「天空都市は住民のから徴収した魔力で成り立つと言ったな。アレは嘘だ!それで賄えるのは運用魔力の三割!残り七割は、とある存在によって賄われているのだよ!!」 作:タワマン太郎
「『世界からの干渉を確認』」
少女の唇が、無機質な声を紡いだ。
「『滅亡深度7弱』」
十二枚の銀翼が、音もなく展開する。
「『滅びへの介入が必須と判断』」
その瞬間、世界から色が失われた。
否。
失われたのではない。
世界を構成するあらゆる色彩、音響、熱量、そして生命の営み。それらを成立させていた根源的な法則が、たった一つの存在を中心として再定義されていく。
燃え盛る炎が静止した。
荒れ狂う暴風が凪いだ。
砕けた大地から舞い上がる無数の岩片が、まるで時そのものに縫い留められたかのように空中で停止する。
大地の彼方では、赤黒く染まった空を覆い尽くすほどの巨大な獣たちが咆哮を上げていた。
その背後には、地平線を埋め尽くす死者の軍勢。
天を覆う黒雲の奥では、無数の骸骨を繋ぎ合わせたような巨大な竜が、世界そのものを呑み込まんと顎を開いている。
そして、そのすべてを従えるように、ひとりの女が宙に浮かんでいた。
漆黒のドレス。
月光を浴びてもなお輝きを返さない、底なしの闇のような長髪。
血のように赤い瞳。
その背後には、幾百もの黒い腕が花弁のように広がり、指先の一つひとつが異なる死の概念を宿していた。
女の名は、アミアスティーネ。
かつて世界に死を与える権能を授かりながら、その権能を世界そのものへと向けたことで、世界の外側へと追放された死神。
生命の終焉を司る神性にして、あらゆる終わりの果てに君臨する者。
世界の理から排除されたはずの彼女は、今や世界の外側から無数の眷獣を引き連れ、この星そのものを滅ぼそうとしていた。
「……あは」
アミアスティーネが笑った。
「ようやく出てきたのね。星の防人」
彼女の視線の先。
崩壊した大地の中心に、ひとりの少女が立っていた。
淡銀の髪。
透き通るような白い肌。
そして、背中に広がる十二枚の銀翼。
ラルム・エトワール。
かつて世界を知らず、菓子の甘さに目を輝かせ、隣を歩く少年の手を握って笑っていた少女。
しかし、今そこにいるのは、クルルが知るラルムではなかった。
その瞳には、好奇心も、戸惑いも、優しさもない。
ただ、世界の終焉を計測するためだけの冷徹な光が宿っていた。
「『星への接続を行います』」
十二枚の銀翼が、一斉に光を放つ。
その輝きは、天へ向かって伸びているのではなかった。
大地の奥深くへ。
海の底へ。
大気の果てへ。
星を構成するあらゆる存在へと、無数の光の糸が伸びていく。
それは星との接続。
世界そのものを自身の身体として認識し、世界の理を自身の権能として再起動するための、絶対不可侵の接続儀式だった。
「『共鳴率13%』」
大地が鳴動した。
「『27%』」
遠方の海が天高く隆起し、巨大な水柱となって空を貫く。
「『51%』」
空を覆っていた黒雲が、内側から銀色に染まり始めた。
「『78%』」
地上に存在するあらゆる魔力が、少女のもとへと流れ込んでいく。
「『93%』」
星の鼓動が、世界中の生命の胸を震わせた。
そして。
「『100%』」
――世界が、目を覚ました。
「『共鳴完了』」
ラルムの背後で、十二枚の翼が巨大な銀の円環を形成する。
その姿は、もはや天使と呼ぶにはあまりにも異質だった。
神々しいのではない。
神々しさという概念そのものが、彼女の存在を表現するために後から生まれた言葉であるかのようだった。
少女の周囲では、無数の文字列にも似た光が浮かび上がり、瞬く間に消滅していく。
世界の理が書き換えられている。
否。
書き換えられているのは、世界の理を脅かす存在を排除するための、ただ一つの命令だけだった。
「『滅びの排除を開始します』」
その声を合図に。
世界の終末が、始まった。
◇◇◇◇◇
「――来たわね」
アミアスティーネが、嬉しそうに両腕を広げた。
「さあ、始めましょう。星の防人。あなたが世界を守るために生まれたというのなら、その力で証明してみせなさい。あなたの存在に、どれほどの価値があるのかを!」
