【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
三日目の夕方、木々の向こうに、空を覆うほどの巨木が見えてきた。
大樹、アルヴ・オルド。
枝葉が、雲の高さで広がっている。その隙間から落ちてくる光が、金色の粒になって漂っている。
十五年と、少し。
あの木の実から転がり落ちて、背中を打った日から、そのくらいしか経っていない。
でも、ずいぶん、遠くまで行ってきた気がした。
*
エルフの里は、少しだけ、変わっていた。
ツノさんが里の入口に姿を現すと、見張りの若いエルフが、慌てて角笛を吹いた。あっという間に、里中のエルフたちが集まってきた。
そして、平伏した。
――やっぱり、それは変わらないのか。
と思ったら、違った。
平伏したのは、最前列の年寄りたちだけだった。後ろの方の若いエルフたちは、立ったまま、深くお辞儀をしているだけだった。何人かは、顔を上げて、興味津々といった目で、俺を見ていた。
「……あれが、リア様……」 「語録の……」 「お肉の……」
お肉の、ってなんだ。
人垣が割れて、ひとりの老人が、杖をついて前に出てきた。
真っ白な、長い髭。しわだらけの顔。背中が、十五年前より、もう少しだけ曲がっていた。
最長老の、オーベルさんだった。
オーベルさんは、ツノさんの前で、ゆっくりと膝をついた。
「……おかえりなさいませ、リア様」
しわがれた声だった。
「――探しは、いたしませんでした」
俺は、思わず、後ろに座っているセレスさんを振り返った。
セレスさんは、空を見上げていた。
「……知ってます」
*
神殿は、残っていた。
でも、朝の讃美歌は、一時間から、四半刻に短くなっていた。
「リア様の御意向を、汲みまして」
オーベルさんが、少し恥ずかしそうに言った。
「御言行録――いえ、人間の町では語録と申すそうですが――を、皆で読みましてな。リア様が、神殿を窮屈に思われていたことを、ようやく理解いたしました」
神殿前の広場には、『なんとかなる』の石碑が、相変わらず立っていた。その隣に、新しい石碑がひとつ増えていた。
『お肉とかって』
「……なんで、これを石碑に」
「若い者たちが、どうしても、と」
オーベルさんは、遠い目をした。
「最近、里の若者の一部が、その……獣の肉を、口にし始めておりましてな。リア様の御言葉に倣う、と申して」
後ろで、セレスさんが、ものすごく気まずそうな顔で、目を逸らしていた。
*
神殿の最上階の、先代の部屋は、十五年前と同じだった。
小さな部屋。寝台がひとつ。机がひとつ。椅子がひとつ。南向きの窓。
埃ひとつ、落ちていなかった。
『きれいでしょ』
精霊たちが、得意げに部屋の中を飛び回った。
『ずっと、そうじしてた』
「……うん。ありがとう」
机の上に、木彫りの鳥が、ひとつ。
翼の左右の大きさが違う。くちばしが妙に太い。どう見ても素人の、子どもの作ったもの。
『ユーディアへ トマより』
八百年経った今も、南の窓の方を向いていた。
俺は、懐から、もうひとつの木彫りの鳥を取り出した。
翼の左右は、揃っている。くちばしも、それらしい。でも、やっぱり、素人の作ったもの。何度も、何度も、彫り直した跡がある。
『姉ちゃんへ トビより』
トマの鳥の、隣に、そっと置いた。
同じように、南の窓の方を向けて。
二羽の、下手くそな木彫りの鳥が、並んでいた。
八百年離れて。
同じ窓の方を向いて。
「……しばらく、ここで、待っててね」
トビの鳥に、言った。
「読んだら、迎えに来るから」
*
その夜、大樹の根元に座った。
十五年前、木の実から転がり落ちて、背中を打った場所だ。
根元には、黄金色と若草色が混じった落ち葉が、ふかふかに積もっていた。枯れずに、つやつやしている。世界樹の葉。一枚で、金貨三百枚。
十五年前の俺は、これを、十枚だけ拾って、森を出た。
今度も、三枚だけ拾って、懐にしまった。売るためじゃなかった。
ツノさんが、すぐ隣で、静かに膝を折っていた。セレスさんは、少し離れた場所で、杖を抱いて座っていた。ここからは、俺ひとりで、と言ったら、黙って頷いてくれた。
精霊たちが、根元の周りに、ふわふわと集まっていた。月明かりと、精霊たちの淡い光で、手元は十分に明るかった。
膝の上に、王家の宝物庫から来た、古い木の箱を置いた。
蓋を、開けた。
薄い緑色の、紙ではない何か。大樹の葉を、薄く、薄く伸ばしたもの。
『次の子へ』
封を、そっと、切った。
*
『次の子へ。
はじめまして。
わたしは、ユーディア。あなたの、ひとつ前の子です。
これを読んでいるということは、あなたは、たぶん、森を出て、人の町へ行ったのでしょうね。そして、人の王さまのところまで、たどり着いたのでしょう。
だって、わたしは、この手紙を、人の王さまに預けたのですから。エルフたちに預けたら、あの子たちは、大事にしすぎて、きっと神殿の奥にしまいこんでしまう。あなたが森を出なければ、決して届かない場所に、置いておきたかったのです。
少し、わたしの話をさせてください。
