【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
トビは、苔の上に転がった林檎を、ひとつずつ拾い集めた。
それから、籠の底から革の水筒を取り出して、俺に差し出した。
「飲めよ。喉、からからだろ」
「……うん」
冷たい水が、喉を落ちていった。うまかった。
トビは、寝台の脇の苔の上に、どっかりと腰を下ろした。銀色の鎧が、がちゃりと鳴った。
大きかった。
座っていても、寝台の上の俺と、だいたい同じ高さに顔があった。
「ここ、どこ……?」
「王宮の、常緑の温室。……姉ちゃんのために、陛下が建てたんだ」
「俺のために?」
「年が経っても、姉ちゃん、起きなかっただろ。最初は、白百合館の寝室に寝かせてたんだけど」
トビは、温室の中を見回した。
「姉ちゃんの周りだけ、ずっと、花が咲いてたんだ。冬でも。床の石の隙間から、草が生えてきてさ。精霊も、どんどん集まってきて。……それで、陛下が、だったらいっそ、姉ちゃんが森にいるみたいに眠れる場所を作ろうって」
温室の硝子の天井を、見上げた。
細い鉄の枠に、蔦が絡みついていた。十四年分の蔦だった。
「……そっか」
「セレス姉ちゃんは、毎日来てたよ。毎朝、姉ちゃんの髪、梳いてた。十五年、一日も休まずに」
自分の髪に、指で触れた。
毛先まで、一本も絡まっていなかった。
「ひと月前から、ハルトンに行ってる。マルタに用事があるって。……十五年で、初めて王都を離れたんだぜ。で、その帰り道に姉ちゃんが起きるんだから、あの人、すげえ悔しがるぞ」
トビは、笑った。
「もう、王都の近くまで戻ってきてるはずだ。たぶん、精霊が知らせに行ってる。すぐ来るよ」
*
「……トビは、何してたの。十五年」
やっと、それだけ聞けた。
トビは、腰の短剣の柄に、そっと触れた。色褪せた組紐を、指先でなぞった。
「姉ちゃんが寝た後、マルタに、剣を教わった。毎日。ばっかじゃねえのかってくらい。……二十で、B級になった」
「B級」
「マルタより先になった。すげえ悔しがってた」
トビは、得意げに鼻を鳴らした。その顔は、十二歳の時、マルタさんの枝がかすったって騒いでいた顔と、同じだった。
「二十二で、騎士団に入った。で、この温室の警護を、自分で希望した」
「……なんで」
トビは、照れたように、目を逸らした。
「姉ちゃんが起きた時、最初に会うのは、おれだって決めてたから」
「五年、待った。毎日、花と林檎持ってきて。……で、今日だった」
トビは、拾い集めた林檎をひとつ、手のひらの上で転がした。
「当たりだったな。今日の林檎、うまいやつだぞ」
*
それから、トビは、十五年のことを、ゆっくりと話してくれた。
たぶん、軽い話から、順番に。
「クラウスのやつ、今、魔術院の院長だぜ」
「……クラウスさんが?」
「精霊学っていうの、新しく作ったんだと。精霊には意思があるって、今じゃ王都の子どもでも知ってる。……あと、ニナ姉ちゃんと結婚した」
「えっ」
「十年前。式で、クラウスのやつ、緊張しすぎて指輪落としたんだ。精霊が拾ってきてくれたけど」
想像して、笑ってしまった。
「王都の灯りは、今、全部、金色だ。クラウスの穴だらけの結晶。精霊が、好きに出たり入ったりしてる。……昼間より、夜の方が、少し暗くなったけどな」
「南は?」
声が、少し上ずった。
トビは、まっすぐに俺を見た。
「雨が、戻った」
「……」
「あの日の三日後に、三年ぶりの雨が降って。それから、少しずつ、井戸に水が戻ってきた。姉ちゃんの葉っぱの金で建てた風車が、南中に並んでる。風がない日でも、ぐるぐる回ってる。……南の連中は、『リア風車』って呼んでる」
「……それは、ちょっと、恥ずかしい」
「でさ」
トビは、声を落とした。
「この十五年、南で、渇きで死んだ子どもは、ひとりもいない」
――目の奥が、熱くなった。
千二百人。
星見の塔の地下で、ヴァルドが口にした数字。
それが、ゼロのまま、十五年。
*
「……ヴァルドさんは?」
聞いた瞬間、トビの顔が、強ばった。
それだけで、分かった。
「……七年前に、死んだ」
