ゴォォォォォ……ッ!
吹き荒れる強烈な砂嵐が、視界のすべてを黄褐色の闇へと塗り潰していた。
一歩先すら満足に見えない灼熱の砂漠を、シャーレの先生と横島、二人の人影が足をもつれさせながらさまよい歩いている。
僅かに携帯していた水も食料も、とっくの昔に底を尽きて久しい。
自分たちが歩んできた足跡は、吹き付ける砂礫によって瞬く間に掻き消され、東西南北の感覚はとうに失われていた。
そう――二人は、完全なる遭難状態に陥っていたのである。
「せ、先生ぇ……! あの砂山には見覚えがあります……!」
ガタガタと震える指先で、横島が砂嵐の向こうを指差して叫ぶ。
だが、その先にあるのは、数分前に通り過ぎたのと同じ、どこにでもあるただの砂の起伏に過ぎなかった。
バタッ。
とうとう限界を迎えた二人は、もつれ合うように灼熱の砂の上へと倒れ込んだ。
喉はカラカラに干からび、息を吸うたびに肺が焼けるように熱い。重たい瞼を押し上げ、先生は隣に倒れ伏す横島へと視線を向けた。
だが、横島の様子は明らかに異常だった。
極限状態の渇きと熱射病のせいで完全に脳のタガが外れたのか、虚空を睨みつけながら、泡を吹いて意味不明な妄言を繰り返している。
「へっ……へへへ! ねーちゃん、ボインボインのねーちゃんやあぁぁぁ! どうせ死ぬなら……どうせここで干からびるくらいなら、その前に一発!!」
さも目の前に誰かがいるかのように叫ぶと、横島は何もない砂山めがけて全力でダイブし、砂を相手に狂乱の勢いで抱きつくという凄まじい奇行に及んでいた。
(……ああ、完全に錯乱してる……)
朦朧とする意識の中、先生はぼんやりと横島を見つめる。
だが、次の瞬間――先生自身の耳にも、奇妙な『幻聴』が直接頭の中に響き渡ってきた。
『ひぃん……死んでも生きられるよぉ……。ちょっと死ぬほど苦しいけどぉ……』
泣きそうな、どこか気弱で愛らしい少女の声。
さらに先生の濁った瞳には、あり得ない『幻覚』まで映り始めた。
何もないはずの砂煙の中に、ふわりと浮かぶ緑色の長髪、そして豊満なプロポーションを誇る、儚げな美少女の姿。
そして横島は、その緑髪の少女めがけて飛びついていた。
(……いよいよ私も、臨死体験の領域に入ってきたのかな……)
薄れゆく意識の淵で、先生は走馬灯のように、なぜこんなことになったのかを回想し始めていた。
* * *
発端は数日前。
横島の身柄をシャーレで正式に引き受け、オフィスでの奇妙な同居生活が始まって間もない頃だった。
連邦捜査部シャーレに、とある自治区からの緊急支援要請が届いたのだ。
差出人は――『アビドス高等学校・対策委員会』。
依頼を一瞥した横島は、「アイツらか!」と声を上げた。
『アビドスなら俺、よーく知ってますよ! あそこの生徒たちとも顔馴染みっす!』
先生としても、窮地にある生徒たちからの要請は元より受諾するつもりだったが、シャーレで引き取ったばかりの横島の知り合いであり友達だというのなら、なおのこと放ってはおけない。
『アビドスに行ったことがあるタダオが案内してくれるなら、心強いね』
『へっへー! 任せてくださいよ先生! あそこは俺の庭みたいなもんですから、安心してついてきてくだせえ!』
そんな横島の調子のいい安請け合いをすっかり信じ切ってしまった先生は、大した砂漠用サバイバル装備も持たず、極めて楽観的なピクニック気分で出発してしまったのだ。
だが――横島が通い慣れていたのは、あくまでブラックマーケットからアビドスへ向かうルートだった。
シャーレオフィスのあるD.U.からアビドスへのルートなど、横島が一度たりとも通ったことがあるはずもない。
無駄にだだっ広いアビドス自治区の全域を横島が熟知しているはずなどなく――二人は砂漠に入った瞬間、あっという間に方向を見失い、猛烈な砂嵐に巻き込まれて遭難してしまったのである。
(……やっぱり、タダオの言葉を鵜呑みにするべきじゃなかったかな……?)
