魔導王の息子は、今日も腹ペコ   作:54s

3 / 3
カツ丼

 父さんがナナホシに会いに行くと聞いた時、俺はちょうど、豚肉にパン屑を押しつけていた。

 

「父さん。俺も行きたい」

「いいですけど、まず、その手をどうにかしましょうか」

 

 見下ろすと、指が五本とも衣を着ていた。肉より先に俺が揚げ物になる準備を終えている。

 

「右手と左手で役目を分けるといいよって、言ったよね?」

 

 隣でアイシャ姉さんが笑う。

 

「途中から、どっちがどっちだったか」

「じゃあ、粉の皿をそっちに寄せようか。手の動かし方を決めちゃえば、考えなくてもできるようになるから」

 

 言いながら、姉さんは皿を並べ直した。

 傭兵団の帳簿を片づけた帰りだというのに、俺の手元を一目見ただけで、問題が分かってしまう。

 十五人分のラーメンを作った経験は、指に貼りついたパン粉を自動で落としてくれない。

 

「何を作ってるんです?」

「カツ」

「ほう」

 

 父さんの目が肉に向いた。

 

「それは、ソースをかける予定ですか。それとも」

「卵でとじる」

「ジーク」

 

 肩に手を置かれた。

 

「お父さんの分もありますね?」

「今、ナナホシさんのところに行く話をしてたんだけど」

 

 俺が言うと、アイシャ姉さんが吹き出した。

 

     *

 

 ナナホシは今、空中城塞ケイオスブレイカーにいる。

 

 元の世界へ帰るために。

 その時を待てるように。

 

 月に一度だけ目を覚ます彼女を、父さんは訪ねている。研究に関わる話をしたり、日本の料理を持っていったりするのだという。

 

 俺は彼女を知っていた。

 前世で病院のベッドに横たわりながら読んだ、物語の登場人物として。

 

 もっとも、その知識を口にするときには気をつけている。

 

 ここが『無職転生』という物語で読んだ世界であることも、覚えている出来事も、父さんには既に話してある。

 けれど、俺が覚えている文章は、目の前で生きている人の一日を全部書き留めたものではない。

 

 ナナホシが今日、何を食べたいか。

 それは、俺の記憶には載っていなかった。

 

 夜、父さんの書斎に入り、扉を閉めた。

 他に誰もいないことを確かめてから、日本語で聞いた。

 

『カツ丼を持っていったら、食べてくれるかな』

 

『多分、喜ぶとは思う。ただ、せっかくなら向こうで作らせてもらうか』

『向こうで?』

『揚げて卵でとじてから運ぶと、時間がかかるだろ』

 

 まさに、それで悩んでいた。

 

 味噌ラーメンもそうだったが、出来上がってからの料理は忙しい。麺は伸びるし、揚げた衣は湿気る。魔力があっても、食べ頃を巻き戻す魔術は使えない。

 

『厨房を借りられるか聞いておくよ。ナナホシには、お前も一緒に来るって伝えておく』

『うん。今回は料理の話をしに行くって』

 

 俺の前世については、ナナホシも既に知っている。

 父さん、オルステッド、ペルギウス様を含めた四人にだけ、話してあることだった。

 

 父さんは頷き、それから俺の顔を覗いた。

 

『ジーク。何かしてやらなきゃって、頑張りすぎなくていいからな』

 

 病室の窓を思い出していた俺は、顔を上げた。

 

『飯を食いに行くつもりでいい。俺も毎回、気の利いたことを話せてるわけじゃない』

『父さんでも?』

『そうだよ』

 

 父さんは手帳を開いた。

 俺も献立を書いた紙を持って、その隣に座った。

 

     *

 

 訪問の許可が出るまでの数日間、我が家ではカツの試作が続いた。

 

 唐揚げの経験は役に立った。

 けれど、パン粉を強く押しつけすぎた一枚は、赤ママに「鎧みたいね」と言われた。

 

