水星の魔女 ~もう一輪の百合の花~ 作:一般通過クルーゼさん
パンドラが格納庫へ収容されるまで、私は操縦桿へ手を添えていた。
残された推進器だけでは、姿勢を整えるのが精一杯だった。迎えに出てくださった作業艇へ機体を預け、誘導の声に短く答える。船内へ運び込まれる途中、外部映像に映った機体の姿を、私は少し不思議な気持ちで眺めた。
四肢がなかった。
あれだけ動かしていたドラグーンも、もう一基も残っていない。背部の装甲は裂け、左腕にあった防盾も、右手に握っていたライフルも失われていた。
それでも、コックピットは無事だった。
『架台へ固定します。推進器、停止してください』
「承知しました」
機体が止まったことを確かめ、各系統を順に落とした。表示を閉じると、急に自分の呼吸が大きく聞こえる。
拘束を外す手が、少し震えていた。
何度か指を握り直し、ヘルメットを外す。髪が頬へ張りついていた。額を拭おうとして、手袋を外していないことに気づく。
開いたハッチの向こうに、セセリアがいた。
足場からこちらを覗き込み、私と目が合う。何か仰りかけた唇が止まり、それから、ゆっくり息を吐いた。
「……立てる?」
「はい。大丈夫です」
座席から身体を起こし、差し出された手を取った。
足場へ出たところで、膝から力が抜けた。
掴もうとした手すりへ、指が届かない。傾いた身体をセセリアが受け止め、私の腕を自分の肩へ回した。
「ちょっと!」
「申し訳、ありません」
「謝る前に、こっち」
彼女の腕が私を支えた。近くから椅子へ呼ぶ声がして、私は促されるまま腰を下ろす。
父上と主任が近づいてきていた。
大丈夫です、ともう一度申し上げようとしたが、息を整えるだけで精一杯だった。操縦桿を握っていた時には感じなかった重さが、腕にも、脚にも残っている。
セセリアが私の前へ屈んだ。
「もー。怒る気だったのに」
「すみません。こんなに全力を使ったのは、初めてでしたので」
「無茶したってこと?」
「はい……」
彼女は私の顔を見つめ、それから、震えていた手を取った。
「怒ること一つ増えたよ」
私は頷いた。
握られた手が温かかった。そこへ目を落としたまま、少しだけ身体を預けると、セセリアは私の隣へ移り、肩を貸してくださった。
診察を受け、大きな怪我はないと告げられた。
打撲と疲労、それに頭痛。少なくとも今は横になるようにと言われた。
休憩室へ移る前に、一度だけパンドラを振り返る。
整備班の皆さんが、架台を囲んでいた。主任は点検用の端末へ目を通し、裂けた装甲の内側を覗き込んでいる。
「申し訳ありません。ここまで壊してしまって」
主任が顔を上げた。
「今は、お休みください。こちらで確認できるところから始めます」
言われて、私は口を閉じた。
父上が傍へ来て、パンドラを見上げた。
「いやぁ、見事に壊れましたねえ」
「すべて、使わせていただきました」
私も機体へ目を向ける。
「勝てませんでしたが。補正を落とした後の挙動については、幾つか――」
「そのお話は、後にしましょう」
父上の手が、私の肩へ置かれた。
顔を向けると、父上は少し困ったように笑っていた。
「記録も、機体も、ここにあります。皆さんもいますから。アイリスは先に休んでください」
「……はい」
頷くと、その手が頭へ移った。
「お帰りなさい、アイリス」
幼い頃から知っている手つきだった。
私は一度目を閉じ、それから父上を見た。
「ただいま、戻りました」
休憩室のベッドへ横になると、思っていた以上に身体が沈んだ。
セセリアが肩まで布団を掛け、隣の椅子へ座る。机へ置かれた私の端末は、彼女の手で伏せられた。
「……怒って、いらっしゃいますよね」
「怒ってるよ」
すぐに返事があった。
「呼んでも出ないし。水星ちゃんを呼ぶの、忘れてるし」
「申し訳ありません」
彼女は私の手を取った。
