【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです   作:月白イツキ

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第34話 十五年

トビは、苔の上に転がった林檎を、ひとつずつ拾い集めた。

 

それから、籠の底から革の水筒を取り出して、俺に差し出した。

 

「飲めよ。喉、からからだろ」

 

「……うん」

 

冷たい水が、喉を落ちていった。うまかった。

 

トビは、寝台の脇の苔の上に、どっかりと腰を下ろした。銀色の鎧が、がちゃりと鳴った。

 

大きかった。

 

座っていても、寝台の上の俺と、だいたい同じ高さに顔があった。

 

「ここ、どこ……?」

 

「王宮の、常緑の温室。……姉ちゃんのために、陛下が建てたんだ」

 

「俺のために?」

 

「年が経っても、姉ちゃん、起きなかっただろ。最初は、白百合館の寝室に寝かせてたんだけど」

 

トビは、温室の中を見回した。

 

「姉ちゃんの周りだけ、ずっと、花が咲いてたんだ。冬でも。床の石の隙間から、草が生えてきてさ。精霊も、どんどん集まってきて。……それで、陛下が、だったらいっそ、姉ちゃんが森にいるみたいに眠れる場所を作ろうって」

 

温室の硝子の天井を、見上げた。

 

細い鉄の枠に、蔦が絡みついていた。十四年分の蔦だった。

 

「……そっか」

 

「セレス姉ちゃんは、毎日来てたよ。毎朝、姉ちゃんの髪、梳いてた。十五年、一日も休まずに」

 

自分の髪に、指で触れた。

 

毛先まで、一本も絡まっていなかった。

 

「ひと月前から、ハルトンに行ってる。マルタに用事があるって。……十五年で、初めて王都を離れたんだぜ。で、その帰り道に姉ちゃんが起きるんだから、あの人、すげえ悔しがるぞ」

 

トビは、笑った。

 

「もう、王都の近くまで戻ってきてるはずだ。たぶん、精霊が知らせに行ってる。すぐ来るよ」

 

*

 

「……トビは、何してたの。十五年」

 

やっと、それだけ聞けた。

 

トビは、腰の短剣の柄に、そっと触れた。色褪せた組紐を、指先でなぞった。

 

「姉ちゃんが寝た後、マルタに、剣を教わった。毎日。ばっかじゃねえのかってくらい。……二十で、B級になった」

 

「B級」

 

「マルタより先になった。すげえ悔しがってた」

 

トビは、得意げに鼻を鳴らした。その顔は、十二歳の時、マルタさんの枝がかすったって騒いでいた顔と、同じだった。

 

「二十二で、騎士団に入った。で、この温室の警護を、自分で希望した」

 

「……なんで」

 

トビは、照れたように、目を逸らした。

 

「姉ちゃんが起きた時、最初に会うのは、おれだって決めてたから」

 

「五年、待った。毎日、花と林檎持ってきて。……で、今日だった」

 

トビは、拾い集めた林檎をひとつ、手のひらの上で転がした。

 

「当たりだったな。今日の林檎、うまいやつだぞ」

 

*

 

それから、トビは、十五年のことを、ゆっくりと話してくれた。

 

たぶん、軽い話から、順番に。

 

「クラウスのやつ、今、魔術院の院長だぜ」

 

「……クラウスさんが?」

 

「精霊学っていうの、新しく作ったんだと。精霊には意思があるって、今じゃ王都の子どもでも知ってる。……あと、ニナ姉ちゃんと結婚した」

 

「えっ」

 

「十年前。式で、クラウスのやつ、緊張しすぎて指輪落としたんだ。精霊が拾ってきてくれたけど」

 

想像して、笑ってしまった。

 

「王都の灯りは、今、全部、金色だ。クラウスの穴だらけの結晶。精霊が、好きに出たり入ったりしてる。……昼間より、夜の方が、少し暗くなったけどな」

 

「南は?」

 

声が、少し上ずった。

 

トビは、まっすぐに俺を見た。

 

「雨が、戻った」

 

「……」

 

「あの日の三日後に、三年ぶりの雨が降って。それから、少しずつ、井戸に水が戻ってきた。姉ちゃんの葉っぱの金で建てた風車が、南中に並んでる。風がない日でも、ぐるぐる回ってる。……南の連中は、『リア風車』って呼んでる」

 

「……それは、ちょっと、恥ずかしい」

 

「でさ」

 

トビは、声を落とした。

 

「この十五年、南で、渇きで死んだ子どもは、ひとりもいない」

 

――目の奥が、熱くなった。

 

千二百人。

 

星見の塔の地下で、ヴァルドが口にした数字。

 

それが、ゼロのまま、十五年。

 

*

 

「……ヴァルドさんは?」

 

聞いた瞬間、トビの顔が、強ばった。

 

それだけで、分かった。

 

「……七年前に、死んだ」

 

トビは、静かに言った。

 

