アビドス高等学校・対策委員会の教室に、スマートフォンの無機質な電子音が小さく響いた。
窓辺に寄りかかっていたホシノは、端末を耳から離すと、名残惜しそうにひらひらと手を振りながら通話を切った。
「――うん、じゃあね〜。いい機会だし、ゆっくり羽を伸ばしなよって伝えといて〜」
ピッ、と画面が暗転する。
その様子を机から見守っていたアヤネが、手元の書類から顔を上げて尋ねた。
「……ホシノ先輩、ヘルメット団の方からですか?」
「うん、リーダーちゃんから。なんかね〜、横島くんが『別荘』に入っちゃったから、みんなもしばらくこっちには来られないんだってさ〜」
ホシノがどこか気の抜けた調子でそう告げると、教室の空気がふわりと揺れた。
「あら〜」
ノノミが手を頬に当て、心底意外そうに目をパチクリとさせる。
いつも悪運と逃げ足の速さだけで生き延びてきたあの男が、まさかお縄につくとは。
「……意外」
シロコもわずかに耳をピクリと動かし、短く呟いた。
どんな窮地に陥っても「ゴキブリのように逃げる」を体現してきた男である。捕まる姿など、およそ想像がつかなかった。
「ほら、最近キヴォトス全体の治安がめちゃくちゃ悪化したでしょ〜? その分あっちこっちで摘発が厳しくなっちゃって、運悪く一緒にパクられちゃったんだってさ〜」
ホシノが今しがた電話で聞いたばかりの事情をかいつまんで説明すると、対策委員会の全員の顔に、一様に「ああ……」という深い納得の色が広がった。
「……まあ、横島さんだしね」
「あ、あはは……」
セリカが呆れたようにため息をつき、アヤネも苦笑いを浮かべる。
だが、その表情はすぐに曇り、アヤネは胸元でぎゅっと手を握りしめながら、ポツリと不安を零した。
「……でも、本当なんでしょうか。連邦生徒会長が、失踪したというのは……」
一連の治安悪化の引き金。
キヴォトスの絶対的な統治機構である連邦生徒会、そのトップの失踪という未曾有の事態。
その噂が広まるや否や、街中の不穏分子が一斉に吹き上がり、今や各地で暴動や抗争が日常茶飯事と化していた。
「うーん……どうなんだろうねぇ? まあ、連邦生徒会のお膝元であるD.U.すらこんなことになってるんだから、普通の状態じゃないのは確かだろうね〜」
ホシノは机の上に置かれたタブレット端末へと視線を落とした。
画面に映し出されているネットニュースの速報には、不穏極まりない見出しが躍っている。
『――脱獄した【災厄の狐】率いる武装集団、連邦生徒会の重要施設を占拠』
『D.U.各所で大規模な暴動発生、治安部隊との衝突続く』
画面の中では、立ち上る黒煙と火の手、割れた窓ガラス、そして略奪と破壊の限りを尽くす暴徒たちの生々しい現場映像が延々と流れていた。キヴォトスの心臓部ですら、完全に秩序が崩壊しかけているのだ。
重苦しい空気の中、画面を見つめていたシロコが――突然、ピクリと眉を動かした。
「……あれ?」
「ん? どしたの〜、シロコちゃん?」
シロコは素早い手つきで動画のシークバーを巻き戻すと、画面のある一点で一時停止を押した。
そして、すっと目を細め、ディスプレイの片隅を凝視する。
「……これ」
「ん〜?」
ホシノが首を傾げながらシロコの背後からのぞき込み、画面の拡大された箇所を確認した――その瞬間。
「あ〜……」
ホシノの口から漏れたのは、言葉というよりは、あまりにも哀れなものを見るような、深いため息交じりの声だった。
燃え盛るD.U.のメインストリート。
装甲車がひっくり返り、催涙ガスの煙が立ち込める瓦礫の山の中。
青いジージャンに色落ちした青いジーパン、そして頭にトレードマークの赤いバンダナを巻いた男――横島忠夫が、そこにいた。
横島は涙と鼻水を顔面いっぱいに撒き散らしながら、崩れかけたコンクリートの瓦礫に両手両足で必死にしがみつき、半狂乱になって何かを絶叫していた。
そしてその周囲を、完全武装した凶悪そうな不良たちが幾重にもガッチリと取り囲み、横島に向かって怒声を浴びせながら、手振りを交えて激しく何かをまくし立てている。
