『クランプスの黒枝』。
TOPSの内部監査を担う彼女たちは、各企業を常に監視しており、一線を越えた者たちには容赦なく処断を下す。
TOPSという組織には私利私欲にまみれ、人の道を踏み外す者も少なくない。だが、『クランプスの黒枝』は、円卓が定めた「不文律」に基づき、監査・中立・裁定を担う者として活動している。
ボスからの任務は絶対であるものの、任務さえ達成すれば、それまでの過程や手段は問われない。そのため、個々の構成員によって処断の方法は異なる。
『クランプスの黒枝』は『死神』と恐れられているものの、犯した罪の重さや派遣された人員によっては、重い罰を課されるだけで済むケースも少なくない。
だが、『麦野沈流』の場合は異なる。
麦野沈流という存在が現れることは、裏社会の人間にとって、文字どおり『死』を意味する。
任務によっては不殺の依頼も存在するが、麦野沈流のもとに持ち込まれる依頼のほとんどは、殺人や事実の抹消に関するものだ。
上流階級に不要と判断され、麦野沈流が派遣された時点で、その人物や組織の『死』は確定したも同然なのである。
その『上流階級』には、TOPSはもちろんのこと、新エリー都市政やH.A.N.D、治安局や防衛軍までもが含まれている。
それぞれの組織が抱える人員では対処できない問題や、表沙汰になっては困る問題を麦野沈流に依頼する。そうした構図が出来上がっているのだ。
麦野沈流はどこの組織にも属さない個人であり、ルールや縛りといったものは存在しない。不文律も裁定もない。受けた任務をこなすことだけを目的とし、そのためなら殺人も厭わない。
ゆえに、いつでも切り捨てることができる麦野沈流は、各組織にとって都合のいい存在なのだ。
無論、麦野沈流がその依頼を受けるかどうかは別の話だが。
『僕は『祝福』を授けられたんだ。ほら、見てよ』
少年の声に続いて、パキパキと何かが形成されるような音がイヤホン越しに聞こえてきた。
麦野は、『Random Play』の表向きは物置とされている部屋で、ソファに寝転がりながらスマホの資料に目を通し、デブリーフィングを聴き続けていた。
その部屋には、H.D.Dと呼ばれる特別なシステムと、それを補助するために備えられた大量のモニターが設置されている。
『これは……エーテル結晶か?』
『白いエーテル結晶など見たことがないぞ?』
『いや、違う……これは、エーテル結晶とは異なる物質だ……しかも、今までに見たことも観測されたこともない特異物質……!!』
『祝福』、『讃頌会』、『サクリファイス』。
スマホの画面に表示されたそれらの単語について、麦野は詳しく知っているわけではない。だが、碌でもないものであることだけは理解していた。
すると、ザザザッとイヤホン越しにノイズが走り、スマホの画面も真っ暗になった。
麦野は軽く舌打ちし、イヤホンを雑に取り外しながらソファから身を起こした。
そのまま背後を振り返ると、目をギラリと光らせながら、1枚のモニターを睨みつけるタキツボの姿があった。
タキツボが睨んでいるモニターには、青い瞳のようなものが1つ映し出されていた。その瞳は、タキツボを睨み返しているようにも見える。
『……強力な電波妨害を感知。麦野沈流の端末へのアクセスが遮断されました』
『こちらの仕事やプライベートには干渉しないって、2人と約束をした。なのに、貴女はその約束を破るの?』
『しかし、麦野沈流が行っている仕事は、マスターと助手2号に危険が及ぶ可能性が非常に高いです。マスターと助手2号を守るためにも、麦野沈流の仕事を把握することは、AIアシスタントとして当然のことです』
『それ込みの約束。こちらの不手際でアキラとリンに危険が及ばないようにするのはもちろんのこと、2人が困ったときは私たちが助けになる。だから、こちらの仕事やプライベートには干渉しない。何度も言わせないで』
