【TS】世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
あたしは、あいつに、ひとつだけ嘘をついた。
待っててやるよ、と言った。
あれは、嘘だ。待つなんて、そんな気の長い真似が、あたしにできるわけがない。
あたしは、待ってたんじゃない。腹を立ててただけだ。十五年、ずっと。
*
あの日のことは、あんまり覚えてない。
覚えてるのは、手だけだ。
塔の地下の、焦げた窪みの前で、あいつの手を握ってた。細くて、白くて、少し冷たかった。握り返してこなかった。
髪が、光ってた。寝息みたいに、ゆっくり。
ガキが、あいつを呼んでた。何十回も。セレスは、指であいつの髪を梳いてた。泣いてなかった。泣いてないのが、一番おっかなかった。
――C級になったら、話します。
馬鹿野郎、と思った。
それは、寝る前に言う台詞じゃねえだろ。
*
三日経っても、あいつは起きなかった。
ひと月経っても、起きなかった。
白百合館の寝室で、あいつは、ずっと同じ顔で寝てた。腹減った顔じゃなかった。それが、気に食わなかった。
ガキは、寝台の脇から動かなかった。飯も、ろくに食わなかった。
十日目に、首根っこ掴んで、庭に引きずり出した。木の枝を一本、放ってやった。
「構えろ」
「……やだ」
「構えろっつってんだ」
ガキは、泣きながら、枝を構えた。肘が開いてた。脇が甘かった。
あたしは、それを払った。何回も、何回も。
ガキが、枝を握ったまま、芝生の上に座り込んだ。
「……なんで、こんなことすんだよ」
「あいつが起きた時、あんたがガリガリのままだったら、あいつ、泣くだろ」
ガキは、しばらく黙ってた。
それから立ち上がって、また構えた。
肘は、さっきより締まってた。
*
秋になって、ハルトンに帰ることにした。
ガキは、残るって言った。あいつの寝顔の横を、動かないって。
「あいつの髪は、セレスが梳く。あんたの仕事じゃねえ」
「でも……」
「あんたの仕事は、強くなることだ」
ガキは、唇を噛んだ。それから、頷いた。
王都の門を出る時、ガキは一回だけ振り返った。星見の塔のほうを。
あたしは、振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん、帰れなかった。
*
跳ね鹿亭の屋根裏は、そのままにした。
「誰か泊めりゃいいじゃねえか。部屋を遊ばせとくのは、もったいねえだろ」
そう言ったら、ハンナさんに、お玉で頭を叩かれた。
「あの痩せっぽちが帰ってきたら、どこに寝かせるんだい」
「……知らねえよ」
「藁だけは、毎年替えといておくれ。春にね」
「なんで、あたしが」
「あんたが、あの子を拾ってきたんだろ」
ぐうの音も出なかった。
だから、毎年、春になると藁を替えた。ちくちくするやつに。
そのついでに、王都まで行った。
ついでだ。
*
次の年には、王様が、あいつのために温室を建てていた。白百合館の寝室の床から、冬でも草が生えてくるもんだから、だったら森みたいにしてやれ、ということらしい。
金持ちのやることは、分かんねえ。
でも、温室の中のあいつは、少しだけ、ましな顔をしてた。
苔の上の寝台の脇に、どかっと座った。
精霊とかいうのは、あたしには見えない。それでも、温室の中は、いつ来ても妙に暖かかった。
セレスが、毎朝、髪を梳いてた。あたしが行くと、黙って会釈して、出ていった。ふたりにしてくれたんだと思う。気の利く女だ。道には迷うけど。
あいつの寝顔を、しばらく見てた。
何を言っていいか、分からなかった。
帰る時に、ひとことだけ言った。
「まだ寝てんのか、馬鹿」
返事は、なかった。
当たり前だ。
次の年も、言った。その次の年も。
*
五年目の春に、セレスに聞いた。
温室の外の、石の長椅子で。髪を梳き終わったセレスが、櫛を膝に載せて座ってた。
「なあ。あいつ、知ってたんだろ」
セレスの手が、止まった。
「長く寝るかもしれねえって。知ってて、あの結晶のとこまで行ったんだろ」
セレスは、長いこと、何も言わなかった。
それから、まっすぐ前を向いたまま、言った。
「……申し上げられません」
それが、答えだった。
「そうかよ」
あたしは、立ち上がった。
腹が立った。
あいつにか。セレスにか。気づかなかった、あたしにか。
たぶん、全部にだ。
「……マルタ殿」
背中に、声がかかった。
「わたくしも、お止めいたしませんでした」
振り返ると、セレスは、櫛を両手で握りしめてた。指が、白くなってた。
「お止めすれば、よかったのでしょうか」
知らねえよ、と言いかけて、やめた。
あたしにも、分からなかったからだ。
止めてたら、王都は、どうなってたか。止めなかったから、あいつは、ここで寝てる。
「……あいつが起きたら、ふたりで叱ってやろうぜ」
そう言ったら、セレスは、少しだけ笑った。
初めて見る顔だった。
*
八年目に、ガキがB級になった。
あたしより先に。
「どうだ!」
ギルドのカウンターの前で、木札を突きつけてきた。二十歳の、図体ばっかりでかくなったガキだった。
「……ちっ」
「悔しいだろ!」
「うるせえ」
悔しかった。
それ以上に、あいつに見せてやりたかった。
その年の春は、温室で、いつもより長く座ってた。
