【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
明るかった。
夜だったはずなのに、目を開けると、昼だった。
大樹の根元だった。でも、いつもの根元とは、少し違っていた。落ち葉の代わりに、柔らかい草が一面に生えていて、白い花と、青い花と、星みたいな黄色い花が、どこまでも咲いていた。
空は、金色だった。木漏れ日の色だった。
夢だ、と分かった。
分かったけど、目は覚めなかった。
「――はじめまして」
声がした。
振り返ると、大樹の太い根の上に、誰かが腰かけていた。
長い、銀色の髪。尖った耳。白くて、細い手足。
俺に、似ていた。
いや、似ているなんてものじゃなかった。鏡を見ているみたいだった。ただ、髪が、俺よりずっと長くて、地面に届くほどだった。それから、輪郭が、少しだけ、ぼやけていた。指先や、髪の先が、光の粒と、木の葉に、ほどけかけていた。
その人は、根の上で足をぶらぶらさせながら、楽しそうに、俺を見ていた。
「……ユーディアさん?」
「うん」
その人――ユーディアさんは、にこっと笑った。
森のぬしが言っていた。おまえと、おなじかおで、わらっていた。
本当だった。
*
「ごめんね、急に」
ユーディアさんは、根の上から、ふわりと降りてきた。足が草に触れても、草は、少しも倒れなかった。
「わたし、もう、ほとんど大樹の一部だから。こうやって話せるのは、大樹の根元で、あなたが眠っている時だけ。それも、たぶん、今夜一回きり」
「……一回きり」
「うん。だから、ちょっとだけ、無理しちゃった」
ユーディアさんは、俺の隣に、すとんと座った。
それから、俺の顔を、まじまじと覗き込んだ。
「へえ。わたしと、同じ顔だ」
「ハイエルフって、みんな、この顔なんですか」
「分かんない。わたしの前の子は、もっと背が高かったって、精霊たちが言ってた。でも、わたしは、その子の顔、知らないから」
ユーディアさんは、くすくす笑った。
「中身は、全然違うね」
「……分かるんですか」
「分かるよ。あなた、座り方が、がさつだもの」
言われて、自分の座り方を見た。胡座をかいていた。
……三十二年の癖は、なかなか抜けない。
*
「精霊たちが、ずっと、あなたの話をしてたの」
ユーディアさんは、膝を抱えて、空を見上げた。
「大樹の中まで、声が聞こえてくるんだ。ぼんやりとだけど。……りあが、おきた。りあが、おでかけした。りあが、にくをたべて、ないた」
「……そこ、伝わってるんですか」
「伝わってるよ。何回も何回も、すごく嬉しそうに言ってた」
ユーディアさんは、俺の方を向いた。
「ねえ、串焼きって、おいしいの?」
「おいしいです」
即答した。
「熱くて、しょっぱくて、雑で、泣くほどおいしいです」
「泣くほど」
「泣くほど」
ユーディアさんは、吹き出した。
それから、少しだけ、寂しそうに笑った。
「わたしも、食べてみればよかったな。ずっと、林檎と葡萄酒ばっかりだった」
*
風が、花畑を揺らした。
ユーディアさんは、しばらく、黙って、揺れる花を見ていた。
それから、静かに、聞いた。
「――つらくない?」
俺は、すぐには答えられなかった。
花畑を、見た。
白い花。ハルトンの東門の外に、毎年勝手に咲く花。トビにあげた、押し花の花。
「……つらいです」
正直に、言った。
「ハンナさんが、死にました。起きたら、煮込み食べるって約束してたのに。ヴァルドさんも、死にました。ボルクさんも。串焼き屋の親父さんは、まだ生きてるけど、たぶん、もうすぐ」
「マルタさんも、いつか。トビも、いつか。リナさんも、ミアも。……俺は、たぶん、全員、見送るんだと思います」
「うん」
ユーディアさんは、静かに頷いた。
「わたしも、そうだった」
*
「ねえ、次の子」