「噛める?」

「噛めるけど、肉までなかなか届かないわね」

 

 俺は肩の力を抜いた。

 横からアイシャ姉さんが、衣の剥がれたところを指す。

 

「こっちは、お肉が濡れてたんじゃない? 拭いてから、潰さないようにつけてみて」

 

 力の強さばかりでは解決しない。

 稽古の時と同じだった。

 

 そうしてようやく揚げたカツを、今度は煮汁に入れなければならなかった。

 

 揚げたては、切るだけでざくりと音がする。

 湯気を上げる断面には肉汁が浮き、端から剥がれた小さな衣を口に入れると、それだけで次の一口が欲しくなる。

 

 これを、わざわざ濡らす。

 

「そのまま食べちゃ駄目なの?」

 

 アルス兄さんが聞いた。

 

 まったく、もっともな疑問である。

 俺だって同じことを考えていた。

 

「カツ丼にするから」

「でも、もううまいよ」

 

 兄さんは次の端切れに手を伸ばした。

 

「完成させる分がなくなる」

「じゃあ、失敗したやつは俺な」

 

 失敗作の予約が入った。

 

 前世の俺は、カツ丼を食べたことがない。

 写真と動画で知っているだけだった。

 

 だから、最初に作ったものが正解かどうか、自分では決められなかった。

 

 煮汁にカツを沈め、卵を入れ、火が通るのを待つ。

 用心して待ちすぎた結果、衣は汁を吸ってふくらみ、卵は細かく固まり、全部をご飯に移す時には肉から衣がずれ落ちた。

 

 うまかった。

 肉と醤油と卵とご飯なので、それはもう、うまかった。

 

 でも、俺の知っている写真とは違う。

 

「肉と衣が、別々の料理になりかけてますね」

 

 父さんの感想はひどかったが、言いたいことは分かった。

 

 そこで、アイシャ姉さんに手伝ってもらい、煮汁の量と火にかける時間を変えたものを作った。

 醤油も、砂糖も、先に器で量る。

 乾燥した魚から取っただしは、父さんの記憶にあるものと香りが少し違うそうだ。それでも玉ねぎと合わせると、俺には十分、腹が鳴る匂いになった。

 

「衣の上のほうに、揚げた感じが残ってるのが好きなんだね」

 

 姉さんに言われ、食べ比べた。

 下は煮汁を吸ってやわらかく、上には噛んだ時の軽い抵抗がある。

 俺の好きな加減が、ようやく分かった。

 

 俺は慌てて紙に書いた。

 

 そこへ、ルーシー姉さんが通りかかった。

 紙を覗き、皿を見て、それから俺に尋ねる。

 

「ジーク、それ、誰に作るの?」

「父さんの友達。今度、父さんと会いに行く」

「……二人で?」

 

 頷くと、姉さんは紙から目を離した。

 しまった、と思ったが、何を言い足せばいいのか分からない。

 

「わたしが一緒でも、分からない話ばっかりだろうしね」

「今回は、ご飯を作るだけだよ」

「そう」

 

 姉さんは食器棚を見た。

 少し黙ってから、上の段を指す。

 

「あの蓋のある器、持っていけば? 前に青ママがお客さん用に買ったやつ」

「いいのかな」

「聞けばいいでしょ。わたし、出しておくから」

「重いから、俺が」

「ジークが持てるのは知ってる」

 

 言い方が少し硬くなった。

 俺は伸ばしかけた手を引っ込めた。

 

「……じゃあ、お願い」

「うん」

 

 姉さんは踏み台を持ってきて、器を一つずつ下ろした。

 俺は受け取る役をした。何かを説明するより、そのほうが少しだけ楽だった。

 

 俺は紙の端に、器、と書き足した。

 兄さんの席には、形の崩れたカツを一切れ置いておいた。

 

     *

 

 出発の朝、白ママは俺の襟を直した。

 