「……ガキが、B級になったぞ」
返事は、なかった。
「あたしより先にだ。腹立つだろ」
返事は、なかった。
「まだ寝てんのか、馬鹿」
*
九年目の冬に、ハンナさんの足が立たなくなった。
ある朝、厨房ですとんと座り込んで、それきりだった。
医者は、年だと言った。どこも悪くない。ただ、体が、もうそういう歳なんだと。
あいつの葉っぱがあったら、と思った。
でも、あいつが言ってた。あの葉っぱは、年には効かないって。
効いたとしても、あいつは寝てる。
あたしは、ギルドに行って、冒険者の木札を返した。
ギルド長の机には、もうペトラが座ってた。眠そうな顔で木札を受け取って、言った。
「……預かっておきます」
返すつもりだったのに、預かられた。
*
それから一年、ハンナさんに煮込みを叩き込まれた。
寝床の枕元まで、鍋を持っていかされた。
「違う。塩が足りない」
「入れたよ」
「足りないって言ってるんだよ。あの痩せっぽちは、しょっぱいのが好きなんだ」
「……なんで分かるんだよ」
「最初の晩に、匙が止まらなかったからさ」
豆の煮え方が甘い、と言われた。根菜の切り方が雑だ、と言われた。腸詰めを入れるのが早い、と言われた。
あたしは、剣なら、目をつぶってても振れる。
鍋は、一年かかった。
「……まあ、これならいいだろ」
ハンナさんがそう言ったのは、次の冬の始まりだった。
もう、自分では一口も食えなくなってた。匙の先を、唇に当てただけだった。
それでも、ハンナさんは笑った。
「あの痩せっぽちが起きたら、これを、うんと食わせな」
「……分かってるよ」
「藁も、替えるんだよ」
「分かってるって」
「それから」
太かった腕が、すっかり細くなってた。その手が、あたしの手の甲を、ぽんと叩いた。
「あんたも、ちゃんと食べるんだよ。痩せっぽちが帰ってきて、あんたがしょぼくれてたら、承知しないからね」
それが、最後に聞いた、ハンナさんの説教だった。
*
ハンナさんの墓の前に、三十年使ってた木べらを置いた。
それから、跳ね鹿亭の看板を塗り直した。
鹿が、ちょっとだけ、立派になった。
*
ガキは、二十二で、王都の騎士団に入った。
温室の警護を、自分で希望したらしい。
「姉ちゃんが起きた時、最初に会うのは、おれだから」
馬鹿だと思った。
いい馬鹿だと思った。
「……肘、締めろよ」
「分かってる」
ガキは――いや、もうガキじゃなかった。あたしより背の高い男が、腰の短剣の柄に触れた。レオンの短剣だ。セレスの組紐は、すっかり色が褪せてた。
――レオン。
あんたの短剣、ちゃんと使われてるよ。
口には出さずに、そう言った。
*
十五年目の春は、腰をやった。
鍋を持ち上げた拍子に、ぐきっと、いった。
情けねえ。四十三にもなると、こういうことになる。
王都には、行けなかった。十五年で、初めてだった。
ひと月ほどして、跳ね鹿亭の扉が開いた。
蜂蜜色の髪の女が、旅装束で立ってた。髪に、小枝が三本、絡まってた。
「……セレス?」
「マルタ殿が今年はいらっしゃらないと、トビ殿から伺いまして」
セレスは、外套の土埃を払いながら言った。
「リア様のご様子を、お伝えに参りました」
「……あんた、王都を出たのか」
「十五年で、初めてでございます」
道は、三回迷ったらしい。
*
セレスは、食堂の隅の席で、あたしの煮込みを食った。
ひと口食べて、匙を止めた。
「……ハンナ殿の、お味でございますね」
「一年かかった」
それから、セレスは、あいつの様子を話した。
髪は、相変わらず一本も絡まらない。頬の色は、いい。精霊たちが、毎日、花を運んでくる。寝台の脇の苔が、一か所だけ薄くなっている。
「マルタ殿の、お席でございます」
「……知るか」
セレスは、少しだけ笑った。
「帰りに、何かお伝えすることはございますか。リア様が、お目覚めになったら」
あたしは、鍋をかき混ぜながら考えた。
言いたいことは、山ほどあった。
なんで黙ってた。なんで、ひとりで決めた。十五年だぞ。ハンナさんは、死んだぞ。ガキは、嫁をもらったぞ。あんたの屋根裏の藁は、十五回替えたぞ。
全部、腹が立った。
全部、あいつの顔を見て、直接言ってやりたかった。
だから、ひとことだけにした。
「――起きたら、とっとと帰ってこい。煮込みが冷める」
セレスは、目を丸くした。
それから、口の中で、何度か繰り返した。
「……一言一句たがわず、お伝えいたします」
真似すんなよ、と言っておいた。
たぶん、真似する。
*
セレスが王都へ発って、しばらく経った夕方だった。
厨房で、鍋をかき混ぜていた。
かまどの火が、ぼうっと明るくなった。
風もないのに。薪も足してないのに。かまどの奥で、火が、踊るみたいにぱちぱちと跳ねていた。
ハンナさんが死んでから、ずっと、静かな火だったのに。
あたしには、精霊とかいうのは見えない。声も、聞こえない。
でも。
「……うるせえな」
木べらを、鍋の縁に置いた。
それから豆の袋を出して、桶の水に、いつもより多めに浸けた。
痩せっぽちの分だ。
その日から、煮込みを、毎日一人分多く作った。
十日ばかり経った夕方、店の扉が開く音がした。
あたしは、鍋をかき混ぜていた。
振り返るのは、ほんの少しだけ後にした。
顔を、作ってからだ。