世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
新月の夜は、本当に暗かった。
窓の外は墨を流したような闇で、大樹の葉がかすかにざわめく音だけが聞こえる。神殿の前の広場も、里のエルフたちの家も、すっかり寝静まっていた。
扉の向こうには、たぶん今夜もセレスさんが正座している。
俺は枕の下から手紙を取り出して、枕の上に置いた。それから、裏返しにした外套を羽織り、フードを深くかぶる。袖の中には、大樹の落ち葉が十枚。
持ち物は、それで全部だ。
生まれて二週間。財産、葉っぱ十枚。
まあ、前世の最期も似たようなものだったか。貯金はあったけど、使う暇がなかった。
窓を開けると、冷たい夜風が頬をなでた。
下を見る。
闇の中に、琥珀色の目がふたつ、静かに光っていた。
「……来てくれたんだ」
ツノさんが、ゆっくりと頭を持ち上げる。苔むした角が、窓のすぐ下まで届いた。
『りあ、のって』『つの、つかまって』
精霊たちが、ぼんやりと光りながら周りを飛ぶ。灯りの代わりだ。ありがたいけど、目立つからもうちょっと暗くしてほしい。
「暗く。ちょっとだけ暗く」
『はーい』
光が、蛍くらいの明るさに落ちた。
窓枠に足をかける。角に手を伸ばす。届いた。ざらりとした苔の感触。
よし。あとは、角を伝って首の後ろに――
手が滑った。
「っ――」
体が宙に浮く。
落ちる、と思った瞬間、ふわりと下から風が吹き上がって、俺の体を支えた。そのまま、ツノさんの角が器用に動いて、俺を首の付け根あたりにすくい上げる。
気づいたら、ツノさんの背中にまたがっていた。
『あぶなかった』『りあ、どんくさい』
「……ありがとう」
風の精霊と、ツノさんと、両方に言った。
どんくさいのは否定できない。
*
ツノさんは、音もなく森の中を進んだ。
あれだけ大きな体なのに、足音がしない。枝を踏む音も、葉をかき分ける音もしない。まるで、森の方が道を開けているみたいだった。
いや、たぶん実際に開けている。
ツノさんが進む先で、木々の枝がすっと持ち上がる。足元の茂みが、左右にそっと分かれる。通り過ぎると、また元に戻る。
それだけじゃなかった。
俺が通ると、夜に閉じていたはずの花が、ぽつり、ぽつりと開いていく。白い花。青い花。小さな星みたいな黄色い花。花びらの縁が、精霊の光を受けてほのかに光る。
通った道に、花の列ができていく。
「……なにこれ」
『もりが、あいさつしてる』
「あいさつ?」
『りあ、はじめてもりにきたから』『ようこそって』『いってらっしゃいって』
ようこそ、と、いってらっしゃい。
両方なのか。
俺は、ツノさんの首に手を置いたまま、黙って森を見ていた。
不思議な感覚だった。この森は、俺のことを知っている。生まれて二週間の俺のことを、ずっと前から知っていたみたいに迎えてくれる。
ハイエルフだから、なんだろう。大樹から生まれた種族だから。
でも、中身は俺だ。徹夜明けにカップ麺をすすっていた、ただの会社員だ。
それでも、森は花を咲かせてくれる。
少しだけ、胸が詰まった。
しばらく進んでから、一度だけ振り返った。
木々の隙間から、大樹が見えた。闇の中でも、その輪郭だけはぼんやりと浮かび上がっている。枝先の葉が、わずかに光を帯びていた。
あの根元に、神殿がある。
朝になれば、セレスさんが扉を開けて、枕の上の手紙を見つける。
「……ごめん、セレスさん」
小さく呟いた声は、夜風にさらわれて消えた。
それから、前を向いた。
もう振り返らなかった。
*
それから、三日。
ツノさんの背中での旅は、思っていたよりずっと快適だった。
揺れが少ない。俺がうとうとすると、ツノさんは歩みを緩めてくれる。腹は減らないけど、口寂しくなると精霊たちが木苺を持ってきてくれる。
『あまいの』『もりのおくの』『いちばんおいしいとこ』
「ありがとう。……毎回、それ言うんだな」
二日目の昼に、大きな川を越えた。地図に描いてあった川だ。ツノさんは迷わず水に入って、胸まで浸かりながら悠々と渡りきった。俺は角にしがみついたまま、一滴も濡れなかった。
