ゲームの野球部は全員男子だったのに、彼女が入ったのは女子野球部。しかも監督の席は空いておらず、与えられた役職はマネージャー。
九回制の感覚も、男子野球で覚えた攻略知識も、そのままでは通用しない。
そんなある日、予定表に「青いマス」が見えはじめる。止まれば、先輩やOGとの出会いイベントが起きる——ただし日付は止められないので、調整は全部、現実の努力で。
ゲームにない野球を、スコアブックの隅で一つずつ覚えていく、女子野球部マネージャーの短編。
◆一 監督の席は空いていません
「入部希望です!」
「選手?」
「運営です!」
私の返事を聞いて、野球部の先輩は少し考えた。
「……マネージャーってこと?」
「そうです!」
危うく球団経営の人になるところだった。
水瀬こよみ、十五歳。
前世は男で、栄冠ナインの遊びすぎで夜を何度も失った人間だ。
女の子として生まれ直してからも、野球は好きだった。
ただし、運動神経はついてこなかった。
投げれば隣へ行く。打てば空を切る。走れば、私だけ会話ができなくなる。
栄冠ナインの野球部は、全員が男子だった。
名簿に並ぶのは男子の名前で、目指す先は男子の大会だ。
女子の野球部という選択肢は、ゲームのどこにも用意されていなかった。
それでも、野球部に入りたかった。
男子のゲームで覚えた野球を、女子の野球部で試してみたかった。
できれば采配を振りたかった。
「監督なら、もういるよ」
先輩が指さした先に、ジャージ姿の女性がいた。
笹原監督。社会科の先生で、声がよく通る。
こちらを見て、手を振ってくれた。
では、私はマネージャーから始めよう。
前世では監督だったのだ。
コントローラーを持っている間だけとはいえ、何とかなるはずだ。
入部初日、私はスコアブックを開き、二十分で固まった。
「先輩。今の盗塁と、さっきの失策、どこへ書きますか」
「まず、アウトの数が違うよ」
何ともなっていなかった。
教えてくれたのは、二年生のマネージャー、片桐
眼鏡を掛け、長い髪をきっちり結んでいる。
先輩の机には、予定表、道具の管理表、試合の記録、練習参加の名簿が揃っていた。
ゲームなら一画面だったものが、現実では何冊にも分かれている。
私は試合の記録用紙をめくった。
イニングの欄は、七つしかなかった。
九回の枠に慣れた目には、ひどく短く見えた。
「九回の継投って、どう組んでるんですか」
「うちは七回までだよ」
「……え」
「女子の高校野球は七回制。知らなかった?」
「テレビで見てた甲子園の感覚で来てました」
「男子のほうね。じゃあ、そこから少しずつ覚えようか」
「こよみちゃん、何か得意なことある?」
聞かれて、私は答えた。
「日程の最適化です」
先輩は少しだけ黙ってから、予定表を渡してくれた。
「じゃあ、まず来週の練習予定を、掲示用の紙に写しておいて」
出世は遠かった。
◆二 明後日、パン屋さんが来ます
その予定表に、青いマスが見えた。
最初は蛍光ペンで塗ってあるのだと思った。
だが、紙を傾けても、裏返しても、同じ場所が光っている。
明後日、五月十八日。
青いマスの上に、小さなパンの絵。
私は思わず、椅子から腰を浮かせた。
「先輩! ここ、止まりましょう!」
「日付は止められないよ」
もっともだ。
栄冠ナインには、日程を進めるマスがある。
どこへ止まるかによって、イベントが起きる。
私の目の前にあるものは、それによく似ていた。
ただ、日付を飛ばすカードは見当たらない。
あるのは、これから一週間ほどの予定表に浮かぶ、小さな印だけだった。
十八日、紬先輩が言った。
「今日は第二グラウンド。終わったら、正門で待たずにそのまま帰っていいからね」
私は青いマスを見た。
パンの印の横に、小さく『部室前』と出ている。
何かが来る。
でも、みんながいなければ会えないのかもしれない。
