世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
「身分証がない?」
ひげ面の兵士が、眉間にしわを寄せた。
「はい……あの、持ってないです」
「どこから来た」
「森から……」
嘘ではない。
兵士は、俺のフードの奥をじろりと覗き込んだ。フードの縁から、銀髪がひと房こぼれている。耳はたぶん隠れている。たぶん。
「……まあいい。身分証がないなら、入町税で銀貨一枚。それで三日間の仮通行証を出してやる。三日以内にどこかのギルドで登録するか、出ていくかだ」
銀貨一枚。
持っていない。この世界の銀貨を見たことすらない。
俺は袖の中に手を入れて、そっと葉っぱを一枚取り出した。大樹の落ち葉。黄金色と若草色が混じった、つやつやの葉。
「あの、これで……」
兵士は、俺の手のひらの上の葉っぱを、たっぷり五秒は見つめていた。
「……葉っぱ?」
「はい」
「葉っぱで、入町税を払うと?」
「……だめ、ですか」
兵士の額に、青筋が浮いた。
「おちょくってんのか、てめえ」
声が低くなった。後ろの列から、くすくす笑う声が聞こえる。
まずい。完全に怪しい奴だと思われている。いや、実際に怪しい奴なんだけど。
その時、肩の上で精霊がぴかっと光った。
『このひと、りあのこと、いじめた』
『いじめた!』『おこった!』
「待って、だめ、何もしないで」
小声で止めたが、遅かった。
ひゅう、と門の前を一陣の風が吹き抜けた。
兵士の兜が、すぽんと頭から外れて、宙を舞った。
からん、からん、と石畳の上を転がっていく。
「…………」
「…………」
兵士と俺は、無言で転がっていく兜を見送った。
「……なんだ、今の風」
「さ、さあ……」
俺は全力で目を逸らした。精霊たちは、満足げにくるくる回っていた。後で説教だ。
兵士が兜を拾いに行こうとした、その時だった。
「ゲイル。何揉めてんだ」
低い女の声が、後ろから聞こえた。
振り返ると、背の高い女の人が立っていた。
短く刈った赤毛。日焼けした肌。左の頬に、古い刀傷がひとつ。革の鎧はあちこち擦り切れていて、背中には、彼女の身長と同じくらいある大剣を背負っていた。
そして、左手に、ばかでかい猪の頭をぶら下げていた。
切り口からまだ血が滴っている。
「お、マルタか。いや、こいつが身分証もなしに、葉っぱで入町税を払うとか抜かしやがって」
「葉っぱ?」
赤毛の女の人――マルタさんは、俺の手のひらを見て、それから俺の顔を見た。フードの奥を、遠慮なく覗き込んでくる。
視線が、俺の耳のあたりで止まった。
あ、見えてる。耳、見えてる。
「へえ。エルフか。珍しいな」
心臓が跳ねた。
けど、マルタさんの声には、驚きも警戒もなかった。珍しい鳥でも見つけたような、それくらいの調子だった。
「森の端で薬草と塩を交換してる連中は、たまに見るけどな。町の中まで来るのは初めて見た。どうした、迷子か?」
「えっと……家出、みたいなものです」
嘘ではない。
マルタさんは、ふうん、と鼻を鳴らした。
それから、なぜか俺の顔をじっと見て、ぷっと吹き出した。
「あんた、腹減って死にそうな顔してるな」
「えっ」
「顔に書いてある。肉食わせろって」
図星すぎて、何も言い返せなかった。
マルタさんは、腰の革袋から銀色の硬貨を一枚取り出して、ゲイルさんに放り投げた。
「こいつの分。貸しだ」
「いいのかよ、マルタ」
「いいよ。どうせ猪の賞金が入る」
そう言って、マルタさんは俺の背中をばしんと叩いた。
痛い。この体には痛い。
「ほら、入りな。銀貨一枚、ちゃんと返せよ」
*
門をくぐると、そこは別世界だった。
石畳の通りの両側に、木と漆喰の家が並んでいる。窓という窓から、オレンジ色の灯りが漏れていた。通りには人があふれていて、荷車を押す人、籠を抱えた女の人、走り回る子どもたち、酒瓶を片手に肩を組んで歌う男たち。
うるさい。
人の声と、荷車の車輪の音と、どこかの店の呼び込みと、酔っ払いの歌声が、全部ごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
エルフの里は、静かだった。朝の歌以外は、いつも葉ずれと鳥の声しか聞こえなかった。
こっちは、雑で、騒がしくて、ちょっと臭い。
最高だった。
「市場はこっちだ。この時間なら屋台がまだ出てる」