音声こそ入っていなかったが、その映像だけで現場の阿鼻叫喚が痛いほど伝わってきた。
――『別荘』暮らしを満喫しているはずだった彼女たちの共犯者が、運悪く地獄の釜の底に放り込まれ、暴徒たちに囲まれて情けなく命乞いをしている哀れな姿が、キヴォトス全土にバッチリ高画質で中継されていたのである。
* * *
「ほっといてくれぇぇぇぇっ!! 俺はもうすぐお勤めが終わるんやーーーっ!!」
立ち上る黒煙とサイレンが鳴り響くD.U.の路上。
横島忠夫は瓦礫のコンクリートブロックを両手両足でガッシリと抱え込み、鼻水と涙をまき散らしながら絶叫していた。
「俺の帰りを待っててくれる子たちがいるんや!! キレイな身になって、胸張ってみんなのトコに帰るんやぁぁぁっ!! 誰が好き好んで脱獄なんぞするかボケェェェェーーーッ!!」
刑期満了を間近に控え、娑婆へ戻るカウントダウンをしていた横島にとって、この突然の集団脱獄騒ぎはただの特大の災難以外の何物でもなかった。ここで脱獄犯の仲間入りなどしてしまえば、指名手配されて日陰者へと逆戻り、いやそれ以下の最底辺へと堕ちてしまう。
だが、そんな横島の必死の叫びを、周囲を取り囲む血気盛んな不良少女たちは全く意に介していなかった。
むしろ、謙遜か何かだと勘違いしたように、目をギラギラと輝かせて熱烈なスカウトの声を浴びせかけてくる。
「まあまあ、そんな水臭いこと言うなってアニキィ!」
「そうだよ! ゲヘナの自治区を街ごと派手に吹き飛ばして、あの空崎ヒナに目をつけられても散々振り回して笑って逃げ切ったってアンタの伝説、アタシら何遍も耳にタコができるほど聞いてんだからさぁ!」
「アンタのトコのヘルメット団の連中だって、昔はどこにでもいるパッとしない集まりだったのに、今じゃ最新装備で固めてブラックマーケットで上から数えた方が早いくらいの大勢力になってんだろ!?」
不良たちは我先にと身を乗り出し、瓦礫にしがみつく横島を力任せに引っ張り起こそうと畳み掛ける。
「アンタほどのデカいヤツが、そんな器の小っちぇえこと言ってんじゃないよ!」
「そうそう! 脱獄したあの【災厄の狐】と、アンタが手を組めば、キヴォトス全土を揺るがすもっと凄えことができるに決まってんじゃん!」
「アタシらと一緒に、デッカイことしようぜェーーッ!!」
「いやじゃああああああっ!! 誰が災厄の狐なんかと組むかあぁぁぁっ!! デカいことなんかしたくない! 俺は小さな幸せを噛み締めたいだけなんじゃあーーーっ!!」
祭り上げられ、勝手に担ぎ上げられそうになっている哀れな男の悲痛な絶叫は、暴動の爆炎と喧騒の中に空しく吸い込まれていくのだった。
横島が涙と鼻水を撒き散らしながら喚き、不良たちが「アニキ、天下獲ろうぜ!」と熱烈に口説き落とそうとする――そんな地獄のように不毛でアホな押し問答が最高潮に達していた、その時だった。
ドガァァァァンッ!!
「そこまでよ! 即刻武器を捨てて投降しなさい!」
立ち込める硝煙を切り裂き、凛とした鋭い声が響き渡った。
ミレニアムの早瀬ユウカを先頭に、トリニティの羽川ハスミ、ゲヘナの火宮チナツ、そしてトリニティの守月スズミという、各自治区の混成部隊が突入してきたのだ。
「チッ、邪魔が入ったか!」
「ハジキ撃ち込めぇっ!」
不良たちが一斉に銃口を向け、瞬く間に激しい銃撃戦が幕を開けた。
「ひぃぃぃっ!?」
横島は即座に瓦礫から手を離すと、頭を抱えて地べたに伏せ、これ幸いとばかりに四つん這いになってユウカたちの方へ猛スピードで這いずり始めた。
そして、部隊の中にいる長身で黒髪のスナイパーと、救急腕章をつけた眼鏡少女の姿を視界に捉えた瞬間、地獄に仏を見つけたかのように破顔して絶叫した。
「ハスミさぁぁぁんっ!! チナツちゃぁぁぁんっ!! 助けてくれぇぇぇーーっ!! 俺は被害者なんや! 大人しくしてたのに、コイツらに無理矢理連れ出されただけなんやぁぁぁーーっ!!」
なりふり構わず情けない声で救助を求める横島。どうやら、トリニティとゲヘナ、二校の治安組織に属するハスミとチナツとは、深い面識があるようだった。
だが――。
パァンッ!!