「部室で、道具の確認をしてから帰りませんか」
「何か足りない?」
「ええと、数を覚えたいので」
それは本当だった。
私は監督と先輩に相談し、練習後に短い道具確認の時間をもらった。
その日、部室へ帰ると、卒業生が大きな箱を抱えて立っていた。
「差し入れ! 店、近くに出したんだよ」
中には、パンがぎっしり入っていた。
部員たちが歓声を上げる。
私は心の中で、両手を突き上げた。
来た。
パン屋の先輩イベントだ。
紬先輩が、お礼を言いながら連絡先を控えている。
私は箱を運ぶ手伝いをして、余ったパンを後から来た一年生へ配った。
目の前の予定表で、青いマスの光がゆっくり消えた。
能力は本物だった。
翌週は、運動靴の印が出た。
卒業生のスポーツ用品店員が、修理できる道具はないかと訪ねてきた。
その次は、本の印。
進路の相談に来た卒業生が、後輩たちへ勉強のやり方を教えてくれた。
私はすぐに、予定表を毎朝見るようになった。
会える日なら、部室に戻る時間を確認する。
見学に来るなら、監督に予定を伝える。
自分だけで決めずに、少しずつ日程を調整する。
「こよみ、妙に先輩運がいいよね」
主将の森本さんに言われた。
「日頃の行いです」
半分は、見えないカレンダーのおかげだった。
◆三 アイドルを呼ぶ係ではありません
六月の予定表に、マイクの絵が出た。
私は机を叩いた。
「来ました」
「何が?」
紬先輩が顔を上げる。
私は言葉を選んだ。
「部を盛り上げる、何かが」
「ざっくりしてるね」
栄冠プレイヤーなら期待せずにいられない印だ。
卒業したマネージャーがアイドルになり、練習の助けになる。
ああいうイベントなら、絶対に拾いたい。
問題の日は土曜日。
予定では、午後に遠いグラウンドを借りて守備練習をすることになっていた。
表示の場所は、学校の体育館。
私は監督へ相談した。
「午後の練習、体育館へ変えられませんか」
「どうして?」
「何か、いいことがある気がします」
笹原監督は腕を組んだ。
「それなら、いったん保留ね。使えるかも分からないし、外野の連係を練習したいから」
当然だった。
私は一年生のマネージャーであって、日程を自由に動かす権限はない。
昼休みに、紬先輩が隣へ来た。
「こよみちゃん、土曜って何かあるの?」
「たぶん。まだ、分からなくて」
「じゃあ、分かるところまで調べてみようか」
二人で職員室へ行き、学校の予定を確認した。
地域の催しの打ち合わせがあるらしい。
体育館へ来るのは、卒業生の堀井奈々さん。
今は舞台や音楽活動をしている人だった。
やはり、当たりだ。
私は目を輝かせた。
先輩は落ち着いて、来校する時間と、話を聞ける余裕があるかを確かめてくれた。
それから監督へ相談し直した。
遠征をやめるのではなく、練習を午前中から始め、午後の終わりに学校へ戻る。
奈々さんにも連絡して、十五分だけ時間をもらう。
調整がついたとき、私は初めて、青いマスへ止まるまでにも仕事があるのだと知った。
土曜日。
奈々さんは、野球部時代の写真を持ってきた。
派手な舞台衣装とは違い、昔は私たちと同じジャージを着ていた。
「本番前、緊張しないんですか?」
一年生が聞くと、奈々さんは笑った。
「するよ。だから、最初に何をするか決めてる。足を置く場所とか、息を吐くところとか」
部員たちが、思ったより真剣に聞いていた。
奈々さんは簡単な動きを一緒にやって、最後に短く歌ってくれた。
曲が終わると、体育館に大きな拍手が起きた。
私は満足した。
練習効率アップ。
そういう表示が出てもおかしくない。
実際、予定表の横に、明るい矢印が浮かんだ。
思わず笑うと、紬先輩が私を見た。
「うまくいったね」
「はい。これで明日は、いっぱい練習できます」
「明日は休みだよ」
私は固まった。
休み。
せっかく効率が上がったのに。
その考えが顔に出たらしい。