黒い腕が、一斉に動いた。
その指先から放たれたのは、炎でも、雷でも、氷でもなかった。
それは『終わり』だった。
触れたものの生命を奪うのではない。
触れたものの存在を、過去から未来に至るまで、あらゆる可能性ごと終わらせる。
空間に走った漆黒の亀裂が、大地を、山脈を、そして遥か彼方の雲海を一直線に切り裂いた。
その軌跡に存在していた巨大な岩山が、音もなく消失する。
だが。
ラルムは動かなかった。
ただ、十二枚の銀翼のうち一枚が、静かに羽ばたく。
それだけで、少女へと殺到していた『終わり』が、彼女の手前で停止した。
まるで、世界の側がその現象を拒絶したかのように。
次の瞬間、黒い亀裂は逆流した。
アミアスティーネの放った権能が、発動した順序を遡るように消滅していく。
「……ふふっ」
死神は、ますます楽しそうに笑った。
「そう。そうよね。あなたはそうでなくては」
彼女の背後で、地平線を埋め尽くしていた眷獣たちが一斉に咆哮した。
その数、数万。
いや、数百万。
四つの頭を持つ巨獣。人間の腕を幾千本も束ねた異形。大地を這うだけで山脈を砕く巨大な蛇。翼を広げれば太陽を覆い隠す黒い鳥。
さらには、かつて神々に反逆し、滅ぼされたはずの古代竜までもが、その軍勢の中に混じっていた。
それらは単なる魔物ではない。
世界から切り離された死神が、自らの権能によって生み出し、あるいは終焉の果てから呼び戻した、死の概念を帯びた眷属たちだった。
「さあ、あなたの世界を守りなさい!」
アミアスティーネが指を鳴らす。
その瞬間、無数の眷獣が一斉に動き出した。
大地が裂ける。
空が砕ける。
死者の軍勢が、地平線の彼方から雪崩のように押し寄せる。
それは、神話に記された終末の再現だった。
かつて世界を焼き尽くしたという炎の巨人が、燃え盛る剣を振り上げる。
天を支えていたとされる巨大な獣が、その身体をくねらせながら大地へと突進する。
黒い翼を持つ竜が、口から吐き出した漆黒の炎で雲海を焼き払う。
北欧の古き神話において、世界の終焉を告げるラグナロク。
その光景を知る者がこの場にいたならば、誰もがそう口にしただろう。
いや。
これは、神話の再現などではない。
神話そのものが、これから起こる出来事を説明するために生まれたのだ。
「…………」
ラルムは、ただ静かに前を見つめていた。
彼女の背後で、十二枚の銀翼が一枚ずつ異なる輝きを放ち始める。
【切離】。
【拒絶】。
【修復】。
【観測】。
【適応】。
【浄化】。
【改変】。
【封印】。
【停滞】。
【消失】。
【還元】。
【
世界の均衡を維持するための根源的な権能。
十二の翼は、それぞれが世界を守るための異なる機能を担っている。
そのすべてが今、ひとつの目的のために稼働していた。
――世界に仇なす存在を排除せよ。
ただ、それだけのために。
「……っ!」
最初に飛びかかったのは、全身を黒い甲殻に覆われた巨大な獣だった。
その巨体は数百メートルにも及び、突進するだけで周囲の大地が粉砕される。
口を開けば、山をも噛み砕く無数の牙が覗いていた。
ラルムは、視線すら向けなかった。
銀翼の一枚が、僅かに揺れる。
その瞬間、獣の巨体が左右に分かれた。
切断面はあまりにも滑らかで、血の一滴すら流れない。
切り離された二つの身体は、次の瞬間には光の粒子となって消滅した。
続いて、空から数千の黒い鳥が襲いかかる。
ラルムの足元に銀色の円環が広がった。
鳥たちは円環の内側に入った瞬間、翼を広げた姿のまま静止した。
そして、次々に消え去った。
一瞬のことだった。
何百万という眷獣の軍勢。
世界を滅ぼすために用意された、死神の大軍勢。
その先陣が、少女の周囲に触れただけで、存在を失っていく。
だが、アミアスティーネは笑っていた。
「足りないわ。そんなものでは、まだ足りない!」
彼女が両腕を掲げると、空の彼方に巨大な黒い門が出現した。
門の向こう側に広がっていたのは、星々の輝きすら存在しない暗黒の空間。
