境界寄生体   作:P-PEN

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第七章 英雄

 

 

 

 教皇ラクリオンから界錨(アンカー)と観時器(ログ)を受け取った一行は、再び鉱山へと向かった。

 

 彼らがこれから相対するものは、決して軽視してよい脅威ではない。ラクリオンはそう断じた。教皇たちが自ら出向くべきほどの異変でありながら、今日の祭儀を疎かにすれば、今度はレレイそのものが滅びかねない。人員を割くことも、貴重な厄除を大量に消費することも許されなかった。

 

 だからこそ、任されたのは彼らだけだった。

 

 「英雄になる覚悟はいいか?」

 

 そう問いかけた教皇の言葉を、ススルーシィは思い返していた。

 

 「英雄かぁ……悪くない響きだわ」

 

 口元に浮かぶ笑みには、隠しきれない高揚があった。ただし、彼女にとって気に入らないところが一つだけある。

 

 「ニンゲンの、というのがちょっと気に入らないけれど」

 

 「もう英雄になった気のやつがいるな」

 

 「うるさいわね。成功させればいいんでしょ」

 

 スティレイトにからかわれたススルーシィは、唸るように言い返した。彼女が将来どのような存在になりたいと願っているのか、事情を知る者ならば、その言葉に含まれた意地も察せられただろう。

 

 そんな彼女たちを、アルクシアは呑気だとでも言いたげな目で見ていた。

 

 「呑気。困難、予見」

 

 「分かってるさ、白い狩人。言われなくたって準備はしてるよ」

 

 スティレイトは酒瓶を傾けた。緊張を紛らわせるためなのか、それとも戦いに向けて気分を高めているのか。どちらにせよ、彼女の目はすでに戦場を見据えている。

 

 前回、侵攻時には彼らは晶洞のすぐそばまで進んでから異変に遭遇した。しかし、今回は違う。時間が巻き戻る前の経験を踏まえ、敵が押し寄せてくる道筋を予測し、戦いやすい場所を選んで待ち受けることにしたのだ。さらにアルクシアの提案で、敵の密集する地点にはあらかじめ呪瘤箱を仕掛けてある。

 

 敵が来てから考えるのでは遅い。押し寄せてくることそのものを、こちらの利に変える。

 

 やがて鉱山へ続く道に、見覚えのある光景が現れた。

 

 結界を張り、弓を構え、迫り来る界非を押し留めている小隊。前回と同じように、彼らは必死に持ちこたえながら、少しずつ後退していた。だが、今回の敵は前回よりも明らかに強い。異様な翅音を響かせる鬱黒揚羽が宙を舞い、ぼろ布をまとった布怨徒たちが武器を手に迫る。その奥には、黒い膿を滴らせた牙を持つ這燐愚の群れまで控えていた。

 

 「フォル姉、無事。安心」

 

 アルクシアの声に、弓を引いていたフォルティ・ネブラが振り返る。助けが来たと理解した瞬間、その顔から張り詰めていたものがわずかに緩んだ。

 

 「うひゃあああー!!助かったー!!って、アルクシア!?」

 

 「皆、応援にきてくれたんだね~!わが友もいるじゃないか~!」

 

 ミーシャー・ガヴが明るい声を上げる。その一方、結界を維持していたミーナ・サビーカは、ススルーシィの姿を見つけると、張り詰めていた表情を崩した。

 

 「あ……ススルーシィ様……よかった、私の努力は……無駄じゃ……なかったんですね……」

 

 「かなり圧されていたようね、ミーナ。後は任せなさい。そして拝むがいいわ……“英雄”の背中をねっ」

 

 ミーナは、ススルーシィの言葉を噛みしめるように頷いた。

 

 「……英雄、ですか……。わかりました……ススルーシィ様……」

 

ススルーシィは胸を張った。まるでこれから始まる戦いの勝利が、すでに決まっているかのような態度だったが、ミーナは疑わなかった。家名の重圧と影を背負った華奢な体に、仄暗い執着と狂気がひっそりと揺らめいた。

 

 その反応に、スティレイトは小さく笑う。

 

 「気が早いんじゃないのか……いや、あの子にとっては既にそうなのか?」

 

 ススルーシィは聞こえなかったふりをした。今は余計な口を挟むよりも、敵を倒す方が大事だった。

 

 「よお!さっきぶりだなぁ!今度酒を奢ってやるから死ぬなよ!」

 