先輩は笑って、私の目の下を指さした。
「それと、こよみちゃんも今日は帰ったら寝て。今朝、ボールの数を三回数えてた」
予定を組むのに夢中で、自分の睡眠を減らしていた。
言い返せなかった。
◆四 マネージャーの体力ゲージ
私は少し、張り切りすぎていた。
青いマスを見つける。予定を調べる。監督へ相談する。連絡先を確認する。
その合間に、記録、道具、飲み物、会計の手伝い。
自分にしかできない仕事があると思うと、ほかの仕事まで手放せなくなっていた。
月曜日、紬先輩に言われた。
「今日の帰り、用事ない?」
「ないです。道具の棚を直そうかと」
「じゃあ一緒に帰ろう。棚は明日、部員に手伝ってもらう」
逆らえず、ついていった。
駅前でアイスを買って、二人でベンチへ座った。
私の尻の下には、何色のマスもなかった。
「こよみちゃん、私より早く仕事を全部覚えようとしてない?」
ぎくりとした。
前世では年上だった、と言えるはずもない。
生まれ直して十五年。今の私は、スコアの付け方も習っている一年生なのだ。
「役に立ちたいので」
「もう立ってるよ。先輩たちに会えたのも、練習が回りやすくなったのも助かってる」
先輩はアイスの包み紙を小さく折った。
「でも、一人で抱えるのは、上手に回してるのと違うからね」
私は黙って、自分のアイスを見た。
溶け始めている。
食べることまで忘れていた。
「……何を頼んだらいいか、分からないことがあります」
「じゃあ、分からないって言って」
簡単な答えだった。
翌日、私は主将へ道具の確認を頼んだ。
部員たちは、思ったよりあっさり引き受けた。
自分たちが使うものだから当然だ、と森本さんは言った。
「こよみ、棚を全部持ち上げようとしてたんだって?」
「少しだけです」
「私を呼んで。こよみごと持てるから」
頼もしいが、私を数に入れないでほしい。
役割を分けると、練習を見る時間が増えた。
それまで何となく聞いていた打球音が、少し違って聞こえた。
森本さんは、右方向へ打つときによく声を出す。
一年生の大谷さんは、打席へ入る前に靴先で同じ場所をならす。
エースの結城さんは、調子のよい日ほど、投げ終わったあとに大きく息を吐く。
予定表には載っていないことだった。
私は小さなノートを作り、少しずつ書いた。
◆五 今日は青くない
大会当日のマスは、白かった。
朝、何度見ても色は変わらなかった。
幸運なイベントの印もない。
ただ、七月のある一日がそこにある。
私は予定表を閉じた。
今日は試合だ。
パン屋さんにもアイドルにも、代わりに打ってもらうことはできない。
初戦の相手は、春の練習試合で大差をつけられた学校だった。
部員たちは、朝から少し静かだった。
バスの中で、結城さんが窓を見ている。
「緊張します?」
私が聞くと、彼女はうなずいた。
「あんまり寝られなかった」
「私もです」
「こよみは投げないじゃん」
「投げないほうも緊張するんですよ」
結城さんが笑った。
それだけで、少しほっとした。
試合は、一点を争う展開になった。
こちらが先に取れば、追いつかれる。
また取れば、相手も返す。
六回を終えて、三対三。
最終七回の表、私たちの攻撃。
九回ならまだ先がある、という感覚は、ここでは通じない。
七回は、思っていたよりずっと短い。
二死二塁で、森本さんが打席へ入った。
前の打席では、力んで内野フライを上げていた。
私はベンチから声を出した。
「森本さん! いつもの一本!」
振り向いた森本さんへ、私はうなずいた。
右方向へ打つ練習を、何度も見ていた。
監督の合図を確認してから、彼女が構える。
打球が、一、二塁間へ転がった。
抜けた。
二塁走者が三塁を回る。
本塁へ、飛び込む。
四対三。
私は記録を書きかけたまま立ち上がった。
紬先輩も、隣で拍手していた。
「まだ、終わってないよ」