「ご挨拶、ちゃんとできる?」

「できる」

「走り回らない?」

「……広かったら、少し」

「ジーク」

 

 即座に名前を呼ばれた。

 

「父さんに聞いてから」

「うん。それと、疲れたらちゃんと言うこと」

 

 白ママは俺の髪を耳の後ろへ整えた。

 一度離れた指が、また緑の毛先へ戻ってくる。

 

「向こうで、何か嫌なことがあったら――」

「シルフィ。俺が一緒にいますから」

 

 父さんが隣へ来た。

 白ママは父さんを見上げ、息をついて頷いた。

 

「うん。……楽しんでおいで」

 

 俺に向けた笑顔は、さっきより少しやわらかかった。

 

 赤ママには、出発前だからと稽古を軽くしてもらった。

 本人は軽くしたと言っていた。

 俺の脚は、その意見に少し異論があった。

 

 青ママは、荷物の一番上に入れた小鍋を確認した。

 五歳の誕生日に買ってもらった一式のうち、一番よく使っている鍋だ。二つの聖級魔術を覚えて手に入れたわりに、鍋自体には何の魔術もかかっていない。

 でも、俺の手にはこの柄が一番しっくりくる。

 

「向こうの設備が立派でも、初めて使う鍋では勝手が違いますからね」

「うん。卵を入れる鍋は、これにする」

 

 アイシャ姉さんの作った荷物の一覧には、食材の横に人数と予備の数が書かれている。

 父さんはそれを見て、小さく感心していた。

 

「ナナホシと俺とジークで三人。なのに、肉は六枚ですか」

「ペルギウス様が召し上がるかもしれないって、お兄ちゃんが言ったんでしょ」

「ええ。言いました」

「残りは?」

「失敗した時の予備と、父さんのおかわり」

 

 俺が答えると、父さんは神妙に頷いた。

 

「立派になりましたね、ジーク」

 

 荷物を背負って家の外に出た時、頬に当たった冷たい空気が気持ちよくて、俺は一度だけ大きく伸びをした。

 

 今日は、空に浮かぶ城に行く。

 そこに住んでいる人と、飯を食うために。

 

     *

 

 転移した先の床は、靴音がよく響いた。

 

 父さんの後について廊下を進み、外が見えた瞬間、俺は立ち止まった。

 

 雲があった。

 窓の下に。

 

 庭の向こう、石造りの縁を越えた先に、白い雲がどこまでも広がっていた。雲の切れ目には、ずっと下の地面が小さく見えている。

 絵ではない。

 ゆっくり流れている。

 

「父さん。これ全部、どうやって浮かせてるの?」

 

 足元の石を見た。

 風の影響は。魔力はどこに流れているのか。

 次々に質問しかけた俺を見て、父さんは笑った。

 

「料理が終わったら、見て回れるかお願いしてみましょう」

「絶対?」

「お願いはします。今はご挨拶が先です」

 

 先を歩く仮面の女性が、こちらを振り返った。

 シルヴァリルさんだ。

 

 俺は慌てて背筋を伸ばした。

 好奇心で走り出す前に止まれたので、白ママとの約束はまだ守れている。

 

 案内された先には、銀髪の男がいた。

 

 ペルギウス・ドーラ。

 

 俺の秘密を知り、俺に名前をくれた人でもある。

 

「サラディンか」

 

 低い声で呼ばれた。

 

「はい。ジークハルト・サラディン・グレイラットです。今日は、お招きいただきありがとうございます」

 

 練習した通りに頭を下げる。

 

 赤ん坊の時にもここへ来ている。

 その時の記憶は、見上げる大人の顔と、抱き上げられた感覚が、いくつか残っているくらいだった。

 自分の足で立って挨拶するのは、ずいぶん違う。

 

「水と風の聖級魔術を修めたと聞いている」

「はい」

「ルーデウス。ずいぶん早くから教えたものだな」

「本人がやりたがりまして。最近は、こちらが見張っていないと鍋のほうに行ってしまいますが」

 