世界の外側。
あらゆる生命が生まれる以前から存在し、世界の理すら届かない虚無。
その深淵から、無数の腕が這い出してきた。
腕の先には、神々の頭蓋が握られていた。
かつて世界を支配した神々。
かつて星の防人に抗い、あるいはその存在を恐れて自ら姿を消した神々。
その残骸が、死神の権能によって眷属として蘇っていた。
「見なさい、星の防人! あなたが守ろうとしている世界は、何度も滅びかけてきた! 何度も神々に見捨てられ、何度も生命を踏みにじられ、それでもなお、何事もなかったかのように回り続けてきた!」
アミアスティーネの声が、天地を震わせる。
「それでもあなたは、守り続けるというの? こんなにも脆く、愚かで、救いようのない世界を!」
ラルムは答えなかった。
答える必要がなかった。
世界を守る。
それが彼女の存在理由である以上、その命令に疑問を差し挟む余地など存在しない。
「……そう。ならば!」
アミアスティーネの瞳が、血のように赤く輝いた。
「あなたが守る世界ごと、砕いてあげる!」
彼女が両腕を大きく振り下ろす。
その動きに呼応するように、天空の彼方で何かが動いた。
最初は、ただの光点だった。
しかし、それは瞬く間に巨大化していく。
雲を突き破り、大気を引き裂き、星の重力に引かれながら落下してくる巨大な岩塊。
直径は、数十キロメートル。
その表面は赤熱し、無数の亀裂から溶岩のような光が漏れ出している。
大気との摩擦によって発生した灼熱の光が、夜空を昼のように染め上げていた。
否。
それは、ただの隕石ではなかった。
岩塊の表面には、無数の神代文字が刻まれている。
その一つひとつが、世界の理を侵食する呪詛となっていた。
落下するだけで大気が燃え、海が沸騰し、大地の魔力が暴走していく。
その軌道の先にあるのは、ラルムだけではない。
星そのものだった。
「星の防人よ!」
死神の声が、天上から降り注ぐ。
「かつて神々が天を創り、地を定め、生命に運命を与えたように――今、私は神々の遺骸を束ね、終焉の理をもって天を墜とす!」
赤黒い光が、死神の両手へと収束していく。
その背後で、無数の眷獣が一斉に跪いた。
「天を穿て、終末の槌よ。
星の臓腑を焼き、海の底を砕き、生命の灯火を灰燼へと帰せ。
天蓋を覆う星々よ、今こそその軌道を捨てよ。
万象の父たる重力よ、汝が抱くすべてを奈落へと導け。
神々の骸を礎に、世界の外より来たる終焉をここに顕現せよ――!」
アミアスティーネが、両腕を天へと掲げた。
「神滅大儀式――【星墜ちの黙示録】ッ!!」
その瞬間、天空の巨大隕石が爆発的に加速した。
空間が悲鳴を上げた。
星の重力が歪み、雲海が押し潰され、遥か彼方の山脈が衝撃だけで崩壊していく。
世界が、終わる。
誰もがそう理解するほどの圧倒的な破壊が、地上へと迫っていた。
遠く離れた山脈の頂。
そこに、ひとりの少年が立っていた。
クルル・アシュター。
かつて聖都で『聖者』と呼ばれ、今は世界の真実を求めて旅を続ける少年。
彼の身体は、絶え間なく吹き荒れる衝撃波によって震えていた。
眼前に広がる光景は、もはや人間の理解できる戦いではない。
空を覆い尽くす巨大な隕石。
地平線を埋め尽くす眷獣の軍勢。
世界を引き裂く黒い亀裂。
そして、そのすべてを前に、たったひとりで立ち続ける少女。
「……ラルム」
クルルは、震える唇でその名を呼んだ。
声が届くはずもない。
この距離では、たとえどれほど叫んだところで、彼女の耳に届くことはないだろう。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
ラルム。
自分に初めて世界の外を見せてくれた少女。
絶望の底に沈んでいた自分に手を差し伸べ、何の見返りも求めず、当たり前のように隣にいてくれた少女。
彼女と出会ってから、どれほどのことを知っただろう。
人間以外の種族にも、それぞれの暮らしがあること。
正義を掲げる者が、必ずしも正しいとは限らないこと。
悪と呼ばれる者にも、譲れない信念があること。
