晶洞の崩壊から数日後。首都イリュジオムの神殿、その奥まった一角にある書庫には深夜の静寂が降りていた。長い閲覧机の上に置かれた燭台が、たったひとつの灯りとなって書架の背表紙を照らしている。
窓の向こうからはルクレスが用意した凱旋宴の喧騒が、夜の底を伝ってかすかに届いていた。笑い声も杯の触れ合う音も、ここまで来れば遠い異国の出来事のようだった。
「――それで?これが貴方の言う『反省の成果』ってわけ?」
机の端に腰掛けたススルーシィが、目の前に置かれた分厚い革表紙の本を爪先でこつりと叩いた。表紙には題名も紋章もない。新しい革の匂いが、古い紙と燭油の香りに混じっている。彼女の黄金の縦瞳は、書物そのものよりも、それを持ち込んだ少女の顔を面白がるように眺めていた。
ミーナ・サビーカはいつもの
「はい。あの戦いが終わってから、ずっと考えていたんです。私は何を恐れていたのか。何を隠そうとしていたのか。そして……何を、あれほど必死に隠し続けていたのか」
ミーナは手にしていたペンを、机の上へ静かに置いた。書物の傍らには、まだ何も書かれていない紙束がある。反省の記録をまとめるために持ってきたのだと、彼女は先ほど説明した。だが、その紙は一枚も使われていなかった。
「私はずっと、自分の弱さを認めるのが怖かったんです。正しさを守り、誰かの期待に応え、間違いを犯さないようにしていれば、少なくとも自分が何者なのかを疑わずに済みましたから。でも……あれは、私を守るための檻だったんですね」
「ふうん。ようやく自分の首に掛けた鎖に気づいたわけね」
「いいえ。気づいてはいたんです。ただ、それを外してしまったら、何も残らないような気がしていました」
ミーナはススルーシィに近づいた。何をするつもりなのかと問いかけるように、黄金の瞳を向けている。その視線を受け止めながら、ミーナは机の傍らに膝をついた。レレイの民と外なるものに連なる界非。あるいは、討伐対象と祓魔使。そのような肩書きを持ち出すなら、今の二人の距離はあまりにも近すぎた。
「それで、反省した結果がこれ?ずいぶんと熱心な告白だけれど、依存先を私に変えた所で意味はないわよ」
「……ふふ、ただこれだけの動作でも伝わるものですね……嬉しいです。でも、それだけではありません」
ミーナの視線がススルーシィの顔から、机の下へとゆっくり移った。そこには椅子の脚を避けるようにして、太くしなやかな蛇の尾が伸びている。暗がりのなかでも鱗の輪郭は滑らかに浮かび、燭火を受けた一部が鈍い光を返していた。
「私は、自分の気持ちをずっと呪いのせいにしていました。貴方に惹かれるのも、貴方を妬むのも、貴方の自由が許せないのも、すべてはあの影に心を侵されたからだと。そう考えていれば、私は自分の感情に責任を持たずに済みましたから」
「……だけど違った?」
「はい。あの影が私の中にあったものを増幅させたとしても、最初から何もなかったところに、あれほどの執着が生まれるはずはありません。私は貴方が羨ましかった。貴方のように生きたかった。そして、何よりそんな貴方に私を見てほしかった」
言葉を重ねるほど、ミーナの声からためらいが消えていく。はしたないほどの赤裸々な告白を、淡々と述べてはいるが、頬には薄い赤みが差していたし、呼吸もいつもより浅い。それでも彼女は、最後までススルーシィの目を見ていた。自分の感情を口にした途端、それが醜いものへ変わってしまうのではないかという、かつての恐怖はもうなかった。
「……自分自身を認める気になったのね」
ススルーシィは笑った。相手を値踏みするような、いつもの不敵な笑みだった。
「ええ。ですから、もう沈黙を選ぶことは辞めました」
ミーナの指先が、尾の先に触れた。
鱗をなぞる動きはひどく慎重だった。許しを求めるようにも、そこにあるものが本当に自分の手で触れられるのか確かめるようにも見える。ススルーシィの尾が、ぴくりと揺れた。彼女は反射的に身を引きかけたが、すぐに動きを止めた。人間が自分の尾に触れることなど、そうそうあるものではない。まして、恐怖や嫌悪ではなく、好奇心と執着を隠そうともしない手つきで触れてくる相手など。
「……ちょっと。何をしているのよ」
「触れてみたかったんです」
「見れば分かるわよ!そうじゃなくて、どうしてそんなことをするのかって聞いているの!」
「貴方が、ここにいるからです」
あまりにも臆面のない答えに、ススルーシィは一瞬言葉を失った。ミーナはその隙を見逃さず、指先を尾から離さないまま、ほんの少しだけ顔を上げた。そこに浮かんでいたのは、以前の彼女が人前で見せていた陰鬱な表情とは違うものだった。相手の反応を窺いながらも、自分が何を望んでいるのかを隠すつもりのない微笑だった。
「貴方が持つ界非の毒も、その血肉も……私は、ずっと恐ろしいものだと思っていました。けれど今は、それに触れたいと思うんです。貴方の毒に侵され、貴方という存在を、私の内側にまで感じてみたい。そんなことを考えてしまう自分を、もう否定したくありません」
「なっ……何を言い出すのよ、急に!」
ススルーシィの声がわずかに裏返った。戸惑ってはいるようだが、拒絶されなかった事実に微笑が深まる。ミーナの指が触れているのは、力を込めれば簡単に振りほどける程度の場所だったし、そもそもススルーシィの力を圧し留めるのはミーナ・サビーカという少女には不可能だった。