「でも、姉ちゃん。あのじいさん、あの日から、八年生きたんだ」

 

「……八年?」

 

もって一年。ニナさんは、そう言っていた。

 

「あの時、最後にじいさんのほっぺに触った精霊、いただろ。……あいつ、外に出ていったんじゃなかったんだと。じいさんの胸の中に、入ってったんだって」

 

「胸の中に」

 

「じいさんの肺、結晶になりかけてただろ。その結晶に、精霊が住み着いたんだって。クラウスの穴だらけの結晶みたいに。……そしたら、病が、それ以上、進まなくなった」

 

精霊が。

 

ヴァルドの胸の中の、結晶に。

 

「じいさん、それから八年、風車と、クラウスの結晶のことばっかやってた。南の村を、自分の足で、ひとつずつ回って。風車の羽根の角度、十五度がいいって、ずっと言ってたらしい」

 

――風車の羽根の角度、十五度を推奨。精霊が回しやすいかどうかは、要確認。

 

わっと、涙がこぼれた。

 

確認したんだ。あの人。八年かけて。

 

「最後は、穏やかだったって。ニナ姉ちゃんが、そう言ってた。……姉ちゃんに、手紙、残してるよ。クラウスが預かってる」

 

「……うん」

 

涙を、手の甲で拭った。

 

それから、一番聞きたくて、一番聞きたくなかったことを、聞いた。

 

「……ハンナさんは」

 

*

 

トビは、しばらく、何も言わなかった。

 

手のひらの上の林檎を、じっと見つめていた。

 

「……五年前に」

 

それだけ、言った。

 

息が、できなくなった。

 

ちゃんと食べるんだよ。痩せっぽちのまんまで帰ってきたら、承知しないからね。

 

ハルトンを出る前の、ハンナさんの声。太い腕を組んで、俺を睨んでいた。見送りには、来なかった。泣くのを見られたくなかったんだと思う。

 

「……煮込み、食べるって、約束したのに」

 

声が、崩れた。

 

「痩せっぽちじゃないって、見せるって、約束したのに……っ」

 

トビの大きな手が、俺の背中に、そっと置かれた。

 

「ハンナさん、最後まで、姉ちゃんのこと気にしてた。足が立たなくなって、寝たきりになってからも、あの痩せっぽちはちゃんと食べてるのかいって。寝てるんだから食べてねえよって言ったら、じゃあ起きたらうんと食わせろって」

 

トビの声も、少し震えていた。

 

「七十六だった。病気じゃねえよ、年だ。最後の冬に、すとんと足が立たなくなって。それから一年、寝床で、口だけはずっと達者だった」

 

葉っぱでも、どうにもならない死に方だった。

 

「マルタが、レシピ、継いでる」

 

「……マルタさんが?」

 

「跳ね鹿亭、今、マルタがやってるんだ。ハンナさんが寝たきりになった時に、冒険者やめて、継いだ」

 

マルタさんが。

 

あの、大剣を背負った人が。宿屋を。

 

「……マルタさんは、元気?」

 

「元気だよ」

 

トビが、笑った。

 

「四十三。赤い髪に、ちょっと白いのが混じってきた。……毎年、春になると王都に来てさ。ここで、姉ちゃんの寝顔、しばらく見てて」

 

トビは、俺の寝台の脇の、苔の上を指さした。そこだけ、苔が少しだけ薄くなっていた。誰かが、何度も、同じ場所に座ったみたいに。

 

「それで、帰る時に、必ず言うんだ」

 

トビは、マルタさんのぶっきらぼうな口調を、下手くそに真似した。

 

「『まだ寝てんのか、馬鹿』って」

 

――もう、だめだった。

 

俺は、木彫りの鳥を抱いたまま、声を上げて泣いた。

 

トビは、何も言わずに、俺の背中を、ずっとさすってくれていた。

 

大きな手だった。

 

*

 

どれくらい、そうしていただろう。

 

涙が、ようやく止まった頃。トビが、咳払いをひとつした。

 

妙に、改まった咳払いだった。

 

「……あと、もうひとつ。報告がある」

 

「……何?」

 

トビの耳が、赤くなっていた。

 

「おれ、結婚した」

 

「……えっ」

 

涙が、引っ込んだ。

 

「結婚? トビが?」

 

「なんだよ、その顔」

 

「だって、この前まで、焼き菓子をポケットに詰めてたのに……」

 

「十五年前の話だろ、それ!」

 

そうだった。

 

俺にとっては、この前だけど。

 

「……誰と?」

 

トビは、もごもごと口ごもった。それから、観念したように言った。

 

「リナ」

 

「リナさん」

 

「……覚えてないか。ハルトンの東門。あの夜、荷車の陰にいた、女の子」

 

――寝間着姿で。片方の靴が脱げていて。声も出せずに震えていた。トビが、覆いかぶさって守った子。

 

