四つの影が消えたとき、晶洞を満たしていた異様な静けさが、かえって重く感じられた。
敵は、もう時穢だけだった。アルクシアとフォルティの矢に貫かれた影も、クゥとルクレスの剣に打ち砕かれた影も、スティレイトとミーシャーの炎に焼かれた影も、ミーナの手から解き放たれた影も、いまは跡形もない。
しかし未だ時穢は健在。異様に長い四肢を岩盤へ食い込ませ、時の止まった晶洞の中央で、こちらを見定めるように身を低くしている。
その巨体には、幾重もの時空の歪みがまとわりついていた。外殻の輪郭は見るたびにわずかにずれ、頭部らしき部位を捉えたはずの視線は、次の瞬間には別の場所へ滑ってしまう。そこにあるのは、単に頑丈な獣ではない。空間そのものを盾にして、こちらの攻撃が届く未来を拒む怪物だった。
「……あとは、あの大きな獣だけだ!」
クゥが黒剣を構え直す。ルクレスの気配はすでに隣から消えていたが、彼女の表情に迷いはない。先ほどまで刃を交えていた影は、彼女が何も持たない存在ではないことを責め立てていた。けれど、クゥはもう、その言葉に答えを得ている。自分には並び立つ仲間がいる。その事実を、目の前の怪物にまで否定させるつもりはなかった。
時穢が動いた。
最初に消えたのは、巨体の輪郭だった。黒い獣の姿が、晶洞の薄暗がりに溶けたのではない。そこにいたはずの存在と、そこから消えたという結果とが、ほんの一瞬だけ噛み合わなくなったのだ。スティレイトが反射的に剣を振り抜いたとき、刃は空を切っていた。次の瞬間、彼女の側面に巨大な影が差し、岩盤を砕く爪が振り下ろされた。
スティレイトは身を投げ出すようにしてかわした。衝撃が足元を揺らし砕けた岩片が背中を打つ。時穢は、攻撃を終えた場所に留まっていなかった。空間を渡ったのか時間を飛び越えたのか、それすら判然としない。視界から消えるタイミングすら掴むことができない。
「厄介ね……!」
アルクシアは弓を引き絞った。狙うべき場所は分かっている。けれど、矢が到達するまでに時穢がどこへ移るのか、その予測が成立しない。一本目の矢は、獣の頭部があった空間を通り過ぎた。二本目は外殻に触れる寸前で軌道を逸らされ、三本目は何もない場所で砕け散った。
時穢の姿が再び現れる。巨体を包む空間が水面のように波打ち、その輪郭を何重にもずらしていた。爪も、牙も、黒い外殻も見えている。だが、見えているものが本当の位置にあるとは限らない。時穢はその歪みをまとったまま次の獲物へと身を低くした。
アルクシアは矢を放ち続けた。どの矢を、どの角度から、どのタイミングで避けるのか。時穢の反応を一つずつ確かめるように、射線を変え、間隔を変え、連射を重ねていく。獣は矢を避けるたびに空間を歪めた。矢が逸れ、砕け、届かない。その結果だけを見れば攻撃は失敗している。
けれど、アルクシアは見逃さなかった。矢を避けた直後、時穢の輪郭がわずかにぶれる。歪曲が収束するまでの間隔が、少しずつ長くなっている。
防御は無限ではない。
時穢は攻撃が届く未来を拒むために、そのたび空間を捻じ曲げている。ならば、回避を強いるほど、回避に使う力を消費させられる。アルクシアは狙いを変えた。大きな身体の一点を射抜くのではなく、怪物の周囲に張り巡らされた歪曲そのものを追い詰める。放たれた矢が次々と時穢へ向かい、獣はそれを避けるために、何度も、何度も、空間を歪めた。
やがて、時穢の外殻に異変が起きた。
外殻を覆っていた歪曲が、ひび割れた硝子のように揺らぎ始めたのだ。輪郭のずれが大きくなり、巨体の一部が一瞬だけ二重に映る。そこへ矢が突き刺さった。今度は逸れなかった。硬い外殻を貫くには至らないものの、矢は確かに時穢の身体へ届いていた。
時穢が吼えた。声そのものが空間を震わせ、晶洞の岩壁から細かな破片が落ちる。獣は反射的に身を翻し、次の矢を避けようとした。しかし、その動きは先ほどまでの滑らかさを失っていた。避けるたびに歪曲が軋み、戻りきらない歪みが巨体の周囲に残る。隠されていた身体が、少しずつ、確かな輪郭を取り戻していった。
アルクシアは息を詰めた。時穢は速すぎて人間の目では追い切れない。いまも、獣の全貌を捉えられているわけではない。それでも、攻撃を届かせるための道筋は見えた。
「……ッ……《オルクス・フトゥールム》」
最後の矢が突き刺さったとき、時穢の周囲から空間を捻じ曲げる異様な圧力が引いていった。
獣はまだ巨大で爪も牙も健在だった。傷ついたからといって、脅威が消えたわけではない。ただ、もう姿を消して攻撃を逃れることも、届いた矢をなかったことにすることも、先ほどまでのようにはできない。
