父さんがナナホシに会いに行くと聞いた時、俺はちょうど、豚肉にパン屑を押しつけていた。
「父さん。俺も行きたい」
「いいですけど、まず、その手をどうにかしましょうか」
見下ろすと、指が五本とも衣を着ていた。肉より先に俺が揚げ物になる準備を終えている。
「右手と左手で役目を分けるといいよって、言ったよね?」
隣でアイシャ姉さんが笑う。
「途中から、どっちがどっちだったか」
「じゃあ、粉の皿をそっちに寄せようか。手の動かし方を決めちゃえば、考えなくてもできるようになるから」
言いながら、姉さんは皿を並べ直した。
傭兵団の帳簿を片づけた帰りだというのに、俺の手元を一目見ただけで、問題が分かってしまう。
十五人分のラーメンを作った経験は、指に貼りついたパン粉を自動で落としてくれない。
「何を作ってるんです?」
「カツ」
「ほう」
父さんの目が肉に向いた。
「それは、ソースをかける予定ですか。それとも」
「卵でとじる」
「ジーク」
肩に手を置かれた。
「お父さんの分もありますね?」
「今、ナナホシさんのところに行く話をしてたんだけど」
俺が言うと、アイシャ姉さんが吹き出した。
*
ナナホシは今、空中城塞ケイオスブレイカーにいる。
元の世界へ帰るために。
その時を待てるように。
月に一度だけ目を覚ます彼女を、父さんは訪ねている。研究に関わる話をしたり、日本の料理を持っていったりするのだという。
俺は彼女を知っていた。
前世で病院のベッドに横たわりながら読んだ、物語の登場人物として。
もっとも、その知識を口にするときには気をつけている。
ここが『無職転生』という物語で読んだ世界であることも、覚えている出来事も、父さんには既に話してある。
けれど、俺が覚えている文章は、目の前で生きている人の一日を全部書き留めたものではない。
ナナホシが今日、何を食べたいか。
それは、俺の記憶には載っていなかった。
夜、父さんの書斎に入り、扉を閉めた。
他に誰もいないことを確かめてから、日本語で聞いた。
『カツ丼を持っていったら、食べてくれるかな』
『多分、喜ぶとは思う。ただ、せっかくなら向こうで作らせてもらうか』
『向こうで?』
『揚げて卵でとじてから運ぶと、時間がかかるだろ』
まさに、それで悩んでいた。
味噌ラーメンもそうだったが、出来上がってからの料理は忙しい。麺は伸びるし、揚げた衣は湿気る。魔力があっても、食べ頃を巻き戻す魔術は使えない。
『厨房を借りられるか聞いておくよ。ナナホシには、お前も一緒に来るって伝えておく』
『うん。今回は料理の話をしに行くって』
俺の前世については、ナナホシも既に知っている。
父さん、オルステッド、ペルギウス様を含めた四人にだけ、話してあることだった。
父さんは頷き、それから俺の顔を覗いた。
『ジーク。何かしてやらなきゃって、頑張りすぎなくていいからな』
病室の窓を思い出していた俺は、顔を上げた。
『飯を食いに行くつもりでいい。俺も毎回、気の利いたことを話せてるわけじゃない』
『父さんでも?』
『そうだよ』
父さんは手帳を開いた。
俺も献立を書いた紙を持って、その隣に座った。
*
訪問の許可が出るまでの数日間、我が家ではカツの試作が続いた。
唐揚げの経験は役に立った。
けれど、パン粉を強く押しつけすぎた一枚は、赤ママに「鎧みたいね」と言われた。
「噛める?」
「噛めるけど、肉までなかなか届かないわね」
俺は肩の力を抜いた。
横からアイシャ姉さんが、衣の剥がれたところを指す。
「こっちは、お肉が濡れてたんじゃない? 拭いてから、潰さないようにつけてみて」
力の強さばかりでは解決しない。
