戦場に残った界非は、ひとまず掃討された。しかし、晶洞の奥にはまだ異変の源が眠っている。時間を巻き戻す力を持つモノリス。教皇ラクリオンが「本来なら教皇自らが出るべき事件」と評したものを前にして、ススルーシィたちは足を止めていた。
彼女の手には、教皇から預かった二つの祭具がある。時空の改変に左右されない
「……その場合、私達は一体何度繰り返したのでしょうか?」
ミーナ・サビーカは、慎重に言葉を選んだ。
彼女はすでに、厄除の光が失われることと、時間の逆行に関係があるのではないかと気づいている。これまでの繰り返しで、彼女たちが何度も同じ朝へ戻されているのだとすれば、厄除の霊力が失われた回数は、そのまま逆行の回数を示している可能性がある。
「……厄除の霊力の喪失は、なるほど……回数でしょうか……なら、少なくとも七度は繰り返していますね……」
「賢い」
アルクシアが短く褒めた。
ススルーシィも頷く。自分たちが覚えているのは、少なくとも二度。ミーナたちが経験してきた回数とは明らかに食い違っていた。何が記憶を保たせ、何が忘れさせるのか。その仕組みはまだ分からない。
ただ一つ、違いがある。
「何であなた達だけは覚えているのかしら?」
「他の人間の事は分からないけれど、私は殆どの不利益な呪いや加護を受け付けない呪鱗を持ってるのよ」
ススルーシィは自分の腕を軽く叩いた。さらりと述べたが、彼女の身体を覆う鱗は単なる外殻ではない。ヴァルーシア帝国で信仰されている“神”の特別な祝福を受けている証でもあった。
「戻った後も覚えてた!」
クゥが声を上げる。
スティレイトも、アルクシアも、ススルーシィも、逆行前の出来事を覚えている。対して、フォルティたちにはその記憶がないらしい。ミーナは考え込むように黙り込んだ。
「皆様は……“選ばれた者”なのですね……」
その言葉に、ススルーシィの表情がわずかに変わった。
選ばれた者。
クゥは黒い大剣を片手で掲げ、自分の身体の一部だと教えられたことを話した。スティレイトは忌々しげに左腕を見つめ、得体の知れないものに選ばれたことへの不快感を隠さなかった。アルクシアは、まるで褒められた子供のように得意げな顔をしている。
その一方で、ススルーシィの胸中には、別の感情が生まれていた。
――超越者。
その言葉は、彼女にとって心地よい響きではなかった。人間たちが特別な力を持つことそのものが嫌なのではない。自分とは異なる基準で、何かに選ばれた者とそうでない者を分ける考え方に、彼女は本能的な嫌悪を覚えていた。
「……ススルーシィ様は除くとして……」
ミーナはそう呟き、思案を続けた。
そのとき、フォルティがアルクシアへ目を向けた。
「で、私は選ばれなかったから、過去改変でも記憶が保てない? そういうこと?」
彼女は納得していないようだった。選ばれた者とそうでない者。その区別が、武器の性能や戦闘能力によるものならば、まだ理解できる。しかし、時間の逆行に記憶を持ち越せるかどうかまで、その区別に左右されるというのは、あまりにも不自然だった。
ススルーシィは、フォルティを見つめた。
「貴方とアルクシアの違いは、もっとはっきりしたものよ」
「え?」
「アルクシアは現実を変えられる。最高の結果を、望むときに引き寄せられる。貴方には出来ない。武器の違いではないわ」
フォルティは一瞬だけ言葉を失った。しかし、すぐに気を取り直して笑った。
「えーっと……アルクシアが持ってる、未来予知みたいな能力のこと? ふふん、それくらいなら技術で追いつけるわ!」
その強気な返答に、スティレイトは内心で感心した。特別な力を持たないと告げられても、彼女は自分の可能性を手放そうとはしない。与えられたものが違うなら、別の方法で追いつけばいい。そう言い切れる強さは、確かにある。
「……そうね。貴方達なら」