そして、この世界には、自分が想像していたよりも遥かに広く、深く、複雑な現実が広がっていること。
そのすべてを、彼女と一緒に知ってきた。
けれど。
「……ぼくは……」
クルルは、自分の拳を強く握りしめた。
何もできない。
今も。
昔も。
そして、きっとこれからも。
目の前で父が殺されたとき、自分は何もできなかった。
ラルムが手を差し伸べてくれなければ、あの場で命を落としていただろう。
旅に出てからも、彼女に助けられてばかりだった。
魔物との戦いでも、危険な土地を越えるときでも、彼女はいつだって圧倒的な力で自分を守ってくれた。
そして今。
彼女は世界そのものを滅ぼしかねない存在と戦っている。
自分の想像を絶するほどの力を持つ者同士が、星の存亡を賭けてぶつかり合っている。
その戦場の片隅にすら、自分は立てない。
「……っ、くそ……!」
悔しかった。
ただ、悔しかった。
彼女の隣に立ちたい。
守られるだけの存在ではなく、彼女が苦しむときには支えになりたい。
彼女が迷うときには、一緒に考えたい。
彼女が傷つくときには、その傷を少しでも肩代わりしたい。
そんな、当たり前の願いすら。
今の自分には、叶えることができない。
「……ラルム……!」
少年の叫びは、轟音に呑み込まれた。
彼女は振り返らない。
振り返る必要がないからだ。
彼女の視界には、ただ世界の終焉をもたらす敵だけが映っている。
それでも。
クルルは、目を逸らさなかった。
たとえ何もできなくとも。
たとえ彼女の隣に立つことができなくとも。
彼女が戦っている姿を、最後まで見届ける。
それが今の自分にできる、たったひとつのことだった。
「……頑張って、ラルム」
その声は、風に消えた。
だが、少年は知らなかった。
彼が見つめる少女の内側で、かつての無邪気な心が、深い深い眠りについていることを。
今の彼女は、クルルの声を聞いても、そこに特別な意味を見出さない。
懐かしさもない。
愛着もない。
ただ、世界の存続を脅かす敵性存在を排除するための演算が、絶え間なく繰り返されているだけだった。
それでも。
彼女の十二枚の翼は、確かに世界を守るために広がっていた。
そして、その翼の一枚が。
静かに、形を変え始めた。
「……っ?」
アミアスティーネが、初めて表情を強張らせた。
巨大隕石は、すでに大気圏の最深部へと到達している。
その表面は灼熱の炎に包まれ、衝撃波だけで周囲の雲を吹き飛ばしていた。
直撃すれば、地上の生命の大半が失われる。
星の地殻には巨大な亀裂が走り、海は蒸発し、世界の環境は不可逆的に破壊されるだろう。
それほどの破壊を前にしても、ラルムは動じなかった。
彼女の背後で、十二枚の銀翼のうち一枚が、ゆっくりと身体から離れていく。
いや。
離れたのではない。
翼そのものが、別の形へと変換されていた。
羽根の一枚一枚が、光の粒子となって集束する。
それらは細長く伸び、柄を形成し、刃を形作り、やがて一本の剣となった。
銀白色の刀身。
その表面には、文字とも紋様ともつかない幾何学模様が、絶え間なく浮かんでは消えている。
刃渡りは、少女の身長を遥かに超えていた。
それでも、その剣は不思議なほど軽やかに、彼女の手の中へと収まった。
十二権能の一つ。
【切離】。
世界を構成するあらゆる繋がりを断ち切り、対象をその存在の根幹から切り離す権能。
物質と物質。
原因と結果。
過去と未来。
そして、世界と、世界に属さぬ異物。
そのすべてを切り離すための、絶対の剣。
ラルムは、ゆっくりと剣を持ち上げた。
「――――」
詠唱はなかった。
力を溜める動作もなかった。
ただ、剣先を天へ向ける。
それだけで、世界が静まり返った。
巨大隕石を包み込んでいた灼熱の炎が、音もなく消え去る。
岩塊の表面に刻まれていた神代文字が、一斉に砕け散る。
隕石の落下を加速させていた重力の歪みが、まるで糸を断ち切られたかのように消失した。
アミアスティーネが目を見開く。
「まさか……その権能は……!」
ラルムは、答えない。
彼女はただ、剣を振り下ろした。