稽古の時と同じだった。
そうしてようやく揚げたカツを、今度は煮汁に入れなければならなかった。
揚げたては、切るだけでざくりと音がする。
湯気を上げる断面には肉汁が浮き、端から剥がれた小さな衣を口に入れると、それだけで次の一口が欲しくなる。
これを、わざわざ濡らす。
「そのまま食べちゃ駄目なの?」
アルス兄さんが聞いた。
まったく、もっともな疑問である。
俺だって同じことを考えていた。
「カツ丼にするから」
「でも、もううまいよ」
兄さんは次の端切れに手を伸ばした。
「完成させる分がなくなる」
「じゃあ、失敗したやつは俺な」
失敗作の予約が入った。
前世の俺は、カツ丼を食べたことがない。
写真と動画で知っているだけだった。
だから、最初に作ったものが正解かどうか、自分では決められなかった。
煮汁にカツを沈め、卵を入れ、火が通るのを待つ。
用心して待ちすぎた結果、衣は汁を吸ってふくらみ、卵は細かく固まり、全部をご飯に移す時には肉から衣がずれ落ちた。
うまかった。
肉と醤油と卵とご飯なので、それはもう、うまかった。
でも、俺の知っている写真とは違う。
「肉と衣が、別々の料理になりかけてますね」
父さんの感想はひどかったが、言いたいことは分かった。
そこで、アイシャ姉さんに手伝ってもらい、煮汁の量と火にかける時間を変えたものを作った。
醤油も、砂糖も、先に器で量る。
乾燥した魚から取っただしは、父さんの記憶にあるものと香りが少し違うそうだ。それでも玉ねぎと合わせると、俺には十分、腹が鳴る匂いになった。
「衣の上のほうに、揚げた感じが残ってるのが好きなんだね」
姉さんに言われ、食べ比べた。
下は煮汁を吸ってやわらかく、上には噛んだ時の軽い抵抗がある。
俺の好きな加減が、ようやく分かった。
俺は慌てて紙に書いた。
そこへ、ルーシー姉さんが通りかかった。
紙を覗き、皿を見て、それから俺に尋ねる。
「ジーク、それ、誰に作るの?」
「父さんの友達。今度、父さんと会いに行く」
「……二人で?」
頷くと、姉さんは紙から目を離した。
しまった、と思ったが、何を言い足せばいいのか分からない。
「わたしが一緒でも、分からない話ばっかりだろうしね」
「今回は、ご飯を作るだけだよ」
「そう」
姉さんは食器棚を見た。
少し黙ってから、上の段を指す。
「あの蓋のある器、持っていけば? 前に青ママがお客さん用に買ったやつ」
「いいのかな」
「聞けばいいでしょ。わたし、出しておくから」
「重いから、俺が」
「ジークが持てるのは知ってる」
言い方が少し硬くなった。
俺は伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……じゃあ、お願い」
「うん」
姉さんは踏み台を持ってきて、器を一つずつ下ろした。
俺は受け取る役をした。何かを説明するより、そのほうが少しだけ楽だった。
俺は紙の端に、器、と書き足した。
兄さんの席には、形の崩れたカツを一切れ置いておいた。
*
出発の朝、白ママは俺の襟を直した。
「ご挨拶、ちゃんとできる?」
「できる」
「走り回らない?」
「……広かったら、少し」
「ジーク」
即座に名前を呼ばれた。
「父さんに聞いてから」
「うん。それと、疲れたらちゃんと言うこと」
白ママは俺の髪を耳の後ろへ整えた。
一度離れた指が、また緑の毛先へ戻ってくる。
「向こうで、何か嫌なことがあったら――」
「シルフィ。俺が一緒にいますから」
父さんが隣へ来た。
白ママは父さんを見上げ、息をついて頷いた。
「うん。……楽しんでおいで」
俺に向けた笑顔は、さっきより少しやわらかかった。
