【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
目を開けると、光があった。
柔らかい、緑がかった光。木漏れ日みたいだった。
頭の上に、硝子の天井があった。細い鉄の枠に、たくさんの硝子板がはめ込まれていて、そこから、午後の陽射しが降り注いでいる。硝子の向こうに、青い空と、白い雲が見えた。
周りは、緑だった。
見たことのない植物が、たくさん茂っていた。大きな葉の木。蔓の絡まった柱。白い花をつけた低木。足元の地面には、苔がびっしりと生えていた。どこかで、水の流れる音がする。小鳥が鳴いている。
俺は、苔の上に敷かれた、柔らかい布の寝台に横たわっていた。
温室、だろうか。
どこだろう、ここ。
『――おきた』
耳元で、声がした。
『おきた』『おきた!』『りあ、おきた!』
光の粒が、ぱっと集まってきた。
ひとつ、ふたつ、十、百。
数えきれなかった。温室の中の、木の葉の陰から、花の中から、蔓の隙間から、水の流れの中から。小さな光たちが、一斉に飛び出してきて、俺の周りをぐるぐると回り始めた。
どの光も、明るかった。元気だった。王都に来たばかりの頃に見た、物陰で震えていた精霊たちとは、全然違った。
『おはよう!』『おはよう、りあ!』
『ながかった!』『すっごく、ながかった!』
「……おはよう」
声が、かすれていた。喉が、乾いていた。
ゆっくりと、体を起こした。
手を見る。白くて、細い手。変わっていない。銀色の髪が、肩からさらりと流れ落ちた。きちんと梳かれていた。毛先まで、一本も絡まっていなかった。
着ている服は、知らない服だった。柔らかい、薄い緑色の、ゆったりとした寝間着。
「……ねえ」
精霊たちに、聞いた。
「俺、どれくらい寝てた?」
ハルトンの時は、三日だった。
今度は、もっと長いかもしれない。ひと月とか。もしかしたら、半年とか。
精霊たちは、楽しそうに、くるくると回った。
『じゅうごねん』
――え。
『じゅうごねん!』『じゅうごかい、ふゆがきた!』
『ながかった!』
頭の中が、真っ白になった。
十五年。
冗談だろう、と思った。精霊たちの数え方は、いつもいい加減だ。『とおくない』が、歩いて十日だったりする。
でも。
周りを見回した。
温室の植物。どれも、大きく育っていた。蔓は、天井の硝子の枠にまで絡みついていた。苔は、ふかふかに厚く積もっていた。何か月とか、一年とかで、こうはならない気がした。
寝台の脇に、小さな木の台が置いてあった。
その上に、硝子の花瓶。白い花が、何本か挿してあった。まだ、瑞々しかった。今朝か、昨日か、誰かが替えたばかりの花だ。
それから、花瓶の隣に。
木彫りの鳥が、ひとつ、置いてあった。
*
手のひらに乗るくらいの大きさだった。
下手くそだった。いや、下手くそってほどじゃない。先代の部屋で見た鳥よりは、ずっと上手だった。翼の左右の大きさも、ちゃんと揃っている。くちばしの形も、それらしい。
でも、やっぱり、素人の作ったものだった。
何度も、何度も、彫り直した跡があった。
手に取った。
指が、震えた。
ひっくり返した。
台座の裏に、文字が彫ってあった。角張った、少しだけ崩れた字だった。
『姉ちゃんへ トビより』
――息が、止まった。
木彫りの鳥。
台座の裏の、名前。
ユーディアへ。トマより。
トマ、すぐおおきくなった。
すぐ、おじいちゃんになった。
それで――
「……っ」
鳥を、胸に押し当てた。
手が、震えて、止まらなかった。
*
温室の入口の方で、扉の開く音がした。
足音が、近づいてくる。重い足音だった。革の長靴が、石畳を踏む音。それから、金属が、かちゃりと擦れる音。
植物の陰から、人が現れた。
背の高い、男の人だった。
二十代の後半くらい。短く刈った茶色い髪。日焼けした顔。顎の下に、細い古傷がひとつ。銀色の鎧の上に、青いマントを羽織っていた。マントの背に、金糸で、獅子の紋章が縫い取られていた。
王国の、騎士だった。