バチバチと火花を散らすタキツボと、青い瞳——もとい、『Fairy』。
お互いの主を守るため、AI同士の戦争が勃発する寸前であった。
「タキツボ、もういい」
麦野はそう言いながら、手元のスマホを握り潰した。データを復元できないよう、内部のフラッシュメモリまで確実に破壊する。
『……今回は見逃すけど、次はないからね』
『それはこちらの台詞です』
タキツボは不満げながらも妨害を解除し、麦野の隣へと立った。
麦野はやれやれとため息をつき、扉に手をかけながらFairyに言った。
「あんまりしつこいと、アキラたちにチクるからな。電気代を減らされても知らねぇぞ」
『……了解しました』
Fairyもタキツボと同じように不満そうな様子だったが、電気代を減らされるのは勘弁してほしいらしい。渋々ながらも、麦野の忠告を受け入れた。
扉を開けた先は、ビデオ屋のカウンターだった。
店内に客の姿はなく、カウンターでは、背番号ならぬ「18」と書かれたスカーフを身につけたボンプ、『18号(トワ)』が店番をしていた。
18号は麦野に気づくと、カウンターの下からビデオを取り出し、嬉しそうに声を上げた。
『ンナンナ!(あっ、麦野さん! 見つけましたよ! これが例の『空飛ぶサメ』映画です! ……って、あれ? どこかへお出かけですか?)』
「おう、ちょっと甘いものでも飲みにルミナスクエアに行ってくる。アキラとリンもそろそろ帰ってくるだろうし、留守は頼んだぞ」
『ンナナ!!(分かりました! いってらっしゃい!!)』
麦野は背を向けたまま軽く手を振り、店の外へと出ていった。
その後ろを、タキツボがトテトテとついていくのだった。
リチャードミルクのタピオカティーを飲み、デュイの親父の店でマッサージを受け、そのまま街中をぶらぶらしてから帰る。
そんな計画を立てていた麦野だったが、とある人物に見つかった時点で、その計画はおじゃんになってしまった。
麦野はルミナスクエアにある喫茶店の屋上で、テーブルに肘をつきながらコーヒーを飲んでいた。スプーンでカップの中身をくるくるとかき混ぜつつ、目の前の女性に視線を向ける。
「タキツボちゃん、大丈夫? お仕事大変じゃない? 最近、お姉ちゃんのところに全然来てくれなかったから寂しかったんだよ?」
『んー……』
いつものようにぼーっとしているタキツボ。その頬をツンツンと突いている女性の正体は、『明けの明星』。
本名は不明。プロキシへの仕事の仲介人であり、それも新人プロキシを専門とする仲介人である。
『明けの明星』という厨二じみた名前を名乗り、自分のことをお姉ちゃんと呼ぶ、少々痛いところのある彼女だが、麦野とは昔からの付き合いだった。
麦野はプロキシではないものの、上流階級から任務を受けるようになる前は、『明けの明星』のもとで世話になっていた。
麦野としては、『明けの明星』から受ける依頼は楽なものが多かった。しかし、金を稼ぎ、少しでも自身の名を売るために、渋々ながらも彼女のもとで仕事をしていたのだ。
今となっては彼女から依頼を受けることもなくなったが、こうして街中で出会うたびに、一緒に茶をする仲ではある。
彼女はよく喫茶店の屋上でぼーっとしていることが多く、同じくぼーっとしていることの多いタキツボとは仲が良い。
今もタキツボは『明けの明星』にされるがまま、頬をツンツンと突かれている。嫌がる様子はまったくなく、むしろ心地よさそうに受け入れていた。
『明けの明星』は、タキツボから指を離し麦野へと話しかけた。
「それにしても沈流くん。お姉ちゃん、寂しかったんだからね?」
「誰がお姉ちゃんだよ、クソアマ」
「昔は『助けてお姉ちゃ〜ん』って必死に私のところへ来てくれたのに、今じゃ全然来てくれないんだもん」
