【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
それから、俺は、跳ね鹿亭の屋根裏で暮らした。
朝、藁のちくちくで目を覚ます。下の厨房から、マルタさんの怒鳴り声と、パンの焼ける匂いが上がってくる。
皿洗いを手伝う。三日に一枚くらい、割る。給金から引かれる。
ギルドに行く。掲示板の端っこから、依頼を剥がす。迷い猫のミーシャ二世。失せ物の指輪。井戸に落ちた桶。精霊たちと一緒に、町中を歩き回る。夕方には、足が棒になる。
夕方、跳ね鹿亭の食堂の隅の席で、煮込みを食べる。エールは、半分まで。
それが、毎日だった。
*
セレスさんも、跳ね鹿亭で働き始めた。
給仕係として。
「三番の卓に、煮込みを二つ――」
「かしこまりました!」
セレスさんは、盆を持って、元気よく食堂へ出ていった。
そして、五番の卓に煮込みを置いた。
「……セレス。三番だっつってんだろ」
「も、申し訳ございません! 卓が、どれも同じに見えまして……!」
食堂の中ですら、迷子になる人だった。
マルタさんは、三日目に、全部の卓に、大きく番号を彫った。
*
トビは、二年後に、ハルトンに戻ってきた。
王国騎士団から、ハルトンの衛兵長として。自分から、希望したらしい。
「王都より、こっちの方が、肉がうまいからな」
トビは、そう言って笑った。
リナさんと、ミアも一緒だった。ミアは、三歳になっていた。跳ね鹿亭の食堂を、よちよちと走り回って、冒険者たちの膝によじ登っては、干し肉をもらっていた。
「ねえね」
ミアは、俺のことを、そう呼んだ。
「ねえね、ねえね」
トビが、俺を姉ちゃんと呼ぶのを聞いて、真似したらしい。
「……ねえね、か」
「嫌か?」
「ううん」
俺は、ミアを膝に乗せて、頭を撫でた。
茶色い、柔らかい髪。トビの髪は、こんなに柔らかかっただろうか。たぶん、十一歳の時には、もう、ぼさぼさだったんだと思う。
「嫌じゃない」
*
串焼き屋の親父さんは、俺が帰ってきた年の、冬に亡くなった。
葬式の日、市場の広場の屋台は、休まなかった。息子さんが、いつも通り、炭火の前で串を転がしていた。親父の遺言だから、と言っていた。
俺は、一本、買った。
塩、多めで。
熱くて、しょっぱくて、雑で。
――やっぱり、泣くんだな。
屋台の後ろの、空っぽの木の椅子から、ひゃっひゃっと笑う声が、聞こえた気がした。
ゲイルさんは、その三年後に亡くなった。棺の中に、あの古ぼけた兜が入れられていた。葬列が北門を通る時、俺は、精霊に頼んで、一陣だけ、風を吹かせた。
兜は、飛ばさなかった。
ただ、風だけ。
参列していた年寄りたちが、空を見上げて、笑っていた。
*
D級に上がったのは、ハルトンに帰ってきてから、三年後だった。
C級に上がったのは、それから、六年後だった。
遅いと思う。
でも、精霊たちに頼めば、どんな失せ物でもすぐ見つかるけど、F級やE級の依頼は、そもそも報酬が少ない。評価点も少ない。D級以上の依頼は、魔物の退治とか、護衛とか、走れない体には、ちょっと厳しいものが多い。
それに、大きな依頼をひとつこなすたびに、三日くらい、樹の時間に落ちた。
三日で済むように、気をつけた。
十五年は、もう、二度とごめんだった。
*
ミアが六つの冬に、ハルトンで、悪い熱が流行った。
子どもと年寄りから、先に倒れた。
ミアも、倒れた。三日、熱が下がらなかった。四日目の朝、医者が、トビの顔を見ずに、首を振った。
トビは、何も言わなかった。リナさんの肩を抱いたまま、寝台の脇に座っていた。
俺は、屋根裏に駆け上がった。途中で二回、息が切れて、階段に手をついた。
藁の寝台の下の、小さな木の箱。大樹の根元で拾ってきた、三枚の葉。
一枚を、鍋で煎じた。
黄金色と若草色の葉が、湯の中で、ゆっくりと開いていった。厨房中に、春の森の匂いがした。
マルタさんが、黙って、ミアの小さな頭を支えてくれた。
匙で、一滴ずつ、唇に落とした。
その夜、ミアの額から、汗が、すうっと引いていった。
明け方、ミアが、目を開けた。
「……ねえね」