一閃。
それは、あまりにも静かな斬撃だった。
剣が空を切る音すら聞こえない。
しかし、その軌跡に沿って、天空が銀色に染まった。
次の瞬間。
巨大隕石が、砕けた。
否。
砕けたという表現では、あまりにも足りなかった。
直径数十キロメートルに及ぶ岩塊が、無数の断片へと切り分けられたのだ。
さらに、その断片の一つひとつが、次々と切り離されていく。
巨大な岩石が、砂粒へ。
砂粒が、微細な粉塵へ。
粉塵が、光の粒子へ。
そして最後には、存在していたという痕跡すら残さず、すべてが消滅した。
空を覆っていた灼熱の光が消える。
押し潰されていた雲海が、再びゆっくりと流れ始める。
大地を揺るがしていた振動が、止まる。
まるで、世界を終わらせるはずだった災厄など、最初から存在しなかったかのように。
ラルムは、剣を下ろした。
その刀身が、再び銀色の光へとほどけていく。
無数の光の粒子は少女の背中へと戻り、失われた翼の一枚を再構成した。
十二枚の銀翼。
そのすべてが、何事もなかったかのように静かに広がっていた。
「…………」
アミアスティーネは、空を見上げていた。
あれほどの神性を注ぎ込み、世界の理さえ歪めて生み出した神滅の隕石。
その一撃が。
たった一度の斬撃によって。
跡形もなく消し去られた。
「……あは」
死神の唇が、震えた。
「……あはは……はははははははッ!!」
狂ったような笑い声が、空に響き渡る。
「素晴らしい! 素晴らしいわ、星の防人! やっぱりあなたは最高よ! 世界を守るためだけに生まれ、世界のためだけに存在する、完璧な機構!」
アミアスティーネは、涙を流すほどに笑っていた。
「けれど――」
その赤い瞳が、再びラルムを捉える。
「あなたは、本当にそれだけなのかしら?」
その問いに、ラルムは反応しなかった。
「世界を守る。世界を維持する。世界を脅かすものを排除する。それがあなたの存在理由。そうでしょう?」
死神の背後で、黒い門がさらに大きく開いた。
「ならば、教えてあげるわ。あなたが守ろうとしている世界の、本当の姿を!」
世界の外側から、何かが這い出してくる。
それは、眷獣ではなかった。
神々の残骸でもない。
もっと深く、もっと古いもの。
世界がまだ形を持たなかった時代から、そこに存在していた何か。
アミアスティーネの笑みが、深く、深く歪んでいく。
「あなたは知らないでしょうね。世界がどうしてあなたを生み出したのか。なぜ、あなたのような絶対の守護機構が必要なのか。そして――」
彼女は、そっと自分の胸元に手を当てた。
「なぜ、私は世界から追放されなければならなかったのか」
その瞬間。
ラルムの銀翼が、僅かに揺れた。
それは、ほんの僅かな反応だった。
だが、アミアスティーネは見逃さなかった。
「……あら?」
死神が、目を細める。
「今、反応したわね?」
ラルムは答えない。
彼女の瞳に感情は戻らない。
しかし、その内側では、世界の理に存在しないはずの微細な揺らぎが生じていた。
計測不能。
分類不能。
原因不明。
星の守護機構にとって、本来あり得ない異常。
それは、かつてひとりの少年と手を繋ぎ、甘い菓子を食べ、何気ない日常の中で笑っていた少女の残滓だった。
まだ、消えてはいなかった。
ただ、深い深い意識の底で、静かに眠っているだけだった。
◇◇◇◇◇
――そして、ここから三時間ほど前。
「……えっと」
わたしは、目の前に並べられた大量の料理を見つめていた。
香ばしく焼き上げられた肉料理。
湯気を立てる大きな鍋。
山のように盛られたパン。
色鮮やかな野菜のサラダに、果物をふんだんに使った甘いお菓子まで。
どれもこれも、すっごく美味しそうだった。
「……食べていいの?」
「もちろんでございますとも!」
わたしの問いかけに、目の前の大柄な男性が勢いよく頷いた。
「この街の冒険者ギルドは、あなた方のような偉大な冒険者をいつでも歓迎しております! さあ、どうぞ遠慮なく!」
「わぁ……!」
思わず声が漏れた。
すごい。
すごいすごい。
こんなにたくさん食べ物があるなんて!