そのまま黙ってしまったので、私は顔を向ける。セセリアは繋いだ手を見ていた。指を確かめるように、親指で手の甲を撫でている。
「……アンタが乗った機体が、粉々にされていくのを見たあたしの気持ち、分かる?」
私は返事をしようとして、口を閉じた。
「武器がなくなって、脚までなくなって。それでも、まだ帰ってこないんだもん」
握られた手へ、力がこもる。
「通信、開かないし。機体の状態は見えても、アンタがどうなってるのかは分かんないし」
「……はい」
「最後は、もう……」
言葉が途切れた。
彼女は一度唇を結び、顔を上げた。目元が赤くなっていた。
「行かないでって、言ったじゃん」
私は頷いた。
戦っている間、楽しかった。
届かない相手へ手を伸ばし、思いついたことを試し、そのたびに新しい動きを返してもらえた。息が苦しくても、頭が痛んでも、やめたくなかった。
その間、彼女は画面の前にいた。
私が失っていくものを、一つずつ見ていた。
「申し訳ありません」
「謝ってほしくて言ってるんじゃない」
セセリアの声が震えた。
「分かって送り出したつもりだった。笑って、いってらっしゃいって言って、帰ってきたら文句言おうって。それくらい、できると思ってた」
頬を伝ったものを、彼女は空いている手で拭った。
「でも、あんなの……」
私は手を伸ばした。
頬へ触れると、セセリアは目を閉じた。掌へ顔を寄せ、暫く何も言わずにいた。
「……ほんとに、帰ってきてよかった」
その声を聞き、ようやく胸の奥が痛んだ。
帰ってきた。
機体を動かせるかどうかではなく、次に何を試せるかでもなく、今、この手へ触れられている。
私は彼女の頬を、そっと撫でた。
「もう、こんな思いは嫌だからね」
「はい」
「今回だけ。約束して」
あの光へ、また手を伸ばしたいと思ったことを覚えている。
いつかは、やがていつかは、と。
けれど、そのためにもう一度、彼女を心配させるのかと考えた時、私は初めて、その先を思い描けなくなった。
頬へ添えていた手を下ろし、彼女の手を両手で包んだ。
「……はい。お約束します」
セセリアが、長く息を吐いた。
椅子を寄せ、私の髪を払う。その手つきに合わせて目を閉じると、急に眠気が深くなった。
「もう寝て」
「……ですが」
「今は、何も考えなくていい」
私は目を開けた。
彼女がすぐ近くにいた。潤んだ目で、私を見ている。
「起きたら、ちゃんと怒るからね」
頷いたつもりだった。
指へ少し力を込めると、同じように握り返された。その感触を確かめながら、私は眠りに落ちた。
クワイエット・ゼロでは、まだ戦いが続いていた。
スレッタさんが何を成し遂げ、ミオリネさんが何を決めたのか。私が知ったのは、目を覚ましてからだった。
私の中で、あの事件はそこで終わってしまった。
その後の日々は、説明と確認に追われた。
ベネリットグループの解散が発表され、コズミック・シードも、これまでの立場のままではいられなくなった。出資と事業の整理、取引先との協議。新しい資料が届くたび、私は知らないところで支えられていたものの多さを知った。
その合間に、エランさんとお会いした。
お渡しした記録には、学園での戦闘をそのまま収めてあった。ノレアさんへ加えた攻撃も、抵抗できなくなってから向けた砲口も、削ってはいない。
彼は最後まで見終えると、端末を伏せた。
「……律儀だね。わざわざ、こんなのまで」
「お伝えするべきことだと、思いましたので」
「謝りに来たの?」
私は膝の上で手を揃えた。
「それも、ございます。ですが、謝罪を受け取っていただくために、ご覧いただいたわけではありません」
彼は黙っていた。
「私は途中から、ノレアさんを止めるためではなく、傷つけるために攻撃していました。最後に引き金を引かなかったからといって、そのことは変わりません」
エランさんは伏せた端末を見た。
暫くして、それをこちらへ滑らせる。
「ノレアを止めてくれた。そう思っとくよ」
すぐには、何も申し上げられなかった。
