最後の業透徒が消えた瞬間、鉱山の奥で何かが軋んだ。
それは岩盤の崩落音ではなかった。空間そのものが、目に見えない巨大な手によって捻じ曲げられるような、耳の奥を直接掻き乱す音だった。炎の揺らめきも、黒い大剣を構えたクゥの姿も、宙に浮かぶ焼け焦げた頭蓋も、すべてが輪郭を失い、ぐにゃりと歪んでいく。
音が逆さまに流れ始めた。
砕けた骨が元の形へ戻る音。燃え尽きた布が炎を吐き戻す音。誰かが息を吸い込む音さえ、時間を遡るかのように奇妙な響きを帯びて、鉱山の奥へと吸い込まれていく。
スティレイトは眉をひそめた。先ほどまで全身を包んでいた戦闘の高揚が、酔いにも似た不快感へと変わっていく。火を操る彼女の感覚は、周囲の熱の異常を捉えていた。炎が消えたのではない。炎が燃えたという事実そのものを、何者かが世界から剥ぎ取ろうとしている。
白い光が視界を埋め尽くした。
その中で、彼女たちは見た。
巨大な晶洞と、その傍らに立つ黒いモノリス。そこには見覚えのない形をした祓杭が打ち込まれ、幾重にも重なった結界が、石を囲むように張り巡らされていた。四重の封印は、ただ異物を閉じ込めるためだけのものではない。何かを外へ出さないために、必死に押さえ込んでいるように見えた。
次の瞬間、光景が変わった。
モノリスを守っていたはずの加護が、どす黒い穢れへと転じていく。結界の内側から侵食が広がり、周囲の空間が歪に裂けた。その裂け目の向こうには、何かがいた。
形を捉えることはできない。大きさも、姿も、こちら側の生き物と同じ尺度で測れるものなのかさえ分からなかった。ただ、そいつが結界を破壊しながらこちらへ近づこうとしていることだけは理解できた。
四重の封印が軋み、ひとつずつ壊されていく。
ススルーシィは、思わず歯を剥いた。強敵の気配を嗅ぎつけたときの昂揚とは違う。これは、まだ戦いの形すら定まっていないものに対する、本能的な警戒だった。彼女は己の爪を見下ろし、次いで隣に立つ仲間たちを見た。誰もが同じものを見ている。少なくとも、彼女だけの幻覚ではない。
やがて、意識が遠のいた。
*
「……報告されているのは一号級相当の界非ではありますが、現時点で二十体以上の数が確認されており、その後のモノリスの調査も含めて考えた結果、ベテランの祓魔師であるあなた方に任せることになりました」
聞き覚えのある声がした。
スティレイトは目を瞬かせた。目の前には協約酒場の机があり、その向こうには任務資料を手にした担当者が立っている。酒場のざわめきも、窓から差し込む光も、先ほど鉱山で見たものとは何ひとつ変わっていなかった。
自分たちはまだ出発していない。
手元の酒も飲みかけのままだった。クゥは呆然と周囲を見回し、アルクシアは小首を傾げている。ススルーシィもまた、何が起きたのか分からないという顔で、渡されたばかりの資料と仲間たちを交互に見ていた。
「……あれ?」
クゥがようやく声を漏らした。
「んお、寝てたか?」
スティレイトは頭を掻いた。酒のせいで一瞬意識が飛んだのか。そう考えようとしたものの、口の中には鉱山の埃の味が残っていた。大剣が鎌を圧し折る手応えも、炎が異形の衣を焼き尽くす光景も、あまりに鮮明だった。夢にしては、身体が覚えている感覚が多すぎる。
アルクシアは、自分の手首に目を落とした。そこにある厄除の灯りが、減っていた。
彼女は素早く仲間たちを見渡した。スティレイトも、クゥも同じだった。先ほどまで鉱山で戦い、使い果たしたはずの力は戻っている。それなのに、厄除に刻まれた損耗だけは、あの戦闘の終わりから引き継がれていた。
「ん、貴方達……それ……」
確かめているアルクシアの動作を見咎めて、ススルーシィが厄除を指さす。問いかけるまでもなかった。彼女たちは同じ異常を経験している。
「今朝使った分も、きっちり減っているのか?」
クゥは厄除を確かめながら、納得できないという様子で声を上げた。アルクシアも自分の手元を見つめている。
「なにか、おかしい」
その言葉に誰も異を唱えなかった。ススルーシィはしばらく黙っていたが、やがて腕を組み、わずかに顎を上げた。
「この事件は、一筋縄ではいかないようね」
いかにも事情を見抜いたかのような口ぶりだったが、彼女の表情には、答えを見つけた者の確信はなかった。少なくとも、時間が巻き戻った理由について、今すぐ説明できることは何もない。
