同時刻。とある一室で、万年筆の先が、紙のうえを走っていた。
その黒い軸を、白い指が握っている。指の腹には乾いたインクが薄く残り、その染みだけが、同じ手で何枚の紙を扱ったのかを、何日ここで過ごしているのかを、黙って物語っていた。
ペン先は止まらない。
紙の上端から下端へと、ブルーブラックの細い線が、言葉となって連なっていく。記入欄が埋まり、署名が入る。その一枚が脇へと送られるころには、左手はもう、次の一枚を引き寄せていた。
書類の山だった。
プルガトリウム中学・高等学校、その本校の奥にある一室は、机の上にも、床の上にも、窓のそばにも、積み上げた紙で埋まっていた。ファイルに挟まれたもの、紐で括られたもの、どこかの学校の紋章が入った封筒ごと積まれたもの。その紙の厚みの底に、いつからそこにあるのかも分からない古い机が、ようやく四本の脚で踏みとどまっている。
その中央に、少年がいた。
文書屋と、呼ばれていた。
いまも、文書屋は一枚を書き終えた。万年筆を少しだけ浮かせ、インクの光が紙へ沈むのを待ってから、その書類を左へと置いた。
次を取る。
取ろうとしたところで、皿が出てきた。
「こちらです」
小ぶりな丸パンが載っていた。横から切れ目が入り、その間に具が挟まれている。
文書屋は皿を見た。
その向こうを見た。
ケイが、皿を持って立っていた。
「右の束」
「ええ、ここにありますね」
「その下の、青い付箋」
「たしかに、ありますね」
「では、それを」
「これを食べてから、渡します」
文書屋は万年筆を持ったまま、ケイを見上げた。
ケイは動かなかった。
今日では、一週間ごとにミレニアムから来ている少女は、この部屋に入ってから、まず床を一列、開通させた。
扉から机まで。
次に、机から窓まで。
文書屋は、そのどちらにも用事がなかったらしく、特に何も言わなかった。けれど窓を開けようとしたときには、『そこの束は順番がある』と言った。
ケイは順番を確認した。
崩さずに移した。
窓を開けた。
そのとき、ようやく文書屋が顔を上げたのだった。
いまは、その顔の前に、パンがある。
「まだ、温かいんですけど」
「置いておいて」
「前のも、そう言いました」
「前の?」
「そちらです。30分前のものですが」
ケイが示した先には、冷え切ったカップと、手のついていない皿があった。
書類の陰だった。
文書屋は、少し考えた。
「……場所が悪かった」
「見えなければ食べなくなるんですか、あなたは」
ケイは古い皿を取り、代わりに新しい皿を置いた。
今度は、机の中央へ。
文書屋の万年筆と、次の書類との間へ。
「五分です。こぼさずに食べられるものにしましたから」
文書屋は皿を見た。
ケイの視線が、万年筆へと移った。
「食べながら書いていい、という意味ではありませんよ」
先に言われた。
文書屋は、ようやく万年筆にキャップをした。
その音を、ケイは確かめるように聞いた。
直後、机の隅で、端末が鳴った。
文書屋の手が伸びた。
ケイは止めなかった。
画面を見たからだった。
軍刀、と出ていた。
「こちら文書屋」
『おう。いまパッションしてるぜ』
銃声がした。
受話口の向こうだった。
文書屋は端末を机に置いた。スピーカーへ切り替える。パンへ伸ばしかけた左手が、そのまま白紙の束へと向かった。
「場所」
『送った。連邦生徒会からシャーレへ行く途中だ。先生が来た。イケメンで、いつか背中に女の子の包丁が似合うかもしれん』
「誰の先生」
『連邦生徒会長が呼んだ先生だよ。大人。カフェインの色気がある感じ。いまユウカたちと一緒に前へ行ってる。』
また、銃声。
その後ろで、誰かが何かを怒鳴った。
文書屋の右手が、万年筆を取った。
ケイは白紙を一枚、その前へ置いた。
「負傷」
『全員、死に神とは未婚だ』