彼も返事を待たず、椅子へ背を預けた。袖口から、細く編まれた紐が覗いていた。
「もし、罪悪感があるなら協力してくれ」
「……私に、できることであれば」
「身分のこととか、移動の手続きとか。その辺、詳しい人を紹介してほしい」
「どちらへ?」
彼は手首へ目を落とした。
反対の指でミサンガの編み目へ触れ、ほどけた端を直すように撫でる。
「行くところができた」
その口元が、僅かに緩んだ。
「地球へ降りたいんだ」
私は頷き、担当できる方の連絡先を開いた。
どこへ行くのかは、尋ねなかった。
ミオリネさんへの説明は、スレッタさんの病室で行った。
窓際の椅子へ座っていた彼女が、私を見る。ベッドの背を起こしたスレッタさんも顔を上げ、膝の端末を脇へ寄せた。
「アイリスさん」
「お加減は、いかがですか」
「はい。今日は、少し歩く練習もしました」
まだ療養は必要だった。それでも、起動試験で聞いた呼吸とは違う声が、目の前から返ってくる。私は勧められた椅子へ腰を下ろし、用意した資料を開いた。
何を調べ、誰へ渡したのか。
会社として行ったことと、私個人の判断。その説明に、ミオリネさんは幾度か質問を挟み、答えを資料へ書き込んだ。
全てを話し終えると、病室には空調の音が残った。
「以上です。確認に必要な記録は、こちらへまとめてあります」
ミオリネさんは最後のページを閉じた。
「許す気はない。でも、もう責めもしない」
私は顔を上げた。
「あんたがやったことを、なかったことにはしない」
「承知しております」
「それでいいなら、今後の話をする」
スレッタさんへ顔を向けた。
「ほら。話したいこと、あるんでしょ」
「あ、はい」
スレッタさんが背筋を伸ばした。少し顔をしかめると、ミオリネさんの手がすぐに背中へ添えられる。
落ち着くのを待っていると、彼女は照れたように笑った。
「私、水星に学校を建てたいんです」
「学校を、ですか?」
「はい。まだ分からないことばかりで。場所も、お金も、先生になってくれる人も、これから探さないといけないんですけど」
脇へ置いた端末を取り、画面をこちらへ向ける。調べたことと、調べなければならないことが並んでいた。
「相談に乗ってくれませんか?」
私は差し出された端末へ、両手を添えた。
「……私でよろしければ」
彼女の顔が明るくなった。
「ありがとうございます!」
「ただし、今日はここまで」
ミオリネさんが先に言った。
スレッタさんが振り向くと、彼女はベッド脇の時計を示した。
「あなたは休む時間。続きは、また今度」
「……はい」
私も端末をお返しし、次に伺える日を確かめた。
会社の会議室には、古くから私たちを支えてくださった方々が集まっていた。
父上は隣に座っている。セセリアは私の斜め向かいへ腰を下ろした。
私は皆さんの手元を確かめ、口を開いた。
「本日は、私が十二歳の時に交わした契約について、ご説明いたします」
デリングとの取り決め。その見返りとして会社へ与えられた便宜と、私が引き受けた条件。皆さんへ説明せず、その状態を維持してきたことも話した。
誰も口を挟まなかった。
「当時、必要な判断だったと考えています。今、同じ状況に戻ったとしても、私は同じ提案をすると思います」
私は資料を送る手を止めた。
「ですが、その後もご相談しなかったことまで、当時の事情で済ませるつもりはありません。会社に関わる重大なことを、独断で決めてしまいました。短期で成果を出す無茶な経営計画に巻き込んだこと、皆さんに隠し続けたこと……」
膝の上で、指を揃える。
「この責任を取り、代表代理の職を辞したく存じます」
隣で、父上が息を吐いた。
用意していた引き継ぎの資料を開こうとすると、主任が口を開いた。
「その前に、私たちの話を聞いていただけますか」
「……はい」
「辞めることは、どなたかに相談しましたか」
「まずは、皆さんへお伝えするべきだと考えましたので」
