『刻を統べる甲虫(クロノ・ビートル)』 作:もこもこ
時空の濁流は、どこまでも冷たく、そして鉛のように重かった。
11年前のグラウンド・ゼロ。あの絶望の中心地で、ハイパークロックアップの重ねがけを行い、『マキシマムハイパーサイクロン』を極限まで連射した代償は、青年の肉体と精神を容赦なく削り取っていた。
全身を包むサインスーツの内部で、生命維持システムの過負荷を示す警報が赤く、激しく明滅している。内臓が軋み、血管の一本一本がタキオン粒子の奔流によって焼き切れるかのような激痛が走っていた。
しかし、それ以上に深刻だったのは、歴史という巨大な歯車を強引に逆回転させたことによる『因果律の反動(タイムパラドックス)』だった。
(……身体の輪郭が、薄れていくか……)
本来ならあの日、青溟剣の代償として五感と記憶を失い、ホロウの底へ消えるはずだった儀降(イーシャン)を生かした。呑み込まれるはずだった旧都の区画を守り抜き、幾千もの命の軌道を書き換えた。
世界はその「巨大な矛盾」を解消するため、改変を引き起こした最大の異物である青年の存在そのものを、「最初からどの時間軸にも存在しなかったもの」として虚無の彼方へ消去しようとしていた。
深紅の装甲(カブテクター)の表面が、砂のようにサラサラと崩れ、黒いノイズへと変わっていく。
視覚も聴覚も遠のき、タキオン粒子の黄金の輝きすらも絶対的な暗闇に呑まれようとしていた。
(……だが、悔いはない。あの姉妹は生きた。俺が11年間背負い続けた荷物は、あそこに置いてこられたのだから……)
薄れゆく意識の中で、青年が静かに目を閉じかけた、その時だった。
――パァンッ!!
暗黒の虚空を真っ二つに貫いて、一筋の鮮やかな『緑色の光』が青年の目の前に垂れ下がってきた。
それは、冷たい時空の狭間には存在し得ない、確かな「熱」と「意志」を持った光のデータリンクだった。
『――ノイズを除去! 彼の生体波長を捕捉したぞ、リン!』
『逃がさないよ! 絶対にそこで手を離さないで! Fairy、最大出力で彼を引き上げて!!』
遠ざかっていたはずの、アキラの理知的で力強い声と、リンの必死な叫び声。
さらに、超高性能AI・Fairyが構築した幾億もの演算コードが、光の鎖となって青年の消えかけた輪郭を強く縛り上げ、現実の世界へと強引に繋ぎ止めた。
『対象の時間軸座標を、現在の新エリー都・六分街のアンカーと強制同期します。電力消費率、限界突破――ですが問題ありません。タイムパラドックスによる存在消失を、観測者権限により完全却下。……マスターたちの許可なく消えることは許されませんよ。おかえりなさいませ』
「……ふっ。大した案内人(プロキシ)だ、お前たちは。……死神すらもハッキングして退けるとはな」
青年が最後の力を振り絞って伸ばした指先が、緑色の光に触れた瞬間。
冷たい暗闇はガラスのように弾け飛び、彼の意識は眩く温かい光の中へと一気に引き戻された。
「――っ、がはっ……! はぁ、はぁ……!」
激しい咳き込みと共に、青年は冷たいアスファルトの上で目を開けた。
肺の中に流れ込んでくるのは、11年前の焦げ臭い戦場の煙ではない。雨上がりの澄んだ空気と、わずかに湿った土の匂いだった。
目に飛び込んできたのは、紫黒色の毒々しい空ではなく、穏やかな茜色の夕陽が差し込んでいる旧市街地の境界線――零号ホロウの外縁部だった。
しかも、つい先ほどまで空間を歪ませていたはずの特異点の不気味な脈動が綺麗に消え去り、ホロウの壁そのものが遥か後方へと後退して安定しているのが一目で分かった。
カチリ、と音を立てて、ハイパーゼクターとカブトゼクターがベルトから外れる。
二つの自律ユニットは、役目を終えたことを告げるように青年の周囲を一度だけ旋回すると、金の粒子となって静かに虚空へと消えていった。
変身が解け、黒いジャケット姿の生身に戻った青年は、全身を襲う猛烈な虚脱感に膝から崩れ落ちそうになった。
だが、その身体が地面に倒れ込むより早く、小さな球体ボンプ――イアスが全速力で駆け寄り、その小さな体躯で懸命に青年の腕を下から支えた。
