世界樹から実ったハイエルフ(中身は元社畜)、八百年ぶりの上位種として崇められていますが、人間の町でのんびり暮らしたいだけです 作:月白イツキ
マルタさんの定宿は、市場から少し外れた路地にあった。
二階建ての、古い木造の建物だ。入口の上に吊るされた看板には、跳ねる鹿の絵が彫ってある。
跳ね鹿亭。
鹿か。ツノさんを思い出して、ちょっとだけ胸がきゅっとなった。看板の鹿は、ツノさんの十分の一くらい貧相だったけど。
扉を開けると、熱気と喧騒が押し寄せてきた。
一階は食堂になっていて、長いテーブルがいくつも並んでいる。その全部が、男たちで埋まっていた。革鎧の男。剣を壁に立てかけた男。腕に包帯を巻いた男。みんな顔を赤くして、木のジョッキを打ち鳴らしながら大声で笑っている。
冒険者だ、と直感で分かった。ゲームで見た酒場そのままだった。
「ハンナさん! 猪、獲ってきた!」
マルタさんが猪の頭を掲げると、食堂中から歓声が上がった。
「おお、マルタ!」 「でけえな!」 「明日の煮込みは猪だな!」
厨房の奥から、恰幅のいい中年の女の人が出てきた。白い前掛けに、袖をまくり上げた太い腕。
「まあまあ、立派なのを。ご苦労さん、マルタ。……おや?」
女将さん――ハンナさんの目が、マルタさんの後ろに隠れていた俺に止まった。
「その子は?」
「拾った」
「拾った!?」
「門のとこで、葉っぱで入町税払おうとしてた」
ハンナさんは、俺の顔をまじまじと見た。フードの奥を覗き込むようにして、それから、なぜか眉を八の字にした。
「まあ……こんなに痩せっぽちで、真っ白な顔して。あんた、ちゃんと食べてるのかい?」
「さっき、串焼きを三本」
「三本じゃ足りないよ! 座りな、座りな。何か持ってくるから」
「いや、あの、お金が」
「マルタにつけとくよ!」
「おい」
マルタさんの抗議は、ハンナさんの背中に跳ね返されて消えた。
*
出てきたのは、木の椀に山盛りの煮込みだった。
豆と、根菜と、ぶつ切りの腸詰めが、茶色いスープの中でごろごろしている。それから、拳くらいの大きさの黒パン。木のジョッキに、泡の立った琥珀色の液体。
「エールだ。飲めるか?」
マルタさんが自分のジョッキを持ち上げる。
飲めるかって?
俺は、ジョッキを両手で持ち上げた。
前世で、毎晩のように夢見ていたものだ。仕事終わりの、冷えたビール。
口をつけて、ぐっと傾けた。
――ぬるい。
まず、それだった。冷えていない。常温だ。
それから、酸っぱい。苦い。炭酸はほとんどなくて、舌の上でもったりと重い。麦の匂いが、ビールよりずっと強い。
ビールじゃない。
でも。
ビールの親戚くらいではある。
「……ぷはっ」
思わず、変な声が出た。
喉を、ぬるくて苦い液体が落ちていく。胃のあたりが、ほわっと温かくなる。
うまい、と思った。
冷えたビールとは全然違うけど、これはこれで、ちゃんとうまい。
「おお、いける口か」
マルタさんがにやりと笑って、自分のジョッキを俺のジョッキにごつんとぶつけた。
「乾杯。リアの家出に」
「……乾杯」
二口目を飲んだ。
三口目を飲んだ。
ジョッキの半分くらいまで飲んだところで、世界が、ぐらりと傾いた。
「…………あれ?」
テーブルが、ゆっくりと波打っている。いや、テーブルじゃない。俺の頭が揺れている。ランプの灯りが、ふたつに見える。顔が熱い。耳まで熱い。
「おい。リア?」
「……マルタさんが、ふたり、いる」
「は?」
「ふたりとも、いい人……」
マルタさんは、半分しか減っていない俺のジョッキと、俺の顔を、交互に見た。
「……嘘だろ。半分で?」
嘘じゃないんだ、これが。
ハイエルフの体は、どうやら酒にものすごく弱いらしい。朝露と花びらで動く体に、アルコールは刺激が強すぎたのかもしれない。
『りあ、へん』『ぐるぐるしてる』『だいじょうぶ?』
精霊たちが、心配そうに顔の周りを飛び回る。大丈夫だ。たぶん。気持ちいいくらいだ。
マルタさんが、腹を抱えて笑い出した。
「あっはは! エルフって酒弱いのか! 知らなかった!」
周りのテーブルの冒険者たちまで、こっちを見てげらげら笑っている。
俺は、熱い顔を両手で押さえながら、煮込みをすすった。
塩辛くて、腸詰めの脂がしみ出していて、豆がほくほくしていた。
うまかった。
*
「で、リア。明日からどうするんだ」
二杯目のエールを空けながら、マルタさんが聞いた。俺の方は、ハンナさんが持ってきてくれた水をちびちび飲んでいる。
「どうする、って……」
「金がない。身分証もない。仮通行証は三日で切れる。何か当てはあるのか」
当て。
肉を食うことしか考えていなかった。
俺の沈黙で、だいたい察したらしい。マルタさんは、テーブルに肘をついて、指を一本立てた。
「冒険者ギルドで登録しな。それが一番手っ取り早い」