「伝えるのと、相談するのは違いますよ」
私は手を止めた。
向かいで、推進系の女性が資料を置く。
「十二歳の子が、あのボロボロの会社を見て何とかしようとした。その決断を、今ここで責める気にはなれないよ」
彼女は私を見た。
「けれど、その後は相談してほしかった。会社のために何を引き受けたのか、私たちにも考えさせてほしかった」
「……はい」
「研究を続けたかったのは、俺たちだ」
ベテランの男性が続けた。
「ここに残りたいと言った。お前さんが勝手に引き留めたわけじゃない。その分まで全部持って辞めますと言われても、そうかとは言えんよ」
私は皆さんを見た。
会社を守るために、必要なことだと思っていた。皆さんが取り決めを知らずに研究へ打ち込めるなら、その方がよいのだと。
けれど今、責められているのは、その知らされなかった時間だった。
父上が私へ向き直った。
「僕にも、責任があります」
「父上に、そのような――」
「ありますよ。代表ですから」
いつもと変わらない、柔らかな声だった。
「アイリスができてしまうので、任せてしまいました。研究費が入り、設備を更新できて、皆さんと仕事を続けられた。その理由を、分かったつもりになっていたんですね」
父上は資料を閉じた。
「ですから、これからは話してください。決めてからではなく、決める前に」
「……はい」
私は頭を下げた。
顔を上げると、主任が別の資料を開いていた。
「そのうえで、代表代理を辞する件ですが。私たちとしては、正式に代表へ就任していただきたいと考えています」
すぐには、意味が分からなかった。
表示された資料には、今後の体制が記されていた。父上は研究部門を引き受け、私へ集まっていた仕事を、それぞれの担当へ分ける。判断が必要な案件を、どこで協議するかまで並んでいる。
私はセセリアを見た。
彼女は少し眉を上げた。
「辞める準備ばっかりしてたらねぇ」
「貴女が、皆さんに?」
「あたし一人で止めても、まーた責任がどうとか言うでしょ」
否定できなかった。
主任が、私の返事を待っていた。
「今度は私たちにも判断させてください。意見を言い、必要なら止める。そのうえで、一緒に進めたいと思っています」
私は用意してきた資料へ目を落とした。
引き継ぐ順番も、その後に困らないための手続きも、全てまとめてあった。そして許されるならば、ただの一技術者として働くことを考えていた。
もう一度、皆さんを見る。
「代表の職務を……お引き受けいたします」
声が少し震えた。
「今後とも、どうか、お力をお貸しください」
就任の議案が示され、異議なく決議された。
父上が私へ向き直る。
「明日からは、君が代表です」
「明日から、ですか。しかし、株主への説明は――」
「株主たちからの事前了解は取れてるからねぇ」
セセリアが答えた。
「むしろ、辞めさせたらウチの株価下がるから」
私は彼女を見た。
「……私の退任で、そこまで影響が出るとは」
「技術のことも、取引先との付き合いも、今まで誰がやってきたと思ってるの」
彼女は呆れたように息を吐いた。
「そろそろ、自分の影響力を客観的に見られるようになってね」
周囲の皆さんが、揃って頷いた。
隣を見ると、父上まで頷いていた。
「父上も、ですか」
「ええ。僕も、研究を続けられなくなると困りますので」
「そういうところですよ、お父様」
セセリアに言われ、父上は困ったように笑った。
その顔を見ていると、私も少し笑ってしまった。
執務室へ戻ると、机の上には、まだ代表代理の名札があった。
明日には替えると告げられたものを眺めていると、セセリアが資料を置いた。
「そんなに見ても、今日はまだ変わんないよ」
「……すっかり、見抜かれていたのですね」
「何年、隣にいると思ってるの」
彼女の指が、私の作った引き継ぎ資料を揃えた。
その手元を見ながら、上着の内側へ触れる。小さな箱は、朝からそこにあった。
