キヴォトスに男子校があるならば   作:鰹節の丸煮

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5:引きこもりワーカーホリックと天の鍵

 

 同時刻。とある一室で、万年筆の先が、紙のうえを走っていた。

 

 その黒い軸を、白い指が握っている。指の腹には乾いたインクが薄く残り、その染みだけが、同じ手で何枚の紙を扱ったのかを、何日ここで過ごしているのかを、黙って物語っていた。

 

 ペン先は止まらない。

 

 紙の上端から下端へと、ブルーブラックの細い線が、言葉となって連なっていく。記入欄が埋まり、署名が入る。その一枚が脇へと送られるころには、左手はもう、次の一枚を引き寄せていた。

 

 書類の山だった。

 

 プルガトリウム中学・高等学校、その本校の奥にある一室は、机の上にも、床の上にも、窓のそばにも、積み上げた紙で埋まっていた。ファイルに挟まれたもの、紐で括られたもの、どこかの学校の紋章が入った封筒ごと積まれたもの。その紙の厚みの底に、いつからそこにあるのかも分からない古い机が、ようやく四本の脚で踏みとどまっている。

 

 その中央に、少年がいた。

 

 文書屋と、呼ばれていた。

 

 いまも、文書屋は一枚を書き終えた。万年筆を少しだけ浮かせ、インクの光が紙へ沈むのを待ってから、その書類を左へと置いた。

 

 次を取る。

 

 取ろうとしたところで、皿が出てきた。

 

「こちらです」

 

 小ぶりな丸パンが載っていた。横から切れ目が入り、その間に具が挟まれている。

 

 文書屋は皿を見た。

 

 その向こうを見た。

 

 ケイが、皿を持って立っていた。

 

「右の束」

「ええ、ここにありますね」

「その下の、青い付箋」

「たしかに、ありますね」

「では、それを」

「これを食べてから、渡します」

 

 文書屋は万年筆を持ったまま、ケイを見上げた。

 

 ケイは動かなかった。

 

 今日では、一週間ごとにミレニアムから来ている少女は、この部屋に入ってから、まず床を一列、開通させた。

 

 扉から机まで。

 

 次に、机から窓まで。

 

 文書屋は、そのどちらにも用事がなかったらしく、特に何も言わなかった。けれど窓を開けようとしたときには、『そこの束は順番がある』と言った。

 

 ケイは順番を確認した。

 

 崩さずに移した。

 

 窓を開けた。

 

 そのとき、ようやく文書屋が顔を上げたのだった。

 

 いまは、その顔の前に、パンがある。

 

「まだ、温かいんですけど」

「置いておいて」

「前のも、そう言いました」

「前の?」

「そちらです。30分前のものですが」

 

 ケイが示した先には、冷え切ったカップと、手のついていない皿があった。

 

 書類の陰だった。

 

 文書屋は、少し考えた。

 

「……場所が悪かった」

「見えなければ食べなくなるんですか、あなたは」

 

 ケイは古い皿を取り、代わりに新しい皿を置いた。

 

 今度は、机の中央へ。

 

 文書屋の万年筆と、次の書類との間へ。

 

「五分です。こぼさずに食べられるものにしましたから」

 

 文書屋は皿を見た。

 

 ケイの視線が、万年筆へと移った。

 

「食べながら書いていい、という意味ではありませんよ」

 

 先に言われた。

 

 文書屋は、ようやく万年筆にキャップをした。

 

 その音を、ケイは確かめるように聞いた。

 

 直後、机の隅で、端末が鳴った。

 

 文書屋の手が伸びた。

 

 ケイは止めなかった。

 

 画面を見たからだった。

 

 軍刀、と出ていた。

 

「こちら文書屋」

 

『おう。いまパッションしてるぜ』

 

 銃声がした。

 

 受話口の向こうだった。

 

 文書屋は端末を机に置いた。スピーカーへ切り替える。パンへ伸ばしかけた左手が、そのまま白紙の束へと向かった。

 

「場所」

『送った。連邦生徒会からシャーレへ行く途中だ。先生が来た。イケメンで、いつか背中に女の子の包丁が似合うかもしれん』

「誰の先生」

『連邦生徒会長が呼んだ先生だよ。大人。カフェインの色気がある感じ。いまユウカたちと一緒に前へ行ってる。』

 

 また、銃声。

 

 その後ろで、誰かが何かを怒鳴った。

 

 文書屋の右手が、万年筆を取った。

 

 ケイは白紙を一枚、その前へ置いた。

 