赤ママには、出発前だからと稽古を軽くしてもらった。
本人は軽くしたと言っていた。
俺の脚は、その意見に少し異論があった。
青ママは、荷物の一番上に入れた小鍋を確認した。
五歳の誕生日に買ってもらった一式のうち、一番よく使っている鍋だ。二つの聖級魔術を覚えて手に入れたわりに、鍋自体には何の魔術もかかっていない。
でも、俺の手にはこの柄が一番しっくりくる。
「向こうの設備が立派でも、初めて使う鍋では勝手が違いますからね」
「うん。卵を入れる鍋は、これにする」
アイシャ姉さんの作った荷物の一覧には、食材の横に人数と予備の数が書かれている。
父さんはそれを見て、小さく感心していた。
「ナナホシと俺とジークで三人。なのに、肉は六枚ですか」
「ペルギウス様が召し上がるかもしれないって、お兄ちゃんが言ったんでしょ」
「ええ。言いました」
「残りは?」
「失敗した時の予備と、父さんのおかわり」
俺が答えると、父さんは神妙に頷いた。
「立派になりましたね、ジーク」
荷物を背負って家の外に出た時、頬に当たった冷たい空気が気持ちよくて、俺は一度だけ大きく伸びをした。
今日は、空に浮かぶ城に行く。
そこに住んでいる人と、飯を食うために。
*
転移した先の床は、靴音がよく響いた。
父さんの後について廊下を進み、外が見えた瞬間、俺は立ち止まった。
雲があった。
窓の下に。
庭の向こう、石造りの縁を越えた先に、白い雲がどこまでも広がっていた。雲の切れ目には、ずっと下の地面が小さく見えている。
絵ではない。
ゆっくり流れている。
「父さん。これ全部、どうやって浮かせてるの?」
足元の石を見た。
風の影響は。魔力はどこに流れているのか。
次々に質問しかけた俺を見て、父さんは笑った。
「料理が終わったら、見て回れるかお願いしてみましょう」
「絶対?」
「お願いはします。今はご挨拶が先です」
先を歩く仮面の女性が、こちらを振り返った。
シルヴァリルさんだ。
俺は慌てて背筋を伸ばした。
好奇心で走り出す前に止まれたので、白ママとの約束はまだ守れている。
案内された先には、銀髪の男がいた。
ペルギウス・ドーラ。
俺の秘密を知り、俺に名前をくれた人でもある。
「サラディンか」
低い声で呼ばれた。
「はい。ジークハルト・サラディン・グレイラットです。今日は、お招きいただきありがとうございます」
練習した通りに頭を下げる。
赤ん坊の時にもここへ来ている。
その時の記憶は、見上げる大人の顔と、抱き上げられた感覚が、いくつか残っているくらいだった。
自分の足で立って挨拶するのは、ずいぶん違う。
「水と風の聖級魔術を修めたと聞いている」
「はい」
「ルーデウス。ずいぶん早くから教えたものだな」
「本人がやりたがりまして。最近は、こちらが見張っていないと鍋のほうに行ってしまいますが」
ペルギウス様の視線が、俺の持っている包みに落ちた。
「その鍋か」
「はい。今日は、これを使います」
料理をするために来たことは、父さんから話が通っている。
それでも口に出してみると、何だか妙な感じがした。
空を飛ぶ城の主に、小鍋の説明をしている。
「何を作る」
「カツ丼です。揚げた肉を、卵でとじて、ご飯にのせます」
「揚げたものを、さらに煮るのか」
「少しだけです。煮すぎると、衣が全部やわらかくなってしまうので」
俺はそこで言葉を切った。
アルス兄さんにもした説明を、この人にまで始めていた。
けれど、ペルギウス様は笑わなかった。
「出来上がったものを見てみよう」
「お口に合えば、召し上がってください。四人分は、失敗しなければ作れます」
隣で父さんが、少しだけ咳をした。
