世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです   作:月白イツキ

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第5話 新月の夜に

新月の夜は、本当に暗かった。

 

窓の外は墨を流したような闇で、大樹の葉がかすかにざわめく音だけが聞こえる。神殿の前の広場も、里のエルフたちの家も、すっかり寝静まっていた。

 

扉の向こうには、たぶん今夜もセレスさんが正座している。

 

俺は枕の下から手紙を取り出して、枕の上に置いた。それから、裏返しにした外套を羽織り、フードを深くかぶる。袖の中には、大樹の落ち葉が十枚。

 

持ち物は、それで全部だ。

 

生まれて二週間。財産、葉っぱ十枚。

 

まあ、前世の最期も似たようなものだったか。貯金はあったけど、使う暇がなかった。

 

窓を開けると、冷たい夜風が頬をなでた。

 

下を見る。

 

闇の中に、琥珀色の目がふたつ、静かに光っていた。

 

「……来てくれたんだ」

 

ツノさんが、ゆっくりと頭を持ち上げる。苔むした角が、窓のすぐ下まで届いた。

 

『りあ、のって』『つの、つかまって』

 

精霊たちが、ぼんやりと光りながら周りを飛ぶ。灯りの代わりだ。ありがたいけど、目立つからもうちょっと暗くしてほしい。

 

「暗く。ちょっとだけ暗く」

 

『はーい』

 

光が、蛍くらいの明るさに落ちた。

 

窓枠に足をかける。角に手を伸ばす。届いた。ざらりとした苔の感触。

 

よし。あとは、角を伝って首の後ろに――

 

手が滑った。

 

「っ――」

 

体が宙に浮く。

 

落ちる、と思った瞬間、ふわりと下から風が吹き上がって、俺の体を支えた。そのまま、ツノさんの角が器用に動いて、俺を首の付け根あたりにすくい上げる。

 

気づいたら、ツノさんの背中にまたがっていた。

 

『あぶなかった』『りあ、どんくさい』

 

「……ありがとう」

 

風の精霊と、ツノさんと、両方に言った。

 

どんくさいのは否定できない。

 

*

 

ツノさんは、音もなく森の中を進んだ。

 

あれだけ大きな体なのに、足音がしない。枝を踏む音も、葉をかき分ける音もしない。まるで、森の方が道を開けているみたいだった。

 

いや、たぶん実際に開けている。

 

ツノさんが進む先で、木々の枝がすっと持ち上がる。足元の茂みが、左右にそっと分かれる。通り過ぎると、また元に戻る。

 

それだけじゃなかった。

 

俺が通ると、夜に閉じていたはずの花が、ぽつり、ぽつりと開いていく。白い花。青い花。小さな星みたいな黄色い花。花びらの縁が、精霊の光を受けてほのかに光る。

 

通った道に、花の列ができていく。

 

「……なにこれ」

 

『もりが、あいさつしてる』

 

「あいさつ?」

 

『りあ、はじめてもりにきたから』『ようこそって』『いってらっしゃいって』

 

ようこそ、と、いってらっしゃい。

 

両方なのか。

 

俺は、ツノさんの首に手を置いたまま、黙って森を見ていた。

 

不思議な感覚だった。この森は、俺のことを知っている。生まれて二週間の俺のことを、ずっと前から知っていたみたいに迎えてくれる。

 

ハイエルフだから、なんだろう。大樹から生まれた種族だから。

 

でも、中身は俺だ。徹夜明けにカップ麺をすすっていた、ただの会社員だ。

 

それでも、森は花を咲かせてくれる。

 

少しだけ、胸が詰まった。

 

しばらく進んでから、一度だけ振り返った。

 

木々の隙間から、大樹が見えた。闇の中でも、その輪郭だけはぼんやりと浮かび上がっている。枝先の葉が、わずかに光を帯びていた。

 

あの根元に、神殿がある。

 

朝になれば、セレスさんが扉を開けて、枕の上の手紙を見つける。

 

「……ごめん、セレスさん」

 

小さく呟いた声は、夜風にさらわれて消えた。

 

それから、前を向いた。

 

もう振り返らなかった。

 

*

 

それから、三日。

 

ツノさんの背中での旅は、思っていたよりずっと快適だった。

 

揺れが少ない。俺がうとうとすると、ツノさんは歩みを緩めてくれる。腹は減らないけど、口寂しくなると精霊たちが木苺を持ってきてくれる。

 

『あまいの』『もりのおくの』『いちばんおいしいとこ』

 

「ありがとう。……毎回、それ言うんだな」

 

二日目の昼に、大きな川を越えた。地図に描いてあった川だ。ツノさんは迷わず水に入って、胸まで浸かりながら悠々と渡りきった。俺は角にしがみついたまま、一滴も濡れなかった。

