ノ ミ 以 下 さ ん 風 妹 作:匿名太郎
「──あら、まだお客様がいたのね」
暗闇から響いたのは、濡れたように艶めかしい女性の声。
その瞬間、ケイの全身の毛穴が開き、皮膚が死の恐怖で冷たく粟立った。
次元の違う「殺意」が、盗品蔵の空気を完全に支配したのだ。
(何……なに、今の? 人間が出していい気配じゃないわよ……ッ!)
黒いドレスを纏った美女──エルザ・グランヒルテがゆっくりと歩みを進めてくる。その手に握られた歪な刃が、鈍い殺意を放っていた。
「ちょっと……アンタ、何なのいきなり? 人のプライバシーと安全圏に無許可で侵入してきて、その物騒な刃物は何? 銃刀法違h……、いや、そんなものなくとも見知らぬ他人に刃物を向けることが重大な人権侵害だってことくらい、その倫理観でも理解できるでしょ!?」
ケイは恐怖で声を震わせながらも、持ち前の毒舌を吐いた。
「あら……威勢のいい、可愛らしいお嬢さん。でもね、お姉さんは中身を見せてくれる子の方が好きなの」
「中身って……腸のこと!? 正気!? 露出度の高い衣装を着た変質者だと思ったら、ただの重度な人格破綻者じゃない! 近づかないでよ!」
しかし、エルザにはケイのハッタリなど一切通用しない。
圧倒的な死の圧迫感に脚がすくみかけるケイの前に、スバルが必死の様相で飛び出した。
「ケイ、下がってろ!! フェルト! ロム爺! こいつはヤバい、殺し屋だ!!」
スバルは背後へ振り返り、叫ぶ。
「フェルト! 今すぐここを抜け出して、街の衛兵を呼んでこい! 特に……赤毛で青い目をした、クソ真面目で規格外に強い騎士様を探せ! ラインハルトって奴だ!! 頼む、走れ!!」
スバルの尋常でない剣幕に押され、フェルトは盗品の徽章を握りしめて裏口へと駆け出していく。
(ラインハルト……? 誰よそれ、なんでアンタがそんな特定の人間を知ってるのよ……!?)
ケイの脳内で違和感が加速する間もなく、エルザのククリ刀が襲いかかる。ロム爺が巨躯で庇うも、一瞬で一刀両断され崩れ落ちた。
「ロム爺!!」
「そこまでよ!!」
ロム爺が倒れた絶望の淵、盗品蔵の扉を破って躍り出たのはエミリアだった。
無数の氷のつららを生み出し、エルザへ向けて一斉に放つ。エミリアとパックが応戦するが、エルザの超人的な体術と速度の前に次第に追い詰められていく。
「エミリアたん!!」
スバルが必死に援護に入り、ケイも「ちょっとバカ兄! 死にに行く気!?」と悪態をつきながらも、周囲のガラクタを投げて視界を遮り、必死に足掻く。
しかし──エルザの圧倒的な暴力の前には、気休めにすらならなかった。
スバルが弾き飛ばされ、エミリアの防壁が砕かれる。
そして、エルザの冷徹な殺気が、一番隙の大きいケイへと向いた。
「まずは……一番口うるさい、そっちの妹さんから」
「ケイ───ッ!!」
スバルの悲鳴が響く。
速すぎる。人間の反応速度を超えている。避ける術など存在しない。
(なんで……なんで私たちがこんな目に遭わなきゃいけないの!? 私の平穏で安全な生活を……兄との時間を壊さないで!! 私の権利を……奪うなッ!!)
恐怖と拒絶が頂点に達した瞬間、エルザのククリ刀がケイの腹部へ振り下ろされた。
ギィンッ───────────────!!!
その瞬間、あり得ない現象が起こった。
「……つ……!?」
エルザの目が見開かれる。
鋭利な刃物は、ケイの華奢な体に触れた瞬間、粉々に砕け散った。ケイ自信は服の繊維一つすら切れていない。
「な……何が……?」
ケイ自身も混乱していた。一瞬だけ全身の感覚が消え、世界から独立したような気味の悪い「絶対性」を感じたのだ。
「あら……今の、なにかしら? 刃が通らないなんて──」
エルザが懐からもう一つククリナイフを取り出し、再び襲いかからんとした──その時。
「──そこまでだ」
月光を背に扉に立ったのは、燃えるような赤髪と透き通る青い瞳を持つ青年──『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアだった。
「ラインハルト……! 本当に来てくれたのか……!」
ラインハルトが前に出ると、盗品蔵の中の雰囲気が一変した。
両手剣を構えた彼の圧迫感に、エルザも猛烈な戦意で応じる。
「『腸狩り』エルザ・グランヒルテ」
「『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」
すさまじい剣気が室内を押し包み、向かい合う二人の戦意が大気を震わせる。
唇を舐めて名乗り上げを行うエルザに、ラインハルトもまた厳かに頷いてそれに応じた。
このほとんど廃墟と化した場所で、黒衣の殺人者と軽装の英雄が向き合い、打ち合う鋼は血に濡れた短刀と錆すら浮いた古びた両手剣――にも関わらず、すべてを忘れさせるほどの『圧』があった。
極光が屋根を失った盗品蔵を引き裂き、空間ごと真っ二つに切り裂いた。
世界がずれたとしか思えない光景、放たれた極光は一瞬の間、室内を白く塗り潰していたが、光が晴れた直後に世界が激変する。
ずれた空間が元に戻ろうと収束を始め、大気が歪曲するほどの威力の余波が部屋の中を暴風となって荒れ狂う。
「ぬわぁぁぁぁぁ!! なんじゃ、こらぁぁぁぁ!?」
スバルは必死でエミリアとロム爺を庇い、ケイもガラクタの陰に隠れて死に物狂いで耐える。
(なによこれ……たった一振りで家屋を平たくするなんて、物理法則無視しすぎでしょ! 兵器か何か!?)