 ペルギウス様の視線が、俺の持っている包みに落ちた。

 

「その鍋か」

「はい。今日は、これを使います」

 

 料理をするために来たことは、父さんから話が通っている。

 それでも口に出してみると、何だか妙な感じがした。

 空を飛ぶ城の主に、小鍋の説明をしている。

 

「何を作る」

「カツ丼です。揚げた肉を、卵でとじて、ご飯にのせます」

「揚げたものを、さらに煮るのか」

「少しだけです。煮すぎると、衣が全部やわらかくなってしまうので」

 

 俺はそこで言葉を切った。

 アルス兄さんにもした説明を、この人にまで始めていた。

 

 けれど、ペルギウス様は笑わなかった。

 

「出来上がったものを見てみよう」

「お口に合えば、召し上がってください。四人分は、失敗しなければ作れます」

 

 隣で父さんが、少しだけ咳をした。

 

     *

 

 ナナホシは窓際の席にいた。

 

 黒い髪。

 黒い目。

 机の上に置かれた、書き込みのある紙。

 俺たちが入ると、持っていた筆を置いた。

 案内を終えたシルヴァリルさんが退出し、父さんが扉を閉める。

 個室に残ったのは、事情を知っている三人だけだった。

 

『……本当に、こんなに大きくなったのね』

 

 その声を聞いた瞬間、俺の中にあった「知っている人」の輪郭が、少し変わった。

 

 実際の声には、読むだけでは分からない間がある。

 目を合わせたあと、何を言おうか迷う時間も。

 

『こんにちは。ジークです』

『こんにちは。ナナホシよ』

 

 彼女は俺の高さまで少し視線を下げた。

 それから父さんを見て、また俺を見る。

 

『日本語、ちゃんと話せるのね』

『普段、父さんと二人きりの部屋でしか使わないから、ちょっと緊張する』

『そこは僕への信頼が欲しいところですね』

 

 父さんが言うと、ナナホシは口元を緩めた。

 

 ナナホシは俺が十一歳で死んだことも、病院の外へほとんど出られなかったことも知っている。

 だからといって、会うたびその話をする必要はない。

 彼女が次に見たのは、俺の小鍋だった。

 

『今日はカツ丼なんですって?』

『うん。卵でとじるやつ。食べられそう?』

『食べたい。朝から、それを楽しみにしてた』

 

 胸のあたりが、ふわりと軽くなった。

 

 作っていい。

 それどころか、待っていてくれた。

 

『玉ねぎ、入れてもいい?』

『むしろ多めにしてほしい』

『卵は?』

『ちゃんと固まってるほうが好き。でも、ぱさぱさは嫌』

『分かった。ご飯は、大盛りと普通と』

『最初から大盛りを勧めるの、やめなさい』

 

 父さんが笑った。

 

 俺は紙を出して、玉ねぎ多め、卵しっかり、と書いた。

 その字をナナホシが覗き込む。

 

『日本語で書いてるのね』

『料理の名前は、こっちの言葉だと分かりにくいから』

 

 彼女の指が、紙の上で止まった。

 

『……「玉」が「王」になってる』

『えっ』

 

 見ると、本当だった。

 王ねぎ多め。

 何だそれは。どこの王族の野菜だ。

 

 父さんまで覗き込み、笑うのを我慢して肩を震わせた。

 俺は急いで点を足した。

 

 日本語で書いたほうの紙は、ここで畳んで鞄にしまった。

 人前の厨房へ持っていくのは、共通語で書き直した手順のほうだ。

 

     *

 

 借りた厨房には、家よりずっと広い作業台があった。

 通路の向こうで城の者が働いている。部屋を出た時点で、俺たちは共通語に戻っていた。

 

 最初に踏み台を置く。

 その上に立ってみて、足の裏が落ち着くのを確かめる。

 鍋を置く場所、熱い油から離れた場所、食器を並べる場所を決める。

 