「ンナッ、ンナンナ!(大丈夫!? しっかりして!)」
ボンプのスピーカーから、涙声になったリンの声が飛び出してくる。
『よかった……! 本当に帰ってきた……! 途中でバイタルデータも通信波形も完全にロストしかけたから、もうダメかと思って……っ!』
『……見事だよ。システムにかかる負荷から見て、あっちでどれほど無茶な戦い方をしたかは想像がつくけれど……君は本当に、11年前の運命を打ち破ってきたんだね』
アキラの声も、普段の冷静でジェントルマンな口調を保ちきれないほど深く震え、心からの安堵の色が滲んでいた。
青年はイアスの小さな頭を軽く撫でて礼を示し、荒い息を整えながらゆっくりと立ち上がった。
「……アキラ、リン。今の、この『現在』はどうなっている? 俺が過去で行った改変は……この世界に定着したのか?」
すると、スピーカーの向こうでアキラとリンが少しだけ顔を見合わせるような気配があり、直後、Fairyのどこか誇らしげな音声が響いた。
『現在の新エリー都の歴史データベースとの照合が完了しました。11年前の旧都陥落における最終的な被害規模は、改変前の記録と比較して約34%減少しています。および――衛非地区「雲嶽山(うんがくざん)」に関する歴史記録に、重大な変更が確認されました』
青年が息を呑んだ、まさにその時だった。
「――ふむ。そのような機械の記録をいちいち調べずとも、私自身の口から語らせておくれ」
背後から、凛としていながらも、春の陽だまりのように穏やかな女性の声が響いた。
青年が弾かれたように振り返ると、夕陽に照らされた石畳の道を、二人の女性が並んで歩いてくるのが見えた。
一人は、青年もよく知る雲嶽山の指導者――儀玄(イーシェン)。
しかし、今の彼女の佇まいには、かつて通信越しに感じられたような「姉を失った喪失の影」や「一人で一門を背負う孤独な重圧」は微塵もなかった。どこか肩の力が抜けた、本来の彼女らしい余裕と気品が満ちている。
そして、その隣に並び立つもう一人の女性。
儀玄とよく似た美しい面影を持ちながら、より柔らかく、深い慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女性。
11年前のあの日、ホロウの底へ消えたはずの雲嶽山第十二代宗主――儀降(イーシャン)その人だった。
「……儀降、さん……」
青年は呆然と立ち尽くし、かすれた声を漏らした。
11年の間、どれほどクロックアップの速度で手を伸ばしても届かず、幾度となく繰り返した悪夢の中でさえ救い出せなかった人が、今、同じ時間の空気を吸って、夕陽の下で微笑んでいる。
「ようやく直接顔を合わせることができたな、不器用な恩人殿」
儀玄がどこか照れくさそうに、しかし心からの笑みを浮かべて一歩前に出た。
「お前さんが11年前のあの日、私たちの時間を繋ぎ止めてくれたおかげでな。今の雲嶽山は、姉様と私の二人で治めているのだよ。お前さんが特異点の核を吹き飛ばしてくれたことで、青溟剣に宿っていた怨念にも似た負荷も消え去った。……葉瞬光(よう しゅんこう)が、あの剣の呪いに苦しむこともなかったのだ。お前さんが、すべての悲劇の根を断ち切ってくれたのさ」
『――本当に、ありがとうございました。時を駆ける、深紅の騎士様』
隣に立つ儀降が、深く、美しい礼を捧げた。
彼女の瞳には夕陽を映す確かな光があり、耳は風の音を捉え、その心には妹や弟子たちと共に歩んできた「11年分の温かい記憶」が満ち溢れていた。
『あの日、暗闇の中であなたが私の肩を掴み、温かい黄金の光を流し込んでくれた瞬間……奪われかけていた私の五感と記憶は、すべて蘇りました。今の私たちがこうして笑い合えているのは、あなたが孤独な時間を戦い抜いてくれたからです』
「俺は……ただ……」
青年は言葉を返そうとしたが、喉の奥が熱く詰まり、それ以上何も言えなかった。
15歳のあの日から、11年間。