「セセリア」
呼ぶと、彼女が振り向いた。
私の手元へ視線が下り、いつものように何かを仰りかけた口元が止まった。
「本当は、代表代理を辞めた、ただのアイリスとして、申し上げるつもりでした」
箱を開いた。
中の指輪を見て、彼女が一度だけ瞬きをする。
「会社のために必要だからでも、お手伝いをしてくださるからでもなく、貴女と一緒にいたいと。それだけを、お伝えしようと思っていたのです」
私は彼女を見た。
「ですが、また支えていただいてしまいました」
「今更でしょ」
「……ええ」
少し笑うと、彼女の口元も緩んだ。
「ですから、公私ともに、これからも私を支えてくださいますか。私も、貴女が頼りたい時に、そばにいたいのです」
会社のことも、そうでないことも。
私が知らないところで気を揉ませるばかりではなく、彼女が何を考え、何を望んでいるのかを、これからも聞いていたかった。
「私と、結婚してください。セセリア」
彼女は少し目を伏せた。
それから、私の前へ左手を差し出す。
「はいはい。あたしが見ておかないと、ダメだしねぇ」
いつもの声だった。
けれど、顔を上げた彼女の頬は赤かった。
「……よろしくね。アイリス」
「はい」
指輪を通す手が、僅かに震えた。
きちんと収まったのを確かめてからも、その手を離せずにいると、セセリアが笑った。
「そんなに見なくても、なくならないけど」
「分かっております」
「じゃ、こっちも見てよ」
顔を上げると、手を引かれた。
近づいた身体を抱き留め、背中へ腕を回す。彼女も私を抱き返してくださった。
「辞めた後のこと、何も聞いてなかったんだけど」
「貴女のお返事をいただいてから、ご相談しようと」
「順番、おかしくない?」
「……そうかもしれません」
「そうだよ。まずはその癖から直そっか」
肩口で笑う声がした。
私はそこへ頬を寄せた。
明日からの予定を、組み直さなければならない。皆さんと相談する時間も、彼女と過ごす時間も、きちんと入れようと思った。
三年後。
ジェターク本社へ伺うのは、これで何度目になるだろう。
案内された会議室では、エランさんが先に待っていた。私たちを見ると片手を上げ、セセリアが置いた資料へ早速目を通し始める。
「追加分まで揃ってるんだ。助かるよ」
「そちらから言われると思いましたので」
「僕、そんなに注文つける?」
「ご自分では、つけてないおつもりなんですかぁ?」
返事の代わりに、彼が笑った。
程なくして、グエルさんが入ってきた。通話の途中らしく、私たちへ軽く手を上げてから、端末へ向かって話を続ける。
「分かった。ペトラの試験があるなら、そっちを優先しろ。……ああ。こっちは大丈夫だ」
ラウダさんからの連絡だったようだ。
通話を終え、彼は向かいへ腰を下ろした。
「悪い。待たせたな」
「いえ。こちらも今、資料を確認していたところです」
「株式会社ガンダムのテスター、順調みたいだね」
エランさんが言うと、グエルさんの表情が少し和らいだ。
「ああ。まだ試験は続くが」
それから机へ目を落とし、仕事の顔に戻る。
新規事業の計画と、各社の負担。確認すべきことは既に詰めてあったため、話は大きく滞らずに進んだ。
最後の項目で、グエルさんの指が止まった。
「……この利益分配、うちにだけ厳しくないか?」
セセリアが資料を覗き込む。
「会社、立て直したいんですよねぇ。ジェタークCEO?」
「だからって、初期の負担まで考えたら――」
「その点はこちらで、達成条件ごとの見直しを入れております」
私が該当する項目を示すと、彼は暫く数字を追った。
条件を二つほど調整し、ようやく頷く。
「これなら、まぁ……」
「ありがとうございます」
資料を閉じようとしたところで、彼がこちらを見た。
「お前、昔のことを考えて、この配分にしたわけじゃないだろうな」
「ジェターク社には、苦しい時に大変お世話になりましたから。ぜひ恩返しさせてください」