*
ナナホシは窓際の席にいた。
黒い髪。
黒い目。
机の上に置かれた、書き込みのある紙。
俺たちが入ると、持っていた筆を置いた。
案内を終えたシルヴァリルさんが退出し、父さんが扉を閉める。
個室に残ったのは、事情を知っている三人だけだった。
『……本当に、こんなに大きくなったのね』
その声を聞いた瞬間、俺の中にあった「知っている人」の輪郭が、少し変わった。
実際の声には、読むだけでは分からない間がある。
目を合わせたあと、何を言おうか迷う時間も。
『こんにちは。ジークです』
『こんにちは。ナナホシよ』
彼女は俺の高さまで少し視線を下げた。
それから父さんを見て、また俺を見る。
『日本語、ちゃんと話せるのね』
『普段、父さんと二人きりの部屋でしか使わないから、ちょっと緊張する』
『そこは僕への信頼が欲しいところですね』
父さんが言うと、ナナホシは口元を緩めた。
ナナホシは俺が十一歳で死んだことも、病院の外へほとんど出られなかったことも知っている。
だからといって、会うたびその話をする必要はない。
彼女が次に見たのは、俺の小鍋だった。
『今日はカツ丼なんですって?』
『うん。卵でとじるやつ。食べられそう?』
『食べたい。朝から、それを楽しみにしてた』
胸のあたりが、ふわりと軽くなった。
作っていい。
それどころか、待っていてくれた。
『玉ねぎ、入れてもいい?』
『むしろ多めにしてほしい』
『卵は?』
『ちゃんと固まってるほうが好き。でも、ぱさぱさは嫌』
『分かった。ご飯は、大盛りと普通と』
『最初から大盛りを勧めるの、やめなさい』
父さんが笑った。
俺は紙を出して、玉ねぎ多め、卵しっかり、と書いた。
その字をナナホシが覗き込む。
『日本語で書いてるのね』
『料理の名前は、こっちの言葉だと分かりにくいから』
彼女の指が、紙の上で止まった。
『……「玉」が「王」になってる』
『えっ』
見ると、本当だった。
王ねぎ多め。
何だそれは。どこの王族の野菜だ。
父さんまで覗き込み、笑うのを我慢して肩を震わせた。
俺は急いで点を足した。
日本語で書いたほうの紙は、ここで畳んで鞄にしまった。
人前の厨房へ持っていくのは、共通語で書き直した手順のほうだ。
*
借りた厨房には、家よりずっと広い作業台があった。
通路の向こうで城の者が働いている。部屋を出た時点で、俺たちは共通語に戻っていた。
最初に踏み台を置く。
その上に立ってみて、足の裏が落ち着くのを確かめる。
鍋を置く場所、熱い油から離れた場所、食器を並べる場所を決める。
十五人前のラーメンを作った時には、途中で何もかも手が回らなくなった。
今日は四人分だ。
そのかわり、初めての台所である。
「父さん。ご飯をお願い」
「任されました」
「こっちの鍋は、俺が使うから」
「はいはい。勝手に蓋を開けたりしません」
父さんは米の鍋の前に座った。
ナナホシは、油が跳ねない位置に椅子を持ってきていた。
「見ていてもいい?」
「うん」
少し緊張する。
けれど、自分の料理を楽しみにしている人がそこにいるのは、嬉しかった。
肉の水気を拭き、筋のあるところに包丁を入れる。
粉は薄く。
余った粉を落とし、卵にくぐらせる。
右手と左手を間違えない。
パン粉は押し潰さない。
油の様子を確かめてから、肉を入れた。
しゃあ、と音が立つ。
細かい泡が肉の周りを囲み、乾いたパンの匂いが、急に香ばしいものへ変わった。
「本当に料理してる……」
「父さんは何て説明したの?」
「料理が好きな息子って」
「だいたい合ってる」
魔力を流し、火の勢いを少し抑える。