「冒険者……」
「登録すりゃ、ギルドの札が身分証になる。一番下のF級なら、試験もいらない。薬草採りとか、荷運びとか、ドブさらいとか、そういう依頼をこなせば、食うくらいの金にはなる」
F級。薬草採り。ドブさらい。
なんだろう。ものすごく、聞き覚えのある響きだった。
ネット小説で百回は読んだやつだ。
「ついでに教えといてやる。銅貨百枚で銀貨一枚。銀貨百枚で金貨一枚。串焼きが銅貨三枚。この宿が一泊銅貨三十枚、飯つき」
「……ってことは、私の借金は」
「入町税の銀貨一枚。串焼き三本で銅貨九枚。今夜の宿と飯で、銅貨三十枚」
銅貨、百三十九枚。
生まれて二週間で、借金百三十九枚。
「返せよ」
「……はい」
マルタさんは、満足げにエールをあおった。
「あと、登録の時に魔力の測定がある。水晶に手をかざすだけだけどな。エルフなら、魔法の適性くらいあるんじゃないか」
――魔力測定。
酔いが、少しだけ醒めた。
まずい。それは、まずいかもしれない。
ハイエルフの魔力がどれくらいなのか、俺は知らない。でも、エルフたちが八百年崇め続けてきた種族だ。普通のエルフと同じってことは、たぶんない。
水晶が割れたりしたら、どうする。
ネット小説だと、だいたい割れる。
「……マルタさんは、冒険者、長いんですか」
話を逸らした。
「十五で村を出てからだから、もう十三年か。今はC級」
「C級って、すごいんですか」
「まあ、この町じゃ上の方だな。辺境だから、B級以上はほとんどいない」
「ひとりで?」
マルタさんの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……前は、四人でやってた」
ジョッキの中を、じっと見つめている。
「解散した。今は、ひとりだ」
それ以上は、言わなかった。
俺も、それ以上は聞かなかった。
前世で学んだことがある。人が話を切った場所には、だいたい理由がある。そこに踏み込むのは、もっと仲良くなってからでいい。
「……マルタさん」
「ん」
「マルタさんは、いい人ですね」
「うるせえ、酔っ払い」
マルタさんは、ぶっきらぼうに言って、そっぽを向いた。
耳が、ちょっとだけ赤かった。エールのせいかもしれないけど。
*
その時だった。
『りあ』
肩の上の精霊が、窓の方を指すように光った。
『あのこ』
振り返る。
食堂の窓の外。暗い路地に、小さな影がひとつ立っていた。
子どもだった。
十歳か、十一歳くらい。ぼさぼさの茶色い髪に、穴だらけの服。裸足。痩せこけた頬。
その子は、窓ガラス越しに、食堂の中をじっと見ていた。
テーブルの上の煮込みを。黒パンを。冒険者たちが食べ散らかした、骨つき肉を。
瞬きもせずに。
「こらっ! またあんたかい、トビ!」
ハンナさんが、厨房から飛び出していった。窓の外の子どもは、びくっと肩を跳ねさせて、あっという間に路地の暗がりに消えた。
「まったく、もう……」
戻ってきたハンナさんは、怒っているというより、困ったような顔をしていた。
「あの子、去年の冬に面倒見てた婆さんが死んじまってね。それから、ずっとひとりで路地をうろうろしてるんだよ。たまにパンの端っこをやるんだけど、うちだって、町中の孤児を食わせてやれるほど余裕はないからね……」
ため息をついて、ハンナさんは厨房に戻っていった。
『あのこ、おなかすいてる』
精霊が、ぽつりと言った。
『ずっと、すいてる』『きのうも、きょうも』
俺は、手の中のジョッキを見下ろした。
腹の減らない体で、串焼きを三本食べて、煮込みを一杯食べて、うまいうまいと泣いていた。
その間、窓の外で、腹を減らした子どもが、ずっと見ていた。
酔いが、すっかり醒めていた。
*
あてがわれたのは、屋根裏の小さな部屋だった。
天井が斜めで、まっすぐ立つと頭がつかえそうになる。寝台は、木の枠に藁を詰めた袋を載せただけのものだ。横になると、藁がちくちくと背中を刺した。
小さな窓から、星が見えた。
下の通りから、酔っ払いの調子っぱずれな歌声が聞こえてくる。どこかで犬が吠えている。隣の部屋から、誰かのいびきが壁越しに響いてくる。
エルフの神殿の寝台は、花びらを詰めた絹の袋だった。いい匂いがして、ふかふかで、静かだった。
こっちは、ちくちくして、うるさくて、ちょっと埃っぽい。
千年の神殿より、ずっといい。
心から、そう思った。
思ったんだけど。
目を閉じると、窓の外に立っていた、あの子の顔が浮かんだ。
瞬きもしないで、煮込みを見ていた目。
『りあ、ねないの?』
枕元で、精霊たちが丸くなっていた。
「……寝るよ」
俺は、藁の寝台の上で寝返りを打った。
明日は、ギルドだ。
金を稼がないといけない。借金を返さないといけない。
それから。
それから、たぶん、あの子にも何か食わせてやりたい。