砂の上でピクリとも動けないまま、先生は内心で力なく独りごちた。
横を見ると、さっきまで砂に飛び込んで暴れていた横島は、とうとう完全に力尽きたらしく、白目を剥いて口から砂をこぼしたまま、ピクリとも動かなくなっていた。
風の音だけが、耳元でビュービューと虚しく鳴り響いている。
灼熱の熱気と激しい渇きが、先生の残された体力を急速に奪い去っていく。
(天は……私たちを見放した……)
とある映画の悲劇的なワンシーンのような台詞が脳裏をかすめ、先生の視界はぷつりと真っ暗な闇へと落ちていった。
* * *
コト、コト……と、規則正しく伝わってくる微かな振動に、先生はおぼろげに意識を取り戻した。
まぶたを重そうに持ち上げ、半覚醒のまま周囲を見渡す。
見渡す限りの砂漠の中、誰かの温もりに支えられながら、自転車に二人乗りするような形でゆっくりと進んでいた。
「う……うぅ……」
喉の奥から絞り出すようなうめき声を上げると、自転車を漕ぐペダルがピタリと止まった。
「……ん。気がついた?」
自転車の主――青みがかった銀髪に狼のような獣耳を生やした少女、砂狼シロコが、手際よく先生をゆっくりと降ろし、砂の上に座らせてくれた。
「み……みず……」
かすれて音にならない声を振り絞ると、シロコはボトルを取り出し、先生の前へと差し出した。
「ん、これ飲んで」
「っ……!!」
先生は砂漠でオアシスを見つけた旅人のようにそのボトルへ飛びついた。
「あ、それ……私の飲みかけ……」というシロコの言葉すら耳に入らず、一心不乱に喉を鳴らして水分を胃袋へ流し込み、一気に飲み干す。
「ぷはっ……! た、助かった……ありがとう……」
ようやく人心地がつき、荒い呼吸を整えながら礼を言った――その直後、先生の脳裏に電流が走った。
「――っ!? そ、そうだ、タダオは!?」
先生は必死の形相でシロコの肩にすがりつき、まくし立てた。
「君、お願いだ! あそこにもう一人、男の子が倒れていたはずなんだ! 赤いバンダナを巻いた……! すぐに助けに戻らないと、あの砂漠じゃ本当に命が危ない!!」
取り乱す先生に対し、シロコはオッドアイを瞬かせ、極めて落ち着いたトーンで答えた。
「大丈夫。横島なら、もう回収してる」
「え……?」
横島の名が自然と出てきたことに、先生は一瞬虚を突かれた。
(この子、タダオの知り合い……? ということは、彼女がアビドスの生徒……?)
だが、安堵しかけたのも束の間、先生は周囲を見回して眉をひそめた。自転車の周りにも横島の姿など影も形も見当たらないのだ。
「回収したって……どこに……?」
「ん」
シロコは短く頷くと、事も無げに自転車の後方へと人差し指を向けた。
先生がその指先を辿って目を凝らすと――自転車の荷台フレームから、頑丈な一本のロープが後方へ向かってピンと伸びていた。
そして、そのロープの先、数メートル後方の地面には。
両足首をガチガチにロープで括り付けられ、引きずられながら運ばれてきたとおぼしき横島忠夫が、無残に転がっていた。
「タ、タダオォォォーーーーッ!?」
あまりにもな光景に、先生は喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げた。
砂の上に綺麗な一本の轍を描きながら運ばれてきたであろうその姿は、完全に西部劇で馬に引きずられる賞金首のそれだった。
「ちょ、ちょっと君!?」
血相を変える先生に、シロコは小首を傾げ、淡々と至極もっともらしい理屈を並べた。
「流石に、意識のない人間二人を自転車に乗せて三人乗りするのは無理。……それに横島は、殺しても死なないから大丈夫」
「ええぇ……?」
「殺しても死なない」というパワーワードの破壊力に、先生は引きつった声を漏らすことしかできない。
シロコは倒れる横島を一瞥することもなく、先生の顔をじっと見つめて尋ねてきた。
「……ところで、あなた。もしかして、シャーレの人?」
「あ、ああ……そうだよ。私が連邦捜査部シャーレの先生だよ」
「ん、やっぱり」
シロコの耳が嬉しそうにピクリと跳ねた。
「みんな待ってる。早く行こう」
言うが早いか、シロコは華奢な見た目からは想像もつかない腕力で先生をひょいとおんぶすると、再び自転車に乗り込んだ。
「え、あ、ちょっと――」
「しっかり掴まってて」
カチリ、とペダルを踏み込んだ瞬間、自転車は猛烈な勢いで砂煙を上げて急発進した。
先ほどまでは、意識を失っていた先生の身体を気遣って慎重に徐行運転をしていたのだろう。だが、先生の意識が戻った今、シロコはロードバイク並みの超人的な脚力で猛スピードの巡航へとシフトしていた。
そして――当然ながら。
ガッ! ゴゴゴゴゴゴッ!!
