【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
星見の塔は、金色に光っていた。
白い石の壁は、十五年前と同じだった。でも、窓という窓から漏れる光が、違った。濁った緑色じゃない。春の日だまりみたいな、柔らかい金色の光だった。
その窓から、小さな光の粒が、ふわふわと出たり入ったりしていた。
『りあだ』
『りあ、おきたって、ほんとだ!』
塔の窓から、精霊たちが次々と飛び出してきて、俺の周りをくるくると回った。
「……みんな、元気そうだね」
『げんき!』『ここ、すんでる!』『でたり、はいったり、してる!』
塔の入口で、灰色の長衣の若い魔術師たちが、こっちを見ていた。十五年前に廊下で俺を睨んでいた人たちとは、顔ぶれも、目つきも、違っていた。
「リア様だ……」 「本当に、お目覚めになったんだ」 「精霊学の、始まりの方……」
始まりの方、ってなんだ。
*
院長室は、片付いていた。
十五年前は、床から天井まで紙の束で埋め尽くされていた部屋だ。今は、書物がきちんと棚に並んでいて、窓辺の大きな机の上には、羊皮紙が数枚と、ペンと、小さな穴だらけの結晶がひとつ置いてあるだけだった。結晶の中で、精霊がひとつ、すやすやと眠るように明滅していた。
机の前に、ふたりの人が立っていた。
「――リア殿」
金髪の男の人が、声を詰まらせた。
四十歳くらい。こめかみのあたりに、少しだけ白いものが混じっていた。銀縁の眼鏡は、十五年前とは違う、新しいものになっていた。でも、眼鏡の奥の目は、同じだった。
クラウスさんだった。
隣に、三つ編みじゃなくなった、肩までの茶色い髪の女の人が立っていた。そばかすは、十五年前と同じ場所にあった。両手の指先に、うっすらと、古い火傷の痕が残っていた。
ニナさんだった。
あの日、鉄の扉の封印を、指でほどいてくれた痕だ。
「……お久しぶりです」
俺が言うと、ニナさんが、両手で口元を押さえた。
それから、駆け寄ってきて、俺を抱きしめた。
「リア様……っ、よかった、よかった……!」
ニナさんは、声を上げて泣いていた。
クラウスさんは、眼鏡を外して、目元を押さえていた。
「……十五年、お待ちしておりました」
「院長、なんですね」
「……閣下の、後を継ぎました。分不相応ですが」
「似合ってますよ」
クラウスさんは、困ったように笑った。
屋台街で、豚の串のタレを袖に垂らした時と、同じ笑い方だった。
*
塔の一階の広間に、硝子の箱がひとつ、置かれていた。
中に、見覚えのある器具が収められていた。真鍮の枠。極薄の結晶の板。その上に、白い砂が撒かれたまま固められている。
砂の模様は、ゆるやかな波の形だった。
「あったかい」の、形だ。
箱の前の小さな真鍮の板に、文字が刻まれていた。
『共鳴板 精霊学の始まり クラウス・エーベルト作』
「……展示されてる」
「新しく入ってくる学生たちが、最初にこれを見るのです」
クラウスさんが、隣で言った。
「精霊には、意思がある。それを最初に、目に見える形で示したものだと。……本当は、リア殿と、精霊たちの功績なのですが」
「クラウスさんが、ひと月寝ないで作ったからですよ」
クラウスさんは、何も言わなかった。
ただ、眼鏡の位置を、指で直していた。
*
地下にも、降りた。
螺旋階段は、十五年前と同じだった。でも、壁から結晶は生えていなかった。代わりに、壁の石の隙間から、小さな羊歯や苔が生えていた。
鉄の扉は、外されていた。
その向こうの、巨大な空洞は――
「……わあ」
思わず、声が漏れた。
光っていた。
空洞の天井から、床から、壁から、無数の結晶が生えていた。でも、どれも、穴だらけだった。クラウスさんの、鳥の巣みたいな結晶。それが、空洞いっぱいに、まるで珊瑚の森みたいに広がっていた。
その穴という穴から、精霊たちが出たり入ったりしていた。結晶が、ぽう、ぽう、と、金色に灯ったり消えたりしている。
空洞の真ん中の、黒く焦げていた窪みには、小さな泉が湧いていた。水の精霊たちが、その水面で、楽しそうに跳ねていた。
「精霊の宿、と呼んでいます」
ニナさんが、言った。
「旧炉の跡を、閣下と、クラウスと、私とで、作り変え始めました。閣下が亡くなってからの二年は、クラウスと私で。全部で、十年かかりました。……ここに住んでいる精霊たちが、塔の灯りを、分けてくれているんです」
『りあ!』
結晶の森の中から、精霊たちが、一斉に飛び出してきた。