わたしは思わず、隣に座っていたクルルの袖を引っ張った。
「ねえ、クルル! すごいよ! お肉もあるし、パンもあるし、甘いのもいっぱい!」
「う、うん。そうだね、ラルム」
クルルは、困ったような笑顔を浮かべていた。
あれ?
どうしてだろう。
こんなに美味しそうなものがいっぱいあるのに、クルルはあんまり嬉しそうじゃない。
もしかして、苦手な食べ物があるのかな?
「クルル、嫌いなものある?」
「えっ? いや、そういうわけじゃなくて……」
「じゃあ、いっぱい食べよう!」
「……うん」
クルルは小さく笑った。
よかった。
やっぱり、クルルは笑っている方がいい。
わたしはそう思いながら、目の前の大きな肉料理に手を伸ばした。
その瞬間。
「おお……! やはり、噂に違わぬお方だ……!」
「まさか、あの黒牙狼の群れを二人だけで……」
「しかも、討伐した魔物の素材をすべて無傷で持ち帰ったという話だぞ!」
「いやいや、聞いたところでは、街道に出現した上位種の魔物まで一撃で仕留めたとか……!」
周囲の冒険者たちが、ざわざわと騒ぎ始めた。
……ん?
なんだろう?
みんな、こっちを見ている。
わたしは口いっぱいにお肉を頬張りながら、きょとんと首を傾げた。
「……んむ?」
「ラルム。とりあえず飲み込んでから喋ろうね」
クルルに注意された。
「んぐっ。……はーい」
ちゃんと飲み込んでから、もう一度周囲を見渡す。
冒険者ギルドの中には、たくさんの人がいた。
鎧を着た人。
大きな斧を背負った人。
魔法使いっぽい杖を持った人。
耳が長い人や、角が生えている人もいる。
みんな、なぜかわたしたちを見ていた。
それも、ただ見ているという感じではない。
目をキラキラさせていたり、感心したように頷いていたり、なかには尊敬するような眼差しを向けてくる人までいる。
……どうして?
わたしは自分の服を見下ろした。
白い服。
いつもの服。
特に変なところはないと思う。
隣のクルルも、いつも通りの服装だった。
ただし。
わたしたち二人とも、顔には仮面をつけていた。
わたしの仮面は、白を基調とした無表情の仮面。
クルルの仮面は、青い装飾が施された少しだけ格好いい仮面だ。
どうして仮面をつけているのかって?
それはもちろん、正体を隠すためである。
……と、クルルが言っていた。
「ラルム。街で目立つ行動をするのは避けよう」
「どうして?」
「ぼくたちが何者なのか、知られない方がいいからだよ」
「ふむふむ」
「特に、ラルムは……その、色々と規格外だからね」
「……?」
よく分からなかった。
でも、クルルがそう言うなら、きっとそうなのだろう。
わたしは素直に頷いた。
「分かった! じゃあ、仮面をつけるね!」
「……うん。そうしてくれると助かるよ」
それから、わたしたちは冒険者ギルドにやってきた。
理由は簡単。
お金が必要だったからだ。
旅をしていると、意外とお金がかかる。
食べ物を買うにもお金。
宿に泊まるにもお金。
服を買うにもお金。
そして、わたしが見つけた美味しそうなお菓子を買うにも、当然お金が必要だった。
最初はクルルが持っていたお金で何とかなっていたけれど、さすがにいつまでも頼りっぱなしというわけにはいかない。
だから、冒険者ギルドで依頼を受けて、お金を稼ぐことにしたのだ。
……うん。
我ながら、とっても立派な理由だと思う。
ちなみに、クルルは「もう少し簡単な依頼から始めよう」と言っていた。
けれど、受付のお姉さんに勧められた依頼を見ていたら、なんだか強そうな魔物の討伐依頼が目に入った。
黒牙狼。
大きな黒い狼の魔物らしい。
しかも、群れで行動するので危険度が高いのだとか。
……狼。
お肉。
わたしは思った。
狼のお肉って、美味しいのかな?