自分の無力さを呪い、心を氷のように閉ざして、誰とも関わらずにただ加速し続けてきた。
クロックアップの静寂の中で擦り切れていった自分の時間。それが今、目の前で微笑む姉妹の姿によって、すべて報われたのだと理解した瞬間――青年の目尻から、一筋の熱い雫が零れ落ち、頬を伝った。
彼はそれを悟られまいと、無造作にジャケットの袖で顔を拭い、ぶっきらぼうに背を向けた。
「……お前たちが生きているなら、それでいい。俺のやるべきことは、これで全部終わった」
「ああ。だがな、小僧」
儀玄が、悪戯っぽく、それでいて温かい声で青年の背中に呼びかけた。
「姉様と私を救っただけで、満足してまたどこかの時間の影へ消える気ではあるまいな? お前さんには今、帰りを待っている最高に騒がしい連中がいるのだろう? ……たまには衛非地区の適当観にも顔を出せ。姉様と一緒に、出来たてほやほやの饅頭と、極上の茶を用意して待っているからな」
「ええ。約束ですよ、恩人様。いつでもお腹を空かせていらしてくださいね」
姉妹の優しい言葉に、青年は振り返らず、ただ小さく片手を上げて応えると、イアスと共に六分街へと続く帰路を歩き出した。
それから数日後の、新エリー都・六分街。
昼下がりの穏やかな日差しの中、ビデオ屋『Random Play』の店内には、普段通りの、いや普段以上に騒がしくも温かい日常が流れていた。
「――というわけでだな兄弟! 俺のスターライト・ゼロシュートと、あんたのあの超カッコいいライダーキックを合わせた新必殺技の名前を百個ほど考えてきたんだが!! 第一候補は『スターライト・クロック・タイフーン』だ! どうだ!?」
「……すべて却下だ。そもそも、お前とコンビを組んだ覚えは一度もない」
カウンターの隅で、デジタルな目をキラキラさせて迫るビリーを、青年が容赦なくあしらっている。
その後ろでは、ソファにふんぞり返ったニコが「ちょっとアンタたち、プロキシの店で油売ってる暇があるなら次の依頼に行くわよ! TOPSの連中、前回の敗北でかなり混乱してるみたいだし、今がお宝の山を漁るチャンスなんだから!」とハッパをかけている。
その隣では、アンビーが青年が昼食に作った特製ハンバーガーを無言で頬張りながら、「……美味しい。バンズの焼き加減と肉汁の閉じ込め方が、まさに神速の技。あなた、邪兎屋の専属シェフになる気はない?」と真剣な目で尋ねていた。
「なる気はない。食べ終わったらさっさと仕事に行け」
青年がため息をつきながらも、どこか楽しげに彼らを追い出す。
嵐のように邪兎屋の三人が去っていくと、店内に心地よい静けさと、レコードから流れるローファイな音楽の調べが戻った。
「ふふ、すっかりみんなに懐かれてしまったね。……それにしても、TOPSの軍事会社が持っていた君に関するデータも、Fairyが今回の歴史改変のノイズに紛れ込ませて完全に消去しておいたよ。もう彼らに狙われる心配もない」
カウンターの奥から、アキラが穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
その横から、エプロン姿のリンがひょっこりと顔を出した。
「ほら、約束のコーヒー! ……って言いたいところだけど、今日は君が淹れてくれる番でしょ? 『COFF CAFE』のティンマスターから、一番いい深煎りの豆を分けてもらってきたんだから!」
「……仕方のない奴らだ。今回ばかりは、プロキシへの報酬の代わりだと思え」
青年は小さく肩をすくめ、キッチンスペースへと入った。
手慣れた手つきで豆を挽き、ケトルの湯を沸かす。
かつての彼なら、誰かのために足を止め、誰かのためにゆっくりと時間を費やすことなど考えられなかった。すべては効率と結果のためだけにあり、過程を楽しむ余裕などなかったからだ。
だが今、湯気を立てるドリッパーを見つめる彼の瞳には、刃物のような冷徹さも、擦り切れた疲弊もなかった。
お湯を注ぎ、豆が膨らむのをじっと「待つ」。その当たり前の時間の流れが、今の彼にはたまらなく愛おしかった。