 十五人前のラーメンを作った時には、途中で何もかも手が回らなくなった。

 今日は四人分だ。

 そのかわり、初めての台所である。

 

「父さん。ご飯をお願い」

「任されました」

「こっちの鍋は、俺が使うから」

「はいはい。勝手に蓋を開けたりしません」

 

 父さんは米の鍋の前に座った。

 ナナホシは、油が跳ねない位置に椅子を持ってきていた。

 

「見ていてもいい?」

「うん」

 

 少し緊張する。

 けれど、自分の料理を楽しみにしている人がそこにいるのは、嬉しかった。

 

 肉の水気を拭き、筋のあるところに包丁を入れる。

 粉は薄く。

 余った粉を落とし、卵にくぐらせる。

 

 右手と左手を間違えない。

 パン粉は押し潰さない。

 

 油の様子を確かめてから、肉を入れた。

 

 しゃあ、と音が立つ。

 細かい泡が肉の周りを囲み、乾いたパンの匂いが、急に香ばしいものへ変わった。

 

「本当に料理してる……」

「父さんは何て説明したの?」

「料理が好きな息子って」

「だいたい合ってる」

 

 魔力を流し、火の勢いを少し抑える。

 肉を入れて下がった温度を戻したあと、そのまま火を強くし続けると、今度は衣ばかりが色づく。

 唐揚げで何度もやった失敗だ。

 

 鍋底に当たる炎を、細く、均等に保つ。

 

 これは楽しい。

 油の音が変わると、自分の魔術が鍋の中につながっているのが分かる。

 

 ただ、楽しくなって火だけを見てはいけない。

 肉も見る。

 隣で玉ねぎが煮えている小鍋も見る。

 

「お前、鍋の前だと顔つきが変わるな」

 

 父さんが言った。

 

「焦がしたら、やり直しだから」

「魔術の練習では、やり直しを嫌がらないだろ」

「食べられる時間が遅くなる」

 

 ナナホシが、今度は声を出して笑った。

 

 揚がったカツを引き上げる。

 網の上で休ませ、その間に次を揚げる。

 四枚を並べると、厨房がすっかり揚げ物の匂いになった。

 

 ナナホシの顔が、少しこちらへ寄った。

 

「その端っこ、味見していい?」

「いいよ」

 

 小さく切って、皿にのせる。

 

 彼女は少し冷ましてから口に入れ、ゆっくり噛んだ。

 

「あ、ちゃんとトンカツ」

「よかった」

 

 父さんにも一切れ渡した。

 俺も食べる。

 薄い衣が割れて、熱い肉汁が出た。うまい。これでご飯を食べたい。ソースも作りたい。

 

 危うく目的を見失いかけて、小鍋へ向き直った。

 

 玉ねぎが透き通っている。

 甘辛い煮汁を少し舐め、蒸らし終えた米を一口もらって、一緒に食べた。

 

 ちょうどいい。

 

 揚げたカツを食べやすい幅に切り、形を揃えたまま小鍋へ移す。

 下から煮汁を吸わせ、上に卵を回しかける。

 

 全部を同じように混ぜてはいけない。

 白いところ、黄色いところ。

 それが少し残るように、手を止める。

 

 蓋をして、待つ。

 

 短い時間だった。

 けれど俺は、今日ここまで歩いてきた廊下より、その時間を長く感じた。

 

 中が気になる。

 開けて確かめたい。

 試作で何度も確かめたはずなのに、食べる人が隣にいるだけで、手が落ち着かなくなる。

 

 ナナホシは何も言わず、俺と一緒に蓋を見ていた。

 

 火を止める。

 少し待つ。

 蓋を取ると、湯気の向こうに、ふっくらした卵が見えた。

 

「父さん、ご飯」

「どうぞ」

 

 温めておいた丼には、白い米がよそわれている。

 

