イリュジオムへ戻った一行を迎えたのは、教皇ラクリオンだった。
彼らが持ち帰った報告を聞き終えた教皇ラクリオンは、まず全員の顔を確かめ、それから普段と変わらない穏やかな声で、よく帰って来てくれた、と告げた。あの地下で何が起きたのか。何度も繰り返された時間の巻き戻りが、どれほどの犠牲を生みかけたのか。そこに囚われた人々が何を見せられ、何を奪われそうになったのか。すべてを言葉にするには時間が必要だったが、少なくとも、事件が終ったという事実だけは、誰にも疑いようがなかった。
ススルーシィはそのやり取りを聞きながら、退屈そうに椅子の背へ身を預けていた。彼女の身体にはまだ戦いの高揚が残っていたが、戦い足りないからと言ってごねる程に血に飢えているわけでもない。ヴァルーシア帝国の戦士は、誇りを保つために空腹であれ。飢餓を恥じる必要はないが、満たされていない状態を弱さと取り違えてはならない。己の欲求に支配されず、必要なときに必要な力を振るえるよう常に自分を律する。その教えは、彼女にとって戦士としての在り方そのものだった。
だからこそ、今回の戦いで自分の身体に起きた変化は、彼女自身が誰よりもよく理解していた。界非を呪詛毒で侵し、その穢れを喰らうたび、身体の奥に眠っていた力が戻ってくる。飢餓によって抑えていたものが、戦いの最中に一時的な復調を果たしただけだ。もちろん、そうして得た力を使いこなす技量は、日頃の鍛錬によって培ったものにほかならない。だが、戦闘中に強くなったという事実を、何か神秘的な覚醒の証だと考えるほど、彼女は自分の身体に無知ではなかった。恐らく最終的には自分の力は時穢を大幅に上回っていた。
だが、だからといって、仲間と戦った意味まで否定する気もなかった。
アルクシアの矢は、彼女とは違う仕方で敵を追い詰めた。スティレイトは傷ついた腕を抱えながらも炎を振るい、ミーシャーとともに戦場を照らした。クゥは自分の信じる戦い方を貫き、ミーナは拘束の構造にわずかな隙間を見出して、ススルーシィが自由を取り戻すきっかけを作った。それらは、彼女が一人で戦えば決して得られなかった成果というよりも、一人で戦っていたならば、そもそも目に留めることさえなかった強さだった。
強者とは、ただ相手を圧倒できる者のことではない。少なくとも、他人の強さを見抜くことさえできない者が、強者を名乗るのはおかしな話だろう。ススルーシィはそう考えたが、それを殊勝な教訓として胸に刻むきっかけとなったが、それを素直に認めるのも癪であり……最終的に彼女はただ、今回の連中はなかなか面白かった、と認めることにした。それで十分だった。
やがて、報告と今後の対応についての話し合いが一段落すると、ラクリオンは一行を労うための宴席を用意した。長い卓には温かな料理が並び、香ばしい焼き物の匂いと、煮込まれた肉や香草の香りが部屋を満たす。戦いの後に腹を満たすことは、単に疲労を癒やすためだけではない。帰ってきた者たちが同じ場所に座り、同じ食卓を囲めること。それ自体が、今回の戦いで彼らが守り抜いたものの一つだった。
料理が運ばれてくるなり、ススルーシィは皿の上を眺め、満足そうに目を細めた。
「へえ。なかなか気が利いているじゃない」
彼女は給仕に礼を言う代わりに、まず肉料理を一切れ口へ運んだ。表面は香ばしく焼かれ、噛むと肉汁が溢れる。香草の香りが鼻へ抜け、適度な塩気が舌に残った。彼女はしばらく味を確かめ、それから大きく頷いた。
「悪くないわね。うん、悪くない」
「気に入ったなら、もっと食べたらどうだい?」
ラクリオンが笑みを浮かべて勧めると、ススルーシィは当然だと言わんばかりに胸を張った。
「言われなくても、そのつもりよ。せっかくの祝いの席だもの。出された
その言い分に、アルクシアが呆れたように肩をすくめる。スティレイトは笑い、クゥは自分の皿へ手を伸ばし、周囲の緊張も少しずつほどけていった。ススルーシィは普段から空腹を保つことを己の誇りとしている。だが、それは食事を敵視することでも、満たされることを恥じることでもない。必要なときに飢え、必要なときに喰らう。大切なのは欲求を否定することではなく、己の意思でそれを扱うことだった。
彼女は料理を味わいながら、ふと、ミーナのことを思い出した。
あの少女は、最後まで自分が正しくあろうとしていた。期待に応えようとし、間違いを恐れ、他人の自由に心を乱されながらも、その感情を表へ出すことを許せなかった。彼女の影の言葉を借りるなら、彼女もまた、我慢することを選び続けてきた一人だったのだろう。だからといって、ミーナの生き方が間違っていたと決めつけるつもりはない。誰かが何を大切にして生きるのかは、その本人が決めることだ。ススルーシィが自分が自分であることを誇りに思うように、ミーナにはミーナの選び方がある。