精霊たちは、ずっと楽しそうだった。
歌ったり、俺の髪に花を挿したり、ツノさんの角の上で追いかけっこをしたり。たまに『りあ、たのしい?』と聞いてくる。
「楽しいよ」
本心だった。
生まれ変わってから、初めて、楽しいと思った。
*
三日目の夕方。
木々が、だんだんまばらになってきた。
枝の隙間から見える空が広くなる。下草が短くなる。森の匂いに、何か別の匂いが混じり始める。乾いた土。家畜の糞。それから――
煙。
ツノさんが、足を止めた。
目の前で、森が終わっていた。
その先には、なだらかな草原が広がっていた。夕日を浴びて、一面が金色に揺れている。草原の真ん中を、踏み固められた土の道が一本、まっすぐに伸びていた。
そして、道のずっと先。
木の柵と、石の壁に囲まれた、小さな町が見えた。
屋根がいくつも並んでいて、そこから細い煙が何本も、夕焼け空に向かって立ちのぼっている。
ハルトンだ。
「……あった」
『あった!』『にくのけむり!』『あれ、ぜんぶ、にくのけむり!』
「全部ではないと思う」
ツノさんが、そっと膝を折った。
降りろ、ということらしい。
『おおつのさん、もりから、でられないの』『もりのいきものだから』
「……そっか」
俺は、ぎこちなくツノさんの背中から滑り降りた。地面に足がつく。三日ぶりの地面だ。膝が少し笑った。
ツノさんの顔の前に回り込む。大きな琥珀色の目が、静かに俺を見下ろしていた。
俺は、その鼻先にそっと手を当てた。温かかった。
「ありがとう、ツノさん。……帰りも、乗せてくれる?」
ふすっ、と鼻息が手のひらにかかった。
『いつでもって』
精霊が通訳する。
『りあがかえってくるまで、ここでまってるって』
「いや、ずっと待ってなくていいから。森に帰ってていいから」
『……』
「なんで黙るの」
『まえのこのときも、ずっとまってたって』
俺は、言葉に詰まった。
八百年前。先代も、ここからこうして町へ向かったんだろうか。ツノさんは、そのたびにここで待っていたんだろうか。
そして、最後に先代が森から出なくなった時も。
「……ちゃんと帰ってくるよ」
気づいたら、そう言っていた。
「いつになるか分からないけど。ちゃんと、ここに帰ってくる」
ツノさんは、もう一度だけ鼻を鳴らすと、ゆっくりと立ち上がった。そして、名残惜しそうに一度振り返ってから、森の奥へ消えていった。
*
そこからが、地獄だった。
町まで、目測で二キロ。
前世なら、のんびり歩いて三十分の距離だ。
ハイエルフの体だと、こうなる。
歩く。息が切れる。座る。休む。また歩く。座る。
『がんばれ』『がんばれりあ』『あとちょっと』
「あとちょっとじゃないだろ、まだ半分も……はぁ……」
夕日が沈んでいく。空が茜色から紫に変わっていく。俺はほとんど這うようにして、土の道を進んだ。
でも、近づくにつれて、匂いが濃くなってくる。
煙の匂い。パンを焼く匂い。それから、脂が炭に落ちて、じゅっと焦げる匂い。
肉だ。
間違いなく、肉を焼いている匂いだ。
足に、力が戻った。
人間、いやハイエルフも、欲望があれば動けるものらしい。
*
町の門にたどり着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
門の両脇にかがり火が焚かれていて、槍を持った兵士が二人立っている。その前に、荷馬車や農民らしき人たちが短い列を作っていた。
人間だ。
二週間ぶりに見る、耳の丸い人たち。日焼けした顔で、くたびれた服を着て、あくびをしたり、連れと笑い合ったりしている。
なんでもない光景なのに、無性に懐かしかった。
俺はフードをもう一度深くかぶり直して、列の最後尾に並んだ。
着いた。
本当に、着いた。
列が少しずつ進む。前の農夫が、兵士に何か札のようなものを見せて門をくぐっていく。
俺の番が来た。
ひげ面の兵士が、かがり火の明かりで俺を見下ろした。
「次。……ん? おい、そこのフードの」
「はい」
「身分証は?」
――身分証。
俺は、袖の中の葉っぱ十枚の感触を確かめながら、しばらく黙った。
持ってない。