「怪我を聞いている」
『ハートが痛むぐらいだ。向こうはデスノート行きばっか』
「敵の人数」
『街コンで上手くいくヤツよりは多いぜ』
文書屋は、負傷者数の欄を空けた。
「味方は」
『俺、ザク、白いの、筋肉』
「車は」
『レディアンド先生ファーストで、運転手付きでお譲りした』
ペン先が走った。
四人。
車両なし。
交戦継続。
ケイは、机へ戻ってしまったその両手を見た。
右手は書いている。
左手は、届いた位置情報を確認し、それから紙の端を押さえた。
皿だけが、取り残されていた。
「……ええ、ええ! 分かりました!」
ケイは眉をつり上げ、手でパンをつかみ、持ち上げた。
文書屋の手より、一回り小さな手だった。白い手の甲にはインクの染みもなく、その滑らかな皮膚が、指の付け根で浅い丸みを作っている。細い指は先へとすっきり伸びていたが、パンを支える指先の腹や、親指の付け根には、柔らかなふくらみがあった。
爪は短く整えられていた。
指先からほとんど出ない長さで、角を落として丸く削られている。爪の表面には薄い艶があり、根元の甘皮も揃っていた。飾り立ててはいない。それでも、紙を繰る手の爪とは違う、細かな手入れの行き届いた爪だった。
その親指と中指でパンの後ろを支え、人差し指を上へ添える。
ケイは文書屋の横へ立った。
「口、開けてください」
文書屋が顔を上げかけた。
開いたその口へ、パンの先が突っ込まれた。
万年筆が、一瞬だけ止まった。
「噛んでください。書類は逃げませんから」
文書屋はパンを噛んだ。
ケイは手を離さなかった。噛み切られた一口が口の中へ入り、文書屋がそれを噛んでいる間も、残りを同じ高さで持っていた。
文書屋の万年筆が、また動きだした。
口はパンを食べ、右手は文字を書いた。左手が端末の地図を拡大する。その動きに合わせ、ケイも少し身を寄せて画面を見た。
交差点の周りに、四つの点が散っていた。
『おい、軍刀! まだお電話中か!』
ザク少年の声だった。
『取引先なら切れ! 宗教勧誘なら俺に回せ! カルトは信者ヤリ放題か確かめる!』
『ちげえ! 俺たちのGランクGODDESS・SCHOOLだよ!』
『よろしく! 俺は本日、補修放棄ずみだ!』
金属を叩くような音がした。
文書屋は、飲み込んでから口を開いた。
「ザクの燃料残りは?」
『お前は彼女の卵子の残数が分かんのか? 生理周期から察しろって? さすが変態だぜ』
「いいから本人に聞いて」
『いまライブがアツすぎて斧振ってる』
文書屋は、残燃料の欄も空けた。
ケイがパンを、少しだけ前へ送った。
文書屋は、次の一口を噛み取った。
顎が動く。ペン先も動く。
パンはケイの手の中で小さくなっていった。彼女はそのたびに持つ位置を変え、具が横へはみ出さないよう、細い指で切れ目を軽く押さえていた。
『おい、白いの! そっちの窓、まだ露出魔がいるぞ!』
『ああ見えすぎてるよ、あのチラリズムが分かってねえ不器用だろ?』
『パンチラレベルに抑えてやれ!』
『隠れてる窓ごと吹っ飛ばす。俺、今日はスパッツの気分だ』
爆音。銃声が続いた。
誰かが笑った。
文書屋は、位置情報の横へ時刻を書いた。
ケイは端末を見た。
まだ四人だけで話しているつもりらしかった。
彼女は、ひとまず道を調べた。
文書屋が最後の一口を噛み切ったあと、パンの端がわずかに残った。ケイはそれを持ち替え、支えていた指から、伸ばした人差し指へと受け渡すようにして、文書屋の口へ押し込んだ。
小さな残りが、口の中へ入った。
そこで初めて、ケイは手を引いた。
皿には、何も残っていなかった。
彼女は指先を紙ナプキンで拭き、今度はコーヒーカップを取った。文書屋が口の中のものを飲み込むのを待ってから、その白い陶器を口元へ運ぶ。
「少し、顔を上げて」