「負傷」

『全員、死に神とは未婚だ』

「怪我を聞いている」

『ハートが痛むぐらいだ。向こうはデスノート行きばっか』

「敵の人数」

『街コンで上手くいくヤツよりは多いぜ』

 

 文書屋は、負傷者数の欄を空けた。

 

「味方は」

『俺、ザク、白いの、筋肉』

「車は」

『レディアンド先生ファーストで、運転手付きでお譲りした』

 

 ペン先が走った。

 

 四人。

 

 車両なし。

 

 交戦継続。

 

 ケイは、机へ戻ってしまったその両手を見た。

 

 右手は書いている。

 

 左手は、届いた位置情報を確認し、それから紙の端を押さえた。

 

 皿だけが、取り残されていた。

 

「……ええ、ええ! 分かりました!」

 

 ケイは眉をつり上げ、手でパンをつかみ、持ち上げた。

 

 文書屋の手より、一回り小さな手だった。白い手の甲にはインクの染みもなく、その滑らかな皮膚が、指の付け根で浅い丸みを作っている。細い指は先へとすっきり伸びていたが、パンを支える指先の腹や、親指の付け根には、柔らかなふくらみがあった。

 

 爪は短く整えられていた。

 

 指先からほとんど出ない長さで、角を落として丸く削られている。爪の表面には薄い艶があり、根元の甘皮も揃っていた。飾り立ててはいない。それでも、紙を繰る手の爪とは違う、細かな手入れの行き届いた爪だった。

 

 その親指と中指でパンの後ろを支え、人差し指を上へ添える。

 

 ケイは文書屋の横へ立った。

 

「口、開けてください」

 

 文書屋が顔を上げかけた。

 

 開いたその口へ、パンの先が突っ込まれた。

 

 万年筆が、一瞬だけ止まった。

 

「噛んでください。書類は逃げませんから」

 

 文書屋はパンを噛んだ。

 

 ケイは手を離さなかった。噛み切られた一口が口の中へ入り、文書屋がそれを噛んでいる間も、残りを同じ高さで持っていた。

 

 文書屋の万年筆が、また動きだした。

 

 口はパンを食べ、右手は文字を書いた。左手が端末の地図を拡大する。その動きに合わせ、ケイも少し身を寄せて画面を見た。

 

 交差点の周りに、四つの点が散っていた。

 

『おい、軍刀! まだお電話中か!』

 

 ザク少年の声だった。

 

『取引先なら切れ! 宗教勧誘なら俺に回せ! カルトは信者ヤリ放題か確かめる!』

『ちげえ! 俺たちのGランクGODDESS・SCHOOLだよ!』

『よろしく! 俺は本日、補修放棄ずみだ!』

 

 金属を叩くような音がした。

 

 文書屋は、飲み込んでから口を開いた。

 

「ザクの燃料残りは?」

『お前は彼女の卵子の残数が分かんのか? 生理周期から察しろって? さすが変態だぜ』

「いいから本人に聞いて」

『いまライブがアツすぎて斧振ってる』

 

 文書屋は、残燃料の欄も空けた。

 

 ケイがパンを、少しだけ前へ送った。

 

 文書屋は、次の一口を噛み取った。

 

 顎が動く。ペン先も動く。

 

 パンはケイの手の中で小さくなっていった。彼女はそのたびに持つ位置を変え、具が横へはみ出さないよう、細い指で切れ目を軽く押さえていた。

 

『おい、白いの! そっちの窓、まだ露出魔がいるぞ!』

『ああ見えすぎてるよ、あのチラリズムが分かってねえ不器用だろ?』

『パンチラレベルに抑えてやれ!』

『隠れてる窓ごと吹っ飛ばす。俺、今日はスパッツの気分だ』

 

 爆音。銃声が続いた。

 

 誰かが笑った。

 

 文書屋は、位置情報の横へ時刻を書いた。

 

 ケイは端末を見た。

 

 まだ四人だけで話しているつもりらしかった。

 

 彼女は、ひとまず道を調べた。

 

 文書屋が最後の一口を噛み切ったあと、パンの端がわずかに残った。ケイはそれを持ち替え、支えていた指から、伸ばした人差し指へと受け渡すようにして、文書屋の口へ押し込んだ。

 

 小さな残りが、口の中へ入った。

 

 そこで初めて、ケイは手を引いた。

 

 皿には、何も残っていなかった。

 

 彼女は指先を紙ナプキンで拭き、今度はコーヒーカップを取った。文書屋が口の中のものを飲み込むのを待ってから、その白い陶器を口元へ運ぶ。

 