「みんな、今!」
アルクシアの声が響いた。
時穢に知性があるのか、怒りがあるのか、それは分からなかった。ただ、矢を受けた獣が、傷ついた獲物を前にした獣のように、身体を低くしていた。
次の瞬間、時穢は防御を捨てるようにして突進した。
フォルティはその背後で弓を構え、妹の射線を見届けていた。アルクシアの矢は、まだ届く。だが、届かせるために必要だった壁は、もう薄くなっている。あとは、そこへ続く道を仲間が切り開けばいい。
スティレイトは黒い左腕を押さえた。先ほどまでの戦いで負った痛みが、熱となって骨の奥に残っている。厄除の灯も、いくつか失われていた。ここで無理をすれば、次の一撃を受け切れないかもしれない。それでも彼女は、時穢から目を逸らさなかった。
目の前には、自分と同じように剣を振るい、炎を操りながら、それでも自分には届かないと思い込んでいた影がいた。アンチ・スティレイトは、自分がどれだけ輝いているかを証明するために、スティレイトを憎み続けていた。だが、最後まで彼は、スティレイトの炎を正面から見ようとはしなかった。
ミーシャーは違った。彼は自分の力が足りないと嘆きながらも、仲間を支えることをやめなかった。そしていま、その力はスティレイトの中にある。彼女がひとりで燃えているのではないことを、もう疑う必要はなかった。
スティレイトは盾と剣を構え、時穢へ向かって走り出す。
「さあ、来いよ。今度は私が、お前を見てやる!」
時穢が咆哮した。飢えた獣は、傷ついた相手を見逃さない。スティレイトへ向けて巨腕が振り下ろされる。彼女は真正面から受け止めず、刃を滑らせるようにして軌道を逸らした。衝撃が腕を痺れさせ、足元の岩盤が砕ける。それでも、彼女は倒れなかった。
続けざまに剣を振るう。刃は外殻を浅く裂き、時穢の巨体がわずかに傾いた。決定打には遠い。怪物の装甲は厚く、アルクシアが歪曲を削った今でさえ、正面から斬り伏せるにはあまりにも強固だった。だが、スティレイトは攻撃を止めず、左右へ踏み込みながら、時穢の意識を自分へ向けさせる。
『俺を見ろォ!俺ハ、強い!!輝いていルゥ!』
かつての影の叫びが、耳の奥によみがえる。スティレイトは歯を剝いて笑った。
「私を見ろって?なら、最後まで目ェ逸らすんじゃねぇぞ!」
時穢の腕が彼女を打ち据えようとする。スティレイトは身を沈めてかわし、返す刃を脇腹へ叩き込んだ。衝撃が手首から肩まで突き抜ける。怪物の身体は揺らいだが、まだ倒れない。時穢は反撃に移り、鋭い爪を振り抜いた。スティレイトは避け切れず、衝撃に身体を持っていかれる。それでも、足を地面につけたまま踏みとどまった。
遠くからミーシャーの声が飛ぶ。
「スティ!耐えろよ~!」
「言われなくても!」
スティレイトは振り返らなかった。彼がどこにいるか、何をしようとしているか、もう知っている。自分が戦うために必要なのは、彼を庇って戦場から遠ざけることではない。彼が自分の力を発揮できる場所を作ることだ。
ミーシャーの炎が、時穢の背後へ回り込んだ。炎の精のような姿となった彼は、剣舞を思わせる動きで怪物の注意を乱す。時穢はスティレイトを喰らおうとしながら、背後から迫る炎にも反応せざるを得なくなった。巨体が向きを変える。そのわずかな隙を、スティレイトは逃さない。
彼女の黒い腕が熱を帯び、白く染まり始めた。焼け付く痛みが左腕を駆け抜ける。だが、その熱は彼女ひとりのものではなかった。自分を支える者の力を受け取り、自分の力として放つ。それが、いまの彼女にできる戦い方だった。
「私たちの火をご照覧あれ!」
白熱した腕が、時穢へ向かって伸びる。
「――赫灼白光!」
その瞬間、ミーシャーが時穢の背後から腕を回した。炎で形作られた手が、獣の首元を押さえ、顎を持ち上げる。無理に押さえつけるためではない。最後まで逃げ続けた視線を、正面へ向けさせるためだった。
時穢の目がスティレイトを捉えた。
白い光が怪物の身体を貫く。
スティレイトは息を吐き、焼け付く左腕をかばうようにして一歩退く。時穢の巨体は、なおも立っていた。歪曲を削られ、外殻に傷を負い、幾度も攻撃を受けながら、それでも怪物は崩れない。飢えは傷を恐れず、痛みを理解せず、満たされることもない。目の前の命を喰らい尽くすまで、止まる理由がないのだ。
時穢がスティレイトへ向き直る。今度は、逃がさないという意志さえ感じさせる勢いで巨腕が迫った。