「ぎえぇぇぇっ!?」
自転車の速度が跳ね上がったことで、後方の横島は完全に市中引きずり回しの刑状態へと突入した。
猛烈なスピードで砂漠を滑走し、途中に転がる岩や硬いデコボコにガンガンと頭や背中をぶつけるたび、横島から悲痛なうめき声が漏れ聞こえてくる。
「ひっ……!」
思わず後ろを振り返り、悲鳴を上げそうになる先生。
だが――。
『大丈夫、あそこは俺の庭ですから! 任せてください!』
『どうせ死ぬなら死ぬ前に一発ー!』
遭難のすべての元凶となった、あの調子のいい大嘘と、砂漠での見るに堪えない数々の奇行が、先生の脳裏を走馬灯のように駆け巡った。
(……まあ、『殺しても死なない』って言ってたし……)
先生はスッと視線を正面へと戻し、ギュッとシロコに掴まり直した。
「……うん。まあ、いいか」
横島の悲痛な叫びを砂嵐の彼方へと置き去りにしながら、自転車は一直線にアビドス校舎を目指して砂漠を爆走していった。
* * *
猛烈な砂煙を上げながら、シロコの自転車はアビドス高等学校へと滑り込んだ。
自転車が停車すると同時に、ロープの張力が緩み、横島がズザザザと砂利の上に放り出される。
「あー……死ぬかと思った……」
全身の服をボロボロにし、砂まみれになった横島は、のそのそと起き上がって関節をポキポキと鳴らしながらぼやいた。擦り傷や打撲こそ無数にあるものの、あんな引き回しの刑に処された直後とは思えないほどピンピンしている。
シロコは自転車のスタンドを立てると、ペットボトルの水を無造作に差し出した。
「ん、久しぶり」
「おう、サンキュー」
横島もごく自然に受け取り、キャップをひねって喉を潤す。
命を救うためとはいえ、時速数十キロで人間を引きずり回した側と、全身で道路の凹凸を受け止めた側とは思えないほど、乾ききったあっさりとしたやり取りだった。傍らで見ていた先生は、二人の異常な信頼関係(?)に目を丸くするしかない。
その後、校舎に入ってホシノ、ノノミ、セリカ、アヤネの四人と合流。
先生は連邦捜査部シャーレの先生として自己紹介を交わし、横島も「よっ、元気にしてたかお前ら」と久しぶりの再会を喜び合っていた。
――だが、感動の再会ムードに浸る暇など、この砂漠の学校には残されていなかった。
「ヒャッハーッ!」
けたたましい騒音とともに、重火器で武装した不良集団――カタカタヘルメット団が、校門前へ怒涛の勢いで雪崩れ込んできたのだ。
「もうっ! こんな時にまで……!」
「皆さん、配置に付いてください! 先生、指示をお願いします!」
アビドスの生徒たちが即座に散開し、先生もタブレットを構えて戦闘指揮へと入る。
前線で巨大な盾を構え、突進してきた暴徒をまとめて吹き飛ばしたホシノは、心底うんざりしたようにため息をこぼした。
「うへ〜……。最近は一銭にもならない不毛な襲撃ばっかりでやんなっちゃうよ〜……」
かつて横島が仕掛けた「襲撃させて示談金をせしめるマッチポンプ」が機能していた頃の潤いが懐かしいと言わんばかりのぼやきである。
一方、校舎の壁際でスマホを耳に当てていた横島は、飛び交う銃弾を首だけでヒョイと避けながら、ホシノたちに向かって声を張り上げた。
「おーい! もうすぐウチの若い衆が到着するから、もうちょいだけ耐えろよー!」
「若い衆……?」
先生が怪訝そうに眉をひそめた、まさにその時だった。
ブロロロロロッ! ズドドドドドッ!!