 柄を握り直す。

 小鍋を傾け、煮汁、玉ねぎ、カツ、卵を一緒に滑らせる。

 

 最後の端が引っかかった。

 息を止めた俺の横から、父さんが何も言わず、へらを差し出した。

 

 それでそっと押すと、カツは形を崩さず、ご飯の上に収まった。

 

 できた。

 ちゃんと、丼になった。

 

「お待たせしました」

 

 俺はナナホシを見た。

 

「カツ丼です」

 

     *

 

 ナナホシは両手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 まず、卵の端を箸で切る。

 その下の玉ねぎとご飯を一緒に持ち上げ、口へ運ぶ。

 

 一度、噛んだ。

 それから、丼を少し持ち上げ直した。

 

「……これこれ」

 

 小さな声だった。

 

 ナナホシは俺を見て頷いた。

 

「おいしい。卵、ちょうどいい」

 

 息を詰めていたことに、そこで気づいた。

 

「よかった。先に食べてて。あと三つ作るから」

「うん。待ってると冷めちゃうしね」

 

 遠慮して箸を止められるより、それが嬉しかった。

 

 次の鍋に煮汁を入れる。

 父さんがご飯をよそい、俺が卵を割る。

 ナナホシがカツを噛む音を聞きながら、次の一杯を仕上げた。

 

 ペルギウス様が来たのは、三杯目を丼に移している時だった。

 

 料理は厨房に隣接した小食堂へ運んだ。

 父さんが給仕を断り、扉を閉める。席にいるのは父さん、ナナホシ、ペルギウス様、俺の四人だけだ。

 俺も最後の自分の分を持って席についた。ナナホシは既に半分ほど食べていた。

 ここなら秘密の話はできるが、食卓の会話は、そのまま全員に通じる共通語を使った。

 

「これが、カツドンか」

 

 ペルギウス様が器を見下ろす。

 用意された匙を取り、肉と卵をすくった。

 

 噛む。

 もう一口、ご飯を食べる。

 

 俺は自分の箸を持ったまま、ついそちらを見てしまった。

 

「揚げた香りが残っているな」

「はい。上を全部、煮汁につけないようにしました」

「下の穀物と合わせて食べるための味付けか」

「そうです」

 

 次に匙を入れた時には、肉の下からご飯も一緒にすくっていた。

 

 

 隣の父さんは、既に頬を膨らませていた。

 

「父さんは?」

「うまい」

 

 短かった。

 けれど、口が空くのを待って答えたあと、すぐ次を食べたので、それ以上は聞かなくてよさそうだった。

 

 俺も、ようやく箸を入れた。

 

 カツを一切れ。

 試作より大きく切ったから、五歳の口には少し大きい。丼の上で半分に噛み切ると、衣から甘辛い汁があふれた。

 

 その下に、肉の脂の甘さがある。

 卵が舌にやわらかく触れ、遅れて醤油の香りが鼻へ抜ける。

 

 ご飯が欲しい。

 

 すぐに追いかけた。

 上のほうの米は煮汁を吸っていて、下のほうには白い粒が残っている。

 一緒に食べると、濃いと思いかけた味が、ちょうどよくなった。

 

 うまい。

 

 もう一口。

 今度は玉ねぎを多めに取る。

 くたくたになった端と、まだ形のある真ん中で、噛んだ感じが違う。

 

 これを、丼にいっぱい。

 自分の分として食べていい。

 

 それからペルギウス様は、盆に載せて持ってきた小皿を手元へ寄せた。

 

 細く刻んだ、黄色いものが入っている。

 柑橘の皮だった。

 

「それは?」

「肉料理に添える薬味だ」

 

 指先でほんの少し取り、卵の上へ散らす。

 熱い湯気に触れた途端、きりっとした香りが立った。

 

 俺は丼を見た。

 さっきまで完成したと思っていた料理が、知らない顔になっている。

 

「果汁はかけないんですか」

「まずは皮の香りだけでよかろう」

 