両腕に、籠を抱えていた。中に、摘みたての白い花と、赤い林檎が入っていた。
その人は、寝台の上で体を起こしている俺を見て。
ぴたりと、足を止めた。
籠が、腕から滑り落ちた。
林檎が、ころころと、苔の上を転がっていった。
*
知らない人だった。
知らない顔だった。
肩幅が広くて、背が高くて、腕が太かった。俺が見上げないと、顔が見えなかった。
でも、その人の腰に。
短剣が、差してあった。
使い込まれた、細身の短剣。擦り切れた革の鞘。柄に、組紐が巻いてあった。
銀と、緑と、白の糸。
すっかり色褪せて、ところどころほつれて、それでも、ちゃんと、柄に巻きついていた。
――エルフの里の、旅立ちの組紐でございます。剣の柄に巻いておけば、持ち主が必ず無事に帰ってこられるという、古いまじないです。
顔を、上げた。
その人の目を、見た。
茶色い目だった。
警戒した野良猫みたいな目。跳ね鹿亭の窓の外から、瞬きもせずに煮込みを見ていた目。塀の上から、なんだよ、と俺を睨んだ目。
今は、大きく見開かれて、真っ赤になっていた。
「……姉ちゃん?」
低い声だった。
十二歳の、少し高い声じゃなかった。大人の男の人の、低い声だった。
それでも、分かった。
「……トビ?」
*
トビの顔が、くしゃくしゃになった。
大股で、三歩で、寝台の前まで来た。そして、苔の上に、どさりと膝をついた。銀色の鎧が、がちゃんと鳴った。
大きな手が、俺の手をつかんだ。
硬かった。剣だこだらけだった。
マルタさんの手に、そっくりだった。
「――十五年だぞ」
トビの声が、震えていた。
「十五年だぞ、姉ちゃん……!」
「……うん」
「三日って言ったじゃねえか! すぐ起きるって! 約束だって!」
「……うん」
「約束、破りやがって……!」
トビは、俺の手を握りしめたまま、寝台の縁に額を押しつけた。
大きな肩が、震えていた。
声を殺して、泣いていた。
十二歳の時と、同じ泣き方だった。
雨の夜。三日目の朝。東門の夜。泣くのを我慢して、我慢しきれなくて、唇を噛みながら泣く、あの泣き方だった。
「……ごめん」
俺は、空いている方の手で、トビの頭に触れた。
短く刈った、茶色い髪。
ぼさぼさじゃなかった。
「ごめんな、トビ」
トビは、顔を上げなかった。
しばらく、そのまま、肩を震わせていた。
それから、くぐもった声で言った。
「……起きたから、いい」
*
温室の中に、精霊たちの光が、ふわふわと漂っていた。
転がった林檎のひとつに、小さな光がとまって、ぽわぽわと明滅していた。
トビが、ようやく顔を上げた。
目が、真っ赤だった。鼻も、真っ赤だった。二十七歳の、王国騎士の顔が、ぐしゃぐしゃだった。
俺の手の中の、木彫りの鳥に気づいた。
「……あ」
トビの耳が、赤くなった。
「それ、見たのかよ」
「見た」
「下手くそだろ」
「……上手だよ」
本当だった。
先代の部屋の鳥より、ずっと上手だった。
「十年くらい、かかったけどな。最初のは、鳥に見えなかった。マルタに、芋虫かって言われた」
トビは、照れたように笑った。
笑い方は、十二歳の時と、変わっていなかった。
マルタ、と、トビは言った。
胸の奥が、どきりとした。
聞きたいことが、山ほどあった。
マルタさんは。セレスさんは。ハンナさんは。ツノさんは。ヴァルドは。クラウスは。ニナさんは。南の雨は。風車は。
十五年。
十五年の間に、何が起きたのか。誰が、どうなったのか。
口を開いて、それから、閉じた。
怖かった。
聞くのが、怖かった。
トビは、そんな俺の顔を、じっと見ていた。
それから、少しだけ笑った。
大人の顔で。
「……話すことは、いっぱいある。全部、ちゃんと話す」
トビは、俺の手を、もう一度、ぎゅっと握った。
「でも、その前に」
茶色い目が、まっすぐに俺を見ていた。
「――おかえり、姉ちゃん」
硝子の天井から、午後の光が降り注いでいた。
温室中の精霊たちが、ぽわっと、一斉に明るくなった。
俺は、木彫りの鳥を胸に抱いたまま、トビの大きな手を、握り返した。
「……ただいま」
(第二部 王都編 了)