「うーわ。まーだ根に持ってるんだ」
「セセリア?」
隣へ顔を向けると、彼女は楽しそうに笑っていた。
向かいからも、笑いを含んだ声がする。
「ジェタークCEOも大変だねぇ。グループが解散して、御三家が揃って落ち込んで。その間に浮上してきたコズミック・シードに、昔は喧嘩を売ってたんだから」
「俺が売ったんじゃない」
「今、その会社を引き受けてるのは君だろ?」
グエルさんが眉間を押さえた。
私は資料へ手を置いた。
「過去を掘り返すつもりはありませんよ」
「今、掘っただろ」
「今後も、良好なお付き合いをと考えております」
「だったら、恩返しの言い方を変えろ」
セセリアが声を立てて笑った。
彼女が落ち着くのを待っていると、エランさんがそちらを見る。
「でも、君は本当に仕事が早いね。うちに来ない?」
「人妻を口説いてるんですかぁ? エランさん」
「有能な人材は、いつでも欲しいからね」
「おい、エランさん!」
グエルさんが私を見た。
私は笑顔のまま、閉じかけた資料を開き直した。
「エランさん?弊社の社員を、私の目の前で引き抜こうとなさるのですか」
「冗談だよ。本人が望むなら、話は別だけど」
「どうしよっかな〜」
セセリアが、わざとらしく首を傾げた。
私は隣を見た。
「セセリア?」
「はい、代表」
「待遇に、ご不満がおありでしたか」
「比べてみないと、分かんないかなぁ」
彼女は楽しんでいた。
グエルさんが頭を抱え、エランさんが少しずつ笑みを引き攣らせている中で、一人だけ。
私は資料の利益分配へ戻った。
「ジェタークCEO。今なら、ジェターク社の利益分配を増やせますよ」
「……何?」
「エランさんの取り分から調整すれば、全体は変わりませんので。どうします?」
グエルさんが、一瞬だけ黙った。
「グエル。そこで考え込まないでくれる?」
私はエランさんへ向き直った。
「さて、私のセセリアに手を伸ばそうとしたこと、どうしてくれましょうか?」
「……藪蛇だったかぁ」
「お話し合いは、今からでも」
「おっかないねぇ。冗談だって」
隣から、肩へ指が触れた。
「そんなに、あたしにいてほしいんだ?」
私はセセリアを見た。
その顔へ何を申し上げても、また面白がられるのだろう。それでも、黙っているのは嫌だった。
「……いてほしいですよ」
「会社として?」
「私個人としても、です」
頬が熱くなった。
セセリアは満足そうに目を細め、エランさんへ顔を戻す。
「というわけなのでぇ。遠慮しておきますね」
「まったく。大切にされてるねぇ」
その声を聞いたところで、彼女がまた私を覗き込んだ。
「そんな顔しないでよ。行かないから」
「セセリア。酷いです」
口にすると、彼女がけらけらと笑い出した。
「頬、膨れてる」
「……貴女が、そのようなことを仰るから」
「ほんと、感情豊かになったよな」
グエルさんまで、呆れたように笑っていた。
私は思わず、そちらへ顔を向ける。
「そう、見えますか」
「ああ。昔は、何を言われても同じ顔してたのに」
「さっきまで、怖い笑顔で僕の取り分を削ろうとしてた人とは思えないね」
エランさんに言われ、私はもう一度、資料へ手を置いた。
「ご希望でしたら、いくらでも協議を続けますが?」
「いや。合意した条件で十分だよ。その笑顔怖いからやめてくれる」
セセリアの手が、机の下で私の手へ触れた。
指を握ると、彼女はようやく笑うのをやめた。まだ口元は緩んでいたが、そのまま私の手を握り返してくる。
グエルさんが、私たちを見比べた。
「……続きは、帰ってからにしてくれ」
本社へ戻ると、研究室には父上とロウジさんがいた。
コズミック・シードへ入社してから、ロウジさんは父上とすっかり意気投合している。お二人が楽しそうに仕事をしているのは喜ばしいことだった。
ただ、その結果として、研究室へ生活用品が増えていた。