重低音を響かせて突如として現れた、数台の装甲車とピックアップトラックの車列。
車両のルーフや荷台に陣取っているのは、カタカタヘルメット団と同じヘルメットを被った不良少女たち。
――だが、その身なりには決定的な特徴があった。
全員が首元に真っ赤なスカーフを巻いていたり、腕に赤い布を腕章代わりに結びつけていたり、あるいはヘルメットの正面に横島そっくりの「赤いバンダナ」を模したペイントを施していたのだ。
その一団を目にした瞬間、襲撃を仕掛けていたカタカタヘルメット団の顔色が一変した。
「げ、げぇぇぇっ!? バンダナヘルメット団の連中だぁぁぁっ!!」
「なんでアイツらがもう嗅ぎつけてきてんだよ!?」
悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように後退を始めるカタカタヘルメット団。
だが、トラックの荷台から身を乗り出したバンダナヘルメット団の少女たちは、銃口を乱射しながら、肺腑の底からドスの利いた怒号を砂漠に轟かせた。
「おいコラァッ! どこの組のもんじゃワレェェェッ!!」
「人んチのシマに勝手に手ぇ出しといて、タダで済むと思っとんのかワレコラァッ!!」
「ケツの穴から手ぇ突っ込んで、奥歯ガタガタ言わしたるぞワレェェェーーーーッッ!!」
あまりにも血気盛んで下品極まりない極道じみた恫喝とともに、最新兵器の掃射を浴びせかけ、瞬く間にカタカタヘルメット団を追い散らしていく少女たち。
その凄まじい光景を目の当たりにした先生は、額から冷や汗を滝のように流し、引きつった顔でポツリと漏らした。
「……不良が逃げ出したと思ったら、ヤクザが乗り込んできた……」
* * *
カタカタヘルメット団が砂煙の向こうへと逃げ散ると、横島はポケットに手を突っ込み、悠然とバンダナヘルメット団の前に姿を現した。
その姿を認めた瞬間、少女たちは乱れていた隊列を一瞬で美しく揃え、ピシッと直立不動の姿勢を取った。そして、全員で肺腑の底から声を張り上げる。
「「「兄貴ッ! お勤めご苦労さまでしたッッ!!」」」
砂漠に木霊する、あまりにも任侠映画そのものな直角のお辞儀。
「おう。お前らも達者にしてたみたいだな」
横島は片手を軽く上げ、さも刑務所上がりの兄貴分といった堂々たる貫禄でそれに応じる。
その異様な光景を少し離れた場所から眺めていた先生は、引きつった笑いを浮かべ、額からツツッと冷や汗を流しながらアビドスの面々に尋ねた。
「……あ、あの……それで、あちらは一体どこの『何力団』の方々で……?」
「ん。横島が世話になってるヘルメット団」
シロコが何でもないことのように淡々と答える。
「今来てくれたのは、最近アビドスで寝泊まりしてる連中」
「そうなんです〜☆」
ノノミが胸の前で手を合わせて、ふんわりとした笑顔で言葉を継いだ。
「アビドス自治区には、人がいなくなって放置された建物がたくさんありますから。その中でも損傷が少ない綺麗な物件をお貸しする代わりに、砂の撤去や街の維持管理、それにこういった自警活動を手伝ってもらっているんですよ〜」
「うへ〜、今のアビドスは猫の手も借りたいくらいだしね〜。人手はいくらあっても困らないから助かってるよ」
ホシノがのんびりと笑う。
「へ、へえ……随分と仲がいいんだね……」