先輩が言う。
私は座り直した。
そうだった。
あと三つ、アウトを取らなければいけない。
七回の裏。
先頭打者が、ヒットで出た。
送りバントが決まり、一死二塁。
結城さんの顔が、少し硬くなる。
次の打者への初球が、外れた。
第二球も、ボール。
私はペンを握り直した。
何か、イベントはないのか。
青いマスでも、伝令のカードでも。
得意なものなら、何でもいい。
何も浮かばなかった。
監督が、控え選手の中原さんを呼んだ。
伝令へ行かせるらしい。
「一度、呼吸を整えるように。次の球だけ考えようって伝えて」
中原さんがうなずいた。
私は思わず声を掛けた。
「結城さん、最初に大きく息を吐くと、いつもの形になります」
監督がこちらを見た。
私は慌てて付け足した。
「練習で、調子がいいときは、いつもそうしてたので」
監督はうなずいた。
「じゃあ、それも伝えて」
中原さんが走っていく。
私はベンチの柵を握った。
伝わってほしい。
能力で分かったことじゃないけれど、何度も見たことだ。
マウンドで、結城さんが一度、肩を下ろした。
大きく息を吐いた。
捕手が何かを言い、彼女が少し笑った。
試合が再開する。
次の球は、ストライクだった。
その次を打たせて、二塁ゴロ。
走者は三塁へ進んだが、アウトは二つになった。
二死三塁。
あと一人。
私は声を出した。
紬先輩も、控えの部員も、みんなで同じ方向へ声を送った。
最後の打者が、打った。
左へ上がる。
レフトの森本さんが、一歩下がり、位置を決めた。
グラブを上げる。
捕った。
その瞬間、私は隣の紬先輩の腕をつかんだ。
「勝った!」
「うん、勝った!」
先輩も、いつもよりずっと大きな声だった。
私はスコアブックを落としそうになり、慌てて抱えた。
グラウンドでは、みんなが集まっていた。
結城さんが、捕手に背中を叩かれている。
森本さんが、最後に捕った球を高く上げた。
私は試合に出ていない。
投げても、打ってもいない。
でも、四対三の最後の線を引く手が、震えていた。
◆六 次のマスも、みんなで
帰りのバスでは、騒ぎ疲れた部員たちが次々に眠った。
私はスコアを清書しようとして、紬先輩に止められた。
「今日くらい、帰ってからでいい」
「忘れそうなので」
「今日のことは、たぶん忘れないよ」
それもそうだった。
結城さんが前の席から振り向いた。
「こよみ、さっきの伝令、ありがとう」
「伝えたのは中原さんですよ」
「最初に息を吐けって、こよみが言ってたって」
私は少し照れた。
「見てたので」
「うん。ちゃんと、見てくれてたんだなって思った」
それだけ言って、結城さんはまた前を向いた。
私も窓の外を見た。
顔が熱かった。
学校へ戻ると、監督が明日の予定を確認した。
試合に出た部員の様子を見ながら、軽めの練習と振り返りを行うらしい。
私は反射的に予定表を見た。
明日のマスが、青くなっていた。
何の印もない。
ただ、淡い青。
今日の結果で変わったのか、もともと見えていなかったのかは分からない。
「こよみちゃん、何かあった?」
紬先輩が聞いた。
私は首を横に振った。
「明日も、いい日になりそうです」
「じゃあ、今日は早く寝ないとね」
私は笑って、予定表を閉じた。
部室には、まだ片づけるものがあった。
以前なら、全部自分で抱えていたと思う。
今日は、振り返って声を掛けた。
「ボールと道具、手伝ってください!」
何人もの返事が返ってきた。
私はその真ん中で、スコアブックを鞄へ入れた。
栄冠ナインに、女子野球部はなかった。
私の攻略知識は、男子の野球のものだった。
でも、ここには、ゲームに載っていない野球があった。
それを一つずつ見せてくれたのが、このチームだ。
監督の席は、空いていない。
でも、今はそれでよかった。
私の席には、次の試合を書くページが、まだたくさん残っていた。