トビは、静かに言った。
「でも、姉ちゃん。あのじいさん、あの日から、八年生きたんだ」
「……八年?」
もって一年。ニナさんは、そう言っていた。
「あの時、最後にじいさんのほっぺに触った精霊、いただろ。……あいつ、外に出ていったんじゃなかったんだと。じいさんの胸の中に、入ってったんだって」
「胸の中に」
「じいさんの肺、結晶になりかけてただろ。その結晶に、精霊が住み着いたんだって。クラウスの穴だらけの結晶みたいに。……そしたら、病が、それ以上、進まなくなった」
精霊が。
ヴァルドの胸の中の、結晶に。
「じいさん、それから八年、風車と、クラウスの結晶のことばっかやってた。南の村を、自分の足で、ひとつずつ回って。風車の羽根の角度、十五度がいいって、ずっと言ってたらしい」
――風車の羽根の角度、十五度を推奨。精霊が回しやすいかどうかは、要確認。
わっと、涙がこぼれた。
確認したんだ。あの人。八年かけて。
「最後は、穏やかだったって。ニナ姉ちゃんが、そう言ってた。……姉ちゃんに、手紙、残してるよ。クラウスが預かってる」
「……うん」
涙を、手の甲で拭った。
それから、一番聞きたくて、一番聞きたくなかったことを、聞いた。
「……ハンナさんは」
*
トビは、しばらく、何も言わなかった。
手のひらの上の林檎を、じっと見つめていた。
「……五年前に」
それだけ、言った。
息が、できなくなった。
ちゃんと食べるんだよ。痩せっぽちのまんまで帰ってきたら、承知しないからね。
ハルトンを出る前の、ハンナさんの声。太い腕を組んで、俺を睨んでいた。見送りには、来なかった。泣くのを見られたくなかったんだと思う。
「……煮込み、食べるって、約束したのに」
声が、崩れた。
「痩せっぽちじゃないって、見せるって、約束したのに……っ」
トビの大きな手が、俺の背中に、そっと置かれた。
「ハンナさん、最後まで、姉ちゃんのこと気にしてた。足が立たなくなって、寝たきりになってからも、あの痩せっぽちはちゃんと食べてるのかいって。寝てるんだから食べてねえよって言ったら、じゃあ起きたらうんと食わせろって」
トビの声も、少し震えていた。
「七十六だった。病気じゃねえよ、年だ。最後の冬に、すとんと足が立たなくなって。それから一年、寝床で、口だけはずっと達者だった」
葉っぱでも、どうにもならない死に方だった。
「マルタが、レシピ、継いでる」
「……マルタさんが?」
「跳ね鹿亭、今、マルタがやってるんだ。ハンナさんが寝たきりになった時に、冒険者やめて、継いだ」
マルタさんが。
あの、大剣を背負った人が。宿屋を。
「……マルタさんは、元気?」
「元気だよ」
トビが、笑った。
「四十三。赤い髪に、ちょっと白いのが混じってきた。……毎年、春になると王都に来てさ。ここで、姉ちゃんの寝顔、しばらく見てて」
トビは、俺の寝台の脇の、苔の上を指さした。そこだけ、苔が少しだけ薄くなっていた。誰かが、何度も、同じ場所に座ったみたいに。
「それで、帰る時に、必ず言うんだ」
トビは、マルタさんのぶっきらぼうな口調を、下手くそに真似した。
「『まだ寝てんのか、馬鹿』って」
――もう、だめだった。
俺は、木彫りの鳥を抱いたまま、声を上げて泣いた。
トビは、何も言わずに、俺の背中を、ずっとさすってくれていた。
大きな手だった。
*
どれくらい、そうしていただろう。
涙が、ようやく止まった頃。トビが、咳払いをひとつした。
妙に、改まった咳払いだった。
「……あと、もうひとつ。報告がある」
「……何?」
トビの耳が、赤くなっていた。
「おれ、結婚した」
「……えっ」
涙が、引っ込んだ。
「結婚? トビが?」
「なんだよ、その顔」
「だって、この前まで、焼き菓子をポケットに詰めてたのに……」
「十五年前の話だろ、それ!」
そうだった。
俺にとっては、この前だけど。
「……誰と?」
トビは、もごもごと口ごもった。それから、観念したように言った。
「リナ」
「リナさん」
「……覚えてないか。ハルトンの東門。あの夜、荷車の陰にいた、女の子」