ただ、あの場でミーナが縄を投げ、拘束の隙間を作ってくれたことは評価してぎる。彼女がいなければ、自分は別の手段を取っていただろうし、結局は同じように勝っていたかもしれない。けれど、あの一瞬、ミーナは自分の判断で戦いに加わった。ススルーシィの自由に振り回されるだけの存在ではなく、自分の意思で戦場に立ったのだ。
ススルーシィが戦う戦場に。それは、なかなか悪くないことだった。
「……何、にやにや、してる?」
向かいの席からアルクシアが尋ねた。ススルーシィは、手にしていた杯を軽く揺らし、赤みを帯びた液面を眺める。
「別に。今回の戦いを思い返していただけよ」
「反省?」
「まさか!」
彼女は即座に否定した。その勢いに、アルクシアが吹き出す。
「私が反省なんてするわけないでしょう?私は私のやりたいように戦ったし、勝つために必要なことをした。それだけよ」
「最後の犬の狩り、ススルーシィだけ全然参加しなかったもんなー!」
「クゥ、それちがう、ススルーシィ周囲、警戒」
「話がすぐ逸れるな……で?じゃあ、何を思い返してたんだ?」
スティレイトの問いにススルーシィは少しだけ考えた。
「そうね……一つだけ、分かったことがあるわ」
彼女は杯を置き、仲間たちを順番に見た。
「独りで勝てるかどうかと、一人で戦うべきかどうかは、別の話なのかもしれないわね」
言ってから、ススルーシィは少しだけ顔をしかめた。自分で口にしておきながら、ずいぶんと小難しい言い方をしたものだと思ったのだ。だが、撤回するつもりはなかった。
「……へえ。珍しいことを言うじゃないか」
スティレイトが目を丸くした。アルクシアも意外そうに彼女を見つめている。クゥは何かを考えるように黙っていたが、やがて小さく頷いた。
ススルーシィは、その反応を見てすぐに笑った。
「勘違いしないでちょうだい。だからといって、これからは誰かの許可を取ってから戦う、なんて約束はしないわよ。強い相手がいるなら私が先に見つけるし、面白そうなことがあれば真っ先に飛び込むわ。邪魔をするなら、貴方たちだって容赦しないんだから!」
「結局いつも通りじゃないか!」
「当たり前でしょう?私が私でなくなったら、誰がこの“半蛇”ススルーシィを名乗るというのよ!」
笑い声が上がった。ススルーシィもまた声を上げて笑う。自分の在り方を変えずに、なお誰かと同じ食卓を囲めるという、ささやかな実感だった。
宴席の料理は少しずつ減っていった。ススルーシィは最後まで皿を空にし、杯を傾け、仲間たちの話へ気まぐれに口を挟んだ。人間ではないがそれでも彼女は今だけは、祝いの食事を楽しむ一人の女だった。
ふと、ススルーシィは窓の外へ目を向けた。イリュジオムの街には夜の灯がともり、人々の営みが続いている。地下の晶洞で時間が巻き戻されていたあいだも、ここにはここで明日があり、彼女たちが戻ってくるのを待つ者たちがいた。あの戦いは、彼女一人の強さを証明するためだけのものではなかったのだろう。そう考えると、少しだけ癪に障った。自分が主役でない物語など、あまり面白くない。
けれど、他人が主役になる瞬間を目撃するのも、悪くはない。
「……次は、もっと骨のある相手がいいわね」
誰にともなく呟く。アルクシアが聞きつけ、すぐさま笑った。
「まだ、戦いたい?」
「当然でしょう? 今回の相手は、なかなか楽しませてくれたけれど、私を満足させるには少し足りなかったわ」
「本当に懲りないなあ」
「懲りる必要がないもの!」
ススルーシィは空になった杯を卓へ置いた。戦士は誇りを保つため、空腹であれ。だが、今夜は十分に食べた。明日になれば、また腹を空かせ、鍛錬を重ね、強者を探しに行けばいい。誰かを振り回すこともあるだろう。思いもよらないところで誰かの助けを借りることもあるかもしれない。そのたびに、彼女はきっと同じように胸を張る。自分の選択を誰かに委ねるつもりはないし、自分の生き方を誰かの正しさに合わせて変えるつもりもない。
それでも今回出会った者たちの顔は、きっと覚えているだろう。
強かった者。最後まで諦めなかった者。自分の未熟さを抱えたまま、それでも手を伸ばした者。そして、自分の自由を憎みながら、最後にはその自由を欲していた者。
彼らを思い出すたび、ススルーシィはまた笑うに違いない。今度は、自分一人の強さを誇るためだけではなく、あの戦場にいた者たちが、それぞれの意思で明日を選んだことを思い出して。
もちろん、だからといって彼女が誰かのために大人しくなるわけではない。
半蛇ススルーシィはこれからも強者を求める。戦いを楽しみ、己の力を試し、時には他人を振り回しながら、それでも自分の足で歩き続けるだろう。
そして、いつかまた彼らと出会ったなら、きっとこう言うのだ。
――さあ、次は誰が私を楽しませてくれるのかしら?
その問いに答える明日がある。それだけで、今夜の勝利には十分な価値があった。