肉を入れて下がった温度を戻したあと、そのまま火を強くし続けると、今度は衣ばかりが色づく。
唐揚げで何度もやった失敗だ。
鍋底に当たる炎を、細く、均等に保つ。
これは楽しい。
油の音が変わると、自分の魔術が鍋の中につながっているのが分かる。
ただ、楽しくなって火だけを見てはいけない。
肉も見る。
隣で玉ねぎが煮えている小鍋も見る。
「お前、鍋の前だと顔つきが変わるな」
父さんが言った。
「焦がしたら、やり直しだから」
「魔術の練習では、やり直しを嫌がらないだろ」
「食べられる時間が遅くなる」
ナナホシが、今度は声を出して笑った。
揚がったカツを引き上げる。
網の上で休ませ、その間に次を揚げる。
四枚を並べると、厨房がすっかり揚げ物の匂いになった。
ナナホシの顔が、少しこちらへ寄った。
「その端っこ、味見していい?」
「いいよ」
小さく切って、皿にのせる。
彼女は少し冷ましてから口に入れ、ゆっくり噛んだ。
「あ、ちゃんとトンカツ」
「よかった」
父さんにも一切れ渡した。
俺も食べる。
薄い衣が割れて、熱い肉汁が出た。うまい。これでご飯を食べたい。ソースも作りたい。
危うく目的を見失いかけて、小鍋へ向き直った。
玉ねぎが透き通っている。
甘辛い煮汁を少し舐め、蒸らし終えた米を一口もらって、一緒に食べた。
ちょうどいい。
揚げたカツを食べやすい幅に切り、形を揃えたまま小鍋へ移す。
下から煮汁を吸わせ、上に卵を回しかける。
全部を同じように混ぜてはいけない。
白いところ、黄色いところ。
それが少し残るように、手を止める。
蓋をして、待つ。
短い時間だった。
けれど俺は、今日ここまで歩いてきた廊下より、その時間を長く感じた。
中が気になる。
開けて確かめたい。
試作で何度も確かめたはずなのに、食べる人が隣にいるだけで、手が落ち着かなくなる。
ナナホシは何も言わず、俺と一緒に蓋を見ていた。
火を止める。
少し待つ。
蓋を取ると、湯気の向こうに、ふっくらした卵が見えた。
「父さん、ご飯」
「どうぞ」
温めておいた丼には、白い米がよそわれている。
柄を握り直す。
小鍋を傾け、煮汁、玉ねぎ、カツ、卵を一緒に滑らせる。
最後の端が引っかかった。
息を止めた俺の横から、父さんが何も言わず、へらを差し出した。
それでそっと押すと、カツは形を崩さず、ご飯の上に収まった。
できた。
ちゃんと、丼になった。
「お待たせしました」
俺はナナホシを見た。
「カツ丼です」
*
ナナホシは両手を合わせた。
「いただきます」
まず、卵の端を箸で切る。
その下の玉ねぎとご飯を一緒に持ち上げ、口へ運ぶ。
一度、噛んだ。
それから、丼を少し持ち上げ直した。
「……これこれ」
小さな声だった。
ナナホシは俺を見て頷いた。
「おいしい。卵、ちょうどいい」
息を詰めていたことに、そこで気づいた。
「よかった。先に食べてて。あと三つ作るから」
「うん。待ってると冷めちゃうしね」
遠慮して箸を止められるより、それが嬉しかった。
次の鍋に煮汁を入れる。
父さんがご飯をよそい、俺が卵を割る。
ナナホシがカツを噛む音を聞きながら、次の一杯を仕上げた。
ペルギウス様が来たのは、三杯目を丼に移している時だった。
料理は厨房に隣接した小食堂へ運んだ。
父さんが給仕を断り、扉を閉める。席にいるのは父さん、ナナホシ、ペルギウス様、俺の四人だけだ。
俺も最後の自分の分を持って席についた。ナナホシは既に半分ほど食べていた。
ここなら秘密の話はできるが、食卓の会話は、そのまま全員に通じる共通語を使った。
「これが、カツドンか」
ペルギウス様が器を見下ろす。
用意された匙を取り、肉と卵をすくった。