マルタさんは、猪の頭をぶら下げたまま、ずんずん歩いていく。すれ違う人たちが、その猪を見て道を空ける。
俺は、その背中を必死に追いかけた。
すぐに、息が切れた。森の端から町まで歩いてきた足は、とっくに限界だった。
「はっ……はぁ……っ」
「……おい。大丈夫か、あんた」
「だい、じょうぶ、です……ちょっと、体が、弱くて……」
マルタさんは、膝に手をついて肩で息をする俺を、呆れたように見下ろした。
「よくそれで森から出てきたな」
本当にそう思う。
結局、マルタさんが歩く速さを落としてくれた。何度も立ち止まる俺を、文句も言わずに待ってくれた。
*
市場の広場には、屋台がずらりと並んでいた。
そして。
匂いが、した。
炭の上で、何かが焼けている匂い。脂が火に落ちて、じゅっと煙が立つ匂い。焦げた塩と、なにかの香草の匂い。
足が、勝手に止まった。
広場の隅の屋台で、腕の太いおじさんが、串に刺した肉を炭火の上で転がしていた。木の板の看板に、下手くそな字でこう書いてある。
『角兎の串焼き 銅貨三枚』
「…………」
俺は、たぶん、ものすごい顔をしていたんだと思う。
マルタさんが、また吹き出した。
「親父、二本」
「あいよ」
銅貨が渡されて、串が二本、差し出される。マルタさんは一本を自分で持って、もう一本を俺の前に突き出した。
「ほら」
「え、でも、お金――」
「これも貸しにしといてやる。いいから食え。見てるこっちが腹減る」
俺は、両手で串を受け取った。
熱い。
茶色い焼き目のついた肉の塊が、五つ刺さっている。表面で脂がぷつぷつと泡を立てていた。粗い塩の粒が、灯りを受けてきらきら光っている。
口を開けて、かぶりついた。
――熱い。
最初に、それが来た。舌が焼けそうに熱い。
それから、塩。粗くて、しょっぱくて、舌の上でじゃりっと砕ける。
それから、肉。
噛んだ瞬間に、脂がじゅわっとあふれた。歯ごたえがある。少し筋っぽい。焦げたところが苦くて、香ばしい。鼻に抜けていく、炭の煙の匂い。
雑な味だった。
前世で食べたどんな焼き鳥より、たぶん質は悪い。下処理も適当だし、塩も振りすぎだし、ところどころ生焼けだ。
なのに。
「…………っ」
前が、見えなくなった。
目から、ぼろぼろと何かがこぼれていた。
止まらなかった。二口目をかじりながら泣いた。三口目をかじりながら、もっと泣いた。
腹は減っていない。この体は、朝露と花びらで足りる。肉なんて必要ない。
でも、これだ。俺が欲しかったのは、これなんだ。
仕事帰りにコンビニで買った唐揚げ。終電を逃した夜に入った、汚い立ち食いそば屋。徹夜明けの朝、同僚と行った牛丼屋。
疲れて、腹が減って、雑なものを食って、うまいって思う。
そういう、どうでもいい、生きてる感じ。
「……おい」
マルタさんが、困ったような顔で俺を見ていた。
「泣くほどか?」
俺は、肉を口いっぱいに詰め込んだまま、こくこくと頷いた。
「なくほろ、れす」
一瞬、間があって。
マルタさんは、腹を抱えて大笑いした。
広場中に響くような、豪快な笑い声だった。屋台のおじさんまでつられて笑っていた。
「あっははは! なんだあんた、変なやつだな!」
「……すみません」
「いや、いい。いいよ。うまそうに食うやつは嫌いじゃない」
マルタさんは目尻の涙を拭いながら、自分の串にかぶりついた。
「親父、もう二本」
「あいよ!」
俺の手に、二本目の串が押しつけられた。
*
結局、串焼きを三本食べた。
体はまったく満腹にならなかったが、心は破裂しそうなくらい満たされていた。
「で」
広場の隅の石段に腰かけて、マルタさんが言った。
「あんた、名前は」
「リアです」
「リアね。あたしはマルタ。この町で冒険者をやってる。で、リア。泊まるところ、決まってないだろ」
「……はい」
「金もないんだろ」
「……葉っぱなら、十枚」
マルタさんは、また吹き出しかけて、なんとかこらえた。
「あたしの定宿、まだ部屋が空いてたはずだ。宿代は、まあ、出世払いでいい」
「え。いや、そこまでしてもらうわけには」
「いいって。ここで放り出して、明日あんたが路地裏で干からびてたら、寝覚めが悪いだろ」
マルタさんは、猪の頭をひょいと担ぎ直して、立ち上がった。
「ほら、行くぞ。ゆっくりでいいから」
俺は、その背中を見上げた。
生まれて二週間。財産、葉っぱ十枚。借金、銀貨一枚と、串焼き三本分。
それでも、今が一番、生きている気がした。