「誰だよそいつ。記憶の改竄どころのレベルじゃねぇぞ、おい」
「今日だって、私に気づいてたのに無視してどっか行こうとしてたし……。もしかして、これが反抗期ってやつなのかな? でも大丈夫だよ♪ 私は沈流くんのこと、ちゃんと理解してるし、何があっても沈流くんの味方だから♪」
「1ミリも理解できてねェだろうが」
ピキリ、と額に青筋を浮かべながら、コーヒーを口にする麦野。
相手がほかの人間であれば、この時点で挽肉になっていてもおかしくない。だが、そうなっていないということは、麦野にとって『明けの明星』がそれなりに特別な位置を占めているということなのだろう。
そして、そんな麦野の態度も含めて、『明けの明星』は彼のことを理解しているつもりなのかもしれない。
『明けの明星』はほかのプロキシに対しても自分をお姉ちゃんと呼んでいるが、麦野ほど親しく接している相手はいない。
『明けの明星』にとっても、麦野沈流という存在は何か特別な位置を占めているのだろう。
口にしていることは、明らかに変態じみているが。
「そんなこと言って、私、知ってるんだからね?」
「アァ?」
『明けの明星』は、ふふっと笑みを浮かべた。
「沈流くんでしょ? ブラックアンカー団を壊滅させたの」
「何言ってんだ、オマエ?」
「しらばっくれちゃって♪ ブラックアンカー団の連中の怪我を見れば、一目で沈流くんだって分かるから♪ 知ってたんでしょ? 私が担当しているプロキシたちが、ブラックアンカー団に目をつけられていたことを」
「……」
麦野は『明けの明星』の言葉を無言で聞き流し、コーヒーを口に含んだ。
だが、麦野の言葉を代弁するかのように、タキツボが口を開いた。
『その通りだよ。でも、むぎのはあけのみょうじょうに何も言わず、こっそりブラックアンカー団を治安局に差し出したの。むぎのはツンデレだからね』
「ね〜♪」
「……チッ」
麦野はタキツボと『明けの明星』を睨みつけ、静かに舌打ちした。
そして、目の前のクソアマをどうやってぶち殺そうかと考えていたところ、麦野のスマホに着信が入った。
差出人はアキラ。
どうやら厄介な事件に巻き込まれたらしく、麦野の手を借りたいようだ。
麦野は無言で立ち上がり、ディニーを乱暴にテーブルへ叩きつけると、そのまま歩き出した。
「……お仕事?」
「テメェには関係ねェだろ」
『明けの明星』は心配そうに、そして少し寂しそうに麦野を見つめた。
「危険なことはもうやめて……なんてこと、私に言う資格はないけど……それでも、これだけは言わせて」
『明けの明星』は、無理やり笑みを作りながら言った。
「怪我だけは、しないでね」
「……分かってるよ。行くぞ、タキツボ」
『うん。じゃあね、あけのみょうじょう』
『明けの明星』は、遠ざかっていく麦野へ無意識に伸ばした右手を、ゆっくりと下ろした。
『明けの明星』は、新人プロキシのために今の仕事をしている。
仕事の内容はグレーなものの、人のために何かをしたいという想いは変わらない。
新人プロキシたちが成長していく姿を見るのが好きなのだ。
だが、言い換えれば、自分のせいでプロキシたちを危険な目に遭わせていることに変わりはない。
だからこそ、麦野沈流が新エリーの闇に染まってしまったのは、自分のせいだと感じている。
麦野本人は『明けの明星』とは関係なく、自ら新エリーの闇へと染まっていったのだが、それでも彼女は考えてしまう。
自分がもう少ししっかりしていたら。
あのとき、何かが違っていたら。
そんな、ありもしない可能性を。
だが、もう麦野を止めることはできない。
闇に染まっていく彼の背中を、ただ見送ることしかできない。
だからこそ、『明けの明星』はこの喫茶店の屋上にいるのだ。
麦野がいつか帰ってこられる『居場所』を守るために。
「大丈夫だよ。私は何があっても貴方の味方だから」