ユーディアさんが、草の上に手をついて、俺の方に、少しだけ身を乗り出した。
「――ここに、来る?」
「……え」
「大樹に還れば、もう、見送らなくていいよ」
ユーディアさんの声は、優しかった。
誘っているんじゃなかった。ただ、本当のことを、教えてくれているだけだった。
「時間の外は、静かで、あったかいの。誰も、いなくならない。何も、欠けない。わたしは、ここに来て、やっと、泣かなくてすむようになった」
ユーディアさんは、自分の指先を見た。光の粒と、木の葉にほどけかけている、指先を。
「わたしが閉めた扉の、向こう側。……あなたが来たいなら、大樹は、たぶん、迎えてくれる」
――想像した。
もう、誰も見送らなくていい。
マルタさんの白髪が増えていくのを、見なくていい。トビの背中が曲がっていくのを、見なくていい。ミアが大きくなって、お嫁に行って、おばあちゃんになって、いなくなるのを、見なくていい。
楽になる気がした。
――少しだけ。
*
「……行きません」
言った。
ユーディアさんは、驚かなかった。
「どうして?」
「……覚えておきたいから」
考えながら、言った。
「ハンナさんの煮込みの味。それを、マルタさんが一年かけて覚えたこと。ヴァルドさんの、羽根の角度。十五度」
言いながら、涙が出てきた。
止めなかった。
ユーディアさんは、黙って聞いていた。
「俺は、千年くらい生きるんですよね。……じゃあ、千年分、覚えておけます。全員。全部」
「ここに来たら、それも、忘れちゃうんでしょう」
ユーディアさんは、目を伏せた。
「……うん。わたしは、もう、ほとんど覚えてない。自分の名前と、トマの鳥のことくらい」
「だから、行きません」
俺は、涙を拭わないまま、笑った。
「見送ります。全部、覚えておきます。……扉は、開けておきます。閉めたくなったら、それでも、また開けに行きます」
それから、付け加えた。
「あと、肉がうまいので」
――ユーディアさんが、吹き出した。
根の上に座っていた時と同じ、楽しそうな笑い声だった。笑いすぎて、ほどけかけた髪の先から、光の粒が、ぱらぱらとこぼれ落ちた。
「あっははは! 肉! そっか、肉かあ!」
「大事なことです」
「うん、うん。大事だね。すごく、大事」
ユーディアさんは、目尻の涙を拭いながら、まだ笑っていた。
「……大樹に頼んで、よかったな。人の魂、って」
*
笑いが収まると、ユーディアさんは、俺の目を、まっすぐに見た。
「じゃあ、お願い、聞いてくれる?」
「トマさんのこと、ですよね」
「うん」
「覚えておきます」
俺は、言った。
ユーディアさんの目が、潤んだ。
「それから」
俺は、続けた。
「ユーディアさんのことも、覚えておきます」
――ユーディアさんが、目を見開いた。
「……わたしのことも?」
「ひとつ前の子。人が好きで、葡萄酒ですぐ酔って、扉を閉めちゃって。……でも、次の子のために、手紙を預けてくれた人」
俺は、笑った。
「次の子は、ちゃんと、届きましたよ」
ユーディアさんは、何も言わなかった。
両手で顔を覆って、肩を震わせていた。
ほどけかけた髪の先から、光の粒が、ぱらぱらと、こぼれ続けていた。
*
しばらくして、ユーディアさんは、顔を上げた。
目が、真っ赤だった。
同じ顔だから、俺が泣いた後も、たぶん、こんな顔なんだろうなと思った。
「……ありがとう、次の子」
ユーディアさんは、手を伸ばして、俺の額に、そっと触れた。
温かかった。
森のぬしの鼻先みたいに。ツノさんの鼻先みたいに。春の土みたいに、温かかった。
「――リア」
名前を、呼ばれた。
「トマの鳥を、あの子の鳥と並べてくれて、ありがとう。……見えてたよ。少しだけ」
「……はい」
「下手くそな鳥が、二羽。同じ窓を向いて」
ユーディアさんは、くすっと笑った。