トクトクと、琥珀色の液体がガラスのサーバーに落ちていく静かな音。
店内に広がる、深く芳醇なコーヒーの香り。
やがて青年は、温めた三つのマグカップにコーヒーを注ぎ、アキラとリンの前へと差し出した。
「……飲め。俺のドリップは、天の道を往くほど完璧だ」
少しだけ気取ったような、それでいてどこか照れくさそうな青年の言葉に、アキラとリンは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
「ああ、いただくよ。……うん、本当に美味しいな。香り高くて、すごく優しい味がする」
アキラがカップを傾け、心から満足そうに目を細める。
「うん! すっごく美味しい! ねえ、これからもずっと、私たちの街にいてくれるんだよね?」
リンの真っ直ぐな問いかけに、青年は自分の分のカップを手に取り、窓の外へと視線を向けた。
窓の向こうには、青く澄み渡った新エリー都の空と、活気に満ちた六分街の景色が広がっている。
ホロウという災害がこの世界から完全に消え去ることはないだろう。暗闇の中で助けを求める迷い子が現れることも、新たな脅威が街に牙を剥くこともあるかもしれない。
だが、もう彼は何も恐れない。
どれほど速く、どれほど過酷な時間を駆け抜けることになろうとも、今の彼には、同じ歩幅で並走し、帰る場所を守り続けてくれる最高の相棒たちがいるのだから。
「……ああ。お前たちが淹れるコーヒーが俺のレベルに追いつくまでは、ここで見張っていてやる」
青年は不器用に微笑み、温かいコーヒーを一口すすった。
11年間凍りついていた彼の時計の針は、今、確かな熱を持った仲間たちと共に、新しい未来へ向けて力強く時を刻み始めていた。
番外編:適当観の湯気と、過去を越えた先にある味
六分街の日常が平穏を取り戻してから、しばらくの日が経った。
新エリー都の喧騒を離れ、高台に位置する衛非地区。その一角にひっそりと佇む古風な道場、そして観測所でもある『適当観』へと、一台のバイクが静かに滑り込むようにエンジンを止めた。
黒いジャケットを羽織った青年がヘルメットを脱ぎ、整った黒髪を軽く手櫛で整える。
目の前に広がるのは、古き良き伝統と新エリー都のモダンな街並みが融合した美しい景色だ。だが、彼の目的地はその敷地内にある、静まり返った母屋の縁側だった。
カラン、と下駄の音が響く。
「おや、噂をすればなんとやらだ。ちょうど今、お前さんの話をしておったところだよ」
縁側に腰掛けている儀玄(イーシェン)が、楽しげに細めた目を向けた先には、陶器の茶器を盆に乗せたもう一人の女性――儀降(イーシャン)が穏やかな笑みを浮かべて控えている。
「……邪魔する」
青年は短く声をかけ、靴を脱いで縁側へと上がった。
かつての彼は、ここへ来るたびに「過去を救えなかった後悔」と「変わってしまった現実への気まずさ」に押しつぶされそうになっていた。だが、11年前の因果を自らの手で塗り替えた今、胸を締め付けるような澱(おり)は綺麗に消え去っている。
「まあ、そこに座りなさい。風邪を引くような顔色ではないが、相変わらず忙しい身なのだろう?」
儀降が優しく声をかけ、青年の前に温かいお茶の入った湯呑みをそっと置いた。
「……あいつらの面倒を見ていると、な」
青年は苦笑いを一つこぼし、湯呑みを両手で包み込んだ。
立ち昇る湯気と共に、茶の芳醇で深い香りが鼻腔をくすぐる。それは、六分街の『COFF CAFE』のコーヒーとはまた違う、心を芯から解きほぐすような和やかな香りだった。
「ふふ、あのプロキシの兄妹かい? 聞けば、邪兎屋を巻き込んで大騒動を起こしたそうじゃないか。お前さんも、すっかり人徳がついたものだな、小僧」
儀玄がくすくすと笑いながら、盆の上から湯気がもうもうと立つ「出来たてほやほやの饅頭」を一つ取り、青年の皿へとポンと置いた。
「ほら、遠慮せずに食べなさい。姉様が朝から丹精込めて包んだものだからね」
「……いただく」
青年は箸を割り、白い饅頭を一口割った。