わたしは、人が好きでした。
千年くらい、ずっと、人の町に通っていました。歌を教えて、歌を教わって、市場で林檎を買って、酒場で、少しだけ葡萄酒を飲んで。すぐに酔ってしまうので、少しだけ。
トマという、男の子がいました。
川で溺れかけていたのを、わたしが精霊に頼んで、岸まで運んでもらったのです。それから、あの子は、わたしのことを、ユーディア姉さんと呼ぶようになりました。
あの子が十二の時、木彫りの鳥を、くれました。下手くそな鳥でした。翼の大きさが、左右で違っていて。くちばしが、妙に太くて。わたしは、それを、ずっと机の上に置いていました。
トマは、すぐに大きくなりました。
すぐに、お嫁さんをもらって、子どもができて、その子どもにも子どもができて。
すぐに、おじいちゃんになりました。
それで、いなくなりました。
わたしは、それを、何十回も、何百回も、繰り返しました。
見送るたびに、わたしの中の、何かが欠けていきました。
わたしは、樹の時間に、逃げるようになりました。
眠ってしまえば、痛みを感じずにすむ。でも、目を覚ますと、知っている人は、もう誰もいなくなっている。それがまた、痛くて。だから、また眠る。
最後の三百年、わたしは、この部屋から、出なくなりました。
扉を、閉めてしまったのです。
わたしは、もうすぐ、大樹へ還ります。
精霊になって、時間の外へ出ます。そうすれば、もう、誰も見送らなくてすむ。何も、欠けなくてすむ。
でも、ひとつだけ、心残りがあるのです。
わたしは、逃げてしまった。
人と生きることから。
だから、大樹に、お願いをしました。
次の子には、短い命を知っている魂を、与えてください、と。
短く生きることの、重さも、慌ただしさも、愛しさも、ちゃんと知っている魂を。
――人の、魂を。
その子なら、もしかしたら、わたしにできなかったことが、できるかもしれないから。
エルフたちには、「次の子を、頼む」と言い残していきます。
次の子が、人と生きられるように、そっと見守ってあげてほしい、という意味で。
でも、あの子たちは、たぶん、間違えるでしょう。大事にしすぎて、閉じ込めてしまうでしょう。あの子たちは、優しいけれど、少し、不器用だから。
もし、あなたが神殿で窮屈な思いをしたのなら。
それは、わたしのせいです。ごめんなさい。
あなたの名前を、精霊たちに託しておきます。
リア。
古い、古いエルフの言葉で、「ともに歩むもの」という意味です。
――最後に、ひとつだけ、お願いがあります。
もし、よかったら。
トマのことを、覚えていてくれますか。
木彫りの鳥をくれた、下手くそで、優しい男の子のことを。
わたしは、大樹へ還ったら、もう、それを覚えていることも、できなくなるから。
あなたの、ひとつ前の子 ユーディア』
*
手紙を、膝の上に置いた。
大樹の枝葉が、夜風に、さわさわと揺れていた。
――人の、魂を。
だから、俺だったのか。
データセンターの冷えた床で、胸が痛いなと思ったところで記憶が途切れている、三十二歳の、事なかれ主義の、ただの会社員。
「……ユーディアさん」
「神殿、めちゃくちゃ窮屈でしたよ」
笑ったつもりだった。
涙が、手紙の上に、ぽたりと落ちた。
大樹の葉でできた手紙は、涙を弾いて、月明かりの中で、小さく光った。
『――あ』
肩の上の精霊が、急に、ぴかっと光った。
『おもいだした!』
「……え?」
『まえのこが、いってたこと! つぎのこを、たのむって、いみ!』
精霊たちが、一斉に、俺の周りに集まってきた。
『つぎのこが、にんげんと、いっしょにいられるように』
『みまもってあげてって』
『そういう、いみだった!』
『おもいだした!』『おもいだした!』
――そこは覚えとけよ。部屋の掃除は八百年続けてたくせに。
十五年前、先代の部屋で、そう思ったのを、思い出した。
『わすれてて、ごめん』
精霊たちが、しょんぼりと光を弱めた。
俺は、笑った。
「……いいよ」
涙を、手の甲で拭った。
「ちゃんと、見守ってくれてたじゃん。最初から、ずっと」
神殿の窓辺で、木苺を持ってきてくれた。夜逃げを手伝ってくれた。魔力を隠してくれた。隠しすぎたけど。
「……ずっと、一緒に歩いてくれてた」
精霊たちが、ぽわっと、明るくなった。
*
その夜は、大樹の根元で眠ることにした。
ふかふかの落ち葉の上に、横になった。ツノさんが、すぐ隣で、大きな体を丸めていた。苔むした背中が、温かかった。
胸の上に、ユーディアさんの手紙を置いた。
大樹の枝葉の隙間から、星が見えた。
葉ずれの音が、聞こえていた。
さわさわ、さわさわ。
樹の時間の時みたいな、遠くて、深い音じゃなかった。ただの、夜の森の、葉ずれの音だった。
目を閉じた。
藁のちくちくが、少しだけ、恋しかった。
それから、どれくらい経っただろう。
眠りに落ちる、ほんの少し前。
葉ずれの音の中に、声が、混じった気がした。
精霊たちの声じゃなかった。
柔らかくて、少しだけ眠そうで、どこか、楽しそうな声だった。
『――はじめまして』
『次の子』