さっきまで怒声を上げていた武装集団が、まさか限界集落の貴重な労働力兼ボランティア部隊として共存しているとは思わず、先生は感心半分、困惑半分といった様子で呟いた。
すると、腕を組んでいたセリカが、ツンと顔を背けながらも歯切れ悪く肯定する。
「まあ……ね。あいつらも根は悪いやつらじゃないっていうか……。少し前までは一緒に一儲けして、借金返済に勤しんでたし」
「……借金?」
引っかかる単語を耳にして、先生は思わず眉をひそめて聞き返した。
「あ、はい……」
アヤネが眼鏡の位置を直しながら、先生に向かってアビドスが抱える過酷な現状について手短に説明を始めた。
かつて広大だった自治区の砂漠化、散り散りになった生徒たち、そしてアビドス高等学校に重くのしかかる莫大な額の借金。
「……というわけで、私たちは利息を返すだけでも手一杯だったんです。でも、横島さんたちと協力して『とある企業案件』をこなすようになってからは、まとまった資金が得られるようになって、元金の返済にも着手できるようになっていたんですよ」
真面目で優等生なアヤネの口から「企業案件」という言葉が出たことで、先生は少し安心しかけた。
だが――。
(……待てよ? あのタダオが絡んでいて、そんな真っ当なビジネスなわけが……)
喉元にチリリと走る不穏な予感。先生はおずおずと尋ねた。
「……ちなみに、その……どんな案件だったのかな?」
「え? あ、はい」
アヤネはごく当たり前の日常業務を報告するかのような、屈託のない爽やかなトーンで説明を始めた。
「まず、カイザーから『アビドスを襲撃して追い詰めろ』という依頼と多額の前金が、私たちが返済した利子を元手として出されるので、それを横島さんが請け負います。そしてその資金で最新装備を整えて、実際に私たちを襲撃しに来てくれます」
「……うん?」
「そして派手に戦闘を行った後、横島さんたちには予定通り私たちにボコボコにされて負けていただきます。負けた横島さんたちは『襲撃の迷惑料・慰謝料』という名目で、受け取った報酬の一部をアビドスへ支払ってくださいます。それを私たちが受け取って、借金の返済に充てるんです」
「…………」
「カイザーの依頼には明確なノルマや期限がありませんでしたので、この『カイザーのお金で襲撃→返り討ちにして示談金回収』のサイクルを定期的に繰り返すことで、私たちはカイザーの資金からノーリスクで継続的な収入を得る……という仕組みですね!」
ぺこりと頭を下げ、完璧なプレゼンを終えたアヤネ。
だが――その説明を聞き終えた先生の顔からは、完全に血の気が引いていた。
(……ど、ドス黒い……ッ!!)
相手の理不尽な攻撃を逆手に取っているとはいえ、やっていることは完全なる八百長、マネーロンダリング、そして無限搾取の共謀である。
合法と違法の隙間を行き来する、真っ黒どころか深淵の闇のようにドス黒い所業に、先生は声も出ないほどドン引きしていた。
「……あ、あれ?」
先生の青ざめた表情と、底冷えするような沈黙を目の当たりにして、アヤネはハッと我に返った。
いつも横島たちのペースや「借金返済」という切実すぎる大義名分に流されて感覚が麻痺していたが――今、冷静になって目の前にいる『連邦捜査部の立派な大人の先生』に説明してみて、ようやく気づいてしまったのだ。
(こ、これ……普通に聞いたら、大っぴらには絶対に言えない、めちゃくちゃ後ろ暗い犯罪スレスレの悪事なんじゃ……!?)