 スティレイトも小隊に声をかける。彼女たちにとっては、先ほど別れたばかりの相手であっても、ここでは初めて顔を合わせたことになっている。だが、その食い違いを説明する時間はなかった。

 

 「何とか間に合ったか……まだ界非は残っている。気を抜かずに行こう」

 

 ルクレス・エピルフォンが周囲を見回し、残る敵の動きを警戒した。

 

 

 

 

 アルクシアは周囲の地形を見渡し、射線を確保できる場所へ移動する。敵の数は多く、前衛の陰に隠れた群れもいる。だが、彼女の視線は迷わなかった。どこから撃てば最も危険な敵を排除できるのか。どの位置に立てば、仲間の進路を妨げずに済むのか。すでに答えは出ていた。

 

 「遠方、わたし、射抜く」

 

 短い宣言の後、彼女は弓を引いた。

 

 狙うのは、敵の後方に控える這燐愚(ハウリング)の群れ。黒い膿をまとった獣じみた界非は、牙を剥き、こちらへ飛びかかる機会をうかがっている。前回の戦いでも厄介だった相手だ。接近を許せば、その牙から流れ込む呪詛によって、身体の内側から力を奪われかねない。

 

 だからこそ、近づかれる前に仕留める。

 

 アルクシアの指が弦を離れた。

 

 一矢ではない。幾重にも重なった矢の奔流が、遠く離れた敵へと殺到する。逃げる間も、身を伏せる間も与えない。矢は獣の身体を次々と貫き、黒い膿を飛び散らせながら、その存在を削り取っていった。

 

 這燐愚たちの群れが、まとめて崩れ落ちる。

 

 それまで前方に漂っていた不吉な気配が、ひとつ消えた。敵の中でもひときわ危険な一群が、戦いの本格化を待たずに祓滅されたのだ。アルクシアは弓を構えたまま、前衛へと告げた。

 

 「前衛、対応、依頼」

 

 フォルティは思わず息を呑んだ。

 

 「うわっ……相変わらず……」

 

 その声には、驚きと、どこか諦めにも似た感嘆が混じっていた。

 

 「なら、こっちは上のを仕留めてやろう。下のは任せた!」

 

 スティレイトはそう言って、次の標的へ視線を向ける。

 

 戦いはまだ始まったばかりだ。爆破を免れた界非は残っている。晶洞の奥には、あの異様な石柱が待ち受けている。そして彼らが本当に知りたいのは、なぜ時間が巻き戻るのか、その原因だった。

 

 だが、今はまず、この場を突破しなければならない。アルクシアが切り開いた戦場へ、仲間たちが動き出した。

 

 アルクシアの働きを見届けたスティレイトは、高所へ駆け上がった。眼下には、まだ黒い翅を震わせる鬱黒揚羽の群れがいる。彼女は神造遠隔祭具を構え、炎を帯びた射撃を浴びせた。熱線のような炎が翅を貫き、黒い羽根は灰となって空気へ溶けていく。

 

 「こんにちはー!ハハハッ」

 

 戦場に似つかわしくない挨拶とともに、スティレイトは次の標的へ狙いを移した。

 

 その間にクゥが動いていた。重い身体をものともせず、敵のただ中へ踏み込む。振り下ろされた大剣は、一度の斬撃で二つの群れをまとめて切り裂いた。ぼろ布をまとった布怨徒たちが、武器を構える間もなく崩れ去る。

 

 「ちょっと跳ぶ勢いをつけすぎて、上手く力が入らなかったぞ!」

 

 本人は不満げだったが、敵にとっては十分すぎる一撃だった。

 

 彼らはそれぞれ、己の得意な戦い方で敵を削っていく。遠くから射抜く者がいて、炎で焼き払う者がいて、正面から斬り伏せる者がいる。誰か一人の力だけで成り立つ戦場ではなかった。

 

 やがて、残る界非はわずかとなった。

 

 最後まで翅を震わせていた鬱黒揚羽が、獲物を求めるようにクゥへ飛び込んだ。穢れを帯びた弾丸のような突進が、彼女の身体に激突する。しかし、まとった加護に阻まれ、虫は傷一つ与えられない。

 

 「活きが良いな!」

 

 クゥは楽しげに声を上げた。だが、虫は応えない。意思も言葉も通じぬ異形は、ただ次の獲物を探して移動する。

 

 その行く先を、ススルーシィが見据えていた。

 