――寝間着姿で。片方の靴が脱げていて。声も出せずに震えていた。トビが、覆いかぶさって守った子。
「あの子!? 五歳くらいの!?」
「今は、二十一だよ!」
「…………」
「その顔やめろ! 三年前に、ハルトンで偶然会って! 向こうが、あの時のお兄ちゃんだって気づいて! それで、いろいろあって! ちゃんとした話だからな!」
トビは、耳まで真っ赤になって、まくし立てていた。
俺は、口を開けたまま、その顔を見ていた。
それから、吹き出した。
泣きすぎて、鼻の奥が痛かったけど、笑いが止まらなかった。
「笑うなよ、姉ちゃん!」
「ごめん、ごめん……」
「……あと、娘がいる」
笑いが、止まった。
「……娘?」
「ミア。一歳」
トビが。
塩の粒だらけの串焼きを、泣きながら二本平らげたトビが。
お父さん。
*
夕方、温室に、小柄な若い女の人がやってきた。
亜麻色の髪を、後ろでひとつに束ねていた。腕に、小さな赤ん坊を抱いていた。
「……ハイエルフ様」
女の人は、俺を見るなり、その場に膝をつこうとした。
「あの夜、ハルトンの東門で。助けていただいて、ありがとうございました。ずっと、お礼を言いたくて……」
「……助けたのは、トビだよ」
俺は、言った。
「あの夜、先に走っていったのは、トビ。私は、見張り台の上で、動けなかった」
リナさんは、目を丸くして、それから、隣のトビを見上げた。
トビが、また耳まで赤くなっていた。
腕の中の赤ん坊が、もぞもぞと動いた。
茶色い、柔らかそうな髪。丸い頬。それから、茶色い目。
トビと、同じ色の目だった。
その目が、俺の銀色の髪を見つけて、きらきらと輝いた。
小さな手が、伸びてきた。
髪を一房、ぎゅっと、つかんだ。
「あっ、ミア、だめよ!」
「いいよ」
俺は、笑った。
精霊たちが、赤ん坊の周りにふわふわと集まってきた。赤ん坊が、きゃっきゃと声を上げて笑った。
「……抱いても、いい?」
リナさんが、そっと、赤ん坊を俺の腕に渡してくれた。
重かった。
この体だと、ちょっとだけ重かった。でも、落とさないように、しっかりと抱いた。
温かかった。
ミアは、俺の髪をつかんだまま、俺の顔をじっと見上げていた。
それから、にこーっと笑った。
――この子も、すぐに大きくなるんだろうな。
*
温室の扉が、勢いよく開いた。
駆け込んでくる、軽い足音。
植物の陰から、蜂蜜色の長い髪が現れた。
旅装束だった。外套に、土埃がついていた。髪に、小枝が一本、絡まっていた。
たぶん、知らせを聞いた宿場から、ほとんど休まずに走ってきたんだ。
十五年経っても、道に迷う人が。
「――リア様」
セレスさんは、寝台の上の俺を見て、立ち止まった。
変わっていなかった。
何も。二十代半ばに見える、ひどく綺麗な顔。翡翠色の目。十五年前、露台で俺の髪を梳いてくれた時と、まったく同じだった。
セレスさんの手から、旅の荷物が落ちた。
その翡翠色の目に、涙が、いっぱいに溜まっていくのが見えた。
でも、セレスさんは、泣かなかった。
背筋を、すっと伸ばした。
それから、何千回と、扉の向こうから俺にかけてきたのと同じ声で、言った。
「――お目覚めの刻限にございます、リア様」
俺は、笑った。
「……ちょっと、寝坊したね」
「はい。少々、お寝坊が過ぎました」
セレスさんは、懐から木の櫛を取り出した。
十五年、毎朝、使い続けた櫛だった。
「御髪を」
「……お願いします」
セレスさんは、寝台の後ろに回って、俺の髪を、ゆっくりと梳き始めた。
それから、思い出したように言った。
「そういえば、ハルトンで、マルタ殿から、言付けを預かってまいりました」
「マルタさんから?」
「はい。リア様がお目覚めになったら、一言一句たがわずにお伝えするように、と」
櫛が、髪の先まで通った。
セレスさんは、咳払いをして、それから、ぶっきらぼうな口調を、ひどく下手くそに真似した。
「『起きたら、とっとと帰ってこい。煮込みが冷める』」
温室の精霊たちが、ぷっと吹き出すみたいに、一斉に明滅した。
トビが、腹を抱えて笑っていた。
俺は、赤ん坊を抱いたまま、少しだけ泣いた。
――帰ろう。
ハルトンに。