「あの子!? 五歳くらいの!?」

 

「今は、二十一だよ!」

 

「…………」

 

「その顔やめろ! 三年前に、ハルトンで偶然会って! 向こうが、あの時のお兄ちゃんだって気づいて! それで、いろいろあって! ちゃんとした話だからな!」

 

トビは、耳まで真っ赤になって、まくし立てていた。

 

俺は、口を開けたまま、その顔を見ていた。

 

それから、吹き出した。

 

泣きすぎて、鼻の奥が痛かったけど、笑いが止まらなかった。

 

「笑うなよ、姉ちゃん!」

 

「ごめん、ごめん……」

 

「……あと、娘がいる」

 

笑いが、止まった。

 

「……娘?」

 

「ミア。一歳」

 

トビが。

 

塩の粒だらけの串焼きを、泣きながら二本平らげたトビが。

 

お父さん。

 

*

 

夕方、温室に、小柄な若い女の人がやってきた。

 

亜麻色の髪を、後ろでひとつに束ねていた。腕に、小さな赤ん坊を抱いていた。

 

「……ハイエルフ様」

 

女の人は、俺を見るなり、その場に膝をつこうとした。

 

「あの夜、ハルトンの東門で。助けていただいて、ありがとうございました。ずっと、お礼を言いたくて……」

 

「……助けたのは、トビだよ」

 

俺は、言った。

 

「あの夜、先に走っていったのは、トビ。私は、見張り台の上で、動けなかった」

 

リナさんは、目を丸くして、それから、隣のトビを見上げた。

 

トビが、また耳まで赤くなっていた。

 

腕の中の赤ん坊が、もぞもぞと動いた。

 

茶色い、柔らかそうな髪。丸い頬。それから、茶色い目。

 

トビと、同じ色の目だった。

 

その目が、俺の銀色の髪を見つけて、きらきらと輝いた。

 

小さな手が、伸びてきた。

 

髪を一房、ぎゅっと、つかんだ。

 

「あっ、ミア、だめよ!」

 

「いいよ」

 

俺は、笑った。

 

精霊たちが、赤ん坊の周りにふわふわと集まってきた。赤ん坊が、きゃっきゃと声を上げて笑った。

 

「……抱いても、いい?」

 

リナさんが、そっと、赤ん坊を俺の腕に渡してくれた。

 

重かった。

 

この体だと、ちょっとだけ重かった。でも、落とさないように、しっかりと抱いた。

 

温かかった。

 

ミアは、俺の髪をつかんだまま、俺の顔をじっと見上げていた。

 

それから、にこーっと笑った。

 

――この子も、すぐに大きくなるんだろうな。

 

*

 

温室の扉が、勢いよく開いた。

 

駆け込んでくる、軽い足音。

 

植物の陰から、蜂蜜色の長い髪が現れた。

 

旅装束だった。外套に、土埃がついていた。髪に、小枝が一本、絡まっていた。

 

たぶん、知らせを聞いた宿場から、ほとんど休まずに走ってきたんだ。

 

十五年経っても、道に迷う人が。

 

「――リア様」

 

セレスさんは、寝台の上の俺を見て、立ち止まった。

 

変わっていなかった。

 

何も。二十代半ばに見える、ひどく綺麗な顔。翡翠色の目。十五年前、露台で俺の髪を梳いてくれた時と、まったく同じだった。

 

セレスさんの手から、旅の荷物が落ちた。

 

その翡翠色の目に、涙が、いっぱいに溜まっていくのが見えた。

 

でも、セレスさんは、泣かなかった。

 

背筋を、すっと伸ばした。

 

それから、何千回と、扉の向こうから俺にかけてきたのと同じ声で、言った。

 

「――お目覚めの刻限にございます、リア様」

 

俺は、笑った。

 

「……ちょっと、寝坊したね」

 

「はい。少々、お寝坊が過ぎました」

 

セレスさんは、懐から木の櫛を取り出した。

 

十五年、毎朝、使い続けた櫛だった。

 

「御髪を」

 

「……お願いします」

 

セレスさんは、寝台の後ろに回って、俺の髪を、ゆっくりと梳き始めた。

 

それから、思い出したように言った。

 

「そういえば、ハルトンで、マルタ殿から、言付けを預かってまいりました」

 

「マルタさんから?」

 

「はい。リア様がお目覚めになったら、一言一句たがわずにお伝えするように、と」

 

櫛が、髪の先まで通った。

 

セレスさんは、咳払いをして、それから、ぶっきらぼうな口調を、ひどく下手くそに真似した。

 

「『起きたら、とっとと帰ってこい。煮込みが冷める』」

 

温室の精霊たちが、ぷっと吹き出すみたいに、一斉に明滅した。

 

トビが、腹を抱えて笑っていた。

 

俺は、赤ん坊を抱いたまま、少しだけ泣いた。

 

――帰ろう。

 

ハルトンに。

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