世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
プロジェクト名、人間の町へ行こう。
メンバー、俺と精霊。精霊の人数は不明。全員、小学生並みの集中力。
不安しかない。
でも、他に頼れる相手もいなかった。
*
課題その一、体力。
「俺、長く歩くと息が切れるんだけど。森を抜けるのって、どうにかならない?」
夜、窓辺でそう相談すると、精霊たちはしばらく、くるくると相談するように回っていた。
『おおつのさんに、のせてもらえば』
「おおつのさん?」
『もりの、おおきいしか』『ふるいの』『やさしいよ』
大きい鹿。鹿か。鹿に乗る。ファンタジーっぽくて悪くない。
「その鹿、呼べる?」
『よぶ!』
また、ぴゅんと光の粒が飛んでいった。
――で、十分後。
窓の外の暗がりに、何かがいた。
最初は、木だと思った。苔むした太い枝が二本、闇の中に広がっていたから。
それが、ゆっくりと動いた。
枝じゃなかった。角だ。
神殿の裏手の森から、とんでもなく大きな鹿が、音もなく姿を現した。
肩の高さが、俺のいる二階の窓とほぼ同じ。角には苔と蔦が絡まって、小さな白い花まで咲いている。体毛は灰色がかった緑で、森の闇に溶け込むような色だった。
そして、目。
深い琥珀色の目が、窓越しにまっすぐ俺を見ていた。
静かで、穏やかで、ものすごく古い目だった。
「……でっか」
思わず素直な感想が漏れた。
鹿は、ふすっと鼻を鳴らした。
『よろしくって』『おおつのさん、りあのこと、しってる』
「知ってる?」
『まえのこも、のせてた』『ずっとまえ』『だから、りあのことも、のせるって』
先代も、この鹿に乗っていた。
ということは、少なくとも八百年以上生きているわけだ。この森、長生きなやつしかいないのか。
大鹿は、窓の高さまで頭を下げた。苔むした角が、すぐ目の前に来る。ほんのり土と若葉の匂いがした。
「……乗せてくれる?」
ふすっ。
『いいって』
「ありがとう。えーと……名前は?」
『なまえ、ない』『おおつのさん』『みんな、そうよんでる』
名前がない。それはちょっと寂しい。
「じゃあ……ツノさんで」
大鹿の耳が、ぴくりと動いた。
『……』『……』
精霊たちが、一斉に黙った。
「え、だめ?」
『りあ、なまえつけるの、へた』
うるさいよ。
でも、大鹿――ツノさんは、ゆっくりと一度だけ頭を上下させて、また森の闇の中へ戻っていった。
『きにいったって』
本当かよ。
*
課題その二、金。
「人間の町って、お金がいるんだよな。この里って、お金あるの?」
『おかね?』『しらない』
だよな。エルフの里で、何かを買っている人を見たことがない。
『でも、にんげん、ぴかぴかすき』『きらきらのいしとか』『こうかんしてた』
物々交換か。ぴかぴかするものなんて、俺は何も持っていない。
『はっぱは?』
一匹の精霊が、窓の外を指すように光った。
大樹の根元には、落ち葉がたくさん積もっている。黄金色と若草色が混じったような、不思議な色の葉だ。落ちてから何日経っても、枯れずにつやつやしている。
エルフたちはこの落ち葉を集めて、儀式のたびに燃やしている。煙がいい匂いで、精霊が喜ぶらしい。つまりこの里では、別に珍しいものじゃない。そのへんに山ほど落ちている。
「葉っぱで、物って買えるのかな」
『わかんない』『でも、きれいだよ』
まあ、手ぶらよりはましか。珍しい葉っぱとして、多少の値段はつくかもしれない。
翌朝、散歩のふりをして根元を歩き、きれいな落ち葉を十枚ほど拾って、袖の中に隠した。
*
課題その三、変装。
「セレスさん。夜、ちょっと冷えるので、外套をいただけませんか。できれば、目立たない地味なやつを」
「かしこまりました!」
セレスさんは、目を輝かせて飛んでいった。
三日後。
「お待たせいたしました! 巫女一同、三晩かけて縫い上げました!」
差し出されたのは、白銀の糸で全面に刺繍が施された、純白の外套だった。
襟元には、親指の先ほどもある翠玉が縫いつけてある。裾には大樹と精霊の図案が、金糸でびっしりと描かれていた。月明かりの下で着たら、たぶん発光する。
「……あの、地味なやつって」
「はい! 装飾は、本来の半分に控えております!」
半分でこれか。
俺は礼を言って外套を受け取り、その夜、こっそり裏返してみた。
裏地は、灰色の、何の飾りもない麻布だった。
完璧だ。
翠玉だけは、表に縫いつけてあるから外からは見えない。たぶん。
*
課題その四。
これが、一番難しかった。
「リア様。御髪を」
毎晩、寝る前。セレスさんは俺の髪を梳く。
初日に断ろうとしたら、泣きそうな顔をされたので、それ以来されるがままになっている。木の櫛が、長い銀髪をゆっくりと通っていく。その手つきは、いつも驚くほど丁寧だった。
「セレスさんは、なんで巫女になったんですか」
ふと聞いてみると、櫛の動きが一瞬止まった。
「……わたくしが生まれたのは、先代様がお還りになって、五百年ほど経った頃でございました」
櫛が、また動き出す。
「祖母が、子どもの頃に一度だけ、先代様のお姿を遠くから拝見したことがあったそうです。わたくしは、寝物語にその話ばかりせがみました。銀の髪の、精霊と語らう御方のお話を」
「……」
「百の歳に巫女となり、それから百四十二年。毎朝この神殿を清め、露を集め、いつか御方がお生まれになる日のために、歌を練習してまいりました」
百四十二年。
毎朝。
「わたくしが生きているうちに、その日が来るとは思っておりませんでした。巫女の多くは、御方をお迎えすることなく生涯を終えますので」
セレスさんの声は、少しだけ震えていた。
「ですから、リア様の実りを目にしたあの朝。わたくしは、自分の生涯はこの日のためにあったのだと思いました」
櫛が、髪の先まで通る。
重いな、と思った。
最初の日に感じたのとは、少し違う重さだった。押しつけられる重さじゃなくて、手渡される重さだ。
だから、余計に言えなかった。
「……セレスさん」
「はい」
「もし。もしもの話ですけど。私がここから、いなくなったら。どうします?」
櫛が止まった。
振り返ると、セレスさんは目を丸くしていた。それから、ふわりと微笑んだ。
冗談だと思ったらしい。
「その時は、どこまでもお探しいたします」
優しい声だった。
「たとえ、世界の果てまででも」
……。
俺は前を向いた。
「そうですか」
「はい」
櫛が、また動き出す。
置き手紙には、「探さないでください」って書いておこう。絶対に。太字で。
*
決行は、二日後の夜に決めた。
新月だ。月明かりがない夜なら、白銀の外套を裏返しに着ていても、少しは目立たないだろう。
その夜、セレスさんが扉の前で正座しているのを確かめてから、俺は小さな羊皮紙に手紙を書いた。
何度も書き直して、結局こうなった。
『セレスさんへ 少し、人間の町を見てきます。 心配しないでください。 探さないでください。 本当に、探さないでください。 リア』
「探さないでください」を二回書いたのは、念のためだ。
窓の外で、精霊たちがわくわくしたように明滅していた。
『あさって!』『あさって!』『おでかけ!』
「声が大きいって」
小声で叱りながら、俺は手紙を枕の下に隠した。