 ペルギウス様は一口食べ、小皿をこちらへ滑らせた。

 

「試してみるか」

 

 俺は頷き、自分の丼の端へ、二、三本だけのせた。

 卵と一緒に食べる。

 

 鼻の奥を、すっと香りが抜けた。

 醤油の甘辛さも、肉の脂も残っているのに、後味が少し軽くなる。

 続けて食べた玉ねぎは、さっきより甘く感じた。

 

「……これも、うまい」

「全部に載せなくてもよい。食べながら変えればいい」

 

 俺は小皿と丼を交互に見た。

 向こうの料理を知っている俺が、こちらの世界の人に、おいしい食べ方を教わっている。

 

 ナナホシも少しだけ試し、目を丸くした。

 

「こういうカツ丼は、初めて」

「お前の国では、そうせぬのか」

「少なくとも、私が食べていたお店では」

 

 ペルギウス様は頷き、何でもないことのように、次の一匙を口へ運んだ。

 

「ジーク、ほっぺた」

 

 ナナホシが自分の頬を指した。

 

 触ると、米がついていた。

 急いで取った俺を見て、彼女が笑う。

 

「よっぽど好きなのね」

「うん。……多分、今まで作った中で、一番好きかも」

「味噌ラーメンの時にも、似たようなことを言ってましたね」

 

 父さんの指摘には答えず、俺はもう一口食べた。

 

 好きなものに、順位をつける必要はないと思う。

 

「お店で食べてたのは、もうちょっと甘かったかな」

 

 ナナホシが、丼の中を見ながら言った。

 

「学校の帰りに寄ったところ。玉ねぎがいっぱい入ってて、友達は、肉より玉ねぎのほうが多いって文句言ってた」

「それでも行ってたの?」

「安かったから」

 

 即答だった。

 

 想像していたより普通の理由で、俺は少し笑った。

 

「ジークは、これも向こうでは食べられなかった料理なの?」

「うん。動画で見て、食べたかった。十一歳の誕生日にも、食べたいものの紙に書いた」

 

 ナナホシは頷いた。

 俺はご飯を飲み込んでから、続けた。

 

「だから、どうなったらカツ丼なのか、父さんに聞いてた。これで合ってるって言ってもらえて、よかった」

 

 ナナホシは一度、父さんを見た。

 父さんは何も言わず、味噌汁の椀を持ち上げた。

 

 やがて彼女も、また箸を動かした。

 

「ちゃんとカツ丼よ。私の知ってるのより、お肉も厚いし」

「厚いほうがおいしそうだったから」

「それは正しい」

 

 笑いながら、残っていた肉を一切れ食べる。

 

 窓の外を、雲の影が流れていった。

 

 俺はきっと、カツ丼を思い出す時、この窓と、この食卓も一緒に思い出す。

 

「……帰ったら、あのお店にも行こうかな」

 

 ナナホシが呟いた。

 

 父さんは椀を置いた。

 俺は、箸でつかんだ玉ねぎを見た。

 

 帰れるよ、と言いかけて、飲み込んだ。

 

 俺が読んだ物語の知識では、彼女がその店の暖簾をくぐる日まで約束できない。

 簡単に言っていい言葉には思えなかった。

 

「その時、どんな味だったか教えて」

 

 代わりに、そう言った。

 

 ナナホシは俺を見て、少し目を細めた。

 

「覚えてたらね」

「じゃあ、紙に書いといて」

「あなた、食べ物のことには厳しいのね」

 

 そう言って、また一口、ご飯を食べた。

 

     *

 

 食後、俺は城の廊下を案内してもらった。

 

 父さんについて廊下を歩き、雲の見える窓で足を止めた。

 城の魔術については、知りたいことが増えただけだ。

 それでも、自分の足で歩き回れただけで、満足だった。

 

 ナナホシの部屋へ戻ると、父さんが扉を閉めた。ペルギウス様も一緒だった。

 秘密を知る四人だけになってから、俺は鞄の中の献立の紙を取り出した。

 それをナナホシが借り、何か書き足し始めた。

 