「あ、あの! ち、違うんです先生! これはその、決して私たちが悪いことをしようとしたわけではなくてですね!?」
アヤネは顔を真っ赤にして両手を激しく横に振り、涙目で必死に弁解を取り繕おうとする。
「あ、相手が先に汚い手を使ってきたから正当防衛というか! 不可抗力というか! 背に腹は代えられないというか……あぅぅ、なんと言いますか……そのぉ……っ!!」
普段の真面目な学級委員長キャラが跡形もなく崩壊し、あわあわとテンパり散らかすアヤネの姿を、先生はただただ引きつった乾いた笑いで見守るしかなかった。
アヤネが必死になって「ち、違います先生、これはやむを得ない経済防衛策でして……!」と冷や汗を流しながら弁解している、そのすぐ隣で。
横島は腕を組み、怪訝そうな顔でホシノへと振り返っていた。
「おい、ホシノ」
「んぁ〜? どうしたの横島くん、そんな不機嫌そうな顔してさ」
「さっきアヤネちゃんの説明じゃ、『元金の返済に着手している』って言ってたよな?」
横島はジト目でホシノを睨みつける。
「でもよ、この前帳簿をチラッと検分した時、アビドスの借金残高、相変わらず約9億円から全然減ってなかったぞ? 相変わらず利子しか払ってねえじゃねえか。まさかお前ら、俺らが命がけで稼いだシノギを裏で使い込んでるんじゃないだろうな!?」
横島のストレートすぎる疑念の眼差しに、ホシノはまったく悪びれる様子もなく、ふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべた。
「え〜? 使い込むわけないじゃん。ちゃんと足がつかないように裏の口座にプールしてあるっての〜」
「なら何でだよ! 元金が減ってねえなら、俺たちがカイザーから巻き上げてお前らに上納してる意味が半分くらい消えちまうだろ!」
「――バカだねぇ、横島くんは」
ホシノはひらひらと手を振りながら、どこまでも冷徹で恐ろしい真理をサラリと言い放った。
「返したら、元金が減っちゃうんだよ?」
「……は?」
「元金が減ればさ、当然その分だけウチが毎月払う利子も減るでしょ? ってことはだ、巡り巡って、カイザーから引き出せるウチとキミたちの取り分まで減っちゃうわけ。そんなの商売として大損じゃない!」
「商売って……お前なぁ!」
横島が思わずツッコミを入れるが、ホシノはさらにヘラヘラと続ける。
「このまま上手いこと行って借金総額と同じ金額が貯まれば、耳揃えて返済して、はいおしまい! 途中で計画がポシャったりしても、次の手を打つためのまとまった額の種銭が手元に残る。リスクヘッジってやつだよ〜」
「…………」
それを聞いた横島は、ぐうの音も出ないほどの衝撃を受け、固まった。
(……やべぇ。コイツいつの間にこんな悪知恵が働くようになったんだ……!?)
どれほど悪辣な悪事も、それを我が物顔で上回る外道が目の前に現れた時、人は言葉を失う。
自分がホシノをドス黒く染め上げた諸悪の根源であるという事実を、都合よく脳の片隅へキレイさっぱり放り投げ、横島は心底ドン引きした目でホシノを見つめた。
「……おい。何か、俺がドン引きするくらいめちゃくちゃドス黒くなってねえか……?」
「うへ〜、ひどいなぁ。誰かさんのおかげで、おじさんもすっかり染まっちゃったんだよ〜?」
不敵にニヤリと笑うホシノ。
その横で、先生は大量の冷や汗を滝のように流しながら、懸命に現実逃避の境地へと達しようとしていた。
(……聞こえない。私には何も聞こえていない……!)
