【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
倒れる前に、誰かが受け止めてくれた。
トビだった。
短剣を放り出して、走ってきて、崩れ落ちる俺の体を、両腕で抱きとめた。勢いで、二人して床に座り込んだ。
「姉ちゃん!」
トビの声が、すぐ近くで聞こえた。
「姉ちゃん、しっかりしろよ!」
「……うん」
声が、うまく出なかった。
体が、重かった。いや、重いんじゃない。軽すぎて、どこにも力が入らないんだ。手も、足も、自分のものじゃないみたいに、ふわふわしていた。
大剣が床に倒れる音がした。マルタさんが、走ってきた。俺の横に膝をついて、俺の顔を覗き込んだ。
「リア」
日焼けした顔。左の頬の、古い傷。短く刈った赤毛。
眉間に、深いしわが寄っていた。
「……あんた、髪が」
言われて、自分の髪を見た。
床に広がった銀色の髪が、内側から、淡く光っていた。結晶の中で、壁を開けた時と同じように。その光が、ゆっくり、ゆっくりと、明滅していた。
寝息みたいに。
*
空洞の向こうで、誰かが、すすり泣いていた。
首だけ動かして、そっちを見た。
ヴァルドだった。
壊れた鉄の輪の前に、膝をついていた。その目の前に、小さな光の粒が、ひとつだけ、ふわふわと浮かんでいた。
解き放たれた精霊たちの、最後のひとつだった。
もう、人間に声が聞こえるほど、精霊は集まっていない。ヴァルドには、たぶん、何も聞こえていない。
それでも、ヴァルドは、その小さな光を、じっと見上げていた。
光が、すいっと降りてきた。
ヴァルドの、こけた頬に、そっと触れた。
――ヴァルドの肩が、震えた。
「……すまなかった」
かすれた声だった。
「すまなかった。……すまなかった」
何度も、何度も、繰り返していた。
刃物みたいだった灰色の目から、涙がこぼれ落ちていた。
ニナさんが、その背中に、そっと手を置いた。クラウスが、眼鏡を外して、目元を押さえていた。
小さな光は、もう一度だけ、ヴァルドの頬に触れた。
それから、ふわりと浮かび上がって、天井の、崩れた階段の方へ、ゆっくりと昇っていった。
外へ。
*
――さわさわ。
葉ずれの音が、大きくなっていた。
空洞の中なのに。木なんて、一本も生えていないのに。どこか遠くで、大きな木の枝が、風に揺れているような音がした。
トビの声が、少しだけ、遠くなった。
マルタさんの顔が、少しだけ、霞んだ。
ああ、と思った。
ハルトンの時と、同じだ。
でも、あの時よりも、ずっと、深い。
「……トビ」
「なんだよ」
「ちょっと、寝るだけだから」
トビの腕に、ぎゅっと力がこもった。
「……ハルトンの時みたいに?」
「うん」
「三日?」
――俺は、少しだけ、黙った。
精霊たちの声を、思い出していた。
ながいときは、じゅうねん。
「……たぶん」
嘘だった。
分からなかった。三日なのか、一年なのか、十年なのか。
でも、今、本当のことを言ったら、この子は、きっと泣く。
東門の夜、婆ちゃんみたいに起きなくなるのかと思ったって、怒鳴りながら泣いた子だ。
「すぐ、起きるよ」
トビは、しばらく黙っていた。
それから、震える声で言った。
「……約束だぞ」
「うん」
「起きたら、ハルトンに帰るんだからな。ツノさんに、林檎やるんだからな。ハンナさんの煮込み、食うんだからな」
「うん」
「串焼き屋のおっちゃんに、王都の串焼きの話するんだからな」
「……うん」
「約束だぞ」
「約束」
トビの顔が、くしゃくしゃになっていた。泣かないように、必死に唇を噛んでいた。
十二歳の顔だった。
この前、燕が来た日に、十二歳になったばかりの顔だった。
*
誰かの手が、俺の手を握った。
大きくて、硬くて、剣だこだらけの手だった。
マルタさんだった。
「勝手に寝てんじゃねえよ」
ぶっきらぼうな声だった。
でも、握る手の力が、ものすごく強かった。
「……すみません」
