数年が経った。
正確には、数年が過ぎたと言うべきか。俺にはそれを確証をもって語るだけの記憶がない。だが、季節が幾度か巡り、日焼けした肌が薄く剥がれ、また焼けた。その回数を数えれば、確かに数年にはなるだろう。
俺は今日も遺跡の中にいた。
壁に刻まれた文字。読めぬものが多い。だが、錬金術の知識と照らし合わせれば、意味の断片が浮かび上がる。
等価交換。
この世界の魔術と俺の知る錬金術の、決定的な違い。
魔術は魔力を消費する。錬金術は物質の変化を起こす。似ているようで、根本が違う。俺の知識の中にあった「等価交換」という概念は、この世界では通用しない部分がある。
だが、部分的に重なる箇所もある。
そこを解き明かすことが、俺の記憶を取り戻す鍵になるのではないか。そう考えて、俺は遺跡を調べ続けていた。
「エドワード様、本日の調査は終わりですか」
声がした。
振り返ると、遺跡の入り口に背負った荷物を下ろした男が立っていた。護衛として雇った男だ。名は確か……いや、名前はいい。護衛だ。俺の研究のために荷物を運び、道中の安全を確保する。それがこの男の仕事だ。
「ああ。今日はここまでだ」
俺は手元のノートを閉じた。
数年分の記録が詰まっている。遺跡の文字。魔術陣の構成。俺の錬金術とこの世界の魔術の比較。それらを積み重ねてきた。だが、まだ答えには辿り着いていない。
「戻りましょう。宿の夕餉の時間に間に合います」
「ああ」
俺は遺跡の入り口から外に出た。
陽が傾いている。山間の遺跡だ。日が沈むのが早い。
風が冷たい。
この風の冷さを知っている人間が、今はここにはいない。
ギレーヌだ。
別行動を取って、もう長い。
彼女はエリスという少女の剣術の師匠として、サウロスという老人の屋敷に雇われた。剣士としての腕を買われたのだ。俺が探すまでもなく、ギレーヌの腕なら雇い主などすぐに見つかる。事実、サウロスという名前を聞いた時、俺は安堵した。あの老人ならギレーヌを粗末には扱わないだろう。
だが。
別行動を取ってからの日々は、正直に言えば、孤独だった。
宿に戻る。一人ではない。護衛の男がいる。だが、護衛はあくまで護衛だ。隣に座る人間がいるわけではない。
食堂の席。窓際の、一番奥の席。
空いている。
いつも空いている。
俺はそこに座り、湯気の立つスープを啜った。
味は悪くない。だが、何かが足りない。何かが、足りないのだ。
ギレーヌがいた時は。
猫の耳が揺れていた。金色の瞳が俺を見ていた。隣で剣の手入れをする音が聞こえていた。革と鉄の匂いがしていた。俺の籠手の留め具を直す、あの太い指先があった。
今はいない。
俺は右手を握った。籠手の革が軋む。
右腕。左脚。
この重さだけが、変わらない。
記憶は戻らない。だが、この重さだけは確かだ。
ギレーヌも分かっていた。俺がこの重さを求める理由を。問わなかった。ただ、直してくれた。ただ、隣にいてくれた。
今はいない。
「エドワード様? お加減が悪いのですか」
同僚の男が声をかけた。
「いや。何でもない」
俺はスープを啜った。
何でもない。何でもないのだ。
ただ、隣の席が空いている。それだけだ。
夜が更けた。
宿の部屋で、俺はノートを開いた。
遺跡の記録。魔術陣の構成。錬金術との比較。
だが、今日のページの端には、無意識に何かが書かれていた。
文字ではない。絵だ。
猫の耳。
俺は自分の手を止めた。
……馬鹿か、俺は。
ノートを閉じた。
暗闇の中で、天井を見上げる。
数年だ。
数年、別行動を取っている。
手紙は届く。だが、頻度は減っている。最後の手紙は、いつだったか。
エリスという少女が剣の才能がある、と書いてあった。剣術の師匠として、張り合いがある、と。
そうだった。
ギレーヌにはギレーヌの道がある。俺には俺の道がある。
それを話し合った。それで決めた。互いの道を尊重し、それぞれの目標に向かって進むと。
だが。
正直に言えば。
会いたい。
たったそれだけだ。
俺は右腕の籠手を外した。左脚の脛当てを外した。
暗闇の中で、重さだけが残る。
この重さが、何だったのか。まだ分からない。
だが、この重さを感じる時、ギレーヌのことが思い浮かぶ。
それは確かだ。
明日も遺跡を調べる。明後日も。その次も。
答えが出るまで続ける。
だが、答えが出たら。
記憶が戻ったら。
その時は。
俺は目を閉じた。
「…んっ、パウロの奴から、手紙だと」