『りあだ!』『おきた!』『ここ、すんでる!』
『ここ、あったかい!』『もう、くらくない!』
だして、と泣いていた場所だった。
「……すごいね」
「すごいよ、ここ」
*
院長室に戻ると、クラウスさんが、机の引き出しから、一通の封書を取り出した。
灰色の封蝋に、六芒星と目の紋。魔術院の紋章だった。
表に、几帳面な、少し右上がりの字で、こう書かれていた。
『ハイエルフ殿へ』
「閣下が、亡くなる半月前に書かれたものです」
クラウスさんが、封書を両手で、俺に差し出した。
「リア殿が目覚めたら、必ず渡すようにと」
受け取った。
軽かった。
封蝋を、そっと割った。
*
『ハイエルフ殿へ。
あなたがこれを読む時、私はもう、この世にいないだろう。
まず、報告をしておく。学者の習い性だ。
南部の風車は、この八年で、三百十二基が建った。風の精霊たちは、あなたの言った通り、飽きずに回し続けている。羽根の角度は、十五度で正しかった。クラウスの砂が、精霊たちの「まわしやすい」という言葉の形を示した。私の計算は、正しかったわけだ。
開放型結晶は、出力を当初の倍まで高めることに成功した。それでも、閉じた結晶の五分の一だ。だが、足りている。驚くべきことに、足りているのだ。水の精霊が井戸に戻り、雨が戻った南部では、もはや、揚水機そのものが、それほど必要ではなくなった。
あなたの言った「かもしれない」は、すべて、正しかった。
次に、ひとつ、白状しておく。
葉は、断った。だが、精霊からの借りは、断れなかった。
私の胸の中には、小さな同居人がいる。あの日、私の頬に触れた精霊が、どういうわけか、私の肺の中の結晶に住み着いた。クラウスの結晶のように、出入りの自由な、穴だらけの住処として。おかげで、私の病は、それ以上進まなくなった。
借りを作った相手とは、対等に議論ができない。私は、あなたにそう言った。
その通りになった。私は、この同居人に、一度も口論で勝てたことがない。クラウスの砂によれば、この者は、私が夜更かしをするたびに「ねろ」と言っているらしい。
十年あれば、と、あなたは言った。
私は、八年もらった。
あなたに、謝らねばならないことがある。
あの夜、陛下の御前で、予熱を止めよと言われた時。私は、迷った。夜明けまで、と口にした。あの問答に費やした時間がなければ、間に合ったかもしれない。あなたが、八年経った今も眠り続けていることには、ならなかったかもしれない。
すまなかった。
それから、礼を言わせてほしい。
三十年、私は、精霊の声を聞かずに生きてきた。あの日、あの空洞で、私は初めてそれを聞いた。あれほど恐ろしいものを、私は他に知らない。そして、あれほど、聞いてよかったと思えたものも、他に知らない。
あなたが、私に、聞かせてくれた。
最後に、ひとつだけ。
私は、あなたに言った。いつか、葉の効かぬ者の前に立つ。その時に差し出せるものを、探しておけ、と。
偉そうに言ったが、私自身、答えを持っていなかった。
八年、余計に生きて、ひとつだけ、見つけた気がする。
見送ることは、置いていかれることとは、違う。
私は、陛下より先に逝く。陛下は、私を見送ることになる。だが、陛下は、置いていかれるのではない。私が成し遂げたことも、成し遂げられなかったことも、私が頑固だったことも、夜更かしばかりして同居人に叱られていたことも、陛下が覚えていてくださる限り、私は、陛下の中に残る。
あなたは、千年を生きる。
ならば、千年分、覚えていてやれる。
それは、寂しいことかもしれない。だが、私には、それが、ひどく羨ましい。
どうか、私のことも、少しだけ覚えておいてほしい。頑固で、意地っ張りで、最後の最後に迷った、ひとりの学者のことを。
ヴァルド・ハーゼン
追伸。
晩年、王家の古い記録を調べていて、妙なものを見つけた。
八百年前、先代のハイエルフ――ユーディアという名だったらしい――が、大樹へ還る直前に、当時の王に一通の手紙を託している。宛名は「次の子へ」。以来、王家の宝物庫の奥に、封をされたまま眠っているそうだ。
陛下には、あなたが目覚めたら、それを渡していただくよう、お願いしておいた。
学者として、中身は大変気になる。だが、私には、それを読む資格はないだろう。
あなたが読みなさい。』
*
手紙を、膝の上に置いた。
院長室の窓から、金色の光が差し込んでいた。机の上の、穴だらけの結晶の中で、精霊がひとつ、ぽわぽわと明滅していた。
「……夜更かしするたびに、ねろって」
やっと、それだけ言えた。