かすれた声だった。
「おなか、すいた」
トビが、寝台の縁に突っ伏して、声を上げて泣いた。
マルタさんが、煮込みの鍋を火にかけに、厨房へ下りていった。
残りの二枚は、同じ通りの、パン屋の双子に使った。木の箱は、空になった。
その冬、町では、それでも、何人かが死んだ。
――救える者は、救うがいい。
空の箱を寝台の下に戻しながら、ヴァルドの声を、少しだけ思い出していた。
*
C級の木札をもらった日。
ギルドのカウンターで、ペトラさんが、眠そうな顔のまま、焼き印を押した木札を差し出してくれた。
表に、リア。裏に、C。
「……おめでとうございます」
ペトラさんは、五十代になっていた。栗色の髪に、白いものが混じっていた。目の下の隈は、相変わらずだった。
「F級から、二十四年と少し」
「……長かったですか」
「ギルド史上、最長です」
ペトラさんは、壁の、片腕のおじいさんの肖像画を見上げた。
「ギルド長も、たぶん、笑ってますよ」
*
跳ね鹿亭に、帰った。
夕方の食堂は、いつも通り、混んでいた。冒険者たちが、木のジョッキを打ち鳴らして笑っていた。セレスさんが、番号の彫られた卓の間を、盆を持って行き来していた。
カウンターの向こうで、マルタさんが、大きな鍋をかき混ぜていた。
五十二歳。
短く刈った髪は、もう、赤より白の方が多かった。目尻のしわが、深くなっていた。腰を、時々、拳でとんとんと叩くようになっていた。
それでも、木べらを持つ腕は、相変わらず太かった。
俺は、カウンターの前に立った。
革袋を、カウンターの上に、置いた。
じゃらり、と銅貨の音がした。
マルタさんが、木べらを持ったまま、こっちを見た。
「……なんだ、それ」
「借金です」
俺は、言った。
「入町税の、銀貨一枚。串焼き三本で、銅貨九枚。最初の夜の、宿と飯で、銅貨三十枚。合わせて、銅貨百三十九枚」
それから、C級の木札を、革袋の隣に、置いた。
「C級に、なりました」
マルタさんは、カウンターの上の、革袋と、木札を、見下ろしていた。
長い間、何も言わなかった。
それから、木べらを、鍋の縁に、かたんと置いた。
革袋を、手に取った。
重さを確かめるみたいに、手のひらの上で、軽く弾ませた。
「……二十四年かよ」
「はい」
「たった、銅貨百三十九枚を返すのに」
「はい」
マルタさんの肩が、震え始めた。
最初は、小さく。それから、だんだん大きく。
――笑っていた。
カウンターに両手をついて、体を折り曲げて、腹を抱えて、笑っていた。食堂中に響くような、豪快な笑い声だった。冒険者たちが、何事かと振り返った。セレスさんが、盆を持ったまま固まっていた。
「あっははは! 二十四年! 二十四年かよ! あっははは!」
笑いすぎて、マルタさんの目尻から、涙がこぼれていた。
「……馬鹿だろ、あんた」
「よく言われます」
「ほんとに、馬鹿だ」
マルタさんは、目尻を前掛けで乱暴に拭った。
それから、カウンターの下から、ジョッキをひとつ取り出して、樽からエールを注いだ。
半分だけ。
「飲め。C級祝いだ」
*
半分のエールで、やっぱり、世界が傾いた。
「……マルタさんが、ふたり、いる」
「二十四年経っても、それかよ」
マルタさんは、カウンター越しに、呆れたように笑った。
食堂の客は、もうまばらになっていた。セレスさんが、卓を拭いていた。厨房の奥で、十歳になったミアが、皿を洗っていた。三日に一枚くらい、割っていた。
マルタさんが、カウンター越しに、煮込みの椀を、どんと置いた。
「食え。祝いだ」
「さっき、食べました」
「知るか。食え」
信じられないくらい、山盛りだった。
*
それから、また、年月が流れた。
ミアが、二十歳になった。跳ね鹿亭の厨房で、マルタさんの隣に立つようになった。ハンナさんの煮込みを、マルタさんから、教わっていた。一年じゃ足りなくて、三年かかった。
ミアが、二十三歳で、ギルドの若い剣士と結婚した。式の日、トビが、王国騎士団の礼装で、ぼろぼろ泣いていた。
トビの髪が、白くなり始めた。五十歳を過ぎた頃だった。衛兵長を辞めて、町の子どもたちに、剣を教えるようになった。肘を締めろ、脇が甘い、と、マルタさんと同じことを言っていた。