「もしかして、俺たち全員で同じ夢を見たのか?」
スティレイトが言った。冗談めかした口調だったが、いつもの軽さは薄れている。自分ひとりが飲みすぎて幻を見たのなら、まだ話は簡単だった。しかし、四人全員が同じ場所で同じ戦闘を経験し、その記憶だけを持ち帰っているのだとしたら、酒のせいでは済まされない。
彼女たちは記憶を照らし合わせた。晶洞、黒いモノリス、揚羽や布怨徒の群れ、そして大鎌を振るう業透徒。どれもが一致していた。最後に見た、封印の向こうから現れようとする何かについても。
それでも、説明はつかなかった。
「おっ、ていうことは飲みすぎって訳じゃないみたいだな」
スティレイトは小さく息を吐いた。酒の量まで戻っているのか、という疑問が頭をよぎったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
そのとき、酒場の入口からルクレス・エピルフォンが姿を現した。
彼は片腕を赤く染まった包帯で巻いていた。布地には新しい血が滲み、袖口にも乾ききらない染みが広がっている。少なくとも、彼女たちが最初に報告を受けたときに見た姿よりも、明らかに傷が深い。
「どうした? すぐに応援に来てほしいのだが……」
ルクレスは、仲間たちの奇妙な反応を不審そうに眺めた。彼にとっては、彼女たちが何を見てきたのかなど知る由もない。彼の時間は、彼女たちの時間とは違う流れ方をしているらしかった。
「ルクレス!今朝より怪我が増えてる!今朝?今も今朝なのかー!?」
クゥが叫ぶ。
「落ち着きなさい」
ススルーシィが冷静に宥めた。慌てた所で、状況が改善するわけではない。彼女自身、理解できない事態に苛立ってはいたが、だからこそ、分かっていることと分からないことを分ける必要がある。
「怪我が増えている……?何を言っているんだ」
ルクレスは困惑した様子で包帯を見下ろし、それから彼女たちを見返した。
「俺が報告に来た時には、元からこうだった。そもそも、一号級に限らず、二号級の界非までいたのだからな」
その言葉に、四人の間で視線が交わされた。
前に見たとき、鉱山に現れた異形は一号級相当と報告されていた。だが、実際には二号級に相当するものまで出現していた。そして今、時間が戻ったように見えるこの状況では、ルクレスの傷も、報告された脅威の程度も、彼女たちの記憶とは食い違っている。
時間が巻き戻ったのなら、なぜ彼の傷は増えているのか。
夢を見ただけなら、なぜ厄除の灯りは減ったままなのか。
そもそも、あの戦闘で倒した界非たちは、今も晶洞の向こうに存在しているのだろうか。
「早く戻らねば、フォルティたちが危険だ」
ルクレスは焦燥を隠さず、彼女たちに同行を促した。彼にとっては、仲間たちを救うための一刻を争う状況なのだ。事情を知らない彼を責めることはできない。
スティレイトは手元の資料を見た。紙面には、現場の状況と任務の概要が記されている。そこに書かれた情報は、彼女たちが一度経験した戦闘の記憶と、微妙に、しかし決定的にずれていた。
「……全てを焼いて終われるってほど単純じゃ無さそうだね」
炎で敵を消し去ることはできる。実際、彼女たちはそうした。だが、敵を倒したあとに世界そのものが歪み、時間が戻るのだとしたら、いくら敵を倒しても解決には至らない。
ススルーシィは資料を机に置いた。
「一旦、情報を集める必要がありそうね」
それは彼女にしては慎重な判断だった。強敵がいるなら戦えばいい。そう考える彼女でさえ、今回ばかりは、正体の分からないものへ無策で飛び込む気にはなれなかった。
アルクシアが、こくりと頷いた。
「フォル姉、まだいける」
フォルティたちは、今も鉱山の奥で結界を維持している。彼女たちなら、しばらくは持ちこたえられるはずだった。その時間を無駄にするわけにはいかない。現地へ向かう前に、少しでも異常の正体を掴む必要がある。
彼女たちは再び資料を広げた。任務は、まだ始まっていないことになっている。けれど、彼女たちは知っていた。あの晶洞で何が待ち受けているのか。そして、すべてを祓い終えた先に、何が現れようとしていたのか。
時間が戻ったのだとしても、あの恐怖まで消えたわけではない。
むしろ、彼女たちだけがその記憶を持っているという事実こそが、この事件の異常さを物語っていた。