世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
その朝のことを、わたくしは生涯忘れないでしょう。
夜明け前。いつものように扉の前で身を正し、いつものようにお声をおかけしました。
「リア様。お目覚めの刻限にございます」
お返事はありませんでした。
それ自体は、珍しいことではございません。リア様は朝がお得意ではないご様子で、三度ほどお呼びして、ようやく「……あと五分」とお答えになるのが常でした。五分というのがどれほどの時間なのか、わたくしには今も分かりませんが、とにかく、少しお待ちすればよいのだと心得ておりました。
ですが、その朝は、三度お呼びしても、何のお声もなかったのです。
「……リア様? 失礼いたします」
扉を開けました。
寝台は空でした。
窓が開いていて、夜明け前の冷たい風が、薄い帳を揺らしておりました。
そして、枕の上に、小さな羊皮紙が一枚。
*
その日の昼、長老会が開かれました。
大樹の根の広間に、里の長老方が全員お集まりになりました。わたくしは、リア様の手紙を胸に抱いて、その真ん中に座っておりました。
誰もが、青ざめておりました。
「我らの至らなさゆえに、御方が去られたのだ」
「八百年お待ちして、わずか二週で……」
「すぐに捜索の者を出すべきではないか。南の森は広い。御身はお弱い。もし、獣にでも――」
「なりません」
気づけば、わたくしは声を上げておりました。
長老方が、一斉にこちらを向かれました。
「リア様は、探さないでください、と書き遺されました」
わたくしは、手紙を広げてお見せしました。
「それも、二度。『本当に、探さないでください』と」
広間が、しんと静まり返りました。
やがて、最長老のオーベル様が、深く、深く息をつかれました。
「……御方の御言葉である」
しわがれたお声でした。
「御方が、探すなと仰せになった。ならば、我らは探さぬ。それが、御方にお仕えする者の道であろう」
長老方は、一人、また一人と、頭を垂れられました。
書記の者が、震える手で羽根ペンを走らせておりました。
『リア様、人の世を見るため旅立たれる。探すことを、固く禁じられる』
*
その夜、わたくしは、空になったリア様のお部屋におりました。
本来なら、わたくしのような者が、許しもなく足を踏み入れてよい場所ではございません。それでも、どうしても、ここにいたかったのです。
手紙を、何度も読み返しました。
少し、人間の町を見てきます。心配しないでください。探さないでください。本当に、探さないでください。
人間の文字ではなく、わたくしどもの文字で書かれておりました。ところどころ、筆の運びがぎこちなく、何度も書き直された跡がございました。
ふと、数日前の夜のことを思い出しました。
御髪をお梳きしていた時、リア様はお尋ねになったのです。
――もし、私がここからいなくなったら。どうします?
わたくしは、笑ってお答えしました。冗談をおっしゃっているのだと思ったのです。
冗談では、なかったのですね。
あの時、リア様は、本当にお尋ねになっていたのです。
それからもうひとつ、思い出したことがございました。
森の木苺を召し上がっていた時の、あのお顔です。
口元を赤く染めて、目を潤ませて、とても、とても嬉しそうなお顔でした。
神殿でお過ごしになった二週間。リア様があのようなお顔をなさったのは、あれ一度きりでした。
朝の歌の時も。御食事の時も。謁見の時も。リア様は、いつも少しだけ困ったようなお顔で、わたくしどもを見ておられました。
わたくしは、それに気づいていたのでしょうか。
気づいていて、見ないふりをしていたのでしょうか。
八百年かけて整えたこの神殿が、リア様にとって何であったのか。考えるのが、怖かったのでしょうか。
窓の外で、精霊たちの気配が揺れておりました。わたくしには、そのお声は聞こえません。けれど、どこか寂しげに漂っているように感じられました。
わたくしは、長いこと、そこに座っておりました。
*
そして、夜が白み始める頃。
わたくしは、ひとつの結論にたどり着いたのです。
リア様は、探さないでください、と仰せになりました。
ならば、わたくしは探しません。決して。
ですが。
わたくしが、巫女として人の世を見聞しに出かけることは、禁じられておりません。
そして、その見聞の途中で、偶然、どこかの町で、リア様にお会いすることも。
どこにも、禁じるとは書かれておりません。
「……はい」
わたくしは、深く頷きました。
「これは、探すのではございません。見聞でございます」
*
支度は、すぐに整いました。
巫女の杖。替えの衣。干した木苺をひと袋。人間との交易に使う翠玉の小石を、いくつか。
巫女の務めは、副巫女のリーネに託しました。リーネは泣きながら引き留めましたが、わたくしが「見聞でございます」と申し上げると、なぜか遠い目をして、何もおっしゃらなくなりました。
夜明けとともに、わたくしは里を出ました。
思えば、二百四十二年の生涯で、森の外へ出るのは初めてのことでございます。
不安がないと申せば、嘘になります。
けれど、胸の奥は、不思議と軽やかでした。
リア様も、あの夜、こんなお気持ちだったのでしょうか。
*
――その日の昼過ぎ。
森の中で立ち止まり、わたくしは、ひとつ大切なことに気がつきました。
南は、どちらでしたでしょうか。
里の中であれば、大樹を背にすれば迷うことはございません。ですが、森の奥深くでは、どの木も同じように見えるのです。
わたくしは、近くを漂っていた精霊の気配に、そっと尋ねてみました。
「あの……人間の町は、どちらでしょうか」
精霊の気配が、ふわりと揺れました。
何か、答えてくださったようでした。
もちろん、わたくしには、まったく分かりませんでした。
「……大丈夫でございます」
わたくしは、杖を握り直しました。
「探しているわけでは、ございませんので」
そうして、たぶん南であろう方角へと、歩き出したのでございます。