王都から、クラウスさんとニナさんが、何度か訪ねてきた。クラウスさんは魔術院長を退いて、眼鏡を三つ持ち歩くようになっていた。ニナさんは、マルタさんと、灰色の梟亭の話をして、夜更けまで笑っていた。
ルドルフ四世陛下が亡くなった、という知らせが届いた年は、ハルトンの東門の外の花畑が、いつもより、少しだけ遅く咲いた。
マルタさんの髪が、真っ白になった。
膝が痛むようになって、厨房に立つのは、朝の仕込みの時だけになった。大剣は、もう、持ち上げられなかった。食堂のカウンターの上の壁に、横向きに掛けられた。
夏になると、ふたりで、丘の上のハンナさんの墓に花を持っていった。
ある年、坂の途中で、マルタさんが立ち止まった。
膝に手をついて、肩で息をしていた。
昔、ハルトンの市場へ向かう道で、同じ格好をしていたのは、俺の方だった。
俺は、黙って、マルタさんの隣に立った。腕を、差し出した。
マルタさんは、その腕を、しばらく見ていた。
「……あんたに支えられる日が来るとはな」
「体力ないので、杖くらいにしかなりませんけど」
「杖で十分だ」
マルタさんの手が、俺の腕をつかんだ。大きくて、硬い手だった。思っていたより、ずっと重かった。
ふたりで、ゆっくり、坂を上った。何度も立ち止まった。そのたびに、俺は、何も言わずに待った。
丘の上に着くと、マルタさんは、ハンナさんの墓の前に腰を下ろして、ふうっと息を吐いた。
「……ゆっくりでいいって、言ったよな。最初の日に」
「言いました」
「ほんとに、ゆっくりになっちまった」
マルタさんは、笑った。
それから、花を、木べらの隣に置いた。
俺は、変わらなかった。
銀色の髪も、白い手も、坂道で切れる息も、エール半分で傾く世界も。
何も、変わらなかった。
*
マルタさんが、厨房の奥の、ハンナさんが使っていた部屋で、寝たきりになったのは、七十八歳の冬だった。
俺は、毎日、その枕元に座った。
朝は、ミアが作った煮込みを、少しだけ運んだ。マルタさんは、一口だけ食べて、「豆の煮え方が甘い」と言った。ミアに伝えると、ミアは、ハンナさんみたいだ、と言って、少し泣いた。
昼は、窓の外の話をした。市場の串焼き屋の、三代目の話。ギルドの、新しい受付の話。ミアの子どもが、ミーシャ四世を追いかけて、屋根から落ちかけた話。
夜は、何も話さなかった。
ただ、隣に座っていた。
*
その夜も、そうだった。
窓の外で、雪が降っていた。部屋の隅の小さなかまどで、精霊がひとつ、ぽわぽわと、火を守っていた。
「……リア」
かすれた声がした。
枕の上で、マルタさんが、目を開けていた。
「起きてたんですか」
「寝てばっかりだと、腰が痛え」
マルタさんは、天井を見上げたまま、言った。
「……なあ」
「はい」
「葉っぱは、これには効かねえんだろ」
俺は、頷いた。
「効きません」
マルタさんの口元が、かすかに、緩んだ。
「……そうかよ。なら、いい。効くって言われたら、迷うとこだった」
*
雪が、窓の外で、静かに降っていた。
「なあ、リア」
「はい」
「あたしが、どんだけいい女だったか」
マルタさんの声は、ひどく小さかった。
「覚えといてくれよ」
――焚き火の前だった。王都へ向かう途中の、七日目の夜。ぱちぱちと薪が爆ぜる音。
ま、せいぜい覚えといてくれよ。あたしが、どんだけいい女だったか。
冗談めかした声だった。
今は、冗談じゃなかった。
「……覚えてますよ」
俺は、言った。
「門の前で、銀貨を放り投げてくれたこと。葉っぱで入町税払おうとしてた、怪しいエルフのために」
「……」
「串焼き、買ってくれたこと。泣くほどかって、腹抱えて笑ってくれたこと」
マルタさんは、目を閉じて、聞いていた。
涙が、枕元に落ちた。
「全部、覚えてます」
*
マルタさんが、目を開けた。
濡れた目だった。
「……上出来だ」
かすれた声で、そう言った。
それから、毛布の下から、ゆっくりと、手を伸ばしてきた。
大きかった手は、少しだけ、小さくなっていた。剣だこは、まだ、残っていた。