ススルーシィは一度、言葉を切った。
「でも、それは此処を生き延びられたらの話よ」
彼女は、フォルティたちの力を疑っているのではない。むしろ、その実力を認めているからこそ、ここから先に進ませることをためらっていた。
「提案するわ。この子たちをイリュジオムに返しましょう」
「はい?」
フォルティの表情が固まった。ルクレス・エピルフォンも、驚いたようにススルーシィを見る。
「どういうことだ?」
「時空を改変するほどの力を持つ界非、並みの相手ではないわ。その証拠に教皇ラクリオンはこう言ったのよ。『本来なら教皇自らが出るべき事件だ』ってね」
スティレイトが口を挟みかけたが、ススルーシィは続けた。
「厄除がなく、時空改変に耐性が無い。生き延びられる理由がないわ」
それは、冷たいほど明快な判断だった。
彼女たちはすでに何度も戦ってきた。結界を維持し、押し寄せる界非を食い止め、傷つきながらも仲間の到着まで持ちこたえた。実際、彼らの働きがなければ、ススルーシィたちが戦場へ間に合わなかった可能性もある。
それでも、ここから先は違う。
相手は単に強いだけではない。時空そのものを歪め、戦いの結果をなかったことにする存在だ。厄除を持たず、逆行への耐性も確認できていない者たちが同行すれば、何が起こるか分からない。次に時間が戻ったとき、彼らが無事でいられる保証はなかった。
「私は貴方達に期待しているのよ。此処で失うのは惜しい」
ススルーシィは、そう告げた。
フォルティは唇を結び、しばらく彼女を睨んでいた。納得がいかないのだろう。自分たちの力を認められながら、同時に戦場から退くよう命じられる。それは戦士としての誇りを傷つける決断だった。
けれど、彼女は命令の意味を理解していた。
「……なーんか癪に障るけど、今この現場における最高決定権は貴方達が持ってるんでしょ?教皇直々なんだから」
それでも、フォルティは最後の確認を求めた。
「命令して。理由はなんでもいいわ。足手まといだからでも、別の仕事を任せるでも」
彼女の視線が、ススルーシィたちを順に捉える。
「選んで」
その言葉を受けて、スティレイトは苦笑した。
「ハハ……面白い冗談だ。我らは戦士だぞ?敵を前に恐れて逃げる奴など恥ではないか」
彼女にとって、共に戦う者は共に死ぬ覚悟を持つ者でもあった。長い間離れていた友と、ようやく同じ戦場で踊れるのだ。ここで別れることを、心から望んでいるわけではない。
だが、アルクシアは違った。彼女はフォルティを見つめ、いつになく真剣な声で告げた。
「……姉さん。ススルーシィの言葉は……正しい。姉さんの実力なら、この先の界非とも十分戦えると思う。けど」
そこで、言葉が詰まった。
「……生命と引き換えるのは、勇者のすることではない」
フォルティは、すぐには返事をしなかった。アルクシアは強い。人にはできないことを成し遂げ、望む結果を引き寄せる力を持っている。けれど、その力を持つ彼女が、姉の実力を認めたうえでなお、命を賭けることを拒んだのだ。
フォルティは、ようやく小さく息を吐いた。
「……立派になったのね、アルクシア」
そして、静かに目を伏せた。
「負けたわ」
アルクシアは、何かを言いかけて、結局何も言えなかった。
ミーシャー・ガヴもまた、決断を下した。
「俺は……戦いたい」
その言葉に、スティレイトが顔を向ける。ミーシャーは彼女の友であり、長く戦場を共にしてきた仲間だった。彼が戦いを望むのは当然だろう。彼自身、戦うことを諦めたわけではない。
「だけど、俺は友の記憶の中で戦士として称えられてもうれしくない」
ミーシャーは、自分の手を見下ろした。
「今の俺は力不足だ。俺は守られなければ力を発揮できない……こんな状況でお前の足を引っ張りたくない」
それから、彼はスティレイトへ顔を上げた。