そんなことを考えていたら、いつの間にか依頼を受けていた。
クルルには、ものすごく驚かれた。
「ラ、ラルム!? これ、危険度A級の依頼だよ!?」
「そうなの?」
「そうなの、じゃなくて……!」
「でも、狼さんたちを倒したら、お肉も手に入るかもしれないよ?」
「……えっ?」
クルルが固まった。
それから、ものすごく深いため息をついた。
「……分かった。ぼくも一緒に行くよ」
「やったぁ!」
そんなわけで、わたしたちは黒牙狼の討伐に向かった。
結果。
黒牙狼の群れは、あっという間にいなくなった。
わたしがちょっと手を振ったら、みんな吹き飛んでしまったのだ。
……あれ?
なんでだろう。
最近、手を振るだけで色々なものが壊れてしまう気がする。
気をつけないと。
そのあと、クルルが丁寧に魔物の素材を回収してくれた。
わたしは横で、食べられそうなお肉がないか確認していた。
残念ながら、黒牙狼のお肉はあまり食用に向いていないらしい。
しょんぼり。
けれど、討伐報酬はとっても高かった。
しかも、素材を無傷で回収できたので、追加報酬までついた。
クルルは「こんなに簡単に終わるなんて……」と呆然としていたけれど、わたしとしては、お肉が食べられなかったことの方が少し残念だった。
そして、街へ戻ってきたわたしたちは、ギルドの受付で報酬を受け取った。
そのとき。
「……あの、少々お待ちいただけますか?」
受付のお姉さんが、何やら慌てた様子で奥へ走っていった。
しばらくすると、ギルドマスターらしい大柄な男性が飛び出してきた。
そして、わたしたちの顔を見るなり、ものすごい勢いで頭を下げた。
「このたびは、街道の安全を守っていただき、誠にありがとうございます!」
……えっ?
「えっと……?」
「あなた方の討伐された黒牙狼の群れは、ここ数週間にわたって街道を封鎖し、商隊や旅人に甚大な被害を与えていた魔物です! その脅威を、わずか二人で排除してくださった! これは、街にとって計り知れない功績でございます!」
「……そうなの?」
わたしはクルルを見た。
クルルは、なんとも言えない表情で頷いた。
「……そうみたいだね」
「わぁ……!」
なるほど!
それは、よかった!
みんなが喜んでくれるなら、わたしも嬉しい。
それに、報酬もいっぱいもらえた。
これなら、甘いお菓子もたくさん買える。
……ふふふ。
完璧である。
「それで、もし差し支えなければ……お二人のお名前をお聞かせいただけないでしょうか?」
ギルドマスターが、恐る恐る尋ねてきた。
名前。
うーん。
本当の名前を教えてもいいのかな?
わたしはクルルを見た。
すると、クルルは少しだけ考えてから、静かに答えた。
「……申し訳ありません。今は、事情があって名乗ることができません」
「そ、そうですか……!」
ギルドマスターは一瞬だけ残念そうな顔をしたが、すぐに深く頷いた。
「承知いたしました! では、冒険者ギルドの記録上、お二人には仮の呼称を付けさせていただきます!」
「……仮の呼称?」
わたしは首を傾げた。
「はい! お二人とも正体を明かされないということでしたら、何か呼びやすい名前が必要になりますので!」
なるほど。
そういうものなのか。
ギルドマスターは、わたしたちをじっと見つめた。
それから、何かを思いついたように手を打った。
「そうですな……銀色の髪を持つ小柄な方は、その仮面と雰囲気から――『銀月』!」
「……ぎんげつ?」
「そして、もうお一方は、青い装飾の仮面をお持ちですので――『蒼星』!」
「……そうせい?」
わたしは、ぽかんとした。
銀月。
蒼星。
……なんだか、すごく格好いい名前だ。
「どうでしょうか?」
ギルドマスターが、期待に満ちた目でこちらを見ている。
わたしはクルルの袖を引っ張った。
「ねえ、クルル。これ、格好いいね!」
「……そうだね」
クルルは苦笑していた。
「では、今後はそのお名前で登録させていただきます!」
「はいっ!」
わたしは元気よく返事をした。
……あ。
しまった。
仮面をつけているんだから、返事をする必要はなかったかもしれない。
でも、まあ、いっか。
そんなわけで。
わたしたちは冒険者ギルドにおいて、正体不明の二人組の強者――『銀月』と『蒼星』として知られることになった。
しかも、黒牙狼の討伐をきっかけに、ギルド内ではすっかり有名人になってしまったらしい。
周囲の冒険者たちは、わたしたちを遠巻きに眺めながら、ひそひそと話していた。
「おい、見ろよ。あれが噂の二人組か……」
「黒牙狼の群れを一瞬で壊滅させたっていう……」
「しかも、素材を傷ひとつつけずに持ち帰ったらしいぞ」
「一体、どこの国の出身なんだ?」
「いや、あの仮面……もしかして、何か特別な組織の人間なのでは……?」
「まさか、伝説の冒険者……!?」
……うーん。
なんだか、すごいことになっている。
わたしは、もう一度クルルの袖を引っ張った。
「ねえ、クルル」
「……なに?」
「わたしたち、すごく強そうだと思われてるみたい」
「…………」
クルルは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりとわたしの方を向いた。
「……ラルム」
「うん?」
「お願いだから、次の依頼を受ける前に、ぼくに相談してね?」
「……?」
どうしてだろう?
