【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
ハンナさんの墓は、町の北の外れの、小さな丘の上にあった。
町の人たちの墓が、緩やかな斜面に、ぽつりぽつりと並んでいる。その中ほどに、灰色の、角の丸い石が、ひとつ。
『ハンナ 跳ね鹿亭の女将』
それだけ、刻まれていた。
墓石の前に、小さな木の匙が、ひとつ、置いてあった。煮込みをかき混ぜる時に使う、使い込まれた木べらだった。
「ハンナさんが、三十年使ってたやつだ」
マルタさんが、隣で言った。
「最後まで、これで味見させろってうるさかったからな。……一緒に、置いといた」
俺は、墓の前にしゃがみ込んだ。
手には、油紙の包みを持っていた。来る途中に、市場の串焼き屋で買ってきたやつだ。親父さんの息子さんが、塩多めで焼いてくれた。
包みを、墓石の前に、そっと置いた。
「……ハンナさんは、串焼きより、煮込みだろ」
マルタさんが、呆れたように言った。
「煮込みは、昨日、いっぱい食べたので」
「だから何だよ」
「食べたって、報告です」
マルタさんは、何か言いかけて、やめた。
俺は、墓石に向かって、話しかけた。
「ハンナさん。ただいま」
風が、丘の草を揺らしていた。
「煮込み、食べました。マルタさんの。……ハンナさんのと、まったく同じ味でした。マルタさん、一年かかったって」
「余計なこと言うな」
「それから、えっと」
少し、考えた。
「痩せっぽちじゃ、なくなりました。……たぶん」
「変わってねえよ」
後ろから、即座に突っ込まれた。
「ハイエルフは、太らないので」
「言い訳すんな」
マルタさんが、俺の頭を、軽くはたいた。
痛くはなかった。
俺は、墓石の、角の丸いところに、そっと手を置いた。
冷たくて、少しだけ、日に温まっていた。
「……拾ってくれて、ありがとうございました」
「ハンナさんの宿で、よかったです」
丘の上を、風が吹き抜けていった。
墓石の前の、油紙の包みの上に、小さな光の粒がひとつ、ふわりと降りてきた。
かまどの精霊だった。跳ね鹿亭の厨房の、かまどに住んでいる子だ。
『ハンナ、いいひとだった』
小さな声だった。
『まいにち、ひ、おこしてくれた』『まいにち、ありがとうって、いってくれた』
「……そっか」
『いまは、マルタが、いってくれる』
後ろで、マルタさんが、何かをごまかすみたいに咳払いをした。
*
丘を降りる途中で、マルタさんが、ぼそっと聞いた。
「で。あんた、これからどうすんだ」
「……森に、帰ります」
懐の中の、小さな木の箱に、手を当てた。
「先代の手紙を、読みに。大樹の根元で、読もうと思って」
「それから?」
答えられなかった。
それから、どうするのか。
先代は、人間が好きだった。好きな人間を、全部見送って、三百年、部屋に籠もって、最後は大樹へ還った。
俺は、どうするんだろう。
マルタさんは、俺の沈黙を、しばらく黙って聞いていた。
それから、前を向いたまま、言った。
「ここに、戻ってこいよ」
「……え」
「屋根裏、空けとくから」
ぶっきらぼうな声だった。
「藁も、春になったら替えといてやる」
俺は、マルタさんの横顔を見上げた。
赤い髪に、白いものが混じっていた。目尻に、細かいしわがあった。
「……はい」
*
北門を出て、草原の中の道を、半日。
今度は、ポンタじゃなかった。ポンタは、十年前に、天寿をまっとうしたらしい。代わりに、跳ね鹿亭の荷運びには、ポンタ二世という、やっぱりやる気のない目をしたロバがいた。
俺は、ポンタ二世の背中に揺られていた。トビが、手綱を引いていた。その後ろを、ミアを抱いたリナさんと、セレスさんと、マルタさんが歩いていた。
草原の向こうに、深い森の縁が見えてきた。
アルヴの森。
十五年前に、ツノさんと別れた場所。
『……りあ』
肩の上で、精霊が、小さく言った。
『おおつのさん、いる』
『ずっと、いる』
森の縁の、草の上に。
大きな、灰色がかった緑色の塊が、横たわっていた。
最初は、苔むした岩だと思った。それくらい、苔がびっしりと生えていた。蔦が絡まって、小さな白い花が、あちこちに咲いていた。
それが、ゆっくりと、動いた。
苔むした枝が、二本、持ち上がった。
枝じゃない。角だ。
大きな頭が、ゆっくりと、こっちを向いた。
深い、深い、琥珀色の目が、俺を見た。
*
気づいたら、ポンタ二世の背中から、滑り降りていた。
走った。
草の上を。
すぐに、息が切れた。