乾いた単発の銃声が、銃撃戦の喧騒を綺麗に切り裂いた。
「ぎゃあっ!?」
横島の叫び声がピタリと止まり、彼の頭が勢いよく後ろへ跳ね上がった。
次の瞬間、横島は白目を剥いて崩れ落ち、ピクピクと痙攣しながら沈黙した。
完全な無言のまま、完璧な呼吸でスナイパーライフルの引き金を引いたハスミ。
その信じられない光景を真横で目撃したユウカは、血相を変えて飛び上がった。
「えっ……!? ちょ、ちょっとハスミさん!?」
「……」
ハスミは眉ひとつ動かさず、静かにボルトアクションを引き、薬莢をカランと路上へ弾き出していた。
閃光弾を投げ終えたスズミも、横島とハスミを交互に二度見しながら、動揺を隠せない様子で困惑の声を漏らす。
「あ、あの……? 今の、流れ弾じゃなくて……完全に頭を狙って撃ち抜きましたよね……?」
正義実現委員会きっての冷静な狙撃手が、丸腰で助けを求めて這い寄ってきた(しかも知り合いらしい)相手の眉間を、躊躇ゼロでスナイプしたのだ。困惑するなという方が無理である。
しかし、ハスミは依然として一切の言葉を発することなく、冷徹極まりない手つきで次弾を装填し直している。
すると、普段は温厚なチナツが、淡々としながらも感情の抜け落ちた氷のような声でハスミへと告げた。
「ハスミさん、追撃を。……少なくともあと十発。いえ、二十発は撃ち込んでください」
「ええっ!? に、二十発ぅ!?」
ユウカの悲鳴のようなツッコミが響く。
トリニティの正義実現委員会と、ゲヘナの風紀委員会。本来なら相容れないはずの二つの治安組織の幹部が、なぜか目の前で気絶している男に対してだけは、まるで人類の天敵でも見るかのような異常極まりない警戒心を剥き出しにしているのだ。
何故この二人がここまで横島に対して辛辣なのか。それについてはここではとても説明しきれないが、横島というトラブルメーカーとしか言いようのない人間の常日頃の言動、そしてハスミとチナツが秩序や風紀を司る立場であることを鑑みれば、自ずと答えは出ると思われる。
あまりにも異常な空気に、ユウカは額に冷や汗を滲ませながら、思わずドン引き気味に呟いた。
「……な、何なのよ、一体……!?」
* * *
チナツの物騒な追撃要請とユウカの悲鳴が響く中、各自治区の精鋭たちの圧倒的な火力の前に、不良たちはたまらず蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
現場に残されたのは、立ち込める硝煙と散乱した薬莢、そして頭から薄っすらと煙を上げて倒れ伏している横島だけだった。
荒々しい銃声がやみ、静寂が戻りかけた路上。
倒れ込んだままピクリとも動かない横島のもとへ、足音を響かせて近づいてくる人影があった。
黒髪を整え、知的な眼鏡をかけた、どこか落ち着いた佇まいの男性――連邦捜査部【シャーレ】の顧問として招かれた、『先生』であった。
先生は横島のそばにしゃがみ込むと、心配そうに眉尻を下げて声をかけた。
「……大丈夫?」
「う、うぐぅ……」
頭蓋骨を直接揺さぶられたような衝撃から、横島はうっすらと目を開けた。
「い、いててて……なんとか、大丈夫っす……」
たんこぶどころではない痛みに顔を歪め、痛む頭部を擦りながら起き上がった横島は、目の前で自分を覗き込んでいる人物をまじまじと見つめた。
そして――その姿を認識した瞬間、目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。
「……え!? お、男ぉぉぉっ!? うわ、マジか、……男なんて久々に見た……!」
キヴォトスに来て以来、周囲にいたのは銃を乱射する女子高生か、二足歩行の犬猫、あるいは無機質なロボットばかりだった。自分以外の『人間の男』という生き物に対面したのは、この街に放り出されてから初めてのことだったのだ。
驚きを隠せない横島に対し、先生は穏やかな苦笑いを浮かべながら、首を小さく傾げた。
「私は外から来たからね。……でも、キヴォトスにも男子生徒がいないわけじゃないんだね……」
赤いバンダナにジージャンという、いかにも年相応の少年に見える横島の姿を見つめ、先生はどこか納得したように独り言を呟いた。
だが、その言葉を聞いた横島は、痛む頭を押さえながらぶんぶんと手を振って否定した。
「いやいやいや! 俺も外の人間なんスよ! なんかの事故で急にこの街に飛ばされてきただけで……」
「……なるほど、君も外から来たんだね」
「そうなんスよ! いきなり変なとこに飛ばされて、銃で撃たれるわ、女子高生にシバかれるわ、散々な目に――」
男同士、外の世界の出身者同士という妙な連帯感から、横島が愚痴のエンジンをかけ始めたその時だった。
ドォォォンッ!!