計測器の隣に飲み物があり、予備部品の箱の上には着替えが載っている。仮眠室へ続く扉も、開いたままだった。
「うーわ」
セセリアが足を止めた。
「こんなに散らかして。ロウジ、いつまで引きこもってんの?」
「引きこもってるわけじゃ……試験が続いてて」
「家、いつ帰った?」
「着替えを取りに、一度」
「それ、帰ったって言わないから」
ロウジさんが口を閉じた。
隣で何も聞こえていないように記録を開く父上へ、私も向き直る。
「父上もですよ。今日くらいは、掃除して帰ってください」
「これが一区切りついたら、帰りますよ」
「その後、次の試験を始めるのでしょう?」
父上の手が止まった。
ロウジさんが画面を覗き込む。
「ただ、次はここの制御を変えれば、今より――」
「ええ。僕もそこを」
「お二人とも」
私が呼ぶのと、セセリアが机へ手を置くのは同時だった。
「保存して、片づける。今から」
お二人は一度顔を見合わせ、それから記録を閉じた。
私も近くの箱を持ち上げる。机の下から出てきた試験用の部品へ目が留まり、少しだけ手を止めた。
「こちらは、新しい支持部ですか?」
「ええ。ロウジ君の提案で――」
「アイリス」
セセリアに呼ばれ、私は部品を箱へ戻した。
「……明日、伺います」
父上の口元が緩んだ。
私はそちらを見て、空いている箱を差し出した。
「父上は、こちらもお願いいたします」
その夜は、水星から通信が届いた。
画面の向こうでは、スレッタさんが教室の端末を操作していた。机には教材が並び、壁には子供たちの描いた絵が飾られている。
『これ、今日、みんなで描いたんです』
端末が動き、一枚ずつ見せてくださる。
宇宙へ出る船。家族らしい人影。大きな学校の絵には、窓から幾つもの顔が覗いていた。
コズミック・シードが社会貢献事業として支援した学校は、既に授業を始めている。
建物と教材を揃えれば終わり、というわけにはいかなかった。人を集め、設備を保ち、続けていくための費用を考える。その一つずつについて、スレッタさんたちは相談を重ねてきた。
私の中には、ミオリネさんへの償いもある。
傷つけたことが消えるとは思わない。それでも、彼女たちが大切にするものを、今度は支える側に立ちたかった。
『まだ毎日、分からないことばっかりです』
スレッタさんが笑う。
『でも、楽しそうにやってるわよ』
後ろからミオリネさんが入ってきた。
『ミオリネさんだって、子供たちに呼ばれてましたよね』
『あんたが、何でも私に聞いてって言うからでしょ』
『だって、私より詳しいですし』
『そのうち、自分で説明できるようになりなさいよ』
二人のやり取りに、セセリアが笑った。
教室の外から声がして、スレッタさんが振り返る。
『あ、ちょっと待ってくださいね』
端末をミオリネさんへ預け、扉へ歩いていった。入ってきた子供へ少し屈み、話を聞いている。
私は、その姿を見送った。
あの戦いの後、スレッタさんは暫く身体を思うように動かせなかった。それでも、私の記憶にあった彼女より、回復は早かった。
理由を一つに決めることはできない。
ただ、私が先に出たあの時間が、少しでも彼女の負担を減らしていたのならと思った。
『アイリス?』
ミオリネさんに呼ばれ、私は顔を戻した。
「はい。次の搬入について、確認させていただけますか」
『こっちで受け取れる日を送ってある。見た?』
「ええ。担当者からも報告が来ています」
幾つかの確認を終える頃、スレッタさんが戻ってきた。
その肩越しに子供が顔を出し、こちらへ手を振る。私も手を上げると、セセリアが横から同じように振り返した。
画面の中で、スレッタさんが笑った。
通信を終えてからも、私は送られてきた写真を眺めていた。
教室に並んだ子供たちと、その後ろに立つスレッタさんとミオリネさんの二人。
時折、地球から届く写真には、見知らぬ風景が写っていた。送り主の短い言葉を読み、私は返事を書く。次にどこへ行くのかを、尋ねることもあった。