『借りたわよ』

『何を書いたの?』

『今日の感想。あなた、途中で忙しくなって、書けてなかったから』

 

 紙には日本語で、玉ねぎはこのくらい、卵もちょうどいい、とあった。

 

 その下に、もう一行。

 

 次は、ラーメンも食べたい。

 

 俺も紙の端に、柑橘の皮、と書き加えた。

 揚げ物に添えると、ほかの料理にも合うだろうか。

 

『父さんから聞いた?』

『ええ。味噌味なんでしょう』

『うん。でも、麺が伸びるから、またここで作らないと』

『じゃあ、また厨房を貸してもらわなきゃね』

 

 俺はペルギウス様のほうを見て、共通語で次も厨房を借りたいと伝えた。

 

「次も料理か」

「はい」

「先に日取りを知らせよ。突然、材料を抱えて来るのではない」

「ありがとうございます」

 

 隣で父さんが頭を下げた。

 俺も一緒に下げる。

 

 ナナホシは、俺に紙を返した。

 

『ごちそうさま。おいしかった』

『お粗末さまでした』

 

 その返事が照れくさくて、俺は紙を丁寧に畳むふりをした。

 

     *

 

 家に帰ると、ルーシー姉さんが器の包みを覗いた。

 

「割ってない?」

「うん。あの器、持っていってよかった。ありがとう」

「……そう」

 

 姉さんは蓋を一枚確かめてから、俺に返した。

 

「なら、ちゃんと洗って戻してね」

 

 返事をすると、姉さんは先に台所へ向かった。

 その向こうから、アルス兄さんが顔を出した。

 

「どうだった?」

「すごかった。窓の下に雲があって、庭も広くて」

「そっちじゃなくて、カツ」

 

 俺は口を閉じた。

 兄さんは、俺の持っている包みを見ている。

 

「……肉、まだある?」

「一枚分、残ってる」

「じゃあ、それ」

 

 父さんのおかわり用だったが、父さんは食べすぎを気にして辞退した。

 失敗に備えた一枚は、厨房で切り分けて味見したので、残りは一枚だ。

 

 俺は頷いた。

 

「半分こ?」

「お前、食べてきたんだろ」

「でも、兄さんには、まだちゃんと一杯作ってないから」

 

 言ってから、変な理由だったかなと思った。

 

 兄さんは少し黙り、それから包みを受け取った。

 

「じゃあ、ご飯は多めな」

「うん」

 

 台所へ向かう兄さんの後を追いながら、俺は腹に手を当てた。

 

 まだ、入る。

 

 今日の俺は、ずいぶん歩いたのだ。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

北神三世の兄-弟に勝つため本気出す-(作者:ドゥンピドゥンピ)(原作:無職転生)

北神カールマンの孫であり転生者でもある、北帝アルフレッド・カールマン・ライバック。▼自信家で傲慢で調子乗りだが憎めない弟であるアレクサンダーと対等な存在になるため、彼は剣術修行の旅に出る。▼しかし、彼は致命的な程に鈍感で、朴念仁だった。


総合評価:8231/評価:8.81/連載:17話/更新日時:2026年10月20日(火) 16:20 小説情報

日本からアベンジャーズ入りしました。尊敬する人?五代さんと一条さんです(作者:ken4005)(原作:MARVEL)

▼クウガとアベンジャーズのクロスです。▼マーベルは完全ににわかです。▼原作を Avengers から MARVEL に変えました。▼短編から連載に変えました。▼謝罪0906▼作品を読み直した所、時系列に誤りがありました。▼黒雄が2010年4月から2014年3月までの四年間高校に在籍していたことになっています。そこで、明記はしませんが、未確認生命体関係で高校を…


総合評価:10552/評価:8.2/連載:110話/更新日時:2026年10月13日(火) 17:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>