人間は脆い。傷つきやすく、寿命も短く、自分たちが理解できないものに出会えば恐怖を覚える。ススルーシィはそれを知っているし、彼らの勇気を認めることもある。だが、目の前の少女が向けてくるものは、単純な勇気とは違っていた。自分の異質さを理解したうえで、なお近づこうとしている。毒を恐れないのではない。毒が危険だと知りながら、その危険ごと欲しがっているのだ。
「おかしなことではありませんよ。貴方はあのとき、私の醜い影を見ても、私の影を否定しませんでした。私の嫉妬を、私の弱さを、私が抱えてきたものを……何もかもを……真正面から受け止めてくれた」
「別に、そんな大層なことをした覚えはないわよ」
「ええ。貴方にとっては、そうなのでしょうね……」
ミーナは少しだけ寂しそうに笑った。ススルーシィにとっては実際そこまで、特別な行為ではなかったのだろう。彼女はただ、自分が見たものを自分の言葉で告げたにすぎない。けれど、ずっと正しさの重圧に喘いできたミーナにとって、自分の醜い感情を見られたあとも、相手が何事もなかったように接してくることは、思いのほか大きな出来事だった。
「貴方が私の全てを認めてくれたから、私は自分の欲望まで、誰かに許してもらう必要はないのだと知りました……ですから、ススルーシィ様。私の祈りも、呪詛も、この命も、貴方に向ける感情も、これからは私自身のものです」
ミーナは尾から手を離し、今度はススルーシィの膝に額を預けた。あまりに自然な動作だったため、ススルーシィがそれを止める機会がなかった。彼女の髪から淡い石鹸の香りがする。神殿で身を清めたあとに使う、ありふれた香りだ。その清潔な匂いと、膝元に寄り添う少女の言葉との間には、どこか釣り合わないものがあった。
「ねえ、ススルーシィ様。私を拒まないでください」
ミーナの声は、静かだった。懇願するようでいて、ただ許しを請うだけの響きではない。
「貴方に認められたことを、なかったことにはしたくないんです。私が貴方を慕うことも、貴方のそばにいたいと思うことも、貴方を困らせてしまうことさえも……全部、私が選んだことにしたい。もう、誰かのせいにはしません」
「……ほんとうに、貴方は……っ!」
ススルーシィは、言い返す言葉を探した。自分のそばにいたいという人間なら、これまでにもいたかもしれない。助けられたことに感謝し、強さに憧れ、英雄のように崇める者もいるだろう。だが、ミーナの目には崇拝だけでは説明できないものがあった。彼女はススルーシィを遠い場所に置いて、ただ仰ぎ見たいのではない。もっと近くへ来ようとしている。こちらが迷惑がることも、困惑することも、時には拒むことさえ承知のうえで。
その執着は厄介だった。人間のくせに、分をわきまえていない。
それなのに、胸の奥に生まれた感情は、嫌悪だけではなかった。自分の力を恐れず、異質さを理解しようとし、そのうえでなお近づいてくる。そんな人間がいることに、彼女は嬉しく感じていた。相手が自分をどう見ているかなど本来なら気にする必要はない。そう思っているはずなのに、ミーナが自分だけに向ける熱を、少しも不愉快ではないと感じてしまう。
「……はぁ。勝手にしなさいよ」
ススルーシィは、とうとう諦めたように息を吐いた。
「ただし、私の毒に耐えきれなくなって泣きついても、知らないんだからね。私は貴方のために力を加減してあげるほど、親切な女じゃないわ」
「はい。存じています」
「本当に分かっているのかしら……」
彼女は顔を背け、ミーナの髪を指先でつまんだ。追い払うつもりなら、肩を押せば済む。それをせずに、ほんの少し引っ張るだけにとどめたのは、単なる気まぐれだった。少なくとも、ススルーシィ自身はそういうことにしておきたかった。
ミーナはその仕草を感じ取ったのか、膝元でくすりと笑った。
「ふふ。お覚悟を、ススルーシィ様」
「……何の覚悟よ!」
「さあ。これから、ゆっくり考えていただければ」
ミーナが顔を上げる。燭火の届く範囲で、彼女の瞳は静かに光っていた。そこにあるのは、かつて自分を責め続けていた少女の陰鬱さではない。けれど、健やかな安堵や、すべてを許された者の無邪気さとも違う。自分の欲望を認めた人間が、その扱い方をまだ知らないまま、手放す気もなく抱きしめている――そんな危うい輝きだった。
ススルーシィは、ミーナの頭をもう一度だけ雑に撫でた。彼女がこの先、どこまで踏み込んでくるつもりなのかは分からない。分からないからといって、今ここで追い返す理由にもならなかった。自分の自由を他人に明け渡すつもりはないし、相手の自由まで引き受ける気もない。ミーナが望むように自分を変えてやるつもりなど、なおさらなかった。
ただ、彼女が自分の意志でここにいるというのなら、その選択がどこへ行き着くのか、少しばかり見届けてやるのも悪くない。
窓の外では、凱旋宴の最後の笑い声が遠ざかり、神殿の夜は再び静けさを取り戻していた。書架の隙間に落ちた影は、燭火が揺れるたびに形を変えている。それでも、もう何かの姿を真似て二人を惑わせることはなかった。
ミーナは、自分の影を自分のものとして抱きしめた。そして今、その手を伸ばす先も、自分で選ぼうとしている。
その選択がいつか彼女自身を傷つけることになろうとも――少なくとも今夜、ミーナはそれを誰かの呪いのせいにするつもりはなかった。