時穢が壁面を叩き割り、引きずり込んだ影を喰らった瞬間、晶洞に映し出されていた光景から時間の流れが失われた。
『明日の道標』の小隊は、戦闘の最中で静止していた。振り上げた武器も、逃げようとする足も、苦痛に歪んだ顔も、すべてが一枚の絵に閉じ込められたかのように動かない。あの場所ではもう誰も時間の中を歩んでいない。今この場で動くことができるのは、時穢とそれに対峙するススルーシィたちだけだった。
時穢の腹が、ぐにゃりと膨らんだ。
満たされることのない捕食者の内側から何かが零れ落ちる。黒く汚れた影が四つ、地面へと降り立った。影は晶洞の床に触れると同時に形を得て、それぞれ異なる姿へと変わっていく。
ひとつは、弓を携えた狩人。ひとつは、剣を握る鎧武者。ひとつは、焼け焦げた腕から炎を滲ませる戦士。そして最後のひとつは、注連繊索を纏った少女だった。
「こ、これはっ……何!?」
ススルーシィは思わず声を上げた。現れた四体は明らかにただの界非ではない。彼等はそれぞれが、誰かの内側にあるものを、歪んだ形で与えられた存在だった。問題はそれが明らかに明日への道標メンバーのものだった事だ。
弓を持つ影が、アルクシアへ顔を向ける。
『アルクシア……どうしてあなたなの?』
その声は、彼女のよく知る人物のものだった。
フォルティ・ネブラ。アルクシアの姉であり、彼女が勇者と呼ぶ人間。その影は、妹へ向けて弓を構えながら、堪えきれない感情を吐き出した。
『私のほうが、ずっと頑張ってきた。私のほうが、ずっと相応しかった。なのに、選ばれるのはいつだってお前……ねえ。一度くらい、私に譲ってよ』
アルクシアの表情からいつもの軽やかさが消えた。彼女は姉の影を見つめたまま、すぐには言葉を返せなかった。
その隣では、剣を握った鎧武者がクゥへと向き直っていた。兜の奥には顔がない。鎧の内側にも、生命の気配はない。けれども、その空虚からは、クゥへ向けられた憎悪が確かに滲み出していた。
『……』
影は何も語らない。ただ、剣を構えた。
その姿を見たクゥは、わずかに首を傾げた。彼女は相手の殺気を感じ取っていたが、目の前の存在からは、いつもの敵とは違う何かを感じていた。憎しみだけではない。自分が持っているものを相手が持っていない、その事実そのものに耐えられないような、底のない感情だった。
炎を滲ませる影は、スティレイトへと顔を向けた。
『なあ、スティ……お前はいいよなァ。力があって……』
その声には、羨望と怨嗟が絡み合っていた。影はスティレイトを称賛する。ル・イグニエルの戦士たちにとって誇りであり、英雄であり、星のような存在だと。しかし、その称賛はすぐに歪み、吐き捨てるような憎悪へと変わっていった。
『皆、お前を賞賛する。お前は立派なル・イグニエルの戦士だ! でも……どうしてだ?どうしてそこには俺がいない?』
影の腕が震えた。焼け焦げた皮膚の隙間から、炎が漏れ出す。
『俺はいつだって舞台裏なのか? お前のほうが役者で、スターで……そこは、俺の場所だ!皆が賞賛する! 皆に認められる!誰もが俺を戦士だと、英雄だと!そうだ!だから、俺の場所を奪うんじゃねええ!!』
スティレイトは酒瓶を握る手に力がこもり、次の瞬間、彼はそれを地面へ叩きつけた。砕けた瓶の破片が散らばる。
「くそが……なんてもん見せてくれやがるよ!」
怒りに震える声だった。目の前の影が何者であるか、彼には分かっていた。火に憧れ、自分を見つめ、自分と同じ場所へ立ちたいと願いながら、その願いを叶えられなかった者の感情。それが、今や自分自身を憎むための言葉へと変わっている。
最後の影は、ススルーシィを見つめていた。
『……ススルーシィサマ……』
その声は、途切れ途切れだった。言葉を発するたびに、身体を縛る縄が軋み、黒い穢れが滲み出す。
『……貴女はいつも自由で……私とは違う……私は、間違っていたの?私が悪いの?』
ススルーシィは、口を開きかけた。しかし、影は自らの問いに答えるように、声を変えた。