わたしは首を傾げた。
だって、強そうだと思われるのは、いいことじゃないのかな?
危険な魔物を倒せば、みんなが喜んでくれる。
お金ももらえる。
美味しいものも食べられる。
それに、クルルと一緒にいろいろな場所へ行ける。
……うん。
やっぱり、冒険者って素晴らしい。
「分かった! 次からは相談するね!」
「……本当に?」
「うんっ!」
クルルは、なぜか少しだけ不安そうな顔をしていた。
でも、すぐに優しく笑ってくれた。
「……じゃあ、約束だよ」
「約束!」
わたしたちは、小指を絡めた。
仮面の下で、わたしはにっこりと笑った。
そして、目の前に並べられた料理へと視線を戻す。
「……ところで、クルル」
「今度はなに?」
「このお肉、おかわりしてもいい?」
「……ふふっ。もちろんだよ」
やったぁ!
わたしは、さっそく大きなお肉に手を伸ばした。
そのときだった。
ギルドの入口が、勢いよく開かれた。
「た、大変だぁぁぁッ!!」
ひとりの冒険者が、血相を変えて駆け込んでくる。
「北方の空に、巨大な黒い門が出現した! その向こうから、とんでもない数の魔物が現れているらしい!」
ギルド内が、一瞬で静まり返った。
「な、なんだと……!?」
「北方って、王都へ続く街道の方角じゃないか!」
「まさか、魔王軍の侵攻か!?」
「いや、違う! 目撃者の話じゃ、魔物の姿が普通じゃないらしい! 空を覆うほど巨大な獣や、死者の軍勢まで……!」
騒然とする冒険者たち。
ギルドマスターの顔から、血の気が引いていく。
そして、クルルがゆっくりと立ち上がった。
「……ラルム」
「ん?」
「少し、様子を見に行こう」
その声には、いつもの穏やかさの奥に、確かな緊張が滲んでいた。
わたしは、手に持っていたお肉を見つめた。
……うーん。
お肉。
とっても美味しい。
でも、クルルが行くというのなら、わたしも一緒に行く。
それに、空を覆うほどの魔物なんて、ちょっと見てみたい。
「……分かった!」
わたしはお肉を最後のひと口まで食べて、ぱくりと飲み込んだ。
「ごちそうさまでした!」
それから、勢いよく立ち上がる。
「じゃあ、行こっか!」
クルルは、少しだけ困ったように笑った。
「……うん。行こう」
わたしたちは仮面をつけ直し、冒険者ギルドの扉へと向かった。
その背後で、冒険者たちが道を開ける。
誰もが、期待と畏怖の入り混じった眼差しを向けていた。
正体不明の二人組。
銀月と蒼星。
その名が、やがて世界の命運を左右する戦いへと繋がっていくことを、このとき知る者は誰ひとりとしていなかった。
もちろん。
わたしも、知らなかった。
ただ、ひとつだけ。
ギルドを出る直前、北の空を見上げた瞬間。
胸の奥で、何かが小さく震えた気がした。
懐かしいような。
遠い昔に聞いたことがあるような。
けれど、どうしても思い出せない、何か。
「……?」
わたしは、首を傾げた。
「……なんだろう?」
「どうしたの、ラルム?」
クルルが、不思議そうに尋ねる。
「ううん。なんでもない!」
わたしは笑って答えた。
だって、本当になんでもなかったから。
少なくとも、そのときのわたしは、そう思っていた。
――この胸の奥に眠るものが。
世界そのものを守るために生まれた、もうひとりの自分だなんて。
そんなこと、考えもしなかったのだから。