「それに、俺達ル・イグニエルにはあの考えがあるだろ?」
彼は、いつもの調子で笑った。
「生きた奴が勝者だ!」
スティレイトは、返す言葉を失った。
「今回は譲るよ、友よ。だけど次の機会があれば絶対に、俺も活躍してみせるさ!」
それは敗北を認める言葉ではなかった。次の戦いへ戻るために、今は生き残る。その選択を、自らの意志で引き受ける言葉だった。
ススルーシィは、彼らの決断を見届けてからミーナへ向き直った。
「決まりね。ミーナ・サビーカ、貴方の……貴方達の『標』の終わりは此処ではないわ。イリュジオムに戻り、休息とペンを取りなさい」
ミーナは、顔を上げた。
「貴方が記すサーガに、いつか己自身の名が記される時まで。生きなさい」
「……承知、しました」
ミーナの声は、かすかに震えていた。
「……それが、ススルーシィ様の期待であるなら……」
彼女は戦場を離れる。フォルティも、ルクレスも、ミーシャーも。悔しさが消えたわけではない。自分たちが最後まで戦えないことを、簡単に受け入れられるはずもなかった。
それでも彼らは、命令に従うことを選んだ。スティレイトは、去っていく友を見つめた。
「……すまない。お前から言わせてしまって。だがその火、確かに譲り受けた!」
彼女は自分の左腕を握りしめた。ミーシャーが残したものは、ただの別れの言葉ではない。生きて戻り、次の戦場で再び共に踊る。その約束を果たすための、火だった。
「いずれまた戦場で一緒に踊ろう、あの時みたいに。あっ、何も無い時でも誘ってもいいんだからな!最近避けてただろ!」
スティレイトの声に、ミーシャーは振り返って笑った。ススルーシィは、ルクレスへ目を向けた。
「英雄の凱旋に相応しい宴を期待しているわ、ルクレス」
「任せておけ。各地の名物料理を揃えよう」
「でも、クゥが喜ぶからって、間違っても界非食なんて用意しないでよねっ」
緊張がわずかに緩んだ。だが、ルクレスは去る前に、クゥへ一つだけ問いかけた。
「お前には過去がない。ある日突然として被災者となっただけの……ただの子供だ」
クゥは、不思議そうに彼を見た。
「そんなお前は……今、自分を何者だと定義する?」
クゥは少し考えた。それから、当たり前のことを答えるように言った。
「クゥは、祓魔使だ」
彼女は黒い剣を抱え直す。
「ルクレスと同じ、祓魔使」
「お前より優れた者や、強きものがいてもか?」
「界非を倒して、ごはんをたべて、イリュジオムで生きる」
それから、クゥは首を傾げた。
「仲間は多い方が良いぞ!」
ルクレスはしばらく彼女を見つめ、やがて静かに頷いた。
「……そうか。ありがとう、答えは得た」
彼らが去る直前、ミーナがススルーシィを呼び止めた。
「……もし、万が一……」
言いかけて、口を閉じる。彼女は迷った末に、別の言葉を選んだ。
「……ただ、『ごめんなさい』と」
ススルーシィは、わずかに目を細めた。ミーナが自分から何かを伝えようとするのは珍しい。しかも、それが謝罪だという。
「……この謝罪が、真実になることを、願います」
その言葉の意味を、ススルーシィは理解できなかった。何に対する謝罪なのか。なぜ、それが真実になることを願うのか。問い返そうとしたときには、ミーナはもう仲間たちと共に帰還の支度を始めていた。
「正直に言えば、私には意味は分からないけれど」
ススルーシィは、去っていく彼女たちを見送った。
「大切な言葉だという事は分かったわ」
彼女たちが守ってきた時間は、決して無駄ではなかった。けれど、その時間の先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
晶洞の奥では、モノリスが沈黙を保っている。時間を巻き戻す異変は、まだ終わっていない。
ススルーシィたちは、界錨と観時器を手に、再び晶洞の奥へと歩み始めた。