「――おい! いたぞ!」
「囲めぇっ!!」
立ち込める煙の向こうから、先ほど散り散りになったはずの暴徒たちが、増援を引き連れて再び怒涛の勢いで押し寄せてきた。
「もうっ! しつこい人たちね……!」
ユウカがサブマシンガンを構え直し、ハスミとスズミが散開して即座に迎撃態勢をとる。チナツも後方支援のポジションへ滑り込んだ。
先生もすぐさま指揮を執るべく視線を走らせる。
そして、横島へと視線を向けて、ハッとしたように口を開いた。
「それで、えっと……」
そういえば、まだ名前すら聞いていなかった。
「あ、俺っすか? 横島忠夫っす」
「うん、タダオだね。よろしく。……早速で本当に申し訳ないんだけど、この状況だ。みんなに力を貸してもらえないかな?」
自分と同じく外の世界から来た少年。
だが、このキヴォトスで十分にやって行けて、ハスミやチナツとも面識があるようだった。
頼れる仲間になってくれるかもしれない――そんな期待を込め、先生は真摯に申し出た。
横島は周囲で飛び交う弾丸をチラ見し、ポリポリと頬を掻きながらあっさりと頷く。
「まあ、こんな状態だし、いいっすよ」
「ありがとう! 助かるよ。それじゃあ君には――」
先生が即座に戦術配置の指示を出そうとした、その瞬間だった。
横島はビシッと力強く親指を立て、満面の爽やかな笑顔で言い放った。
「任せてください! キッチリみんなを応援します! なるべく安全なところからコッソリと!!」
先生はガクッと盛大に膝から崩れ落ち、絵に描いたようにズッコケた。
「ええっ!? い、一緒に戦ってくれないの!?」
「何言ってんすかアンタ!?」
先生の問いかけに対し、横島は心底心外だと言わんばかりに両手を広げ、目を剥いて猛然と抗議した。
「あんなドンパチやってる前線に放り出されたら、死んでしまうやないかい!! 俺らみたいに外から来た貧相なモヤシっ子は、後ろで大人しく応援してるのが一番なんスよ!」
さも「自分は先生と同じく、銃弾一発でくたばる無力でか弱い一般人ですよ」と言わんばかりの態度で、横島はササッとユウカたちが盾にしている土嚢の、さらにその一番奥まった安全地帯へと這いずり込んでいくのだった。
激しい銃火が飛び交う戦場のド真ん中で、「死んでまうやないかい!」「応援だけ!?」とギャーギャー喚き合う男二人の不毛すぎるやり取り。
その緊張感ゼロの騒がしさに、前線でトリガーを引き続けていた少女たちの堪忍袋の緒が真っ先に切れた。
「ちょっと! 気が散るのでそういうのは後にしてくれませんかぁっ!?」
乱射されるサブマシンガンの合間から、ユウカの怒鳴り声が飛んでくる。
さらに、ライフルを構え直したハスミが、冷徹な視線を横島に突き刺しながら鋭くツッコミを入れた。
「そもそも、あなたにはヘイローがあるでしょう! それは飾りか何かなんですか!」
「えっ? これ? いやこれは色々ワケありの呪いの輪っかで――」
「横島さん」
言い訳をまくし立てようとする横島の言葉を、冷静沈着なチナツの声がピシャリと遮った。
「あなたを前線に出すと別の意味で被害が拡大します。大人しく先生の護衛についていてください」
「あ、あの……えっと……皆さん、あの人は一体……?」
状況がまったく飲み込めないスズミだけが、閃光弾を握りしめたまま視線を右往左往させ、ひたすら困惑の極みに達していた。
「へーい、了解っス〜」
横島は返事をすると、先生の斜め前へとスッと滑り込んだ。
その瞬間――まるでスイッチが切り替わったかのように、動きが異様な精密さを帯びる。
キンッ! ギャリッ!