噛む。
もう一口、ご飯を食べる。
俺は自分の箸を持ったまま、ついそちらを見てしまった。
「揚げた香りが残っているな」
「はい。上を全部、煮汁につけないようにしました」
「下の穀物と合わせて食べるための味付けか」
「そうです」
次に匙を入れた時には、肉の下からご飯も一緒にすくっていた。
隣の父さんは、既に頬を膨らませていた。
「父さんは?」
「うまい」
短かった。
けれど、口が空くのを待って答えたあと、すぐ次を食べたので、それ以上は聞かなくてよさそうだった。
俺も、ようやく箸を入れた。
カツを一切れ。
試作より大きく切ったから、五歳の口には少し大きい。丼の上で半分に噛み切ると、衣から甘辛い汁があふれた。
その下に、肉の脂の甘さがある。
卵が舌にやわらかく触れ、遅れて醤油の香りが鼻へ抜ける。
ご飯が欲しい。
すぐに追いかけた。
上のほうの米は煮汁を吸っていて、下のほうには白い粒が残っている。
一緒に食べると、濃いと思いかけた味が、ちょうどよくなった。
うまい。
もう一口。
今度は玉ねぎを多めに取る。
くたくたになった端と、まだ形のある真ん中で、噛んだ感じが違う。
これを、丼にいっぱい。
自分の分として食べていい。
それからペルギウス様は、盆に載せて持ってきた小皿を手元へ寄せた。
細く刻んだ、黄色いものが入っている。
柑橘の皮だった。
「それは?」
「肉料理に添える薬味だ」
指先でほんの少し取り、卵の上へ散らす。
熱い湯気に触れた途端、きりっとした香りが立った。
俺は丼を見た。
さっきまで完成したと思っていた料理が、知らない顔になっている。
「果汁はかけないんですか」
「まずは皮の香りだけでよかろう」
ペルギウス様は一口食べ、小皿をこちらへ滑らせた。
「試してみるか」
俺は頷き、自分の丼の端へ、二、三本だけのせた。
卵と一緒に食べる。
鼻の奥を、すっと香りが抜けた。
醤油の甘辛さも、肉の脂も残っているのに、後味が少し軽くなる。
続けて食べた玉ねぎは、さっきより甘く感じた。
「……これも、うまい」
「全部に載せなくてもよい。食べながら変えればいい」
俺は小皿と丼を交互に見た。
向こうの料理を知っている俺が、こちらの世界の人に、おいしい食べ方を教わっている。
ナナホシも少しだけ試し、目を丸くした。
「こういうカツ丼は、初めて」
「お前の国では、そうせぬのか」
「少なくとも、私が食べていたお店では」
ペルギウス様は頷き、何でもないことのように、次の一匙を口へ運んだ。
「ジーク、ほっぺた」
ナナホシが自分の頬を指した。
触ると、米がついていた。
急いで取った俺を見て、彼女が笑う。
「よっぽど好きなのね」
「うん。……多分、今まで作った中で、一番好きかも」
「味噌ラーメンの時にも、似たようなことを言ってましたね」
父さんの指摘には答えず、俺はもう一口食べた。
好きなものに、順位をつける必要はないと思う。
「お店で食べてたのは、もうちょっと甘かったかな」
ナナホシが、丼の中を見ながら言った。
「学校の帰りに寄ったところ。玉ねぎがいっぱい入ってて、友達は、肉より玉ねぎのほうが多いって文句言ってた」
「それでも行ってたの?」
「安かったから」
即答だった。
想像していたより普通の理由で、俺は少し笑った。
「ジークは、これも向こうでは食べられなかった料理なの?」
「うん。動画で見て、食べたかった。十一歳の誕生日にも、食べたいものの紙に書いた」
ナナホシは頷いた。
俺はご飯を飲み込んでから、続けた。
「だから、どうなったらカツ丼なのか、父さんに聞いてた。これで合ってるって言ってもらえて、よかった」