「少し、顔を上げて」

 

 文書屋は顎を上げた。

 

 目だけは、紙に残っていた。

 

 ケイの人差し指が取っ手に入り、親指がその上を押さえていた。中指を下へ添えた小さな手が、カップをゆっくり傾ける。

 

 文書屋は一口飲んだ。

 

 その間にも、右手は書きかけの行を最後まで進んだ。

 

「もういいですか」

 

 文書屋が頷く。

 

 ケイはカップを離し、紙のない場所へ置いた。

 

 それから、端末の地図へ指を戻した。

 

「近くの道、二本塞がっています。北側は使わない方がいいですね」

 

 通信の向こうが、ほんの少し静かになった。

 

『……その声、ケイか?』

「はい。聞こえています」

『おう。いつからだ』

「最初からです」

『……そうか』

 

 遠くで、ザク少年が何かを言いかけた。

 

『軍刀、うちの紙の天才便秘重役のトイレットペーパーは──』

『おい! ケイいるから!』

『──お世話になっております!! 俺たちの文書の現人神と話させていただきたいです!!』

 

 ケイは目を細めた。

 

「続けていただいて結構ですよ」

『いや、何でもねえ。道、どこが通れる』

「いま送ります。その前に、そちらの状況を。何を相手にしているんですか?」

 

『装甲車。無人銃塔つき。あと、銃持った連中が複数』

 

 文書屋のペン先が、止まった。

 

 紙から、わずかに浮いた。

 

「無人銃塔?」

『ああ』

「所属標識」

『見えねえ。塗ってある』

「写真を」

『少し待て』

 

 通信の向こうで、軍刀が走った。

 

 息が近くなった。

 

 銃声が一つ鳴り、次に、何か重いものが落ちた。

 

『よし。送る』

 

 画像が届いた。

 

 車体の一部。

 剥げた塗装。

 弾痕。

 

 ケイが、その画像を拡大した。

 

 文書屋は一度だけそれを見て、別の紙を取った。

 

「追加は」

『来るかもしれねえ』

「撤退できるか」

『後ろに逃げてるやつがいる。そこ通すまでは残る』

 

 文書屋は、何も言わなかった。

 

 ペン先が紙へ戻った。

 

 今度は、それまでより速かった。

 

 文書屋の字は、小さかった。行と行の隙間を揃え、欄からはみ出さず、誰が読んでも同じ文言に読める、そのためにだけ形を整えられた字だった。

 

 その細い字が、空欄を埋めていく。

 

 車両。

 燃料。

 弾薬。

 救護。

 

 別々の紙に、別々の依頼が書きつけられた。

 

「学校まで戻ってくる車はあるか」

 

『ねえって言ってんだろ』

「確認」

『……ねえ』

「分かった。出す」

 

 文書屋は署名した。

 

 次の一枚にも、署名した。

 

 最後の一枚を書き終えるころには、ケイが机の端を空けていた。

 

「これを?」

「送ってほしい。宛先は上」

「分かりました」

 

 ケイが書類を取り、端末で読み込んだ。

 

 一枚目。

 二枚目。

 三枚目。

 

 送信先を確認し、指で押した。

 

 画面に、送信済みの文字が並んだ。

 

 文書屋は新しい紙を引き寄せた。

 

『おい』

 

 軍刀が言った。

 

『修理の方は、いま書くなよ』

 

 文書屋の手が止まった。

 

 ケイが、その紙を見た。

 

 物品損耗。

 

 すでに、そこまで書かれていた。

 

『帰ってからでいい。まだ増える』

 

「増やさないで」

『先方に言ってくれ。うちの経理が泣いてるって』

「泣いていない」

 

 向こうで、ザク少年が笑った。

 

 軍刀も笑った。

 

 文書屋は、物品損耗の紙を脇へ置いた。

 

「車が着くまでの時間を送る。弾が足りないなら、いま言って」

『筋肉が、いま足りてるって顔してる』

「言葉で確認して」

『おい、弾は!』

 

 少し離れたところから、低い声が返った。

 

『ディナーはまだアペタイザーあたりだ』

 

 軍刀が戻ってきた。

 

『足りてる』

「分かった」

 

 ケイは、届き始めた返信を見た。

 

 車両手配。

 運転要員。

 救護用品。

 

 彼女は一つずつ文書屋へ示した。

 

 文書屋は頷いた。

 

「学校側は動く。場所を変えたら、必ず送って」

『了解』

 

 通話が切れた。

 