「うおっと!」
飛来する流れ弾の弾道に、手のひらから生み出したサイキックソーサーを即座に滑り込ませ、ことごとく軌道を逸らして弾き飛ばす。
さらに至近距離を掠めようとしたライフル弾には、手元に実体化させた霊波刀を一閃。居合斬りのような神速の太刀筋で、弾丸を空中で真っ二つに両断してみせた。
「先生、伏せて!」
不良が放ったロケット弾と投擲手榴弾が、先生の頭上めがけて放物線を描いて迫るのを見たユウカが叫ぶ。
それを横島は片手を突き出し、霊波砲を放った。
空中で迎撃された弾頭は、信じられないことに爆風と破片のすべてを霊力の衝撃波で前方へと押し流され、先生たちの元には微風ひとつ届かない。
人外染みた技を連発する横島は、ふと思い出したようにポケットへ手を突っ込むと、小さな物体を取り出した。
「あ、先生。これ持っといてください」
ヒュン、と無造作に投げ渡されたのは、深緑色に輝くビー玉のような珠。かつてゲヘナの自治区で、陸八魔アルにお守りとして手渡したものと同じ珠だった。
「ただの不良どもだし、まず大丈夫だとは思うんスけどね。万が一食らったら、ヘイローのない先生はマジでシャレにならんでしょ? 持ってりゃ勝手に守ってくれますから」
「えっ……あ、ありがとう……?」
手渡された珠の仄かな温もりに驚きつつも、先生はすぐに指揮へ意識を戻した。
ユウカ、ハスミ、チナツ、スズミの四人が前線で敵を圧倒し、先生が戦況を瞬時に見極めて的確な指示を飛ばす。そして、先生の死角から飛来する銃弾や榴弾のすべてを、横島が冗談のような手練で完璧に撃ち落とし、無力化していく。
奇妙極まりない陣形であったが、その防御力と制圧力は鉄壁だった。
連帯を乱された暴徒たちは次々と武装解除され、激しい抵抗を見せていた防衛線は瞬く間に瓦解。各所で巻き起こっていた暴動を鮮やかに鎮圧しながら進軍を続け――ついに一行は、占拠されていた連邦捜査部シャーレのオフィスビルの奪還に成功したのだった。
* * *
シャーレの奪還後、事態は怒涛の勢いで収拾へと向かった。
連邦生徒会の首席行政官・七神リンが駆けつけ、地下では先生と【災厄の狐】狐坂ワカモとの運命的な邂逅が発生。その後、先生はリンから託された『シッテムの箱』を起動させ、キヴォトスの心臓部であるサンクトゥムタワーの制御権を無事に連邦生徒会へと移譲させたのだった。
最悪の危機を脱し、ひとまず平穏を取り戻したシャーレのオフィス。
だが、書類の束を抱えたリンが、メガネのブリッジを指先で押し上げながら、ため息交じりに一つの懸案事項を切り出した。
「――それで、先生。そちらにいる……横島忠夫の処遇についてです」
パイプ椅子に座り、コーヒーを啜っていた横島が「んぁ?」と顔を上げる。
「彼は元々、矯正局に収監されていた身です。ですから規則に則れば、即座に再収監となるのが本来の筋なのですが……」
リンは眉間を揉み、心底頭が痛そうに言葉を濁した。
「先ほどのワカモらによる大規模な脱走によって、矯正局の防衛・収容システムも甚大な被害を受けました。警備態勢すら満足に整っていないあそこへ、規格外の逃走力を持つ彼を再び放り込むなど……実質的に『どうぞ脱走してください』と言っているようなものです。正直なところ、連邦生徒会としても処遇に頭を悩ませていまして……」
「おいおいおい! 人聞きの悪いこと言わんでくださいよ、リンさん!」
横島はコーヒーカップを机に置き、慌てて両手をぶんぶんと振った。
「あとちょっとで終わるような超ションベン刑だったんだぞ!? そんなんで脱獄囚なんて大罪人になって指名手配なんぞされてたまるか! 俺はキレイな身になって、胸張って娑婆の女の子たちと戯れたいんじゃ! 逃げる気なんてこれっぽっちもねえよ!」
「……だそうですが」
リンは完全に冷めた目で横島を一瞥し、先生へと視線を戻す。
すると、顎に手を当てて考え込んでいた先生が、穏やかに口を開いた。
「それなら、タダオの身柄はシャーレで引き受けるよ。ここなら私の目の届く範囲だし」