「閣下は、毎晩、その精霊と口論されていました」
ニナさんが、赤い目で、笑った。
「計算の途中で、急に『分かった、寝る』って独り言を言って、ペンを置かれるんです。……最初は、何事かと思いました」
「負けてたんですね」
「一度も勝てなかったそうです」
三人で、少しだけ笑って、少しだけ泣いた。
*
ヴァルドの墓は、王都の南の、小高い丘の上にあった。
丘の下には、どこまでも畑が広がっていた。十五年前、馬車の窓から見た時は、白っぽく乾いていた土だ。今は、黒々として、湿っていて、青い麦の芽が一面に揺れていた。
その畑の真ん中に、風車が一基、立っていた。
木でできた、四枚羽根の風車。羽根が、ゆっくりと、くるくると回っていた。
風は、ほとんど吹いていなかった。
墓は、小さかった。灰色の、飾り気のない石がひとつ。名前と、生まれた年と、亡くなった年だけが刻まれていた。
その墓石の上に、手のひらくらいの大きさの、小さな木の風車が、ひとつ、立てかけてあった。
羽根が、くるくると回っていた。
『りあ』
小さな風の精霊が、その風車の羽根の間から、ひょっこりと顔を出した。
『このひと、いいひと』
「……知ってる」
『まいにち、まわしてる』『このひとが、ここにいてって、いったから』
「閣下の遺言です」
後ろで、クラウスさんが言った。
「墓は、風車の見える場所に。それから、墓石の上にも、小さな風車をひとつ。……回してくれる精霊がいれば、の話だが、と」
いた。
ちゃんと、いた。
俺は、墓の前にしゃがみ込んだ。
懐から、一枚の紙を取り出した。十五年前、炉舎へ向かう馬車の中で、ヴァルドが俺の手に押しつけた紙。細かい数字と式が、びっしりと書き込まれている。眠っている間も、ずっと、着ていた服の懐に入っていたらしい。セレスさんが、大事に取っておいてくれた。
一番下に、小さな字で、書き足してある。
『風車の羽根の角度、十五度を推奨。精霊が回しやすいかどうかは、要確認』
「……確認、ありがとうございました」
紙を、墓石の前に置いた。風で飛ばないように、小さな石をひとつ、その上に載せた。
「覚えておきます」
墓石の上で、小さな風車が、くるくると回っていた。
「頑固で、意地っ張りで、最後の最後に迷って、それでも、ちゃんと止めてくれた学者のこと」
丘の下で、大きな風車が、ゆっくりと回っていた。
風は、ほとんど吹いていなかった。
*
その日の夕方、王宮に呼ばれた。
ルドルフ四世陛下は、六十七歳になっていた。
十五年前に冠を外して話してくれた、あの小さな部屋で、陛下は、暖炉の前の椅子に深く腰かけていた。髪は真っ白になって、顎髭も真っ白になって、手が少し震えていた。それでも、目は、十五年前より、穏やかだった。
「……よく、起きてくれた」
陛下は、俺の手を、両手で包んだ。
「来年、息子に位を譲る。……その前に、あなたに会えてよかった」
暖炉の上には、十五年前と同じ、若い女の人の肖像画が掛かっていた。
その隣に、もうひとつ、肖像画が増えていた。
痩せた、灰色の髪の男の人。灰色の目が、刃物みたいに鋭かった。でも、口元が、ほんの少しだけ、笑っていた。
「……ヴァルドは、最後まで、あなたの話ばかりしていた」
陛下は、その肖像画を見上げて、言った。
「見送るばかりの生は、さぞ寂しかろう、と。私は、あなたに言ったな」
「……はい」
「私は、あれを見送った」
陛下は、笑った。
「寂しい。……だが、悪くはなかったよ」
陛下は、膝の上に置いていた、古い木の箱を、俺に差し出した。
黒ずんだ、小さな箱だった。蓋に、見覚えのある模様が彫られていた。大樹と、精霊の図案。セレスさんが縫ってくれた外套の裾に、金糸で描かれていたのと、同じ模様。
「八百年、王家の宝物庫の奥にあった。……開けた者は、誰もいない」
箱の中に、一通の手紙が入っていた。
薄い緑色の、紙ではない何か。たぶん、大樹の葉を、薄く伸ばしたもの。封の上に、エルフの文字で、宛名が書いてあった。
読めた。
『次の子へ』
――手が、震えた。
封を、切ろうとして。
指が、止まった。
「……ここで、読まなくても、いいですか」
陛下は、静かに頷いた。
「あなたのものだ。好きな時に、好きな場所で読むといい」
俺は、手紙を、箱ごと、胸に抱いた。
読むなら、たぶん、あそこだ。
アルヴの森。大樹の根元。八百年前、この手紙が書かれた場所。
でも、その前に。
――起きたら、とっとと帰ってこい。煮込みが冷める。
先に、帰らなきゃいけない場所が、あった。