「ナギねえもお昼寝する?」
ことの発端は何てことのない
広めのソファーに上半身だけを倒していた状態から体を起こし、小さな手で寝床を示す姿勢の蒼角は純真に満ちる瞳で柳に首を傾げている。
一見すれば姉を気遣う妹のただの好意である。問題はなのは、手で示す先の蒼角が枕として使っていた存在であった。
「おい、それ俺の脚。フリーピローになった覚えはねえぞ」
枕にされていた男、柊要が自分の脚を勝手に差し出されたことに胡乱な眼差しを向けるも、蒼角は首を傾げたまま疑問符を浮かべた。
「ふりーぴろー?っていうのは分かんないけど、カナメの膝枕はすっごく眠れるよ。ナギねえも少しくらいお休みできるんじゃないかな?」
蒼角が要に懐いている、或いは要が蒼角を贔屓しているのは六課の中で周知の事実だ。故に膝枕していることも手遊びのように頭を撫でていることも、もはや見慣れた光景である。
重要なのは蒼角は未成熟の子供であり、無条件の甘やかしが許される年齢と過去があることだ。
対して柳は既に成人を迎えた女性で。自己管理を怠らない彼女は自分の機嫌の取り方というものを理解していた。
よほどのことがなければ仕事といえど無理をすることはないし、非番の日に書類と向き合う非効率的な作業をすることもない。冷静に客観的事実を解析し、適したものを適した場所に振り分け、物事を順序立てて解決に導く。それが六課に求められる月城柳の姿で、誇りを持てる己のありかただった。
──しかし、今日の柳はどこか冷静ではなかった。簡単に言えば、一回り年が離れた蒼角に気を遣われるくらいには疲労が滲みでていたのである。
「蒼角、どこかでサボっている浅羽隊員を見つけてこの書類を突きつけてきてください。この場所に朱い印鑑を押されることが任務完了の印です」
「らじゃー!」
複数枚の書類を指差しで確認して丁寧に渡された蒼角は、片手で抱えると角度の覚束ない敬礼と共に溌剌とした声で了承した。
そしてぱたぱたと小走りをして六課の縄張りから姿を消す。体よく蒼角を弾いて残されたのは、ソファーにだらんと寛ぐ要と背筋を綺麗に伸ばした柳だけ。
「要さん。よろしいですか?」
仕事中ではしない、プライベートの時のみにされる呼称に要を無言の肯定で答えるしかなかった。
振り返った柳の声に。姿勢に。佇まいに。少しばかり覇気がないのを気づけるのは、人外の五感を持った要だけだ。膝を貸すだけでコンディションが多少でも改善されるなら構いやしない。
滑らかな革を沈ませた柳が三つ編みに結う桃色の髪を肩から前にかけ直して、その体を傾ける。
彼女が頭をゆっくりと太腿に着地させ、少しずつ重心を預けていく。
女性の中では長身の部類に入る柳よりも、ふた回りほど大きい身長を支える太腿は枕というには固く、筋肉というには柔らかかった。
異性という意識の緊張が少しずつほどけていけば、柳も自然と力を抜いていて完全にリラックスした気分で身を委ねていく。
「時間の余裕は?」
「三十分くらいでしょうか。声をかけてくれると助かります」
今度の返答は大きな手による慰撫であった。
少しかさつき、皮膚の下から骨を主張するそれが丁寧さを持って桃色の髪を撫で、邪魔をさせないように耳の裏へとかけられる。
周期的な慰撫は眠気の誘うには充分すぎる暖かさがあり、柳の視界を心地よい暗闇に招くのだ。
瞼が落ちては開いて、意識が雲の上を弾むような浮遊感に包まれる。眠気に意識を浚われる直前の、寝たら一番気持ちよく、それでいて睡魔に任せるには惜しいと思わせる感覚。
(膝枕なんて、いつぶりでしょうか)
柳は自己完結型の人種だ。保護者を務める蒼角を甘やかすことはあっても、誰かに甘やかされることはなかった。
それを許す相手を作らなかったこともあるし、自分で機嫌を取れる以上求めて来なかったというのもある。それがどうして、彼にならいいと思ってしまうのか。理解できないほど、自分の感情に鈍感ではなかった。
鈍感ではないが、自分を労る無骨な手に何が宿っているのか。己のではない感情は柳を持ってしても、推し測ることは出来なかった。
気を置かない相手ではある。しかし、健全な男女の距離感としては不適切な距離で、隙だらけな状態を柳は指定した時間の最後まで見せていた。
やがてきっちり三十分の時が立つと、柳は寸分狂わず瞼を開く。寝ていたつもりはないのに、呆れるほどクリアになった思考で分刻みのスケジュールを組み直しながら体を起こした。