「えっ、先生!?」
ユウカが驚きの声を上げる中、横島の目がカッと輝いた。
口では「逃げる気はない」と大見得を切っていたものの、ブタ箱にわざわざ戻りたかったわけではない。
「せ、先生ぇぇぇーーっ!!」
横島は先生の足元へと猛スライディングを決め、ズボンにしがみつきながら全力で駄々をこね始めた。
「ボク先生んちの子になるー!! 先生の言うことなら何でも聞くから! もうブタ箱で臭い飯食う生活は嫌なんじゃあーーーっ!!」
「……はぁ。もう勝手にしてください。これ以上、この男の件でリソースを割きたくありません。……身元引受人としての書類は後ほど送付しますので、先生、責任を持って管理してくださいね」
リンは半ば匙を投げたようにため息をつき、横島の身柄をシャーレ預かりとすることを認めたのだった。
* * *
オフィスに落ち着いた空気が戻った頃。
先生は、床から起き上がってホクホク顔の横島へ、苦笑いを浮かべながら歩み寄った。
「それじゃあ、これからよろしくね、タダオ。……ところで、気になってたんだけど……君はそもそも、なんで矯正局なんかに収監されていたの?」
あんな人外染みた力を持ち、逃走術に長けた男が、なぜ警察沙汰になってブタ箱に放り込まれていたのか。
先生の純粋な疑問に対し、横島は「フッ……」とどこか憂いを帯びた表情を作り、深く頷いてみせた。
「先生……アンタなら、俺と同じ『男』であるアンタなら、きっとこの血の涙を流すような無念を分かってくれるはずだ……」
横島は先生の肩にガシッと両手を置き、熱に浮かされたような目で語り出した。
「あれは少し前のことっス……。ブラックマーケットの路地裏で、怪しげな露店が『至高のお宝映像! 極上の裏ビデオ!』って銘打って、【AV】を売ってたんスよ!」
「……う、うん?」
不穏すぎる単語の登場に、先生の眉がピクリと跳ねる。背後にいたユウカやハスミ、チナツの空気がスッと氷点下まで下がった。
「俺はなけなしの金を叩いて、胸を高鳴らせながら再生デッキにテープを突っ込んだわけッスよ! そしたら……そしたら画面に映ったのはな……ッ!!」
横島はギリッと奥歯を噛み締め、怒りのあまり目から血涙を流さんばかりに絶叫した。
「【AV(アニマルビデオ)】だったんスよおおおおおっ!! 二足歩行の犬や猫の獣人のおっさんどもが、広場で延々と日向ぼっこして茶ぁしばいてるだけのドキュメンタリー映像が二時間ぶっ通しで流れてきたんじゃあああっ!! 誰があんなモフモフしたおっさんのプライベート見たいんじゃボケエエエエッ!!」
「え、あ、うん……」
「俺はあまりの理不尽と怒りに我を忘れて、『看板に偽りありじゃあ! 金返せオラァッ!!』ってブチ切れて裏ビデオ屋にカチコミかけたんスよ! そしたら運悪く、その店がちょうど摘発食らってる真っ最中で……! 俺も芋づる式に御用となって、そのままブタ箱行きになったってワケなんスよ……!!」
一気にまくし立てた横島は、必死の形相で先生の顔面へとギリギリまで鼻先を近づけた。
「ねえ先生!? 分かりますよね!? 男なら、全財産叩いて買ったお宝ビデオが犬の散歩ビデオだった時の、この世の終わりみたいな絶望と怒りが!! 俺は悪くねえ! 悪いのはあのクソビデオ屋なんスよおおおっ!!」
「…………」
オフィスを包む、絶対零度の静寂。
先生が振り返ると、リン、ユウカ、ハスミ、チナツ、スズミの全員が、北極海の氷山すら凍りつくような冷え切ったジト目を、横島――そして、なぜか横島に詰め寄られている先生へと、一斉に向けていた。
(へぇ……。男なら、分かっちゃうんだ……?)
(先生も、そういうの理解できちゃう側の人なんですか……?)
無言の視線が、無言のまま雄弁に語りかけてくる。
いくら何よりも生徒のことを第一に考え、迷える若者を導く立派な大人の先生といえども――。
(……こいつ、やっぱり娑婆に出しちゃいけないんじゃ……?)
と、ほんの一瞬だが、心の底から本気で思ってしまったのだった。