ふんわりとした皮の中から、甘すぎない上質な餡の香りが広がる。熱々で、口の中が火傷しそうになるほどの温度。だが、その熱さが心地よかった。
11年前、儀降がホロウの闇へ消えていく直前、二人が交わした「出来たてほやほやの饅頭はどうだい」「姉様、食べたい」という記憶の断片。
その幻影のような思い出が、今、こうして現実の時間の中で、目の前にある温かい食べ物として完全に結実している。
「……美味い」
その一言に、儀降は心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
『よかった。お口に合ったようで何よりです』
「そういえば、葉瞬光はどうした?」
青年がお茶を一口飲みながら尋ねる。
「あの子かい? 相変わらず道場の裏山で、青溟剣の素振りに夢中さね。もっとも、今のあの子には余計な呪詛の影もない。ただ純粋に、自分の強さを求めるための修行だからね。見ていて清々しいものさ」
儀玄は煙管の煙をくゆらせながら、窓の外の青空を見上げた。
「お前さんがあの時、時間を超えて私と姉様を救い、すべての因果を正しい場所へ戻してくれた。……改めて礼を言うよ、恩人殿」
儀玄の声音から、先ほどまでの冗談めいた響きが消え、雲嶽山の長としての深い敬意と感謝が宿る。
青年は首を横に振った。
「礼には及ばない。俺はただ、自分がやるべきことをやったまでだ。……それに、一人では絶対にやり遂げられなかった」
「ほう? あの『時間を止める孤高の戦士』が、他人の力を認めるようになったとはね」
「……プロキシの兄妹が、うるさいくらいに背中を押すからな」
青年のその言葉に、儀玄と儀降は顔を見合わせ、声を立てて楽しそうに笑った。
かつては刃物のように尖り、冷酷な仮面の裏で孤独にすり減っていた青年の横顔に、今は確かに「一人の人間」としての穏やかな体温が宿っている。
「さて、饅頭も食べたことだし……」
青年は立ち上がり、黒いジャケットの裾を軽く払ったそろそろ六分街に戻る頃だ。アキラの奴から、次の依頼の連絡が入る頃合いだろう。
「そうかい。引き止める野暮は言わないさね。だが、いつでもお腹を空かせてきなさい。雲嶽山の門は、いつだってこの不器用な恩人のために開いているのだから」
儀玄が満足そうに頷く。
『お気をつけて。またいつでも、いらしてくださいね』
儀降も温かい笑顔で見送ってくれる。
「そういえば、だ……小僧」
「ん?」
「お前さんとこうして何度も言葉を交わし、命を救ってもらったというのに、私たちはまだお前さんの『本当の名前』を知らなかったね」
その言葉に、儀降もはたと気づいたように手を合わせた。
『そういえば……! 私たちはずっと、「恩人殿」や「小僧」とばかりお呼びしていました』
青年は動きを止め、少しだけ目を丸くした。
これまで新エリー都でも、プロキシの兄妹の前でも、彼はただ「深紅の戦士」であり、過去に囚われた亡霊のような生き方をしていた。自分の名前を名乗ることなど、もう何年もしていなかったのだ。
「名前、か……」
青年は小さく呟き、湯呑みの底に残る茶の波紋に視線を落とした。
11年前、すべてを失ったあの日に捨てたはずの名前。
だが、アキラやリンと出会い、邪兎屋の連中に騒がれ、こうして救い出した姉妹と温かいお茶を囲んでいる今、その名前はもう、呪いでも十字架でもなくなっていた。
彼は顔を上げ、儀玄と儀降の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺の名前は――」
静かな適当観の縁側に、かつて誰も呼んでくれなかった、しかし確かな温もりを持ったその名が響いた。
風が吹き抜け、青年の黒髪を優しく揺らす。
過去の呪縛を完全に越え、新しい時間を歩み始めた彼の表情は、どこまでも晴れやかだった。
これにて完結です。
誤字脱字や独自設定注意な内容だったにも
かかわらず評価をしてくださった方々には
大変感謝申し上げます。
今後はたぶん当分投稿しないと思いますが、
した際にはお手柔らかにお願いします。