 

精霊たちは、ずっと楽しそうだった。

 

歌ったり、俺の髪に花を挿したり、ツノさんの角の上で追いかけっこをしたり。たまに『りあ、たのしい?』と聞いてくる。

 

「楽しいよ」

 

本心だった。

 

生まれ変わってから、初めて、楽しいと思った。

 

*

 

三日目の夕方。

 

木々が、だんだんまばらになってきた。

 

枝の隙間から見える空が広くなる。下草が短くなる。森の匂いに、何か別の匂いが混じり始める。乾いた土。家畜の糞。それから――

 

煙。

 

ツノさんが、足を止めた。

 

目の前で、森が終わっていた。

 

その先には、なだらかな草原が広がっていた。夕日を浴びて、一面が金色に揺れている。草原の真ん中を、踏み固められた土の道が一本、まっすぐに伸びていた。

 

そして、道のずっと先。

 

木の柵と、石の壁に囲まれた、小さな町が見えた。

 

屋根がいくつも並んでいて、そこから細い煙が何本も、夕焼け空に向かって立ちのぼっている。

 

ハルトンだ。

 

「……あった」

 

『あった!』『にくのけむり!』『あれ、ぜんぶ、にくのけむり!』

 

「全部ではないと思う」

 

ツノさんが、そっと膝を折った。

 

降りろ、ということらしい。

 

『おおつのさん、もりから、でられないの』『もりのいきものだから』

 

「……そっか」

 

俺は、ぎこちなくツノさんの背中から滑り降りた。地面に足がつく。三日ぶりの地面だ。膝が少し笑った。

 

ツノさんの顔の前に回り込む。大きな琥珀色の目が、静かに俺を見下ろしていた。

 

俺は、その鼻先にそっと手を当てた。温かかった。

 

「ありがとう、ツノさん。……帰りも、乗せてくれる?」

 

ふすっ、と鼻息が手のひらにかかった。

 

『いつでもって』

 

精霊が通訳する。

 

『りあがかえってくるまで、ここでまってるって』

 

「いや、ずっと待ってなくていいから。森に帰ってていいから」

 

『……』

 

「なんで黙るの」

 

『まえのこのときも、ずっとまってたって』

 

俺は、言葉に詰まった。

 

八百年前。先代も、ここからこうして町へ向かったんだろうか。ツノさんは、そのたびにここで待っていたんだろうか。

 

そして、最後に先代が森から出なくなった時も。

 

「……ちゃんと帰ってくるよ」

 

気づいたら、そう言っていた。

 

「いつになるか分からないけど。ちゃんと、ここに帰ってくる」

 

ツノさんは、もう一度だけ鼻を鳴らすと、ゆっくりと立ち上がった。そして、名残惜しそうに一度振り返ってから、森の奥へ消えていった。

 

*

 

そこからが、地獄だった。

 

町まで、目測で二キロ。

 

前世なら、のんびり歩いて三十分の距離だ。

 

ハイエルフの体だと、こうなる。

 

歩く。息が切れる。座る。休む。また歩く。座る。

 

『がんばれ』『がんばれりあ』『あとちょっと』

 

「あとちょっとじゃないだろ、まだ半分も……はぁ……」

 

夕日が沈んでいく。空が茜色から紫に変わっていく。俺はほとんど這うようにして、土の道を進んだ。

 

でも、近づくにつれて、匂いが濃くなってくる。

 

煙の匂い。パンを焼く匂い。それから、脂が炭に落ちて、じゅっと焦げる匂い。

 

肉だ。

 

間違いなく、肉を焼いている匂いだ。

 

足に、力が戻った。

 

人間、いやハイエルフも、欲望があれば動けるものらしい。

 

*

 

町の門にたどり着いた頃には、空はすっかり暗くなっていた。

 

門の両脇にかがり火が焚かれていて、槍を持った兵士が二人立っている。その前に、荷馬車や農民らしき人たちが短い列を作っていた。

 

人間だ。

 

二週間ぶりに見る、耳の丸い人たち。日焼けした顔で、くたびれた服を着て、あくびをしたり、連れと笑い合ったりしている。

 

なんでもない光景なのに、無性に懐かしかった。

 

俺はフードをもう一度深くかぶり直して、列の最後尾に並んだ。

 

着いた。

 

本当に、着いた。

 

列が少しずつ進む。前の農夫が、兵士に何か札のようなものを見せて門をくぐっていく。

 

俺の番が来た。

 

ひげ面の兵士が、かがり火の明かりで俺を見下ろした。

 

「次。……ん? おい、そこのフードの」

 

「はい」

 

「身分証は?」

 

――身分証。

 

俺は、袖の中の葉っぱ十枚の感触を確かめながら、しばらく黙った。

 

持ってない。

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