どこか他人事のように膝枕を思い返す理性と、気恥ずかしさで悶えそうになる羞恥心を隠して彼の方を見やれば、鋭さを伴った視線が遠くを覗いている。
見えない何かを探るものではない。むしろ、要にしか見えない事象を観測しているのだと経験で理解した。
「郊外ですか?」
「あぁ。広がる前に抑えてくる」
視線の方向にホロウに呑み込まれた乾燥地帯の郊外があることに気づくと、要は軽く頷いて立ち上がり六課の上着を羽織る。
百数キロは先にある、荒くれ者と走り屋たちの縄張り。そこで起きる異変の前兆を当然のように捉え、あまつさえ御しにいくなど彼でなければまともに取り合うことのない台詞だ。要だからこそ、柳は報告書の草案を組み立てるのに躊躇しなかった。
「要さん」
出口に向かう要に声をかけた柳だったが、すぐには続きを口にはできなかった。喉のそこまで込み上げている何かは、形になるのを嫌うようにつっかえてしまっている。
振り返った要と一瞬だけ視線が交わり。
「お気をつけて」
「おう」
せり上げた言葉は頭の中で準備したのとは違う、ありふれた無難な気遣いだった。
短い返事をした要が出口に消えて、気配と共にかき消える。足音も空気の振動も起こさず六課から彼の温もりが消失した。今はもう、郊外に着いているころだろう。
「……はぁ」
一人残された柳の唇から重い溜め息が漏れる。自罰的で、自嘲気味で、自責を含めた溜め息であった。
対ホロウ特別行動部は一人の人間に頼みきっている。否、人類そのものが、たった一人の男に寄りかかっている。彼一人が消滅させたホロウは片手では足りず、拡張した人類の生存圏はそのまま彼の功績だった。
今地表に残るホロウは資源を依存する六大ホロウと、資源の活用が期待できなおかつ膨張の危険度が少ない共生ホロウだけ。水平線に広がる荒野を、海を観測したのは、実に数百年ぶりの記録だと騒がれたのが記憶に新しい。
まさに英雄のごとき働き。けれど、その実績を正しく把握できるのは極一部の限られた人間のみである。なぜならば、たった一人の功績にしてはあまりにも非現実的だからだ。
もし事実のまま世に公表したとしよう。
民衆は救世主の誕生に沸き、震え、ホロウという未曾有の災害から解放される喜びに叫ぶだろう。
そして次を望む。零号ホロウを始めとした、自分らの生活基盤を支える資源を抹消しろと恥知らずに声を上げるのだ。そんな愚衆が象る世論を想像できないほど上の人間は脳を腐らせていないし、柳もまた正しく理解していた。
要の成したことが正しく記されるようになるのはエーテル物質、牽いては六大ホロウに代わる資源を見つけた時か再利用可能にまで克服した時だろう。そしてそれが実現した時、要が生きている保証はない。人間には寿命があり、人である要もその因果からは逃れられないからだ。
いつか衰え、乾き、萎れるのだろう。人類を救った英雄ではなく、人類の繁栄に貢献した一人の人間として誰かの片隅にだけ記憶され、忘れさられていく。
その事実が、どうしても歯がゆかった。
人類を救った英雄は。
食べることが好きで。
表情豊かに感情を剥き出しにして。
膝の上に乗せた誰かを慈しむ。
そんなどこにでもいる人間なのだと笑って語り継ぐこともできないのだ。
それをどうして受容できようか。ただ、自分の仲間はこんなにもすごいのだと胸を張りたいだけだというのに。
要は気にしないだろう。もとより目立つのも持ち上げられるのも嫌う性格だ。ちょうどいいとさえ思っているかも知れない。それでも、褒められれば嬉しそうにする、分かりやすい性格でもあるのだ。
世界を救うに男にしては、愛おしいと思える人間なのだ。
それを声を大にして口にすることは叶わない。人類にも、柳にも、足りないものが多すぎるからだ。
ならばせめて、多くを眼に焼き付けたいと思う。柊要が呆れるほどに人間らしいところを。
彼のどういったところに惹かれ、人を撫ぜる手のひらが暖かいことを、記録に残したいと願っている。
「次はちゃんとお礼を言わないといけませんね」
目の前にいなければ簡単に喉を通るのに、正面から口にするには些か恥が偲ぶ言葉が誰に聞こえることもなく木霊する。
感謝も、もう一度も、面と向かって伝えるのには義務的で、薄い関係性だ。
今はそうであってもいつか自分が、或いは自分以外の誰かが、何食わぬ顔で彼の膝で寝ていることを柳は願っていた。