文書屋は顎を上げた。
目だけは、紙に残っていた。
ケイの人差し指が取っ手に入り、親指がその上を押さえていた。中指を下へ添えた小さな手が、カップをゆっくり傾ける。
文書屋は一口飲んだ。
その間にも、右手は書きかけの行を最後まで進んだ。
「もういいですか」
文書屋が頷く。
ケイはカップを離し、紙のない場所へ置いた。
それから、端末の地図へ指を戻した。
「近くの道、二本塞がっています。北側は使わない方がいいですね」
通信の向こうが、ほんの少し静かになった。
『……その声、ケイか?』
「はい。聞こえています」
『おう。いつからだ』
「最初からです」
『……そうか』
遠くで、ザク少年が何かを言いかけた。
『軍刀、うちの紙の天才便秘重役のトイレットペーパーは──』
『おい! ケイいるから!』
『──お世話になっております!! 俺たちの文書の現人神と話させていただきたいです!!』
ケイは目を細めた。
「続けていただいて結構ですよ」
『いや、何でもねえ。道、どこが通れる』
「いま送ります。その前に、そちらの状況を。何を相手にしているんですか?」
『装甲車。無人銃塔つき。あと、銃持った連中が複数』
文書屋のペン先が、止まった。
紙から、わずかに浮いた。
「無人銃塔?」
『ああ』
「所属標識」
『見えねえ。塗ってある』
「写真を」
『少し待て』
通信の向こうで、軍刀が走った。
息が近くなった。
銃声が一つ鳴り、次に、何か重いものが落ちた。
『よし。送る』
画像が届いた。
車体の一部。
剥げた塗装。
弾痕。
ケイが、その画像を拡大した。
文書屋は一度だけそれを見て、別の紙を取った。
「追加は」
『来るかもしれねえ』
「撤退できるか」
『後ろに逃げてるやつがいる。そこ通すまでは残る』
文書屋は、何も言わなかった。
ペン先が紙へ戻った。
今度は、それまでより速かった。
文書屋の字は、小さかった。行と行の隙間を揃え、欄からはみ出さず、誰が読んでも同じ文言に読める、そのためにだけ形を整えられた字だった。
その細い字が、空欄を埋めていく。
車両。
燃料。
弾薬。
救護。
別々の紙に、別々の依頼が書きつけられた。
「学校まで戻ってくる車はあるか」
『ねえって言ってんだろ』
「確認」
『……ねえ』
「分かった。出す」
文書屋は署名した。
次の一枚にも、署名した。
最後の一枚を書き終えるころには、ケイが机の端を空けていた。
「これを?」
「送ってほしい。宛先は上」
「分かりました」
ケイが書類を取り、端末で読み込んだ。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
送信先を確認し、指で押した。
画面に、送信済みの文字が並んだ。
文書屋は新しい紙を引き寄せた。
『おい』
軍刀が言った。
『修理の方は、いま書くなよ』
文書屋の手が止まった。
ケイが、その紙を見た。
物品損耗。
すでに、そこまで書かれていた。
『帰ってからでいい。まだ増える』
「増やさないで」
『先方に言ってくれ。うちの経理が泣いてるって』
「泣いていない」
向こうで、ザク少年が笑った。
軍刀も笑った。
文書屋は、物品損耗の紙を脇へ置いた。
「車が着くまでの時間を送る。弾が足りないなら、いま言って」
『筋肉が、いま足りてるって顔してる』
「言葉で確認して」
『おい、弾は!』
少し離れたところから、低い声が返った。
『ディナーはまだアペタイザーあたりだ』
軍刀が戻ってきた。
『足りてる』
「分かった」
ケイは、届き始めた返信を見た。
車両手配。
運転要員。
救護用品。
彼女は一つずつ文書屋へ示した。
文書屋は頷いた。
「学校側は動く。場所を変えたら、必ず送って」
『了解』
通話が切れた。
部屋が、静かになった。