その前に、アルクシアの矢が一本、怪物の動きを牽制するように飛び込んだ。時穢の身体がわずかに揺れる。続けて、スティレイトの式神が放った攻撃が、巨体の外殻を撃ち据えた。致命傷には至らない。それでも、怪物が次の攻撃に移るまでのわずかな時間が生まれた。
スティレイトはその隙を使い、時穢の正面へ踏み込んだ。剣を振るい、続けざまに刃を叩き込む。硬い外殻に弾かれながらも、彼女は一撃ごとに姿勢を崩さず、攻撃の間隔を詰めていく。時穢の腕が迫るたび、盾で受け流し、足を踏み替え、再び刃を届かせる。戦いはもはや、技の優劣だけで決まるものではなかった。敵が倒れるまで、どちらが先に戦う力を失うか。その勝負だった。
ミーシャーは、スティレイトの動きに合わせて炎を躍らせた。彼女の剣が時穢の正面を切り裂くたび、炎は死角へ回り込み、怪物の動きを妨げる。スティレイトが踏み込むための場所を作り、退くべき瞬間を知らせ、彼女の一撃が届くように敵の姿勢を乱す。かつて自分には直接戦う力がないと嘆いた男は、いまや戦場の流れそのものを動かしていた。
「ミーシャー!」
「分かってるとも、我が友よ!」
スティレイトは剣を構えたまま、背後へ声を飛ばした。
「今度はお前が決める番だ!」
ミーシャーは答える代わりに、炎の精となった式神を動かした。二つの炎が時穢を挟み込む。片方は正面から剣舞をなぞり、もう片方は背後へ回り、逃げ道を塞ぐように熱を高めていく。スティレイトはミーシャーの剣舞を真似るように動き、黒い腕からエネルギーを注ぎ込んだ。ミーシャーの炎が、白く発熱する。
時穢はなおも喰らおうとした。迫る剣を、炎を、そこに生きるものすべてを。その飢えは、ここまで来ても満たされない。だからこそ、怪物は目の前にある力を飲み込もうとする。敵を倒すことも、逃げ延びることも、傷を癒やすこともない。ただ喰らい、喰らい、喰らい続ける。それが時穢の在り方だった。
だが、その飢えが仇となる。
正面からスティレイトの剣舞が叩き込まれ、背後からミーシャーの炎が突き刺さった。時穢はその炎を拒まず、むしろ喰らうようにして取り込んだ。巨体の内側で熱が膨れ上がり、外殻の継ぎ目から白い光が漏れ始める。喰らえば喰らうほど満たされるはずだった。けれど、どれほどの力を飲み込んでも、飢えは終わらない。取り込んだ炎は消化されず、怪物の内側で膨れ続けていく。
時穢の巨体が震えた。ひび割れた外殻の隙間から、光が筋となって走る。四肢が大きく痙攣し、歪曲した空間が限界を迎えたかのように明滅した。時穢は最後まで何かを喰らおうと腕を伸ばしたが、その指先は誰にも届かなかった。
内側から膨れ上がった光が、怪物の全身を包み込む。
そして、時穢は光を放って爆発した。
轟音が晶洞を揺さぶり、白い閃光が岩壁の隅々まで満たす。怪物の巨体は崩れ、時空の歪みは引き裂かれた布のようにほどけていった。あれほど頑なに拒んでいた攻撃の軌道も、未来を捻じ曲げる力も、もう残っていない。最後まで満たされなかった飢えは、皮肉にも、自ら呑み込んだ炎によって終わりを迎えた。
その瞬間、晶洞を縛っていた時間が動き出した。
止まっていた粉塵が落ち、空中に浮かんでいた岩片が床へ叩きつけられる。遅れて轟音が戻ってきたかのように、周囲の岩盤が次々と軋み始めた。時穢が消えたことで、そこに存在するはずのなかった空間を支えていた力まで失われたのだ。巨大な晶洞の壁に亀裂が走り、天井から岩塊が落下する。
「皆!早くこっちへ!」
フォルティが声を張り上げる。
「崩れる!」
クゥが黒剣を背負い直し、アルクシアは弓を手にしたまま出口へ駆け出す。スティレイトは焼け付く腕を押さえながらも、ミーシャーとともに走った。ススルーシィは一度だけ背後を振り返り、時穢がいた場所を確認する。そこには、もう何も残っていない。
「長居は無用ね」
埋まっても別に平気とはいえ、別に埋まりたいわけではない。彼女は仲間たちを追って駆け出した。
頭上で岩盤が砕け、背後から崩落の音が迫る。誰かが足を取られれば、別の誰かが手を伸ばした。互いに声を掛け合い、落ちてくる岩を避け、最後まで走り続ける。あれほど長く、幾度も巻き戻されてきた戦いの果てに、彼らが選んだのは、ただ生きて帰ることだった。
やがて一行は晶洞を脱出した。
背後で巨大な空洞が轟音とともに崩れ落ちていく。もう、時間が巻き戻る気配はなかった。あの異常な空間を生み出し、境界の修復を喰らい続けたモノリスも、そこから生まれた時穢も、いまは存在しない。何度繰り返しても終わらなかった戦いは、ようやく終わったのだ。