、同じだ。

 

でも、あの時よりも、ずっと、深い。

 

「……トビ」

 

「なんだよ」

 

「ちょっと、寝るだけだから」

 

トビの腕に、ぎゅっと力がこもった。

 

「……ハルトンの時みたいに?」

 

「うん」

 

「三日?」

 

――俺は、少しだけ、黙った。

 

精霊たちの声を、思い出していた。

 

ながいときは、じゅうねん。

 

「……たぶん」

 

嘘だった。

 

分からなかった。三日なのか、一年なのか、十年なのか。

 

でも、今、本当のことを言ったら、この子は、きっと泣く。

 

東門の夜、婆ちゃんみたいに起きなくなるのかと思ったって、怒鳴りながら泣いた子だ。

 

「すぐ、起きるよ」

 

トビは、しばらく黙っていた。

 

それから、震える声で言った。

 

「……約束だぞ」

 

「うん」

 

「起きたら、ハルトンに帰るんだからな。ツノさんに、林檎やるんだからな。ハンナさんの煮込み、食うんだからな」

 

「うん」

 

「串焼き屋のおっちゃんに、王都の串焼きの話するんだからな」

 

「……うん」

 

「約束だぞ」

 

「約束」

 

トビの顔が、くしゃくしゃになっていた。泣かないように、必死に唇を噛んでいた。

 

十二歳の顔だった。

 

この前、燕が来た日に、十二歳になったばかりの顔だった。

 

*

 

誰かの手が、俺の手を握った。

 

大きくて、硬くて、剣だこだらけの手だった。

 

マルタさんだった。

 

「勝手に寝てんじゃねえよ」

 

ぶっきらぼうな声だった。

 

でも、握る手の力が、ものすごく強かった。

 

「……すみません」

 

「謝んな」

 

マルタさんは、俺の顔を、じっと見ていた。

 

焚き火の前で見せたのと同じ目だった。俺が何者なのか、測ろうとする目。

 

「……リア」

 

声が、少し低くなった。

 

「あんた、何か、隠してるだろ」

 

――やっぱり、この人には、分かるんだな。

 

俺は、笑った。

 

今度は、ちゃんと、笑えた気がした。

 

「……C級になったら、話します」

 

マルタさんの目が、見開かれた。

 

それから、くしゃっと、顔が歪んだ。

 

笑ったのか、泣きそうになったのか、分からなかった。

 

「……馬鹿野郎」

 

握る手に、また、力がこもった。

 

「待っててやるって、言っただろ」

 

*

 

階段の方から、足音が聞こえた。

 

駆け降りてくる、軽い足音。

 

「――リア様!」

 

セレスさんだった。

 

杖を握りしめて、髪を振り乱して、息を切らして。たぶん、白百合館から、ずっと走ってきたんだ。南大通りで、一か月迷子になった人が。

 

どうやって、ここまで来られたんだろう。

 

――たぶん、精霊たちが、道を教えたんだ。

 

セレスさんは、俺のそばに、崩れるように膝をついた。

 

俺の髪を見た。光っている、銀色の髪。寝息みたいに、ゆっくりと明滅している光。

 

それだけで、全部、分かったみたいだった。

 

セレスさんの翡翠色の目に、涙が、いっぱいに溜まった。

 

でも、こぼれなかった。

 

セレスさんは、唇をきゅっと結んで、俺の髪に、そっと手を伸ばした。

 

櫛は、持っていなかった。

 

指で、髪を、梳いてくれた。

 

神殿で、毎晩、そうしてくれたみたいに。

 

「……セレスさん」

 

「はい」

 

「約束、守ってくれて、ありがとう」

 

トビとマルタさんには、言わないでください。

 

かしこまりました。

 

セレスさんの指が、一瞬だけ、止まった。

 

それから、また、動き出した。

 

「……お待ちしております」

 

小さな、小さな声だった。

 

俺にだけ、聞こえるくらいの。

 

「どれほどでも」

 

*

 

――さわさわ。

 

葉ずれの音が、空洞いっぱいに広がっていた。

 

もう、トビの声も、マルタさんの声も、セレスさんの声も、ほとんど聞こえなかった。

 

代わりに、思い出していた。

 

アルヴの森の、大樹の根元。初めて目を開けた朝。平伏する数百人のエルフ。『おきた』『おきたね』と飛び回る精霊たち。

 

神殿の、朝露と花びら三枚。聖なる木苺。『なんとかなる』の石碑。

 

先代の部屋の、木彫りの鳥。南の窓を向いていた。

 

新月の夜。ツノさんの背中。通った道に咲いていく、白い花、青い花、星みたいな黄色い花。

 

ハルトンの門。葉っぱで入町税を払おうとした俺。兜を飛ばした風。

 

屋台の、角兎の串焼き。熱くて、しょっぱくて、雑で、泣くほどうまかった。

 

跳ね鹿亭の、藁の寝台。ちくちくした。

 

三毛猫のミーシャ。腹を鳴らしたトビ。雨の夜。おやすみ、トビ。

 

東門の夜。森のぬし。四十七本の杭。花の道。

 

王都の屋台街。セレスさんが初めて食べた豚の串。焼き菓子。燕の来た日。レオンさんの短剣。東門の押し花。

 

灰色の梟亭。頭に置かれた、マルタさんの大きな手。

 

全部、瞬きなんかじゃなかった。

 

――明日が、終わったら。

 

ハルトンに帰ろう。

 

ツノさんに、ちゃんと帰ってきたよって言おう。ハンナさんの煮込みを食べよう。串焼き屋の親父さんに、どっちもうまかったって言おう。ペトラさんに、E級になったって言おう。藁の寝台で、ちくちくしながら眠ろう。

 

それから、マルタさんに、借金を返そう。

 

C級になって。

 

*

 

葉ずれの音って、こんなに優しい音だったっけ。

 

ぼんやりと、そう思った。

 

大きな木の根元で、昼寝をしているみたいだった。木漏れ日が温かくて、風が涼しくて、葉っぱが、さわさわと子守唄みたいに揺れている。

 

誰かが、手を握っている。

 

誰かが、髪を梳いている。

 

誰かが、泣くのを我慢している。

 

「……おやすみ、トビ」

 

最後に、そう言った気がする。

 

雨の夜に、屋根裏で、言ったみたいに。

 

ちゃんと、声になっていたかどうかは、分からない。

 

――そして、俺は。

 

長い、長い、昼寝をした。

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