その手が、俺の頭の上に、置かれた。
「……あんたは、変わんねえな」
「ハイエルフなので」
「そういう意味じゃ、ねえよ」
マルタさんの口元が、かすかに、笑った。
「最初に会った時から、ずっと、腹減った顔してる」
――笑ってしまった。
マルタさんも、笑っていた。
「……なあ」
「はい」
「レオンに、会えるかな」
「会えますよ」
「……遅えって、言われるかな」
「言われますね」
マルタさんは、短く、息を吐いた。
笑ったんだと、思う。
「……はっ。言い返してやる。あんたが、先に行きすぎなんだって」
頭の上の手が、一度だけ、俺の髪を、くしゃりとかき回した。
それから、ゆっくりと、力が抜けていった。
「……少し、寝る」
「……はい」
「起こすなよ」
「起こしません」
マルタさんは、目を閉じた。
*
夜が明ける少し前に、マルタさんは、息をしなくなった。
俺は、その手を、握っていた。
大きくて、硬くて、剣だこだらけの手だった。
少しずつ、冷たくなっていった。
*
――さわさわ、と。
耳の奥で、葉ずれの音がした。
遠くて、深い音だった。
樹の時間の音だった。
眠ってしまえば、痛みを感じずにすむ。
息が、うまくできなかった。このまま目を閉じたら、楽になれる。三日か、一年か、十年か。目を覚ましたら、少しは、痛くなくなっている。
「……まだ」
声に、出した。
「まだ、寝ない」
葉ずれの音が、少しだけ、遠ざかった。
「葬式、出なきゃ。花、摘まなきゃ。東門の外の、白いやつ。……それから、明日の朝の煮込み、ミアと一緒に、作らなきゃ」
マルタさんの手を、握ったまま、言った。
「扉、閉めないって、約束したから」
葉ずれの音が、消えた。
部屋の隅のかまどで、精霊がひとつ、ぽわぽわと、火を守っていた。
窓の外で、雪が止んでいた。
東の空が、白み始めていた。
*
マルタさんの墓は、町の北の外れの丘の上の、ハンナさんの墓の隣に建てられた。
墓石の前に、俺は、小さな木彫りの鳥を、ひとつ、置いた。
ひと冬かけて、俺が彫ったやつだ。
翼の左右の大きさが、違っていた。くちばしが、妙に太かった。首が、どっちを向いているのか、よく分からなかった。
台座の裏に、彫った。
『マルタさんへ リアより』
「……芋虫かよって、言われそうだな」
隣で、トビが、白髪の頭をかきながら言った。
「言われるね」
丘の上を、風が吹き抜けていった。
ハンナさんの墓の前の、木べらと。マルタさんの墓の前の、下手くそな木彫りの鳥。
並んで、南の方を、向いていた。
*
その夜、厨房の灯りが、遅くまで消えなかった。
下りていくと、セレスさんが、かまどの前の小さな椅子に座っていた。
膝の上に、木の櫛を載せていた。
「リア様。お休みにならないと」
いつもの声だった。背筋も、まっすぐだった。でも、櫛を持つ手が、動いていなかった。
俺は、隣の椅子に座った。
しばらく、ふたりで、かまどの火を見ていた。かまどの精霊が、ぽわぽわと、小さく火を守っていた。
「……卓の番号を」
セレスさんが、ぽつりと言った。
「彫ってくださったのは、マルタ殿でした。あれから三十五年、わたくしは、毎日間違えました。そのたびに、三番だっつってんだろ、と」
声が、そこで、止まった。
「……わたくしは、リア様をお待ちすることしか、存じませんでした。見送る、ということを。三百年近く生きて、こんなに近くでお見送りしたのは、初めてでございます」
それきり、セレスさんは、何も言わなかった。泣かなかった。泣き方を、知らないみたいだった。
俺は、セレスさんの膝の上から、櫛を取った。
「……後ろ、向いて」
「リア様、それは、わたくしの――」
「いいから」
セレスさんは、少しためらってから、椅子の上で、俺に背中を向けた。
蜂蜜色の、長い髪。
櫛を、通した。三回に一回、絡まった。
「……下手だね、俺」
「いいえ」
セレスさんの肩が、小さく揺れた。
「いいえ、リア様」
櫛を通すたびに、肩の揺れは、大きくなっていった。
俺は、黙って、梳き続けた。絡まっても、ほどいて、また通した。
かまどの火が、小さくなるまで。