ナナホシは一度、父さんを見た。
父さんは何も言わず、味噌汁の椀を持ち上げた。
やがて彼女も、また箸を動かした。
「ちゃんとカツ丼よ。私の知ってるのより、お肉も厚いし」
「厚いほうがおいしそうだったから」
「それは正しい」
笑いながら、残っていた肉を一切れ食べる。
窓の外を、雲の影が流れていった。
俺はきっと、カツ丼を思い出す時、この窓と、この食卓も一緒に思い出す。
「……帰ったら、あのお店にも行こうかな」
ナナホシが呟いた。
父さんは椀を置いた。
俺は、箸でつかんだ玉ねぎを見た。
帰れるよ、と言いかけて、飲み込んだ。
俺が読んだ物語の知識では、彼女がその店の暖簾をくぐる日まで約束できない。
簡単に言っていい言葉には思えなかった。
「その時、どんな味だったか教えて」
代わりに、そう言った。
ナナホシは俺を見て、少し目を細めた。
「覚えてたらね」
「じゃあ、紙に書いといて」
「あなた、食べ物のことには厳しいのね」
そう言って、また一口、ご飯を食べた。
*
食後、俺は城の廊下を案内してもらった。
父さんについて廊下を歩き、雲の見える窓で足を止めた。
城の魔術については、知りたいことが増えただけだ。
それでも、自分の足で歩き回れただけで、満足だった。
ナナホシの部屋へ戻ると、父さんが扉を閉めた。ペルギウス様も一緒だった。
秘密を知る四人だけになってから、俺は鞄の中の献立の紙を取り出した。
それをナナホシが借り、何か書き足し始めた。
『借りたわよ』
『何を書いたの?』
『今日の感想。あなた、途中で忙しくなって、書けてなかったから』
紙には日本語で、玉ねぎはこのくらい、卵もちょうどいい、とあった。
その下に、もう一行。
次は、ラーメンも食べたい。
俺も紙の端に、柑橘の皮、と書き加えた。
揚げ物に添えると、ほかの料理にも合うだろうか。
『父さんから聞いた?』
『ええ。味噌味なんでしょう』
『うん。でも、麺が伸びるから、またここで作らないと』
『じゃあ、また厨房を貸してもらわなきゃね』
俺はペルギウス様のほうを見て、共通語で次も厨房を借りたいと伝えた。
「次も料理か」
「はい」
「先に日取りを知らせよ。突然、材料を抱えて来るのではない」
「ありがとうございます」
隣で父さんが頭を下げた。
俺も一緒に下げる。
ナナホシは、俺に紙を返した。
『ごちそうさま。おいしかった』
『お粗末さまでした』
その返事が照れくさくて、俺は紙を丁寧に畳むふりをした。
*
家に帰ると、ルーシー姉さんが器の包みを覗いた。
「割ってない?」
「うん。あの器、持っていってよかった。ありがとう」
「……そう」
姉さんは蓋を一枚確かめてから、俺に返した。
「なら、ちゃんと洗って戻してね」
返事をすると、姉さんは先に台所へ向かった。
その向こうから、アルス兄さんが顔を出した。
「どうだった?」
「すごかった。窓の下に雲があって、庭も広くて」
「そっちじゃなくて、カツ」
俺は口を閉じた。
兄さんは、俺の持っている包みを見ている。
「……肉、まだある?」
「一枚分、残ってる」
「じゃあ、それ」
父さんのおかわり用だったが、父さんは食べすぎを気にして辞退した。
失敗に備えた一枚は、厨房で切り分けて味見したので、残りは一枚だ。
俺は頷いた。
「半分こ?」
「お前、食べてきたんだろ」
「でも、兄さんには、まだちゃんと一杯作ってないから」
言ってから、変な理由だったかなと思った。
兄さんは少し黙り、それから包みを受け取った。
「じゃあ、ご飯は多めな」
「うん」
台所へ向かう兄さんの後を追いながら、俺は腹に手を当てた。
まだ、入る。
今日の俺は、ずいぶん歩いたのだ。