膝が笑った。
足がもつれた。
それでも、走った。
最後は、ツノさんの鼻先に、倒れ込むみたいにしがみついた。
温かかった。
土と、若葉の匂いがした。十五年前と、まったく同じ匂いだった。
「……ただいま、ツノさん」
息が切れて、声がかすれた。
「遅くなって、ごめん」
ふすっ、と。
大きな鼻息が、俺の顔にかかった。
『おかえりって』
精霊が、通訳した。
『じゅうごねん、まったって』
「……ごめん」
『でも』
精霊の光が、ぽわっと、明るくなった。
『さんびゃくねんより、ずっと、みじかいって』
――息が、止まった。
『まえのこは、かえってこなかった』
『りあは、かえってきた』
ツノさんの、大きな鼻先が、俺の胸に、そっと押し当てられた。
――俺は、帰ってくる。絶対に。
「……うん」
ツノさんの鼻先に、額を押しつけた。
「帰ってきた」
遅くなったけど。十五年も、待たせたけど。
*
「――ほら」
後ろから、トビの声がした。
振り返ると、トビが、赤い林檎をひとつ、手に持って立っていた。
「約束だったろ。ツノさんに、林檎やるって」
トビは、ツノさんの前に進み出た。
十五年前は、背伸びをしないと、林檎がツノさんの口に届かなかった。
今は、背伸びをしなくても、届いた。
「……覚えてるか、おれのこと」
ツノさんは、トビの顔を、琥珀色の目で、じっと見つめた。
それから、トビの手のひらから、ぱくりと林檎をくわえた。
しゃりっ、と音がした。
『おおきくなったなって』
精霊が、通訳した。
「……トビ。大きくなったなって」
トビが、くしゃっと顔を歪めた。
笑ったのか、泣きそうになったのか、分からなかった。
「……当たり前だろ。十五年だぞ」
トビの肩の上に、リナさんが、ミアを座らせた。
ミアは、目の前の巨大な鹿を見て、目をまん丸にしていた。それから、小さな手を伸ばして、ツノさんの鼻先に、ぺたりと触った。
ツノさんが、ふすっと鼻を鳴らした。
ミアが、きゃーっと声を上げて笑った。
『このこも、おおきくなるって』
精霊が、言った。
『おおつのさん、みてるって』
*
「ツノさん」
俺は、もう一度、大きな鼻先に手を当てた。
「森に、帰りたいんだ。大樹のところまで。先代の手紙を、読みに」
琥珀色の目が、静かに俺を見ていた。
「……乗せてくれる?」
ツノさんは、ゆっくりと、膝を折った。
苔むした大きな背中が、草の上に、低く下りてきた。
『いいって』
『まえのこも、さいごに、ここから、のせてかえったって』
――最後に。
「……リア」
マルタさんの声がした。
振り返った。
マルタさんが、腕を組んで、こっちを見ていた。
何か言いたそうな顔だった。でも、何も言わなかった。
「読んだら、帰ってきます」
俺は、言った。
「ちゃんと」
マルタさんは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、ふっと鼻で笑った。
「知ってる」
それだけ言って、そっぽを向いた。
耳が、ちょっとだけ赤かった。
*
ツノさんの背中に、またがった。
セレスさんも、俺の後ろに、おそるおそる乗った。ツノさんが、ちらりとセレスさんを振り返って、ふすっと鼻を鳴らした。
『まいごのこ、のせてやるって』
「……セレスさん。ツノさんが、迷子の子を乗せてやるって」
「も、森守様……! わたくしは、もう、迷子では……」
セレスさんの耳が、真っ赤になっていた。
ツノさんが、ゆっくりと立ち上がった。
視界が、ぐんと高くなった。
草原が、見下ろせた。トビと、リナさんと、ミアと、マルタさんが、こっちを見上げていた。ずっと向こうに、ハルトンの町の屋根が見えた。煙突から、夕飯の煙が、細く立ちのぼっていた。
「行ってきます」
トビが、手を振った。ミアが、真似して、小さな手をぱたぱたと振った。リナさんが、頭を下げた。
マルタさんは、腕を組んだまま、片手だけ、軽く上げた。
ツノさんが、森の中へ、歩き出した。
*
森が、道を開けた。
枝が持ち上がる。茂みが左右に分かれる。
そして、俺が通ると、花が咲いた。
白い花。青い花。小さな星みたいな黄色い花。
十五年前、新月の夜に、森を出た時と同じだった。
『おかえり』
森の精霊たちの声が、聞こえた。
『おかえり』『おかえり、りあ』『ながかったね』
「……ただいま」
小さく、答えた。
振り返ると、通ってきた道に、花の列ができていた。
その向こうで、マルタさんが、まだ、片手を上げていた。