「謝んな」
マルタさんは、俺の顔を、じっと見ていた。
焚き火の前で見せたのと同じ目だった。俺が何者なのか、測ろうとする目。
「……リア」
声が、少し低くなった。
「あんた、何か、隠してるだろ」
――やっぱり、この人には、分かるんだな。
俺は、笑った。
今度は、ちゃんと、笑えた気がした。
「……C級になったら、話します」
マルタさんの目が、見開かれた。
それから、くしゃっと、顔が歪んだ。
笑ったのか、泣きそうになったのか、分からなかった。
「……馬鹿野郎」
握る手に、また、力がこもった。
「待っててやるって、言っただろ」
*
階段の方から、足音が聞こえた。
駆け降りてくる、軽い足音。
「――リア様!」
セレスさんだった。
杖を握りしめて、髪を振り乱して、息を切らして。たぶん、白百合館から、ずっと走ってきたんだ。南大通りで、一か月迷子になった人が。
どうやって、ここまで来られたんだろう。
――たぶん、精霊たちが、道を教えたんだ。
セレスさんは、俺のそばに、崩れるように膝をついた。
俺の髪を見た。光っている、銀色の髪。寝息みたいに、ゆっくりと明滅している光。
それだけで、全部、分かったみたいだった。
セレスさんの翡翠色の目に、涙が、いっぱいに溜まった。
でも、こぼれなかった。
セレスさんは、唇をきゅっと結んで、俺の髪に、そっと手を伸ばした。
櫛は、持っていなかった。
指で、髪を、梳いてくれた。
神殿で、毎晩、そうしてくれたみたいに。
「……セレスさん」
「はい」
「約束、守ってくれて、ありがとう」
トビとマルタさんには、言わないでください。
かしこまりました。
セレスさんの指が、一瞬だけ、止まった。
それから、また、動き出した。
「……お待ちしております」
小さな、小さな声だった。
俺にだけ、聞こえるくらいの。
「どれほどでも」
*
――さわさわ。
葉ずれの音が、空洞いっぱいに広がっていた。
もう、トビの声も、マルタさんの声も、セレスさんの声も、ほとんど聞こえなかった。
代わりに、思い出していた。
アルヴの森の、大樹の根元。初めて目を開けた朝。平伏する数百人のエルフ。『おきた』『おきたね』と飛び回る精霊たち。
神殿の、朝露と花びら三枚。聖なる木苺。『なんとかなる』の石碑。
先代の部屋の、木彫りの鳥。南の窓を向いていた。
新月の夜。ツノさんの背中。通った道に咲いていく、白い花、青い花、星みたいな黄色い花。
ハルトンの門。葉っぱで入町税を払おうとした俺。兜を飛ばした風。
屋台の、角兎の串焼き。熱くて、しょっぱくて、雑で、泣くほどうまかった。
跳ね鹿亭の、藁の寝台。ちくちくした。
三毛猫のミーシャ。腹を鳴らしたトビ。雨の夜。おやすみ、トビ。
東門の夜。森のぬし。四十七本の杭。花の道。
王都の屋台街。セレスさんが初めて食べた豚の串。焼き菓子。燕の来た日。レオンさんの短剣。東門の押し花。
灰色の梟亭。頭に置かれた、マルタさんの大きな手。
全部、瞬きなんかじゃなかった。
――明日が、終わったら。
ハルトンに帰ろう。
ツノさんに、ちゃんと帰ってきたよって言おう。ハンナさんの煮込みを食べよう。串焼き屋の親父さんに、どっちもうまかったって言おう。ペトラさんに、E級になったって言おう。藁の寝台で、ちくちくしながら眠ろう。
それから、マルタさんに、借金を返そう。
C級になって。
*
葉ずれの音って、こんなに優しい音だったっけ。
ぼんやりと、そう思った。
大きな木の根元で、昼寝をしているみたいだった。木漏れ日が温かくて、風が涼しくて、葉っぱが、さわさわと子守唄みたいに揺れている。
誰かが、手を握っている。
誰かが、髪を梳いている。
誰かが、泣くのを我慢している。
「……おやすみ、トビ」
最後に、そう言った気がする。
雨の夜に、屋根裏で、言ったみたいに。
ちゃんと、声になっていたかどうかは、分からない。
――そして、俺は。
長い、長い、昼寝をした。