 部屋が、静かになった。

 

 紙の山も、窓も、机も、先ほどと同じ場所にあった。

 

 けれどケイの端末の上では、学校の敷地から、別の点が動き始めていた。

 

 文書屋は、その点を見た。

 

 数秒だけ。

 

 それから、まだ書かれていない紙へと目を戻した。

 

「いつも、こんなふうですね」

 

 ケイが尋ねた。

 

「何が」

「外から連絡が来て、あなたがここで、全部書く」

 

 文書屋は、万年筆を持ち直した。

 

「全部ではないよ」

「そういう話ではなくて」

 

 ケイは、彼の右手を見た。

 

 中指の、ペン軸の当たるところが赤くなっていた。

 

「それ、痛くないんですか」

「少し」

「少し、で済ませないでください」

 

 彼女は救急用品の入った小さな箱を開けた。中から保護用のテープを取り出し、それを机へ置く。

 

 文書屋は、テープを見た。

 

 次に、書類を見た。

 

 ケイは何も言わず、その書類を少しだけ遠ざけた。

 

 文書屋は万年筆を置いた。

 

「……ありがとう」

「手を出してください」

 

 文書屋は右手を出した。

 

 ケイは赤くなったところを確かめ、ペン軸の当たる場所を避けて厚くなりすぎないよう、テープを巻いた。

 

 窓から入った風が、書類の端を鳴らした。ケイがそちらへ手を伸ばすより先に、文書屋の左手が紙を押さえた。

 

 その一枚には、誰かの名前があった。

 

 所属の欄には、トリニティ。

 

 現在の滞在先には、プルガトリウム。

 

 ケイは、その欄を一度だけ見た。

 

「これ、今日中なんですか」

「この人が今夜、部屋を使うから」

「では、終わったら、次はどれですか」

「その下」

「その次は?」

「隣」

「……全部、今日中と言うつもりですか」

 

 文書屋は答えなかった。

 

 ケイは、机の上を見た。

 

 山には、それぞれ札が立っていた。

 

 滞在。

 移籍。

 物資。

 照会。

 回答待ち。

 

 ケイは、椅子を引いた。

 

 紙の束が邪魔だった。

 

 少し持ち上げ、札を確かめ、元の順番のまま、別の台へ移した。

 

「こちらに座ります」

「そこは」

「何の順番か、先に教えてください。勝手には変えません」

 

 文書屋は、ケイを見た。

 

 ケイも見返した。

 

「部屋を片づけたいんです。でも、あなたが全部覚えているだけでは、誰も触れませんから」

 

 文書屋は、左から三番目の束を指した。

 

「日付順。その奥は学校別」

「こちらは?」

「返事が来たもの」

「来ていないものは?」

「机の下」

 

 ケイは、机の下を見た。

 

 まだ、あった。

 

 彼女は少しだけ黙った。

 

「……なるほど」

 

 声を落ち着かせてから、端末を取り直した。

 

「まず、返事が来ているものから確認します。あなたは、その部屋の書類を」

 

 文書屋は頷いた。

 

 万年筆へ手を伸ばした。

 

 ケイも椅子へ座ろうとして、途中で手を止めた。

 

「飲み物が欲しいときは、言ってください。紙の陰に隠したまま、忘れないように」

「隠しているわけでは」

「では、忘れないでください」

 

 カップが、文書屋から見える場所へ移された。

 

 紙からは、少し離れた場所だった。

 

 窓の外では、昼の光が校庭を照らしていた。遠くで、出動した車両のエンジンが唸り、その音は校門を抜け、少しずつ遠ざかっていった。

 

 机の上に、通知が一つ届いた。

 

 文書屋の手が止まった。

 

 ケイが、先に画面を見た。

 

「アツコからです」

 

「怪我はない、と伝えて」

「まだ、何も読んでいませんけど」

「たぶん、それ」

「……そうですね」

 

 ケイは文面を確かめ、返事を打った。

 

 負傷の報告はありません。

 

 帰校用の車両は、すでに向かっています。

 

 そこで指を止め、文書屋を見た。

 

「これで、いいですか」

「うん」

「では、送ります」

 

 すぐに返事が来た。

 

『ありがとう。帰ってきたら、教えて』

 

 ケイは、その文面を見せた。

 

 文書屋は頷いた。

 

 右手で万年筆を持ち直した。

 

 その指には、白いテープが巻かれていた。

 

 ペン先が、紙へと降りた。

 

 その隣で、ケイは椅子に座り、返事の届いている書類を一枚ずつ開き始めた。

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