 彼女は追いすがることも、わざわざ接近することもしなかった。ただ右手を持ち上げる。指先の前に魔法陣が縦に展開し、内部に並ぶ文字列や数値が、何かに引き絞られるように細長く圧縮されていく。その形は、縦に裂けた蛇の瞳を思わせた。

 

 「私の毒から逃れられるかしら?……さぁ、この目を見なさいっ!」

 

 人差し指が、魔法陣を上から下へとなぞった。

 

 次の瞬間、圧縮された呪詛毒が弾け、降り注いだ。逃げ場を失った鬱黒揚羽の霊魂が、内側から破壊されていく。翅はもがれ、黒い穢れは散り散りになった。散逸した残滓さえ、毒に導かれてススルーシィのもとへ吸い寄せられ、彼女の身体に取り込まれていく。

 

 「まぁ、こんなものかしら」

 

 彼女は指先を下ろした。

 

 「“半蛇”ススルーシィに遠距離戦を挑んで生き延びたものは居ないわ。来世まで覚えておく事ね」

 

 その言葉は傲慢ですらあった。だが、彼女の背後には、もはや味方を脅かす敵はいない。仲間たちが切り開いた戦場を見渡し、彼女は満足げに笑った。

 

 戦いの終わりを悟ったフォルティが、アルクシアへ飛びついた。

 

 「アルクシア~!!助かったわ!さっすが……継承者ね?」

 

 「フォル姉、無事。安心」

 

 アルクシアはいつもの調子で答えた。その言葉は短い。けれど、彼女が何を気にかけていたのかは、十分に伝わっていた。ミーナもまた、ススルーシィへ頭を下げた。

 

 「お見事です……ススルーシィ様……その強さ、とても……羨ましいです……」

 

 「ふふん、まだ私はこんなものじゃないわよ。貴方達人間は、せいぜい工夫して戦う事ね」

 

 彼女はそこで言葉を切った。ミーナの顔には、安堵と疲労だけではない、己の力のなさを恥じるような影があった。彼女は結界を維持し、小隊が持ちこたえるための時間を稼いできた。それでも、最後には外から来た者たちの力を借りなければならなかった。その事実を、悔いているのかもしれない。

 

 ススルーシィは、そんなミーナの名を呼んだ。

 

 「でも、一つだけ覚えておく事ね。ミーナ・サビーカ」

 

 ミーナが顔を上げる。

 

 「貴方達の儚い努力があったからこそ、私は間に合ったという事をね」

 

 「…………私には、勿体ないお言葉です」

 

 「貴方達は脆く、弱いわ。でも無力じゃない。胸に刻んでおきなさい」

 

 慰めるような口調ではなかった。弱さを否定することも、無理に強いと言い換えることもしない。彼女はただ、ミーナたちが実際に成し遂げたことを認めたのだ。

 

 強者が敵を倒すだけならば、戦場にはいくらでもいる。だが、強者が己より弱い者の働きを見落とさず、その努力がなければ自分も間に合わなかったと認めることは、また別の話だった。

 

 ススルーシィは、人間を自分より脆い存在だと思っている。その認識を覆したわけではない。

 

 それでも彼女は、ミーナたちの戦いを無価値とは呼ばなかった。

 

 彼女が「英雄」と呼ばれるに値するかどうかは、教皇の約束だけで決まるものではない。誰かが守り抜いた時間を受け取り、その働きを認め、次の戦いへとつなぐ。その背中を見た者が、己の務めをもう一度引き受けることができるならば――そこには、確かに英雄と称すだけの理由があった。

 

 ルクレスが、晶洞の奥へ視線を向けた。

 

 「ふう……ひとまず窮地は乗り越えたようだが、まだ晶洞の界非が残っているはずだ」

 

 その言葉に、誰も異を唱えなかった。ここで終わりではない。彼らが本当に解決しなければならないのは、時間を巻き戻す異変と、その中心にあるモノリスだった。

 

 ススルーシィは、教皇から預かった界錨と観時器を取り出した。

 

 「そう……なら、これを見なさい」

 

 彼女は小隊の面々に二つの祭具を示し、教皇ラクリオンの勅命を伝えた。時空を乱す界非――モノリスの正体を暴き、イリュジオムの危機に対処する。そのために、彼らはもう一度、あの晶洞へ向かわなければならない。

 

 ミーナは祭具から漂う霊気を感じ取り、静かに理解を深めていった。彼女たちが守った時間は、本当に決して無駄ではなかったのだ。

 

 その背を見送るミーナの目に、先ほどまでとは違う光が宿っていた。

 

 

 

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