『いいえ……悪いのは貴女。貴女はいつだって、その在り方を誇らしく思っていたでしょう。そのせいで、どれほどの人が迷惑を被ったのでしょうね』
「っ!そ、そうよ!」
むしろその責める言葉こそが、目の前の敵を敵として認識する事に困惑していた自身立ち直らせた。そもそもススルーシィは界非であり、人間ではない。人の理を理解はすれど従属する意味がない。好意よりも敵意や憎悪の方が馴染みが深く、落ちつくものだったのだ。
「だったら、どうするって言うの? 答えてごらんなさいよっ」
彼女は影を睨みつけた。問いを否定するのではなく、その先に何を求めているのかを聞こうとしたのだ。
影の縄が、ぎしりと鳴った。
『自由の代償を払うのは、いつも周りじゃないですか。だから私は正しい……正しくなければいけない。我慢してきたのだからッ』
声が震える。正しくあろうとすること。間違えないこと。負けないこと。期待を裏切らず、家名に恥じず、自分の感情を押し殺してでも求められた姿であり続けること。そうして積み重ねてきた我慢が、今や他人を責めるための刃になっていた。
『でも、貴女がそんな自由なんかで誘惑するから!私がどれほど苦しんできたと!!』
ススルーシィはしばらく相手を見つめていた。ほんの少し前まで、彼女はこの影に動揺していた。自分の生き方が誰かを苦しめているという言葉は、彼女にとって愉快なものではない。だが、目の前の存在が何を求めているのか、その正体はもう見えていた。
「フン。ちょっと動揺したけど、可愛らしいじゃない」
ススルーシィは牙を覗かせ、口元を吊り上げた。
「要は、貴方、嫉妬しているのね?この私に……」
影は答えなかった。縄の軋む音だけが、晶洞に響く。
「――私と同じね」
その一言とともに、ススルーシィは構え直した。
彼女は生まれながらにして、他の誰とも違う存在だった。ヴァルーシアの民とは同じようには生きられず、同じようには理解されず、強さを求めて戦うこと以外に、自分の居場所を見つけることも難しかった。自由に生きているように見える彼女の孤独は、自由を選んだ結果ではない。最初から、他の生き方を選ぶ余地が少なかっただけだ。
だからこそ仲間を持ち、誰かに認められ、誰かと同じ場所を目指せる人間たちが羨ましかった。その人間たちの中で、ミーナは自分を縛るものを抱え、自由に振る舞うススルーシィを見ていたのだろう。
互いに羨み、互いに相手の持つものを欲しがっていた。そう考えると、目の前の影が少しだけ身近に感じられた。
『死ね、死ね、死ね……!貴女を殺して、私が正しいと……!』
影の声が、意味を失った叫びへと崩れていく。身体を縛る縄が一斉に蠢き、その輪郭が黒い穢れに呑まれ始めた。その刹那、声なき声がススルーシィには聞こえた。
『█████████████████████████』
「大丈夫、私は死なない。それが私の強さの意味だから」
ススルーシィは、目を逸らさなかった。
「これ以上は、言葉よりも拳で語るのが相応しい。ヴァルーシア流爪術“半蛇”ススルーシィが相手をしてあげるわ。かかって来なさい!」
その言葉を合図にしたかのように、時穢が動いた。
巨体が一瞬視界から消える。次に現れたときには、すでにアルクシアのすぐそばにいた。時間と空間を捻じ曲げ、移動の過程そのものを省略したかのような動きだった。
アルクシアは即座に弓を構えた。遠くから狙い撃つことを得意とする彼女にとって、敵が間合いを詰めてくることは明確な脅威だ。しかし、彼女は退かなかった。むしろ自ら前へ出て、弓を構えたまま姉の影と向かい合う。
『私のほうが、ずっと、ずっと、ずっと! 貴女よりずっと努力してきた!』
フォルティの影が叫ぶ。
『なのにどうして? 貴女は当てられるだけでしょう? 私のほうがすごい! 私のほうが、私は貴女より!』
声が途切れ、やがて獣じみた唸りへと変わった。影は弓を引き絞り、アルクシアへ向けて矢を放つ。射線は正確で、攻撃には迷いがない。アルクシアが知る姉の技術をなぞりながら、そこにあったはずの冷静さだけが失われていた。