虚空の一点を凝視し、耳をふさぎたい衝動を必死で抑え込みながら、先生はカタカタと引きつる頬を無理やり動かした。
「そ、そうなんだ……! まぁ、その、……返済の目処というか、ちゃんと計画的に(?)お金が回っているなら、何よりだよ……ハハハ……」
引きつった笑顔で全てを丸く収めようとする先生の姿に、アビドスの一同は「先生、目が泳いでますよ……」と複雑な目を向けるのだった。
* * *
「で、でもさ……」
先生は冷や汗を拭いながら、常識人としての最後の防衛線を張るように恐る恐る口を開いた。
「こんなの、いつまでも向こうが気づかないはずがないよ。いくらアビドスが強いからって、何回も同じ連中が返り討ちに遭って賠償金を取られてるなんて、少し調べれば一発でバレる。こういうやり口は、やっぱり長くは続かないんじゃないかな……?」
もっともすぎる先生の懸念。
だが、ホシノはまったく意に介した様子もなく、パタパタと両手を振ってヘラヘラと笑った。
「大丈夫、大丈夫〜。そりゃあ何もしなけりゃ、向こうだってバカじゃないんだから、とっくに気づくに決まってるよ〜。でもさ、そこはちゃんと手は打ってあるって。……ね、横島くん?」
「へっ、あったりめーよ」
ホシノから話を振られた横島は、したり顔で鼻の下を擦った。
(十中八九、ロクでもない対策なんだろうな……)と強い頭痛を覚えつつも、先生は恐る恐る尋ねる。
「……どんな対策をしたの?」
「どんなって……そりゃあ、手前どもの業界じゃ基本中の基本っスよ」
横島はニヤリと口角を吊り上げ、遠い目をして語り始めた。
* * *
あれは八百長襲撃を三、四回ほど繰り返し、まとまった額がアビドスとヘルメット団に転がり込んできた頃のことだった。
ブラックマーケットの薄暗い貸し会議室。
カイザーコーポレーションの窓口担当であるロボットが、机をバンと叩いて横島に書類を突きつけてきたのだ。
『おい! どういうことだ! アビドス襲撃のたびに毎回返り討ちに遭って、ウチが出した支度金を迷惑料としてアビドス側に差し押さえられてるじゃねえか! 貴様ら、最初からグルになってウチの金を横流ししてるな!?』
真っ赤な顔で激昂し、詰め寄ってくる担当者。
並のチンピラなら青ざめて命乞いをする場面だったが、椅子にふんぞり返っていた横島は、眉毛ひとつ動かさずにニヤリと居直ってみせた。
『――だったら、どうした?』
『なっ……!?』
『おいおい、そんな怖い顔すんなよ。……で? それが分かったところで、アンタはどうする気なんだ? まさか「ヘルメット団に八百長で金を騙し取られてました!」って、泣きっ面で上司に報告でもしに行く気か?』
横島は身を乗り出し、担当者の顔をジッと覗き込んだ。
『そんなことしてさぁ……果たしてオタクの上司は、アンタを助けてくれるのかね?』
『ぐっ……そ、それは……』
『助けてくれるわけねえよな? 寧ろ、何回も八百長に気づかずにホイホイ金を出資し続けてきたアンタが、責任を取らされて真っ先に詰め腹を切らされるのがオチなんじゃねえのか?』
蛇に睨まれた蛙のように硬直する担当者の肩に、横島はポンと親しげに手を置いた。
『何も気づかずにここまで来ちまった時点でよぉ……アンタはもう、俺と一蓮托生なんだよ』
『ひ、ヒィッ……!』
『なーに、悪いようにはしねえって。ウチらが巻き上げた金の中から、アンタにも幾らかキックバックを回してやるからさぁ。……あとで受け渡しの具体的な話でもしようぜ? これからもアンタと俺らで、仲良くオタクの会社のお財布からお小遣いを頂いていこうじゃねぇか……なぁ、相棒?』
極悪スマイルで囁きかける横島に、カイザーの担当者は完全に呑まれ、最後にはカタカタと震えながらコクコクと頷くしかなかったのだった。
* * *
「――ていうやり取りをして、向こうの現場窓口の担当をガッツリ抱き込んだから、当分はバレずに安泰ってわけよ!」
満足げに腕を組み、得意満面な横島。
その横では、ホシノが「さすが横島くん、世渡り上手〜!」とパチパチと気の抜けた拍手を送っている。
それを見つめる先生の顔面は、もはや蒼白を通り越して土気色になっていた。
(……やっぱり、ヤクザじゃないか……ッ!!)
恐喝、抱き込み、利益供与による共犯関係の構築。
映画でしか見たことがないような本格的な裏社会の買収劇を、さも「ちょっとした知恵」のように語る横島に対し、先生はただただ心の底からドン引きするしかなかった。