遠い目をした回想から現実へと戻ってきたアルは、自身のポケットから、あの時横島に手渡された緑色のビー玉のような珠を取り出してじっと見つめた。
その様子を斜め後ろから覗き込んでいたムツキは、アルが未だにその怪しげな品を持っていることに気づいて目を丸くした。
「えっ? アルちゃん、それって横島ってヤツから貰ったやつだよね? 取り調べの時、押収されなかったの?」
ムツキの素朴な疑問に、アルは少し気まずそうに目を泳がせた。
「ううん……これに関しては、特に何も言ってないから……」
「いやいや、言ってないってさぁ……。ボディチェックとかはされたでしょ? いったいどこに隠し持ってたのさ」
怪訝そうに首を傾げるムツキに対し、アルは「そりゃあ……」と言い淀みながら、どこか遠い目をして手のひらに乗せた緑の珠を見つめた。
そして、心の中で何かを念じる。
――フッ。
「……っ!?」
ムツキが息を呑むのと同じタイミングで、アルの手のひらの上にあったはずの緑の珠が、まるであるはずのない幻影だったかのようにパッと消え去った。
「え……?」とムツキが目を白黒させていると、アルは再び手のひらに意識を集中させる。
――ピカッ。
するとアルの手に、消えたはずの緑の珠が何事もなかったかのようにポッと再び現れたのだ。
「消えろと思ったら消えて、出ろと思ったら出てくるから……隠すも何も、これだけで済んじゃったんだけど……」
アルはまるでペンでも取り出すかのような気軽な口調で、そんな離れ業をサラリとやってのけた。
「…………は?」
ムツキは完全に思考のフリーズを起こし、アルの手のひらと顔を二度見しながら固まった。
目の前で起きている超常現象が物理法則やキヴォトスの常識からあまりにもかけ離れすぎていて、脳の処理が追いつかないといった様子だ。
友人のあまりのリアクションに、アルはそこでようやくハッと正気に戻った。
「あ、あれ……? 待って、これって普通はありえないことよね……?」
冷や汗を流しながら、アルは自分のこめかみを軽く押さえた。
「うう……今日一日があまりに濃すぎて、なんかもう、色んな感覚が完全に麻痺してるわ……」
ムツキはしばらくの間、「は……? え……?」と魚のように口をパクパクさせ続けていたが、やがてハッと我に返って叫んだ。
「……ちょっとアルちゃん!?」
ムツキの声から、いつもの飄々としたからかいのトーンが完全に消え失せていた。
「なんでそんな訳の分からないものをずっと持ってるわけ!? 得体が知れなさすぎるよ、早くどっかに捨てたほうが――」
勢いよく言いかけたムツキだったが、ふと眉根を寄せて押し黙り、顎に手を当てて考え込み始めた。
「……いや、捨てるのもちょっとアレかな……。なんか、捨てても次の日にはいつの間にか戻ってそうな気配、すっごくするし……」
「そ、そんな呪いの装備じゃあるまいし……」
アルは乾いた笑いで返したものの、手のひらの上でぼんやりと怪しく脈動する緑の珠を、なんとも言えない複雑な目で見つめ直した。
念じれば消え、呼べば現れる不可思議な物体。傍から見れば、ムツキの言う「呪いのアイテム」そのものにしか見えない。
「……ま、まあ! とりあえず今のところ実害は何もないんだし、変なことが起きたらその時に考えるわよ!」
アルは何か恐ろしい想像を頭から振り切るように早口でまくし立てると、スタスタと大股で歩き出した。
二人は並んで夕暮れのゲヘナ自治区の通りをしばらく無言で歩いていたが、やがてムツキが隣をチラリと見上げ、ふと思い出したように口を開いた。
* * *
「――でさ、アルちゃん。これからどうするの? 『便利屋』」
「え?」
「だって、風紀委員会の取り調べでぜんぶゲロっちゃったんでしょ? もう風紀委員にはバレちゃったし、完全にマークされちゃった以上、これ以上計画を進めるのなんて無理なんじゃない?」
いたずらっぽさのない、現実を淡々と突くムツキの問い。
その言葉を受けたアルは、ピタリと足を止めた。
夕日に照らされた路上で、アルは一人うつむき、ギュッと制服のスカートを握りしめる。
風紀委員会に目をつけられたこと、そして今日という長すぎる一日で起きた怒涛の出来事の数々――。
しばしの沈黙の後。
アルは何か大きな決心をしたようにスッと顔を上げると、おもむろに手を伸ばし、眼鏡を外した。
夕陽を浴びて露わになったその瞳には、かつてないほどギラギラとした(しかしどこか危うい)光が宿っていた。
「……いいえ、やるわ」
「え?」
「むしろ、絶好の機会よ。今までは計画を立てて満足していただけだった……。でも、これは私が本物のアウトローとして、最初の一歩を踏み出すための試練なんだわ! 本物のワルというのは修羅場を越えて大きくなるのよ!」
自分に言い聞かせるように、熱っぽい口調で語るアル。
そして、夕焼けの空に向かってバッと右手を掲げ、堂々と宣言した。
「本日をもって――『便利屋68』は、正式に事業を開始するわよ!!」
「わぁ……」
ムツキは目を丸くして、呆気にとられたような声を漏らした。
実はアル自身、まったく自覚していなかったが――彼女は今日一日を共にしたあの男、横島忠夫に、猛烈なレベルで感化されていたのである。
見知らぬ土地に突如として放り出され、ならず者どもの抗争に巻き込まれるも超火力で一網打尽に粉砕。
それによって治安組織の最大戦力に目をつけられるが、プロの逃走術とハッタリで見事に翻弄して脱出。
寄る辺なき身でありながら、偶然出会った協力者の助けを借りて巨大な無法地帯へと単身潜り込むことを決意し、最後はカタギである協力者の身の安全を最優先に考え、すべての咎を一身に背負い、背中を向け合ってハードボイルドに別れる――。
(※ただし諸々の細かい部分に目を瞑り、脚注をつける必要はあるが)
箇条書きにして体裁を整えてしまえば、それはアルが夢にまで見た「裏社会をスマートに生き抜くアウトロー」そのもののムーブだったのだ。
おまけに、修羅場をくぐり抜けて取り調べまで耐え抜いた極限状態の反動で、アルの脳内麻薬は今まさにドバドバと分泌されており、完全にハイになって正常な判断力を失っていた。
眼鏡をしまい、キリッとした険しい表情を作ったアルは、フッ……と不敵な笑みを浮かべて胡乱げな独り言を呟く。
「それに……万が一また風紀委員会に捕まったとしても、私はまだ未成年。ニュースになっても『少女A』で済むもの……」
「…………」
その迷走しきった決め台詞を聞き、ムツキは思わずジトッとした目を向けた。
(うわぁ……横島ってヤツから、だいぶ良くない影響受けちゃってるなぁ、アルちゃん……)
どう見ても判断基準が歪みきっているし、言っていることの端々からロクでもない小市民的悪知恵が滲み出ている。
けれど――。
「あははっ!」
ムツキはパッと表情を明るく崩すと、心底楽しそうに笑った。
「うん! いーんじゃない、アルちゃん! なんだかよく分かんないけど、すっごく面白そうだしさ!」
その後、陸八魔アルと浅黄ムツキはゲヘナを主として活動を開始する。そして紆余曲折の末に、伊草ハルカ、鬼方カヨコらを新たな社員として迎え入れ、『便利屋68』は更に精力的に活動をしていくのであった。