アルクシアは矢を放った。互いの攻撃が交錯し、岩壁が砕け、破片が飛び散る。彼女の矢は相手の動きを読み、逃げ道を塞ぐように追いすがった。だが、姉の影はそれを岩石の弾丸で相殺し、なおも迫る矢を身を捻ってかわしていく。
それはもはや、狩人の動きではなかった。獲物を追い詰めるために研ぎ澄まされた、恐ろしいまでに獰猛な獣の動きだった。
アルクシアは、矢を構えたまま目を細めた。
見通した未来に矢が届かない。そんなことは、これまでほとんどなかった。相手の動きを読み、最適な軌道を選び、逃げる先に矢を置く。彼女の射撃は、未来を見通す力と一体になっていた。だが、目の前の姉は、その予測を超えてくる。
――やっぱりすごいな、フォルティ姉さんは。
アルクシアの口元に、笑みが浮かんだ。
――負けてられない。
『……そんなふうに、思ってたんだね』
彼女は矢を構えたまま、故郷の言葉で姉の影へ語りかけた。
『……ううん、分かってた。姉さんが私のこと、疎ましく思ってるくらい』
影の弓が、わずかに揺れる。
『――でも、私は同情しない。道も譲らない。手加減だってしない』
アルクシアの声は、静かだった。相手の苦しみを否定するつもりはない。だが、その苦しみを理由に、自分が歩いてきた道を明け渡すつもりもなかった。
『フォルティ姉さんは勇者だ。落ち込んでも、折れも諦めもしないって信じてる。だから……』
彼女は弓を引き絞る。狙いは定まっていた。
『上等だ!その喧嘩、勝ってやる!』
矢が放たれた。光を帯びた一射が姉の影へと迫る。影は岩石を削り、弾丸のように撃ち出して矢を逸らした。アルクシアの矢は勢いを削がれながらも軌道を変え、影の身体をかすめて飛び去る。アルクシアは笑っていた。姉が本気で自分を倒そうとしている。その事実を、彼女は真正面から受け止めていた。
一方、スティレイトの前では、炎の影が雷撃を放っていた。焼け焦げた腕から走る光が、彼の身体を幾度も打つ。影は、自分が持っていないものを欲しがるようにその力を振るっていた。
『踊れェ!お前の鈍重な身体じゃ避けられねェだろ!?』
「ハッ!ちょっとビリッと来るだけじゃねーか!」
スティレイトは歯を剥き、正面から受け止めた。痛みが走る。身体の奥を焼かれるような感覚に顔が歪む。それでも彼は、相手から目を逸らさなかった。
「おいおい、どうしたよ。お前の十八番はよォ!」
挑発に、影が吠えた。
『黙れェ!!』
スティレイトは黒く焼けた腕を掲げた。そこから生じる炎は、彼が望んで手に入れたものではない。彼が本当に望んでいたのは、戦士として称賛されることでも、強大な力で敵を倒すことでもなかった。かつてのように踊り、皆を鼓舞し、人々の視線を集めることだった。
しかし、今の彼にはこの腕がある。炎を扱うたびに焼けるような痛みが走り、身体の動きは鈍る。以前のように踊ることは、もうできない。それでも彼は、別の方法で自分の存在意義を証明しようとしてきた。
「そんな腕が欲しいなら、くれてやるよ!」
スティレイトは神造遠隔祭具を構え、炎の影へと照準を合わせた。
「私を殺せればなァ!」
放たれた光が、影の身体を貫いた。炎の影は、熱に焼かれながらも笑っていた。苦痛に叫びながら、その光をまるで自分を照らす舞台照明のように受け入れている。
『熱い!熱い!!だが、光だ!!ああ!これが俺を照らす光ィ!』
スティレイトは眉をひそめた。相手は自分の力を欲している。だが、それだけではない。自分が受けてきた苦痛さえも、相手にとっては羨望の対象なのだ。欲しいものを手に入れるためなら、その痛みすら喜んで引き受ける。そんな歪んだ執着が、炎の影を動かしていた。
――しかしそれは、ル・イグニエルとしては当たり前すぎるほど当たり前の欲求なのだ。
離れた場所ではクゥと鎧武者が剣を交えていた。
クゥは黒い大剣を構え、相手の剣を正面から受け止めた。金属が激しく擦れ、火花が散る。鎧武者は一言も発しない。空虚な兜の奥から、ただクゥを見つめている。
「本気でいくぞ!」