隣から、手へ指が触れた。
顔を向けると、セセリアが私を見ていた。
「今日は、もう終わり」
「……はい」
私は写真を閉じた。
その肩へ少し身を寄せると、彼女は何も尋ねず、手を握り直してくださった。
研究は、今も続いている。
パンドラの残された機体は、試験のために使われていた。かつて私だけが動かしていた端末を、別の操縦者にも扱えるようにする。そのための制御を、父上やロウジさん、整備班の皆さんと考えている。
私には不要だった補助が、ほかの方には役立つことがある。
逆に、使っていただいて初めて分かる不便もあった。自分の思いつかなかった使い方を見せていただくたび、図面へ書き加えたいものが増えていく。
いつかは、やがていつかはと、今も思う。
あの領域へ手を伸ばしたい気持ちは、消えていなかった。
けれど、もう一度、帰れなくなるかもしれない場所へ自分を投げ出すつもりはなかった。あの時に見つけたものを、誰かへ渡せる形にする。その先にも、知りたいことは幾つもあった。
「アイリス。もう帰るよ」
入口から声がした。
私は顔を上げた。
「はい。今、参ります」
記録を保存し、端末を閉じる。
父上とロウジさんも時計を見た。私が声をかける前に保存を始めたので、今日は何も申し上げずにおいた。
入口では、セセリアが待っていた。
「今日は早いねぇ」
「お待たせしないようにと」
「よろしい」
差し出した手を、彼女が取った。そのまま指が絡む。少し先で父上たちが研究の続きを話し始め、セセリアがそちらへ顔を向けた。
「その話も、明日で」
二人の返事が聞こえた。
私は笑ってしまった。
「アンタもだからね」
「まだ、何も申し上げておりませんが」
「帰ってから、ちょっとだけって言いそうな顔してる」
今度は否定できなかった。
代わりに手を握り直すと、セセリアも小さく笑った。
分からないことは、まだ沢山ある。
自分のしたことについて、これからも説明しなければならない。間違えることも、止めていただくこともあるだろう。
そのたびに相談し、考え直し、続けていけばよかった。
明日も、私の居場所はある。
人の夢、人の望み、人の業。
幾つもの願いと執着の果てに、私はこんなにも大層な身体を与えられて生まれた。一時は、その身体も、それを生み出した世界も、全てが憎かった。
今も、人は奪い合い、誰かの願いが、別の誰かを傷つけている。私たちの作るものが、これから何を招くのかも、私たちにもわからない。
けれど、父上たちは今日も、新しいものを作ろうとしていた。スレッタさんの学校では、子供たちが明日の授業を待っている。私も、皆さんと確かめてみたいことを、幾つも残してきた。
「……何?そんなに見て」
セセリアに顔を覗き込まれ、私は笑った。
「いえ。嬉しくて」
彼女は少し顔を逸らし、繋いだ手を引いた。その手を握り返しながら、私は思った。
愛する人と手を握り、愛する方たちと笑う。私が生まれた理由も、きっと、そんなものなのだろう。
「帰りましょうか、セセリア」
「うん」
彼女の隣へ並び、同じ歩調で歩き出した。
この世界を憎んだ理由を、忘れたわけではない。
それでも、生きていきたいと思える世界がここにはあった。
今話をもって、本編は完結となります。最終話までお読みいただきありがとうございました。お気に入り、感想、評価等いただきましたこと、たいへん嬉しく思っております。
AIの補助を使い、とにかくはやく書き、完結させることを目的に投稿したのが本作になります。書きたいネタはあるが、書く時間がない。そんな中の一種のお試しとしての投稿でした。
おかげで自身でも読み返したら読みづらいところや、どういう意味かが掴みにくいところがあり、読者の皆様にはご負担をおかけしたと思います。
それでも楽しんでいただけたのならなによりです。
今後は、小ネタや没ネタを投稿するかもしれません。その際はまた、読んでいただけると嬉しいです。