紙の山も、窓も、机も、先ほどと同じ場所にあった。
けれどケイの端末の上では、学校の敷地から、別の点が動き始めていた。
文書屋は、その点を見た。
数秒だけ。
それから、まだ書かれていない紙へと目を戻した。
「いつも、こんなふうですね」
ケイが尋ねた。
「何が」
「外から連絡が来て、あなたがここで、全部書く」
文書屋は、万年筆を持ち直した。
「全部ではないよ」
「そういう話ではなくて」
ケイは、彼の右手を見た。
中指の、ペン軸の当たるところが赤くなっていた。
「それ、痛くないんですか」
「少し」
「少し、で済ませないでください」
彼女は救急用品の入った小さな箱を開けた。中から保護用のテープを取り出し、それを机へ置く。
文書屋は、テープを見た。
次に、書類を見た。
ケイは何も言わず、その書類を少しだけ遠ざけた。
文書屋は万年筆を置いた。
「……ありがとう」
「手を出してください」
文書屋は右手を出した。
ケイは赤くなったところを確かめ、ペン軸の当たる場所を避けて厚くなりすぎないよう、テープを巻いた。
窓から入った風が、書類の端を鳴らした。ケイがそちらへ手を伸ばすより先に、文書屋の左手が紙を押さえた。
その一枚には、誰かの名前があった。
所属の欄には、トリニティ。
現在の滞在先には、プルガトリウム。
ケイは、その欄を一度だけ見た。
「これ、今日中なんですか」
「この人が今夜、部屋を使うから」
「では、終わったら、次はどれですか」
「その下」
「その次は?」
「隣」
「……全部、今日中と言うつもりですか」
文書屋は答えなかった。
ケイは、机の上を見た。
山には、それぞれ札が立っていた。
滞在。
移籍。
物資。
照会。
回答待ち。
ケイは、椅子を引いた。
紙の束が邪魔だった。
少し持ち上げ、札を確かめ、元の順番のまま、別の台へ移した。
「こちらに座ります」
「そこは」
「何の順番か、先に教えてください。勝手には変えません」
文書屋は、ケイを見た。
ケイも見返した。
「部屋を片づけたいんです。でも、あなたが全部覚えているだけでは、誰も触れませんから」
文書屋は、左から三番目の束を指した。
「日付順。その奥は学校別」
「こちらは?」
「返事が来たもの」
「来ていないものは?」
「机の下」
ケイは、机の下を見た。
まだ、あった。
彼女は少しだけ黙った。
「……なるほど」
声を落ち着かせてから、端末を取り直した。
「まず、返事が来ているものから確認します。あなたは、その部屋の書類を」
文書屋は頷いた。
万年筆へ手を伸ばした。
ケイも椅子へ座ろうとして、途中で手を止めた。
「飲み物が欲しいときは、言ってください。紙の陰に隠したまま、忘れないように」
「隠しているわけでは」
「では、忘れないでください」
カップが、文書屋から見える場所へ移された。
紙からは、少し離れた場所だった。
窓の外では、昼の光が校庭を照らしていた。遠くで、出動した車両のエンジンが唸り、その音は校門を抜け、少しずつ遠ざかっていった。
机の上に、通知が一つ届いた。
文書屋の手が止まった。
ケイが、先に画面を見た。
「アツコからです」
「怪我はない、と伝えて」
「まだ、何も読んでいませんけど」
「たぶん、それ」
「……そうですね」
ケイは文面を確かめ、返事を打った。
負傷の報告はありません。
帰校用の車両は、すでに向かっています。
そこで指を止め、文書屋を見た。
「これで、いいですか」
「うん」
「では、送ります」
すぐに返事が来た。
『ありがとう。帰ってきたら、教えて』
ケイは、その文面を見せた。
文書屋は頷いた。
右手で万年筆を持ち直した。
その指には、白いテープが巻かれていた。
ペン先が、紙へと降りた。
その隣で、ケイは椅子に座り、返事の届いている書類を一枚ずつ開き始めた。