クゥは大剣を振り下ろした。相手は剣を滑らせるようにして受け流し、反撃の一撃を返す。クゥはそれを避け、踏み込んで斬り返した。大剣は、彼女にとって小さな棒でも振るうかのように軽々と扱われていた。だが、相手もまた、その剣を正面から受け止めるだけの技量を持っていた。
「お互い、手加減はなしだ!」
クゥの声が晶洞に響く。彼女は敵の攻撃を恐れていなかった。相手が何を抱えているのか、どうして自分を憎んでいるのか、その理由をまだ知らない。それでも、剣を向けられた以上は応じる。相手が本気なら、自分も本気で戦う。それが彼女のやり方だった。
鎧武者の剣が、クゥの大剣を押し返す。次の瞬間、彼女は身体を捻り、反動を利用して刃を返した。重い一撃が空気を裂く。鎧武者はそれを受け止めたものの、衝撃に足元の岩が砕け散った。
その間にも、時穢はススルーシィへと襲いかかっていた。
巨大な身体が彼女の死角から現れ飛び掛かる。時穢の動きは想像以上に速いが、それ以上に結界が界非を対象としている以上、ススルーシィ自身もその影響を受けて動きが制限されている。重い一撃が彼女の身体を打つが、驚愕したのは時穢の方だった。
鋼鉄をも引き裂こうという攻撃に巨大な質量、更に穢れに塗れた爪の一撃を受け止めて彼女は倒れなかった。
「フン、その程度?今忙しいから、犬っころはすっこんでなさいよっ!」
ススルーシィは鬱陶しそうに時穢を振り払った。彼女の身体を覆う高出力の穢装は、敵の攻撃を受け止めてなお、ほとんど傷を負っていない。時穢は彼女の強大な瘴気出力に惹かれているらしく、今にも喰らいつこうとするように身体を揺らしていたが、安易に飛び掛かる事はしなかった。獣のような見た目からは考えられない程知能が高い時穢は、ススルーシィのカウンターを予想し様子を見る事を選択。
「残念でした。私は貧弱虚弱無知無力なニンゲンじゃないのよっ」
彼女はミーナの影へと向き直る。相手は注連繊索を伸ばし、彼女の身体を絡め取ろうとした。縄は幾重にも巻きつき、強引に引き寄せる。結界の重なる地点へと引きずり込もうとしているのだ。
『ススルーシィサマ……貴女も……縛られましょう……?』
影の声は歪んでいた。縄に縛られ、自由を失い、それでも正しくあろうとした者の声。自分が苦しんできたのだから、相手にも同じ苦しみを味わわせたい。そうすれば、自分の我慢が正しかったと証明できる。そんな願いが、縄の一本一本に染み込んでいるようだった。
ススルーシィは、身体を締めつける縄を見下ろした。
「……こんなことを言うと、頭がおかしくなったと思われるかもしれないけど」
彼女は微笑んでいた。
「別にそういうの、イヤなわけじゃないのよ。でも……この程度じゃ私を縛るには足りないわよ」
縄が、ぎりぎりと音を立てて締まる。しかし、彼女の穢装を貫くことはできなかった。影はさらに縄を伸ばし、力を込める。ススルーシィはその様子を見つめながら、牙を見せて微笑んだ。
彼女は一歩も退かなかった。相手の攻撃を避けることだけが、戦い方ではない。それは、彼女自身が信じる強さの表れだった。痛みを知らないわけではない。危険を理解していないわけでもない。ただ、この程度の呪縛で自分の行動を止められると思われたことが、彼女には不愉快だった。
「さあ、どこまで耐えられるかしら!」
縛られたままのススルーシィの拳が、影へと叩き込まれた。
黒い縄が弾け、穢れが飛び散る。影は無数の縄へと身体を分解し、打撃を逃れようとした。だが、ススルーシィの攻撃は、逃げ道を許さないほど鋭く、重い。
目の前にいるのは倒すべき敵であると同時に、自分へ言葉をぶつけてきた相手でもある。ミーナの心に何があったのか、彼女はすべてを理解したわけではない。それでも、少なくとも今は、ミーナが初めて自分に本音をぶつけてきたことを嬉しく思っていた。ならば、その言葉に応える方法はひとつしかない。
真正面から戦うこと。
ススルーシィは拳を引き、次の一撃を構えた。
時穢はまだ動いている。四つの影もまた、それぞれの相手へ憎悪を向け続けていた。結界は保たれているが、戦いは始まったばかりだった。