圧倒的な威力を前にケイが慄く中、ラインハルトの手の中で粗末な両手剣が崩壊していった。
エルザの姿は消え去り、静寂が訪れる。
「ふう……助かったぜ、マジで。サンキューな、ラインハルト! 正直、賭けだったんだが……ホントに来てくれるとは思いもしなかったぜ」
スバルが息を吐きながら声をかけると、ラインハルトは申し訳なさそうに、苦笑いを浮かべて振り返った。
「感謝なら僕ではなく、彼女に言うべきだよ。路地を必死で駆け回って僕を探し出し、救援を求めてくれたのはあの子だ。僕はただ、騎士としての務めを果たしたに過ぎない」
ラインハルトが顎で示した先──崩れかけた入り口の柱の陰から、金髪の少女・フェルトがおずおずと顔を覗かせていた。
「フェルト……サンキュな」
「僕の方こそ、礼を言わなきゃいけない。君が僕の名前を指定して呼んでくれなければ、僕もここに辿り着くのが遅れていたかもしれない……だが、ひとつ疑問なんだが」
ラインハルトは青い瞳を瞬かせ、不思議そうにスバルを見つめた。
「君とは今日が初対面のはずだ。なぜ君は、僕がこの場にすぐ来れる状況にあると分かったんだい?」
「ッ……!」
その問いに、傍らで聞いていたケイの眉が跳ね上がる。
(やっぱり……! 兄はこの男と知り合いでもなんでもなかったんじゃない! なのになんで名前や容姿までピンポイントで知ってるのよ……!?)
「あー……それはだな! あれだよ!天下の『剣聖』様なんて有名な存在は一般人の俺でも呼んだら助けてくれるってわかってるからだよ !」
苦しい言い訳でヘラヘラと笑うスバル。
ラインハルトは「そうかい?」と少し首をかしげつつも、深くは追及せずに微笑んだ。
だが、ケイの確信は深まるばかりだった。
(嘘ばっかり……! アンタ、今日初めてこの世界に来た人間でしょ。なんでそんな人間がラインハルトなんて人間の特徴がわかるのよ……!?)
兄への不気味なほどの謎が膨れ上がり、ケイが息を呑んだ──その直後だった。
「──スバル!」
ラインハルトの鋭い叫びと同時に、崩れた廃材を跳ね上げて黒い影が躍り出た。
血を滴らせたエルザが、ひしゃげたククリナイフを手に、殺気を撒き散らして疾走してくる。
「狙いは腹狙いは腹狙いは腹ぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
スバルは叫び声をあげてエミリアとケイを強引に後ろへ突き飛ばし、手持ちの棍棒で腹部を的確にガードする。
ドカァンッ!!
凄まじい衝撃音とともにスバルが吹き飛び、壁に激突した。
エルザはラインハルトが追撃に来る前に、歪んだナイフを投げつけて夜空の彼方へと逃走した。
「スバル……!? バカ兄、大丈夫なの!?」
ケイは悲鳴を上げてスバルへと駆け寄る。
スバルは腹を軽く撫で、「楽勝楽勝、あそこってば無茶する場面だべ?」と虚勢を張りながら立ち上がった。
(楽勝なわけないでしょ! 真紫に腫れ上がってるじゃない……なによその無茶な自己犠牲……私をヒヤヒヤさせないでよ……バカ)
ケイが焦燥感と怒りを募らせる中、スバルは優しく笑いながらエミリアのもとへ歩み寄る。
「無事でよかった、エミリア」
「ええ……ありがとう、スバル。あなたのおかげよ」
当たり前のようにその本当の名前を呼び、互いに無事を喜び合って手を取り合う二人。
その光景を、ケイは冷ややかな、けれど拭いきれない違和感を抱えて見つめていた。
(……なんで? 異世界に来て数時間のアンタが、なんで最初からあの人の本当の名前を知ってるの……?やっぱり、何か隠してる……)
ケイがスバルへの決定的な疑念を深めた──次の瞬間。
「あ、やばい、これ、俺にも先が読めた」
ラインハルトが拾い上げた棍棒が真っ二つに割れ、スバルのジャージの腹部に不自然な赤い筋が走る。
ドシャッ!!
スバルの腹部が横一文字に大きく裂け、大量の鮮血が周囲に撒き散らされた。
「スバル!?」
「あ……兄さん……っ!」
スバルの体が力なく傾き、床へ倒れ込む。
「嘘……嘘でしょ!? ちょっと、目を開けなさいよバカ兄!! 私をこんなわけの分からない世界に置き去りにする気!? 冗談じゃないわよッ!!」
ケイは叫びながらスバルに寄り添い、血に濡れたその手を強く握りしめた。
強がっていた冷徹な仮面が完全に崩れ去り、ただの15歳の妹としてボロボロと涙をこぼす。
(嫌だ……死なないで……私を一人にしないでよ……!)
激痛と出血で意識を失っていくスバルの瞳に最後に映ったのは、悲痛な顔で自分を呼ぶエミリアと、見たこともないほど取り乱して泣きじゃくる妹・ケイの顔だった。
──こうして、長い長い『異世界生活最初の一日』が幕を閉じた。