「いい眺めだった」
指先が、額から離れた。
ユーディアさんの輪郭が、ゆっくりと、ほどけ始めていた。銀色の髪が、光の粒に変わって、風に乗って舞い上がっていく。白い指先が、若葉に変わって、ひらひらと落ちていく。
「ユーディアさん」
「うん」
「トマさんの鳥、連れていっても、いいですか。人の町に。……あの部屋より、たぶん、にぎやかなところに」
ユーディアさんは、ほどけかけた顔で、驚いたように目を丸くした。
それから、今までで一番、嬉しそうに笑った。
「――うん」
声が、葉ずれの音に、溶けていった。
「いってらっしゃい、リア」
*
目を開けると、朝だった。
大樹の枝葉の隙間から、朝の光が、細く差し込んでいた。落ち葉の上に、朝露が光っていた。
隣で、ツノさんが、大きな体を丸めて、静かに寝息を立てていた。
少し離れた場所で、セレスさんが、杖を抱いて、座ったまま眠っていた。膝の上に、木の櫛を載せたまま。
胸の上に、ユーディアさんの手紙があった。
額に、まだ、温もりが残っている気がした。
『りあ、おはよう』
精霊たちが、ふわふわと集まってきた。
『おきた』『きょうは、みっかじゃない』『ひとばんだけ』
「……うん。一晩だけ」
体を起こした。
不思議と、軽かった。
大樹を、見上げた。
空を覆うほどの、巨大な木。その枝葉が、朝の風に、さわさわと揺れていた。
『ばいばいって、いってる』
精霊が、言った。
『まえのこが、ばいばいって』
「……うん」
俺は、大樹に向かって、小さく手を振った。
「いってきます」
*
先代の部屋に、二羽の鳥を迎えに行った。
南の窓を向いて並んでいる、下手くそな木彫りの鳥。トマの鳥と、トビの鳥。
両方とも、両手に載せた。
『つれてくの?』
部屋を掃除していた精霊たちが、くるくると寄ってきた。
「うん。いいって、言ってくれたから」
『……そっか』
精霊たちは、しばらく、空っぽになった机の上を見つめていた。八百年、帰ってこない主のために、掃除し続けた部屋。
『じゃあ、もう、そうじ、しなくていい?』
「……ううん」
俺は、考えてから、言った。
「たまに、帰ってくるから。その時のために、また、きれいにしておいて」
精霊たちが、ぱっと、明るくなった。
『する!』『きれいにしとく!』『りあのへや!』
*
神殿の広間で、オーベルさんと、里のエルフたちに、手紙のことを話した。
次の子を、頼む。
その本当の意味を。
オーベルさんは、長いこと、何も言わなかった。
それから、杖を床について、深く、深く、頭を下げた。
「……八百年、我らは、取り違えておりましたか」
「いえ」
俺は、首を振った。
「ちゃんと、見守ってくれてました。神殿を守って、露を集めて、歌を練習して。……ちょっと、大事にしすぎただけです」
広間の後ろの方で、若いエルフたちが、くすっと笑った。
オーベルさんも、しわだらけの顔で、少しだけ笑った。
*
里を出る時、セレスさんが、ツノさんの背中の、俺の後ろに乗った。
「わたくしは、リア様のおそばに」
当たり前みたいに、言った。
「……巫女の仕事は?」
「見聞中でございます」
十五年前と、同じ答えだった。
俺は、笑った。
それから、ふと、気づいた。
セレスさんは、エルフだ。三百年とか、五百年とか、生きる。
マルタさんよりも、トビよりも、ずっと、長く。
――見送る側に、この人も、いるんだ。
「……セレスさん」
「はい」
「長生き、してくださいね」
セレスさんは、少しだけ、目を丸くした。
それから、ふわりと微笑んだ。
「――はい。リア様より先には、参りません。……できるだけ」
ツノさんが、ゆっくりと、歩き出した。
森が、道を開けた。花が、咲いた。
両手の中で、二羽の下手くそな木彫りの鳥が、南を向いていた。
――帰ろう。
屋根裏に。藁が、ちくちくする寝台に。